どこまでも、遠く

1.


 鼻につく消毒薬の匂い。少し高めの電子音。ポタポタとゆっくり落ちる点滴。固定されている四肢は焼けるように熱いような、鳥肌が立つくらいに冷え切っているような。
 うまく感覚を処理出来ていない脳が、それでも低い男の声を認識して眠っている瞼を叩き起こす。普段の数倍以上重たい瞼をどうにか持ち上げる。
「爆豪」
 もう一度聞こえた声に、ピクリと指先が勝手に動く。それでもその指は鬱陶しい酸素マスクを外すことも出来ず、そのまま沈黙する。瞳を動かすだけで精一杯だった。焦点が合わない視界で懸命に声の主を捉える。
 残念ながら声は出なかった。男の名前を呼び返すことは出来ない。
「爆豪、約束通り、お別れだよ」
 やっぱりか。予感はあった。久しぶりに苗字を呼ばれたから。
 それにしても今じゃなくたっていいじゃないか。一言も喋れない自分にそんなことを言うなんて。ついさっきまで生死の境を彷徨っていた自分にそんなことを言うなんて。もっと他にかけるべき言葉があるはずだろう。
 あぁでも、結論が出てしまっていることを討論するなんて非合理的か。合理主義者のこの男が一番嫌うことだ。じゃあ今で良かったのかもしれない。これ以上嫌われるのは御免だ。
「じゃあな」
 それを最後に男は病室から出て行った。まるで最初からいなかったかのように、匂いのひとつも残していかない。
 そして今の爆豪に追いかける力なんてない。
 息を吐くのと同時に瞼を下ろす。温かい涙が輪郭に沿って零れた。

 それから恋人だった男の名前を音にならない声で紡いで、ゆっくりと眠り就く。
 幸せだったあの日の夢の中に沈んでいく。


※ ※ ※


 雄英高校の卒業式の日に告白してきた爆豪に、条件付きならいいぞと言ってのけたのは相澤である。
 完膚なきまでに振られて玉砕すると思っていたのだろう。爆豪はそのつり上がった目を面白いくらいに真ん丸にして呆けていた。なんだそんな顔も出来るのか、なんて呑気に新発見。
「条件はひとつだけ」
 言葉を失っている爆豪の目の前に、一本指を立てる。
「ヒーロー活動をする上で、もしもお互いの存在が足を引っ張るようなことがあれば即刻別れる」
 どうだ、守れるか?と続けた相澤に爆豪は大きく頷いた。
「ならいいぞ。付き合おうか」
 今日から宜しくと頭を撫でれば、ガキ扱いするなと怒りながらもその日一番の笑顔を見せてくれた。
 その笑顔は純粋に可愛らしく、そして眩しかった。

 付き合うようになって、同棲とまではいかなくても半同棲くらいの時間は持つようになった。勿論お互い忙しい身なので約束は約束にならないし、擦れ違うことだって多い。
 それでもなんとか時間を捻出して、休みの日は出来るだけ長く一緒に居た。喧嘩もしたし、キスもした。外で手を繋いで歩くことはなくても、家に帰れば抱き締め合った。何度も一緒に朝を迎えたし、寂しい夜が続くこともあった。
 二人で居てプラスになるようなことばかりの連続ではなかったけれど、決してマイナスにはならなかった。
 二人の世界は幸せで、日々の活力になっていた。


 爆心地が敵と対峙しているわよ、と報告してきたのはミッドナイトだ。やたらと真剣な顔で言ってきたものだから、悪い予感が頬を掠めた。
 相澤は昼休みの職員室でテストの採点をしていた途中だったが、テレビで生中継されていると聞いて手を止める。
「イレイザー。あなたの元教え子でしょ」
 元教え子どころか現恋人だと、心の中でしっかりと訂正しながら職員室に備え付けられているテレビの前を陣取る。そして映し出されている爆心地の姿に肝が冷えた。
 今日は俺非番だから早く帰って来いよ、と朝玄関で送り出してくれた恋人が血で濡れている。ヒーロースーツでもない普段着は至る所が破れて、汚れていた。肩で息をして、何かを怒鳴り散らしているが声まではこちらに届かない。怒り狂っている顔をしている。敵顔だと揶揄されるあれだ。
 しかし、周りを気にせず爆破を繰り返している所を見ると、きちんと市民の避難は済ませているのだろう。偉いぞとひっそり褒める。 
 状況を見る限り、どうやら個性の相性が悪そうだ。右の太腿を何かに貫かれたらしく、ガクリと体勢が崩れる。
「か、っ……!」
 かつき、と言いそうになって慌てて口を抑えた。攻撃の第二波が来るより前に爆風で空へと逃れたので少しだけ安堵。だが、状況は刻一刻と悪くなっていく。
 生の戦闘に興奮しているのか癇に障る声で実況しているアナウンサーにも、嬉々としてカメラを向けているスタッフにも殺意が芽生えそうだった。それから、こんな生々しい戦闘を中継していることも、他のヒーローがなかなか駆けつけないことにも、──……自分がここから動けないことにも。
 自分の個性がこのテレビ越しに届けばいいのにと、無駄だと分かっていても願ってしまう。予鈴が鳴ってもそこから動けない。
 爆心地は、動き回るには少し血を流し過ぎている。だから、早く、誰でもいい。早く、応援が到着してくれと、頭の中はそればかり。
 しかし、願いは虚しく早々に決着がつく。
 空中に逃れた爆心地が、そこから攻撃を仕掛けようと自分の後ろに向けて爆破を繰り出した瞬間に気が逸れた。遠くから撮影しているからか不鮮明な映像では分かりにくかったが、相澤の目はそれを捉えてしまった。
 それは爆心地が非番の日だけつけている細いシルバーチェーンのネックレス。爆風に煽られて千切れてしまったらしい。ふわりと空中に舞って、その拍子にチェーンに通されていた何かが地面に向かって落ちていく。緩やかな軌道を爆心地が目で追ってしまった。時間にして一秒にも満たないだろう。
 でもそれだけの時間があれば、命のやり取りなんてどうとでも状況が変わる。
 隙が生まれた瞬間に繰り出された相手の攻撃は勢いよく飛び込んでくる爆心地を捉え、そして何メートルも下の瓦礫の山へと叩き付けた。凄まじい轟音と砂埃。咄嗟に爆破で衝撃を和らげていたようだが、無事でないことだけは予想がつく。
「……おいおい、大丈夫かよ、あのリスナー」
 いつの間にか隣に来ていたプレゼントマイクが声を掛けてきたが、相澤は一言だって返せなかった。流石に生中継は中断されていた。
 本鈴が鳴ったと同時に体が勝手に動き、授業をするべく受け持つクラスへと向かったが、自分がどんな授業をしたかあまり覚えていない。


 不鮮明な映像で、一瞬しか見えなかった。でも見覚えがあった。シルバーのチェーンから抜け落ちて、爆豪の視線を奪ったその正体に。
「──……そうか、俺が」
 あれはいつかの夏祭り。たまたま見つけたおもちゃの指輪についていた宝石が、あの子の瞳の色によく似ていた。だから何気なく、深く考えず、買って渡したのだ。似合わねぇことすんじゃねぇと言うあの子に、自分が。
「俺が、足を引っ張ってしまったのか」
 悪いことをしたと思う反面、あんなおもちゃに気を取られるなんてと呆れる。そして一つ深く呼吸。


 卒業式の約束を守るため。その日の夜に爆豪が運ばれた病院へと向かった。


2.


 一方的な別れを告げて二か月が経った。
 二か月前は生死の境を彷徨って集中治療室で手厚い看護を受けていた爆豪は、どうにか退院してリハビリに励んでいるらしい。
 あの時の戦闘が中継されてしまったから病院に記者が押しかけ、心無い言葉を投げかけてくるものもいたらしい。
 それでも彼らしいと言うかなんと言うか、その記者に向かって中指を立て「さっさと前線に復帰してやらァ!!」と怒鳴ったらしい。
 今は実家に戻り、そこから病院に通いながら事務所にも顔を出している、らしい。
 どれも人伝いに聞いたものだ。人伝い、というよりもプレゼントマイク伝いと言った方がいいかもしれない。相澤自身は、あの日以来爆豪に関する情報をシャットアウトしている。それに、在学時代からタフネスを称されるほどに体が頑丈な子だったので、意識が回復している時点で復帰云々に関してはあまり心配していなかった。どれだけ時間が掛かろうと、きっとあの子はヒーローとして華々しく復帰する。期待にも似た確信が心の中にあった。
 復帰さえしてしまえば順調にヒーローとしての年輪を重ねていくだろう。
 あの大怪我だって、自分があんなおもちゃの指輪を送らなければ負わなかったものだから。
 相澤は目に焼き付いてしまったあの中継を掻き消すように頭を振って目を閉じた。


 珍しく仕事が早く終わった夜に、スマートフォンが鳴る。捕縛布を置いて、さぁ風呂だと思った瞬間だった。
 知らない電話番号からの着信なんていい知らせであった試しがない。はぁと溜め息を吐いて、通話ボタンをタップした。
『も、もしもし、先生ですか…!?』
「…はぁ」
『あの、私、』
 そう言って名乗ったのは、元教え子で元恋人の母親。知らず背筋が伸びてしまう。
 なんで彼女が自分の電話番号を、と考えて、そういえば爆豪が拉致された後の家庭訪問の時に「もしもなにかありましたら」と言って名刺を渡したなと思い出す。
 あれから何年も経っているけれど、これに電話してくるということは、何かがあったのだ。それも肝が据わっているあの母親が慌てふためくくらいの何かが。
 事情を聞けば、爆豪が午後に出掛けたまま帰ってこないらしい。チラリと置時計を確認して、行方の分からない空白の時間を計算する。
『あの子、強がってるけど、まだ長時間歩いたら右足が痛むみたいで、だから、だから…っ』
 事務所関係者や同期、よく飲みに行っている先輩、後輩。あの幼馴染にも声をかけたらしいが、誰も行き先を知らないのだと言う。警察にも力を借りて探しているが、まだ見つからないと。
 もしかしたら足が痛んで何処かで蹲っているのかもしれない。もしかしたらまた敵に襲われたのかもしれない。
 考えたら居ても経ってもいられなくて、相澤にも電話したのだと言う。
 何処か心当たりありますかと聞かれて、
「俺も今から探してみます」
 即座にそう答えていた。何か進展があれば連絡してほしいと伝えて電話を切った。
 外したばかりの捕縛布を掴み、マンションを飛び出す。夜の街を駆け抜ける。
 暗い路地裏も、爆豪が好きでよく行っていた店も、敵がよく出没すると情報がきている場所も。兎に角手当たり次第に当たって、潰していく。しかしどこにも見当たらない。母親に連絡を取ってみたが、やはり見つかっていないらしい。
「クソッ!」
 人目も気にせず悪態を吐いて、舌打ちをして、睨むように周りを見渡した。いつの間にか来ていたのは、付き合っていた頃に時々訪れていた商店街。
 活気があるとは言いがたいけれど、ここの野菜は安いのに質がいいんだぜと笑っていたのを思い出す。
 なにかヒントはないだろうかと記憶の引き出しを開けながら歩く。
 そしてふと視線を遣った先の赤色に目を奪われた。そこは小さな、個人で経営しているような宝石店。通りを歩いていても見えるようにディスプレイされている装飾品のなかの一つ。小ぶりのルビーがあしらわれた古い指輪。
「……アイツ、まさか…」
 頭の中に浮かんだ場所に、相澤はざっと青褪めた。
 違うかもしれない。もう忘れているかもしれない。過去など振り返らずに、先に進んでいるかもしれない。
 それでも、踵を返して走り出していた。商店街を抜けて、夜の空へと捕縛布を掛ける。居なければいいと心底願う。

 向かうは、爆豪が大怪我を負った戦場。
 おもちゃの指輪が宙を舞った、あの場所。


※ ※ ※


 ──幸せな夢を見る。


 ドォン、と腹の底に響くような重低音。
 反射的に星が煌く夜空を見上げた。濃紺の夜空に咲く色とりどりの大輪は、そこにいる全てのものの視線を奪う。爆豪はその花火を確認した後で、ポケットからスマートフォンを取り出し時間を見た。二十時ちょうど。花火の打ち上げも予定通り、滞りなく進んでいるらしい。

 もうそろそろ夏の終わりが見えてきている九月上旬。
 この市で行われる今年最後の大きな花火大会には多数のヒーローが私服で警備に当たっている。ここまで歩いてくるまでに、同期の顔をちらほらと見かけた。迷子に手を差し伸べている者、呑気にたこ焼きを食べながら見廻りをしている者、スリの現行犯を追いかけている者。みんなそれぞれに仕事をしていた。
 このまま何も大事が起こらなければいいと、スマートフォンを仕舞って人の流れに沿って歩き出す。
 というよりも、この人だかりで敵に暴れられるのは少々厄介だ。避難させるのも一苦労。爆破の個性など早々使えない。使う方が被害が増えてしまうだろう。引火するものなどそこら中にあるのだ。
(とっとと終わっちまえ)
 花火は何発だと言っていただろうか。こうした今も爆豪の頭上では大音量で大輪が咲き誇っては散っていく。
(これが終わったら、帰って、先に風呂だな)
 人混み特有のむわっとした不快な暑さの中、こめかみから流れる汗を手の甲で拭って、おもちゃのペンダントを振り回している小さな女の子を追い抜く。父親に買ってもらったのがよほど嬉しいのだろう。女の子の横顔は興奮して赤らんでいる。
「ねぇねぇ私プリンセスみたい?」
 聞きながら、父親に抱っこを強請る。そしてこれは一生の宝物にするのと光に翳しては抱き締めている。
(ただのおもちゃだろうが。どうせ一週間もしたら無くしてらァ)
 女の子の夢を横目に冷静に分析して、ふと気になったのでそのおもちゃのペンダントが売っている出店に視線を遣った。ペンダントでも指輪でも、どれでも一つ三百円。なんともまぁ安いプリンセスだ。鼻で笑う。
「あれ、勝己?」
 すると、後方から声を掛けられた。ヒーロー名ではない、滅多と他人からは呼ばれない下の名前。爆豪は驚いて声のする方へと振り返る。
「お前も来てたのか」
「しょ、……アンタも見回り当番当たってたんか」
 つられて下の名前で呼びそうになって、慌てて口を噤んだ。ここ暫く多忙を極めていて会えていなかった恋人は相変わらず暑そうなヒーロースーツに身を包んでいたのだ。
「うん。本部に行けばミッドナイトさんとプレゼントマイクもいるよ」
 でも流石に長い髪の毛は鬱陶しいのだろう。一つに纏められていた。だったら切ればいいのにと再三言っているが、この男は言うことを聞かない。その内涼しくなってきたら余計に切りに行かなくなる。
(次の休みが合った時は切ってやろう)
 ひっそりと頭の中で計画を立てていれば、相澤が隣に立って、先程まで爆豪が見ていた出店を覗き込む。
「あぁ、懐かしいな。おもちゃの宝石か」
「持ってたんか?」
「持ってるわけないだろう。でも女の子はみんな持ってたな」
 これがあればお姫様になれるらしい、と相澤が続けたので、何年経とうと女の子の夢は変わらないようだ。
 特に興味がそこまであったわけではないので、爆豪は適当に返事を返す。そんな安い宝石よりも、爆豪が気になるのは相澤の休みだ。次はいつ会える? いつ家に行っていい? 聞きたいのはそっち。
「なぁ、イレイザー」
 だからそう名前を呼んだのに、相澤は返事をすることなくジッとおもちゃの宝石を眺めている。そして「あっ」と声を上げた。
「……んだよ」
 呼びかけを無視した挙句、とうに興味を失ったそれに相澤を取られてつい不機嫌になってしまう。
 しかしこの男はそれにも気付いていないのだろう。綺麗に並べられた指輪の一つを指差して、そして爆豪の顔を覗き込んだ。
「これ、お前の目の色によく似てるな」
「────……は?」
 何年付き合おうとロマンティックなことひとつ言ったことない男の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなくて、爆豪は目を丸くして固まった。ちょうどその瞬間に打ち上げ花火が上がる。光に照らされていっそう石榴色が煌いたのだろう。相澤は満足そうに「うん、やっぱり似てる」と目を細めて笑う。
 腰のポーチに手を伸ばして、裸のままで入れられた小銭を取り出したと思ったら、あろうことかそのお金でおもちゃの指輪を買い始めた。
 ヒーロースーツを着ているとは言え無精髭が生えて、目が血走っているいい歳したおっさんがおもちゃの指輪を買うとは思ってもいなかった店主は不審者を見るかのような目で相澤を見ていたが、とうの本人はそんな視線など慣れっこなのだろう。気にすることなく礼を言って指輪を受け取った。
「邪魔になるからこっちにおいで」
 状況についていけず固まっている爆豪の手を引いて、相澤は進んでいく。二人が居なくなった場所を埋めるように新たなプリンセス候補がその出店に集まり始めた。そのまま人の流れに乗って進んでいって、通行人の邪魔にならないところで足を止める。
「ほら。似てるだろ?」
 言いながら相澤が爆豪の左手を取った。プラスチックで出来た赤い宝石がついた指輪を、当たり前のように薬指へと持っていく。それは小さな女の子用に作られたもの。成人男性の指に嵌るはずがない。第一関節で止まる。
「勝己? どうした?」
 指輪の意味など全く成していない。少しでも動かせば飛んで行ってしまうだろう。
 もしくは手を握りしめるだけで呆気なく砕けてしまうだろう。所詮は三百円で売られている程度の強度だ。
 何より、目の前の男はこれになんの意味も与えていない。ただ偽物の宝石が、偶々爆豪の瞳の色に似ていたから、気紛れで買っただけ。深い意味も意図もこの男にはまったくない。
 それでも。
「……似合わねぇこと、してんじゃねぇよ、おっさん。しかも全然似てねぇわ」
 左手の薬指に引っかかった指輪から目が離せないほどに。
 夏の暑さだけでは言い逃れが出来ないほどに。
 今の顔は見せられないと柄にもなく恥じらってしまうほどに。
 顔が赤らんで熱を持って、嬉しさで頭がどうにかなってしまいそうだ。心臓が痛いくらいに高鳴ってどうしようもない。だめだ、口元が緩む。嬉しい。うれしい。

 ──ねぇねぇ、私プリンセスみたい?

 純白のドレスを着た花嫁にも、優雅なダンスを踊るプリンセスにもなれやしないけれど。
 それどころかこの男より真っ先に前線に飛び出して悪役をぶっ飛ばすような可愛げのない恋人だけど。
 でもこの一瞬だけは特別な何かになれたような気がして。
「もう買っちまったし、仕方ねぇから、貰ってやる」
 きっと自分はこのおもちゃの指輪を一生大事にするんだろうなと、そう思って可笑しくなった。

 打ち上げ花火はまだ終わらない。
 まだもう少しだけ特別な時間に浸っていたい。



 ──幸せだった頃の夢を見た。



 夜空に咲き誇る大輪も。じっとりとしたあの暑さも。左手の薬指の慣れない違和感も。瞬き一つでパチンと消えてしまった。
(……夢だ)
 爆豪が寝転がっているのは夏祭りの会場ではない。無様に地面に伏してしまったあの瓦礫の山だ。鼓膜を揺らすのは愛しい人の声でも、腹に響くほどの重低音でもない。耳障りな敵の笑い声。それから、遠くで飛んでいるヘリコプターの音。近付いてくる他のヒーロー達の叫び声。
(これは、夢だ)
 ドクドクと血液が体外へと流れ出ているにも関わらず、痛みと言うものはなかった。その代りただただ寒い。目が開いているのか、閉じているのかも分からない。
 でも夢の中であることは分かった。あの日の自分は一瞬で気を失っていたから、その後のことなど記憶にない。
(ゆびわ)
 夢だと分かっていても懸命に手を伸ばす。どこに向かって伸ばしているか分からないけれど、それでも伸ばす。
 首元から消えてしまったおもちゃの指輪を探さなくては。だって二度と相澤からは貰えないのだ。あの夏の日はもうやって来ない。
 幸せな時間は終わらせてしまった。相澤は自分の隣からいなくなってしまった。
『爆豪、約束通り、お別れだよ』
 自分が弱かったから。足を引っ張ってしまったから。

 探さなくては。何としてでも。
 幸せだったころのふたりが詰め込まれた、おもちゃの指輪が、どうしても欲しい。


(ちゃんとみつけないと)


※ ※ ※


 敵の個性と爆豪の個性で瓦礫の山となった現場は、現状手つかずのままだった。立入禁止のテープを潜って中に入っていく。砂埃が立ち込めて、砕けたコンクリートは日に日に朽ちていく。足をかけると崩れる部分も多々あった。夜と言うこともあっていっそう危なくなっているその場所に、居て欲しくなかった爆豪の背中を見つけてしまった。
 母親が言う通り右足が痛むのだろう。引き摺りながら、それでもゆっくりと奥へと進んでいき、途中で座り込んで何かを探すような仕草をする。暫くしてから肩を落として、また立ち上がる。
 何を探しているかなんて分かっている相澤は、腹の底から怒りが沸き上がって来るのを感じた。
 あんなおもちゃはもうお前に必要のないものだろう。それをなんで、沢山の人に迷惑をかけてまで、こんな危ない場所に。
「爆豪!」
 怒鳴るようにして名前を呼べば、前方の背中が大袈裟に跳ねて、ゆうっくりとこちらに振り返った。
「……な、んで…」
 相澤を視界に捉えると、驚きと絶望が混ざったような表情をしてみせた。なんでアンタがここにいるんだと、言葉にならなくとも言いたいことはわかる。そしてその言葉は俺が言いたい、と眉を顰めた。
「こんな時間まで、そんな体でなにをしている! ご両親にも心配をかけて、どれだけの人間がお前を探しているか分かっているのか。連絡の一つくらいしろ。ちゃんと断りを入れろ。ガキじゃねぇんだからそれくらい分かるだろう」
 近寄れば、同じだけ爆豪が後退った。顔は背けられて、言葉は返ってこない。逃げるような態度に足を早めた。
「爆豪、答えなさい。なにをしている」
 何度聞いてもやっぱり返事は返ってこない。相澤は怒りのままに溜息を吐く。答えが返ってこないのならば、聞き方を変えよう。
「……一方的だったとは言え、きちんと別れたはずだ。なのにお前はどうしてあんなおもちゃを探しに来た?」
 その言葉にやっと爆豪から反応が返ってきた。後退っていた足が止まった。遠目から見ても顔が青褪めたのが分かった。答えを促すように名前を呼べば、きゅっと結んだ唇が開く。
「別れたんだから、俺が何処でどうしてようと、アンタに関係ねぇだろうが」
「そういう事を言ってるんじゃない。人に心配をかけてまでするようなことじゃないだろうと言ってるんだ」
「だから! 心配してくれなんざ俺ァ言ってねぇだろうが! 放っとけよ! 恋人でもなんでもねぇんだから!」
「ッ、爆豪、お前な…!」
 相澤は、ギリ、と音が鳴るまで奥歯を噛み締める。それから。
「いい加減にしなさい! あんなものはもう諦めて今すぐ帰れ!」
 在学時も、付き合っていた頃も出したことのないような怒りに満ちた声で叫ぶ。顔を背けていた爆豪がようやっと相澤のほうを見た。怒りと悲しみが入り混じったような石榴色の瞳で、射殺さんばかりに睨み付けてくる。
 しかし、そうかと思えば視線が相澤から外れた。更に怒鳴ろうとしていた唇が「あっ」と単音を零す。つられるように爆豪の視線の先へと相澤も顔を向けた。
 砕けて変形しているコンクリートから剥き出しになっている鉄筋。衝撃で折れ曲がったそこに、引っ掛かったおもちゃの指輪があった。遥か上空から落としたにも関わらず壊れていない。
 爆豪が痛みを忘れたように一気に距離を詰める。走って、相澤の後方にあるその指輪へと向かって行く。それよりも早く捕縛布を操って指輪を自分のもとへと弾いた。飛んできた指輪は左手で掴む。
「返せッ!!」
 そして予想通りその左手へと照準を変えた爆豪の手を右手で絡み取る。そのまま強引に爆豪の体を地面に押し付けた。暴れる手を後ろ手に捕縛布で拘束して、逃げられないようにその背中に膝を乗せて体重をかける。指輪は落とさないようにポーチへと捩じ込んだ。
「この指輪は俺が処分しておく。こんなもの渡すんじゃなかったな」
「いやだ! 返せ! 離せ!!」
「大人しくしてろ」
 ギチギチと音が鳴るまで捕縛布を締め上げても、爆豪は首を捻ってこちらを睨み付けてくる。その目に水分の膜を張りながらも、決して負けない力強さで。
「それは俺ンだ! 俺が貰ったんだ!! 返せよ!!」
「約束しただろう。足を引っ張るようなことがあれば別れると」
「だから、だからちゃんと別れたじゃねぇかよ! アンタの言い分には納得してる!」
「納得してないからこんな時間にこんなものを探しに来たんだろうが。とっとと忘れろ」
「──ッ!!」
 どう吐き出していいかも、どこに発散すればいいかも分からない感情を唸り声として歯の隙間から押し出して、それでも嫌だと言って引かない。
 こんなにも往生際の悪い奴だっただろうかと頭の隅で考えながら、諭すように「爆豪」と呼べば、ふと力が抜けた。少しだけ捕縛布を緩める。動く気配はない。
「……やだ」
 その代わり、駄々を捏ねる、拗ねた子どものような声が聞こえてくる。つり上がっていた眦が下がる。
「やだ、いやだ、せんせい、返せよ。処分すんだろ、それ。だったらくれたっていいじゃねぇかよ」
「駄目だ」
「二度とつけない。二度と外に持ち出さない。それなら、」
「駄目だと言っている」
「っ、もう、誰にも負けねぇし、強くなるから、だから、それは…っ、おれ、」
「これは諦めなさい」
 爆豪の主張を悉く却下していけば、とうとう嗚咽が聞こえ始めた。ヒグッと喉が鳴っている。
「アンタにとっちゃ、それは、こんなもん、で済む程度のもんなんだろ…!? だったらくれよ、おれはそれがいい、それがほしい。約束通り別れたし、恨んでもねぇ。縋る気もないし、文句を言う気もねぇ…! 俺が悪いのは分かってる。ちゃんと分かってる。だからアンタのことは諦める。すぐには忘れられなくたって、きっと、ちゃんと、諦めるから、だから、…それだけは、思い出だけくれたっていいじゃねぇかよ…ッ」
 とうとう力尽きて、砂埃が舞う地面に顔を預けた。嗚咽を隠すこともなく、ボロボロと涙を流しながら訴えてくる。
「も、二度と、好きって言わない…っ。二度と会わない、から。迷惑だってかけない。心配だって…、これからは、ちゃんと、ひとりで、いきていくから、だから、だって」

 だって嬉しかったのだ、と言う。
 夏祭りで会ったのは偶然で、お互いただの仕事。デートなんかじゃない。自分があの出店を眺めていたのも、相澤が赤い宝石を見つけたのも、ただの偶然。
 でもあまりにも当たり前に左手の薬指に指輪を宛がってきたから。別に証も装飾品も欲しかったわけじゃないけれど、嬉しかった。嬉しくて仕方がなかったのだ。
 金額もサイズも色も形もなんでもいい。相澤にとっては気紛れでも、遊びでも、偶然でも、なんでもよかった。
 幸せは確かにここに、左手の薬指にあったのだ。
 あの日、ちゃんと、ここに。

「なぁ、せんせい、おねがいだから」
 だからどうか見逃して。それだけは返して。
 悲痛とも言える訴えに、相澤には後悔しか生まれなかった。自分の軽率な行動が、どれだけこの子どもの重みになってしまっていたのか、思い知らされて項垂れる。
 足を引っ張ることになれば別れようだなんて言っておいて、足枷になるようなことをして。自由に飛び回るこの子を縛ってしまっていた。
 一体自分はなにをやっているんだ。情けない。こんなの年を重ねただけの浅はかな子どもでしかない。
「せんせ、」
 だからこれは罪滅ぼし。好きになってしまった男は、ただの酷い男だったのと思ってくれていい。恨む価値すらないと切り捨ててくれていい。
 この子が大事に想ってくれていたあの夏の夜は、責任を持って壊してしまおう。そうすれば自由になれる。
「これは捨てる。お前には渡さない」
 存外、冷たい声が出た。キッパリと言い切って、涙ながらに訴えてくる子どもの願いを打ち砕く。
「…………」
 爆豪は何も言わない。
 拘束していた捕縛布を解いて、爆豪の上から下りた。もう動けないのは分かっている。ごろんと体勢を仰向けへと変えたが、それで終わり。
「親にもちゃんと連絡する。も、少ししたら、動けるようになったら帰るから、あんた先帰れ」
 自由になった腕で顔を隠したまま、くぐもった声でそう言う。体が震えているのはまた泣いているからだろうか。もしくは熱でも出はじめたか。
「帰れよ」
「……」
 確かにお互いにとってこれ以上一緒に居るべきではない。ご家族に連絡して、警察に迎えに来てもらうべきだ。自分は消えておいた方がいいだろう。
 しかし、ここに今の爆豪を置いていくことはどうしても出来なかった。もし近くの瓦礫が崩れても、きっとうまく逃げられない。
 だから相澤は爆豪の体を抱え起こして、肩に担ぐ。そして瓦礫の中を歩き出した。
「怪我人を放って帰ることは出来ん」
「……ほんとうに、あんたは、俺の言うこと聞かねぇよな」
「それはお前も同じだろう」
「あんたより、マシだったよ」
 強がっているわりに、肩にかかる体重が段々と重たくなっていく。怪我が治り切っていない体で長時間出歩き、あれだけ怒鳴って、泣いて、暴れたのだ。流石のタフネスでも体力の限界なのだろう。最もこれは精神的な負担の方が大きいかもしれないが。
 このまま眠ってしまえばいい。ここを出たらタクシーを捕まえて、ご両親に連絡して。そう考えながら足場の悪い道のりを黙々と歩いていく。振動がいかないように気を付けて。ゆっくりと外へと向かう。
 爆豪の体温を感じるのもこれが最後だ。
 ツンツンと尖っているくせに存外柔らかい髪の毛も、しっとりとした肌も、個性特有の甘い香りも、全部これが最後。
 考えて痛む心臓も、冷えていく腹の底も、なんて我儘で傲慢なのだろうと嫌気が差す。寂しいなど、思ってはいけないのに。
「──…なぁ」
 静かになっていたので眠っているとばかり思っていた爆豪の声が聞こえて、思わず心臓が跳ねた。
「ゆびわ、きょう、すてる…?」
 声に覇気がない。半分ほど眠ってしまっているのだろう。喋り方が少し幼い。この声も気に入っていた。
「そうだな。帰ったら捨てる」
「そっか」
 そういえば、これは燃えるゴミになるんだろうか。不燃ゴミだろうか。分からないからいっそどこかの川にでも投げてしまおうか。
 こういう日常生活のことで迷ったことがあれば、いつもこの子に聞いていた。でも流石にこれは聞けないな、なんて苦笑い。
「じゃあ、せんせ、ゆびわに、おれい、いっといてくれよ」
「お礼?」
「ん」
「…指輪にか?」
「ん」
 意識が朦朧としているからか、おかしなことを言う。おもちゃの指輪にお礼なんて、どういうことだろうか。
 眉を顰めて、半分寝言のような言葉の意味を考えていれば、
「あれがあったから、おれ、しなずにすんだ、から」
 そう言われて、言葉を失った。
「……は?」
 逆だろう。お前はこんなものがあったから死にかけたんだ。軽率に渡してしまったから。
「ゆびわ、さがさないとって、おもったら、めがさめた」

 瓦礫の中に消えてしまった指輪を探さないと。
 先生がくれた、世界で一つの指輪。
 ちゃんと見つけないと。見つけてあげるから。そう思ったら死ぬに死ねなかった。

「ありがと、って、いって、おねがい」


 ──俺を生かしてくれてありがとう。


「いってくれたら、すてていいから、もういいから、だから、おねがい、しょうたさん」
 そこまで言って、とうとう本格的に眠ってしまった。ズシリと重みが増した。寝息は穏やかで、少しだけ安心する。それでも体が辛いのは変わらないだろう。だから早く帰さないと、早く病院に連れて行かないと。
 頭ではそう考えているのにすっかり足は止まってしまっている。
「──……そうか」
 ポーチに仕舞った指輪を取り出した。傷だらけにはなってしまったけれど、近くで見ても欠けていない。
 あの夏祭りの夜と同じ、濃紺の空に翳す。花火が打ち上がっていなくても、今夜は随分と月が明るい。赤い宝石が月の光で輝きを取り戻す。眩しいくらいで目を細めた。出店で見たときよりもずっと綺麗だ。
「ありがとうね」
 どれだけ傷を負ったって、決して翳ることはない。
 こうやって何度でも光を取り戻して、いっそう美しくなっていく。誰にも汚されない。本当によく似ている。
「やっぱり言うことを聞かないって、怒られるな」


 これは足枷ではなく、生きる理由。


「お前は本当に凄い奴だよ」
 何度だって、救って、掬い上げてくれる。
 遥か遠い未来まで、視界が開けた気分だ。


3.

 目が覚めると、真っ白な病室に逆戻りしていた。
 足の傷は見事に悪化。両親、と言うより母親には容赦なく怒られ叩かれて、事務所の所長にはもっと怒られ、警察関係者からは嫌味を言われ、週刊誌には好き勝手書かれて散々だった。
 それでも迷惑を掛けた自覚がある爆豪は喚き散らすことなく、説教はきちんと最後まで受けて、ほんの僅かにだが頭を下げて謝った。
 母親に「相澤先生にもお礼の電話しなさいよ」と言われたけれど、電話はしたふりだけで済ませた。
 もう二度と会えないのだから、お礼なんて言わなくてもいい。謝罪も必要ない。

 夏の思い出と一緒に、あの人はもう消えてしまった。
 打ち上げ花火は終わりを迎えたのだ。


※ ※ ※


 入院は結局三週間となった。
 本当はもう少し様子を見たいと言われたのだが、今までになく大人しくしていたからだろう。予想外に治りが早かった。有難いことに後遺症も残ることなく、少し前のように長時間歩くと足が痛むなんてこともなくなった。
 医者と所長監督のもと、事務所の先輩と実戦形式で手合わせしてもらい、お墨付きももらったので本日めでたく退院である。

 病室に置いていた荷物をバックに綺麗に詰めて、退院に必要な書類を持って手続きへと向かう。
 本当なら両親が迎えに来てくれることになっていたが、昨日の夜になって行けなくなったと連絡が来た。公共交通機関もあるし、特に一人でも問題なかったので了承すれば、母親から「別の人が迎えに来るから大人しく駐車場で待ってなさい。みんなでご飯食べようね」と追加のメッセージがきていた。
 どうせ事務所の人だろうと考えながら手続きを済ませ、担当医に挨拶し、病院を後にする。言われた通りに駐車場に行き、知った人間を探していれば、後ろから声を掛けられる。
 一瞬夢かと思うその声に慌てて振り返って、姿を確認して息すら忘れて固まった。
 高校時代の恩師であり、別れた元恋人がそこに居た。
 瓦礫の山の合間で、もう二度と会わないと自分が啖呵を切ったその相手、相澤消太がそこに居た。それも珍しくきちんとした恰好で。
 相澤は特に何を言うでもなくさっさと近寄ってきて荷物を全部奪っていく。爆豪が知らない真新しそうな車に積み込んで、爆豪自身を助手席に詰め込んだ。
「よし、行くぞ」
 いや、ちょっと待て。
 言うより先に車は発進してしまった。シートベルトもしていなかった爆豪は慌ててそれに手を伸ばす。あっという間に病院の駐車場から一般道へと出る。長年一緒に居たが運転できるなんて話は聞いていない。情報過多で頭の中の処理が上手く出来ていない。何も考えられない内に車はどんどんと距離を重ねていく。
 前を見ていた相澤が、チラリとこちらを見る。
「体はもう大丈夫か? 足は?」
「だ、いじょうぶ、実戦も、問題なかった」
「そうか、なら良かったな」
 復帰はいつになりそうだと聞かれて、素直にこれからのスケジュールを話した。無難なスケジュール編成に相澤は納得したように頷いて、しばらくは無言が続いた。
「……や、そうじゃなくて、これ、なぁ、なんでアンタが…!」
 途中でハッと我に返ってそう切り出せば、
「少し寄りたいところがある」
 なんて言葉に遮られる。悉く話をする気がないらしい。
 爆豪の返事を聞くことなく相澤はハンドルを切って、何処かの駐車場へと車を停めた。エンジンを切って車の外へと出た相澤が助手席の方へと回ってきて、扉を開けた。降りろ、と言いたいらしい。大人しくシートベルトを外す。
「ンだよ、ここ」
「行くぞ」
 車を降りて見えた先にあるのは、きっと誰でも一度は耳にしたことがあるであろう有名な宝石店。再び固まって動かなくなった爆豪の手を掴んで相澤は引っ張るようにして店に入る。
「おい…! ちょっと待てって…!」
 小さい声で怒鳴るも取り合ってくれない。静かで、どこか厳かな空気すら流れる店内にラフな恰好の自分が場違いな気がして恥ずかしい。こういう時だけ小綺麗な恰好で、髭も髪の毛も整えている相澤が恨めしい。付き合っている時など、ちゃんとしろと言ってもしてくれなかったくせに。
 恥ずかしさから八つ当たりしてギロリと睨んでいれば、すぐにスタッフが相澤のもとへとやってくる。顔馴染みなのだろうか。名前などを言わずとも奥の部屋へと案内された。
「こちらへどうぞ」
 通された部屋はローテーブルとソファが並ぶシンプルなそこは、一般の客が容易に出入りすることはない隔離された部屋なのだろう。厳重な鍵と、防音加工が施されている。
 相澤と二人、並んでソファに座ったところで一人の女性が入ってきた。この店の専属デザイナーだという彼女は、相澤と年齢が変わらないくらいで、とても耳馴染みのよい落ち着く声をしていた。
 ローテーブルを挟んだ向こう側にデザイナーが座り、持っていたタブレットやパンフレットを一旦端に置く。後から別のスタッフが入ってきて、デザイナーに小箱を渡した。
「こちらがお約束の品となっております。どうぞご確認を」
 言って、爆豪の前にその小箱を置いた。その小箱が何なのか、何と無くの察しがついている爆豪は手を伸ばさない。
 しかし。
「お手に取って、ご覧になってみてください。きっと気に入っていただけるはずです」
 そうデザイナーの優しい声で言われてしまって、期待の篭った瞳で見つめられて、恐る恐るその小箱──リングケースに手を伸ばした。しっとりとした肌触り。これだけでも高価なものだろう。少々乱雑に開けたところで壊れないだろうが、ゆっくりゆっくりと開けた。
「いかがでしょう?」
 予想通り、中には指輪が鎮座していた。細めのシルバーリングで、赤い宝石が一つ。宝石部分は凹凸のないように沈んでいるので、引っかかりはない。よく見ればリングの外周にはとても細い黒い筋が走っている。シンプルなデザインだが、爆豪の嫌いなものではない。
 これは一体どういうことだと勢いよく相澤を睨みつける。怒鳴りつけてやろうかと思った瞬間。それより先にデザイナーが「相澤様」と声をかけたので、怒鳴り損ねてうっと声が詰まった。
「どうぞ、指につけてみてください」
 出鼻を挫かれた爆豪の手の中からリングケースをひょいと奪い、相澤は即座にその指輪を、当たり前のように左手の薬指に嵌めた。悔しくていっそ腹が立つくらいにサイズはピッタリだった。
 普段から爆豪はあまり外に手を出さない。ヒーロースーツの時もグローブをしているので、爆破による細かな火傷以外で日に焼けることはない。他の部分より色が白いほうだ。
 だからこそ、小振りとは言え一点の赤がよく目立つ。派手過ぎず、しかししっかりとした存在感。
 それに何故かこの宝石には目が惹かれる。
 赤を熱心に見つめてしまっていれば、気に入ったと思われたのだろう。デザイナーに「よくお似合いですよ」と微笑まれてしまった。
「失礼します」
 部屋の扉が開いた。入ってきたのは男性。この店のオーナーだと名乗る男性は二人に一通りの挨拶を済ませてから、話があるからと相澤を外へと連れだしてしまった。
 全てを知っている相澤が居なくなって、見知らぬデザイナーと二人きりになる。どうしていいか分からない。落ち着かない。こっそり帰ってしまいたい。
「気に入っていただけましたか?」
「あ、……はぁ…」
「良かったですわ。シンプルなものほど好みが分かれますので、…実は少し心配しておりました」
「はぁ…」
「でも、サプライズで指輪のプレゼントなんて、とても素敵な恋人ですね」
「………はぁ……」
 何をどう返事を返していいか分からない。
 あの男はとっくの昔に恋人ではないし、なんなら向こうから別れを切り出してきている。素敵な恋人というには些か語弊がある。
 言いたい事は心に仕舞って適当に返事をしていれば、
「爆豪様の個性は手のひらからの爆破、でしたよね?」
 そう聞かれたので、それは素直に頷く。
「そちらの指輪は個性使用時につけていても大丈夫なものとなっております。爆破の熱で溶けたり、砕けたり、怪我の元になるようなことはございません。ご安心ください」
 端に置いていたパンフレットを取り出して開く。色も形もサイズも多種多様な装飾品がずらりと並んでいる。
「今回の指輪を担当した職人は、個性で金属を自由に操ることができます。金属の種類は問わず、お客様のお好きな色に、形に、硬度に。そして指輪だけでなく、このようなブレスレットやイヤリングもお手の物。ご要望が御座いましたら、思い出の品の一部分を溶かしたり砕いたりして金属に混ぜ込むことも可能です」
今度はタブレットを取り出し操作する。
「…っ、それ」
 思わず息を呑んで画面を凝視した。
 リングケースに入れられた、見覚えのあるおもちゃの指輪。爆豪の瞳の色によく似た、三百円のそれ。
「実は今つけていただいているそちらの指輪の赤い部分は、宝石ではありません。相澤様がお持ちいただいたこの指輪を溶かしたものです。強度を加えるために透明の金属を混ぜ合わせてコーティングし、形を整えております。ですので、その部分に関しても砕けるなどといった心配はございません」
 言われて合点がいく。指輪の赤に目を惹かれた理由が。
 同時に、金属を操るというのはそんなことまで出来るのかと口に出して感心していれば、それが出来るまでの道のりは決して平坦なものではありませんでしたとデザイナーが眉を下げた。爆豪がヒーローになるために幼い頃から日々努力して個性を磨き、自分のものにしてきたのと同じように、その職人も相当な努力をしてきたのだろう。これには顔も知らない職人の努力の結晶も染み込んでいる。そういうのも嫌いではない。寧ろ心強く感じた。
「そうして出来上がった指輪に、相澤様に魔法をかけていただきました」
「魔法?」
「はい」
 お手をお借りしても?と言われて、少し考えてから左手を差し出した。個性は完璧に制御できるとは言え、いつ爆破されてもおかしくないのに、デザイナーは臆することなく爆豪の左手を大事に取る。
 彼女の手のひらが指輪に翳された。
「ここには爆豪様の思い出と、相澤様の魔法が詰まっているのです」
 そして。
「その魔法によって、未来永劫、指輪が壊れることはありません」
 どれだけ磨き上げられたその個性を使用しようと。どんなに卑劣で強力な攻撃を受けようと。この指から離れることなく寄り添ってくれるでしょう。
 希望のランタンとなって、迷子の道標となって、支えてくれるでしょう。
 優しく頭を撫でて、髪を梳いて、背中を押して、ともに走ってくれるでしょう。

「信じてくださいね」

 指が、夏の思い出に触れた。目を惹く赤がいっそう輝き始める。打ち上げ花火のように何度も何度も眩しいくらいに煌く。
「……あんたの、個性なんか、これ」
「いいえ、輝いて見えるのならばそれは相澤様の魔法です。魔力も呪文も必要なく、生きていく上で誰もが使えるようになる簡単なものですが、爆豪様が誰よりも強く、気高く、優しくいられる、世界で一番素敵な魔法。……爆豪様、もしこの魔法に名前をつけるとしたら」
 あなたなら、どんな名前をつけるのでしょうか?
 デザイナーの声が頭の中に飽和する。柔らかくて、優しくて、いつになく穏やかな気持ちになる。
 なんの抵抗もなくするりと耳に入ってくる声に、心臓の底に隠した想いを探り当てられて、擽られる。刺激を受けて、ふつふつと湧き上がり始めた。


 ──…自惚れてもいいのだろうか。
 あの夏の夜は消えたのではなく、この薬指に戻ってきたのだと。
 確かにあった幸せは、今も尚、手元で輝いてくれているのだと。
 この指輪には、深い意味も意図もあるのだと。
 純白のドレスも優雅なダンスも似合わないけれど、特別な何かになれたのだと。

 そう願ってみても、いいのだろうか。


 デザイナーの手がそっと離れた。
「お二人の大切な指輪に携われて私はとても幸せですわ」


 この世界を、私たち市民を、守り戦ってくれている愛すべきヒーローに幸多からんことを。


※ ※ ※


 スタッフ一同のお見送りは丁寧にお断りして、静かに車に乗り込んだ。爆豪はそれと同時に相澤の胸ぐらを掴んで引き寄せた。奥歯を噛み締めて目の前の男を睨む。
「ンなとこに連れて来る前に、言うことあんだろうが」
 情けなくも震える声でそう低く言えば、相澤は気まずそうに顔を背けた。それを許さず、いっそう強く締め上げてこちらを向かせた。
「素敵な恋人ですねって笑顔で言われた俺の身にもなれや。こっちは死にかけてる時に振られてんだぞ」
「……それは、その、すまん…」
 駐車場で再会した時から、なんなら今日迎えに行くと決まった時から、あり得ないほどに緊張してしまって頭の中が真っ白だったと言う。爆豪はそんなもん知るかと牙を剥く。相澤から何の言葉もなく、ただ進んでいく現実がどれほど不安だったか考えて欲しい。あのデザイナーが居なければこの男諸共あの店を爆破させてしまうところだった。
「俺ァおもちゃの指輪だって処分するって言われたし、二度と会わねえって啖呵切った。……なのに、なんなんだよ、コレ」
 手を離して、服の下に隠れていたシルバーチェーンを引っ張り出す。爆豪の左手に嵌められたリングと全く同じデザインの指輪がひとつ。
 リングケースを渡された時、指輪はひとつしかないのに、それにしては大きいなと違和感を覚えた。だから本来ならばもう一つ、同じようなものが並んでいたのではないかと推察していたのだ。そして、この推測が正解だったとして。持っているとすればこの男しかいないと仮の答えを出していた。
 実物を見て顔を歪める。
 チェーンを千切ってしまいそうなほどに握りしめる。手が、足が、唇が、勝手に震えてしまう。
 別れたはずなのに、捨てられたはずなのに、もう全部終わってしまったのに、こんな風に扱われては本当に想いの歯止めが効かなくなる。
 例え生死を彷徨ったその後に別れを告げに来るような男であっても、思い出の品を容赦なく捨てると言い張った男でも。自らの人生で初めて恋をして、愛して、そしてそれ以上に慈しみ愛してくれた男には変わりないのだ。


 ──……でも、怖い。再び突き放されるのが。


 心臓を抉られるよりも辛い痛みを知ってしまったからこそ、怖い。自惚れて、舞い上がって、叩き落されるのが怖くて仕方ない。
 爆豪は睨みつけていた瞳を逸らした。聞きたいことを口から吐き出す勇気が持てなくて、下を向く。情けなくて唇を噛めば、左手の薬指がキラリと煌めいた。


 ──信じてくださいね。


「…俺は、アンタを諦めなくてもいいんか……?」
 するり、と心臓の底から湧き上がっていた言葉が口を突いて出た。自分でも不思議なほどに、恐怖で満たされていた頭の中が晴れていく。
「まだ、好きでいても、」
 そうだ。何も言葉をくれなくたって、ここに信じてもいい魔法がひとつある。自分が誰よりも強く、気高く、優しくいられる、世界で一番素敵な名前のない魔法が。


 ──もしこの魔法に名前をつけるとしたら。


「アンタに愛されてるって思ってもいいのかよ…ッ」
 縋るように顔を上げた途端に、相澤に抱き締められた。ぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱き締められて、息苦しい。息苦しくて、涙が出るから力任せにしがみつく。
 もう二度と触れないのだと思っていた体温と、逞しい背中。頬をくすぐる長い髪の感触。変わらない匂いと声。
「かつき」
 涙で濡れるのも気にせず、相澤からの抱擁はいっそう強くなる。嗚咽が我慢できなくて体を震わせれば優しく背中を撫でられた。
 そして。
「あの指輪のせいでお前を危険に晒したと後悔してたんだ。俺のせいで、俺が足枷をつけて、足を引っ張ってしまったと、そう、思ってた」
 ようやっと聞けた相澤の言葉。耳元で聞こえる声が震えている。こんなにも切なそうな声は初めて聞いたものだった。つられるように心臓がきゅうと苦しくなる。壊れた涙腺はとうに制御ができなくて、視界はずっと滲んだまま。
「でも、あの指輪があったから生きられたと、死にたくないと思ったとお前に言われて、──…勝己の生きる理由になれたのが嬉しかった、嬉しかったんだ」
 名前を呼ばれて、ひどく安心した。
 ようやっと呼吸が出来たような、心臓が動き出したような、そんな心地。
「ごめん。俺はお前のこととなると大人でいられなくなる」
 軽率で、我儘を言って、傷つけて振り回して。
 それでも。
「愛していることには変わりないよ」
 ずっとずっと昔から。それこそお前が気付いていない、そんな時から。
 密着していた体に隙間が出来て、目が合った。ドライアイだと言う割に随分と水分量の多く、小さく笑えば、笑うなよと鼻を擦り寄せてきた。それから子どものようなキスをした。久しぶりの、それでも馴染みのある唇の感触。
「……本当にアンタは俺の言うことなんも聞いてくれねぇし、我儘ばっかで、肝心なことはなんも言ってくれねぇ、どうしようもねえおっさんだな」
 言い返すこともできず、情けなく眉を下げる男に優しいキスをする。甘えるように、擦り寄るように。
「俺の言うこと、ひとつくらいちゃんと聞いてみろよ」
 消太さん、と名前を呼んだ。もう二度と呼べないと思っていたその名前。
 情けない顔がいっそう情けなくなって、それなのに可愛いと思ってしまう自分が可笑しくて声を上げて笑った。涙を零して笑って、笑って。整えられている髪の毛を、乱すように掻き混ぜてキスをした。
「なあ、消太さん」


 次はアンタが俺の生きる理由になってくれよ。


※ ※ ※


 BOOOOM!と耳が痛くなるほどの爆破音が頭上で響いて、イレイザーヘッドは自身のゴーグルをずらしながら見上げた。
 初夏の太陽は、酷使した目には痛いくらいに眩しい。今年の夏も暑くなりそうだ。


 本格的に復帰したばかりの爆心地はどうやら絶好調らしく、吹き飛んだ敵に高笑いしている。まだまだ暴れたんねぇなァ! なんて上空を飛び回りながら叫んでいるものだから、有象無象が飛び掛かっていく。それを又しても瞬殺。周りのヒーロー出る幕なし。寧ろ寄れば確実にとばっちりを食らう。
(楽しそうでなにより)
 面白いくらいに吹き飛ばされる雑魚敵がいっそ可哀想に思えるくらいだ。苦笑いしながらゴーグルを戻す。
 つい何ヶ月か前まであの爆心地が大怪我で入院していたなんて、世間はとうに忘れてしまっているだろう。それほどまでにブランクを感じさせない。動きに関しては、より洗練されているように思う。
(それは、うん、良かった)
 やっぱりあの子は太陽の下でこうやって暴れ回っているのが一番美しい。例えその顔がとんでもなく凶悪で、目がつり上がっていて、敵より敵顔と言われるようなものであっても、イレイザーヘッドからすれば子猫のように可愛いものなのだ。大人になればなるほどに恋は盲目。笑いたければ笑えばいい。
「オラァ! クソ敵ども、かかってこいやァ!!」
 挑発するように両手で小さな爆破を繰り出していれば、懲りない有象無象が今度は束になって立ち向かう。それでもやっぱり瞬殺。太陽を味方につけた爆心地を止められるものはそういない。
 次々に倒れていく敵が意識を取り戻して逃げないように、捕縛しては警察に引き渡すこっちの方が忙しいくらいだ。
 こちらはこちらで走り回っていれば、ふと視線を感じて再び上空を見上げた。敵がもういないか、捜索モードに入っている爆風に乗って飛ぶ爆心地と目が合う。小さく手を振った。無茶するなよ、と口パクで釘をさす。頷いていたが、分かってくれてるかどうかは微妙だ。
 そのまま飛び去って行くのだろうと思っていたが、爆心地はわざわざ民家の屋根に着地した。
 そして、グローブを嵌めたままの左手を太陽に翳す。輪郭がうっすらとぼやけるほどに輝いている。
(なに…?)
 何かの合図だっただろうかと首を捻りながら見守っていれば、爆心地がニヤリと強かに笑う。凶悪な敵顔でも仏頂面でもない。二人きりの時によく見せてくる、悪戯っ子の顔。
 ──嫌な予感がした。
 爆心地は翳した左手をゆっくりと自らの顔へと引き寄せた。わざとらしく唇を尖らせて、うっとりと目を細める。
 そして、薬指にキスをした。
 夏の夜の思い出と魔法がこめられたその場所に。

 心の中に、直接愛を吹き込まれた気分。

「……やられた」
 やるだけやって満足した爆心地はご機嫌な顔であっという間に爆風に乗って飛んで行ってしまう。その足は軽やかで、どこまでも遠くまで飛んでいけそうだ。いや飛んでいける。飛んでいける力を持っている子だ。国を越えて、空を越えて、どこまでも、どこまでも自由に。
 一方地べたに残されたこちらは、最早仕事にならないほどに顔が赤い。あああ、と溜息をついてしゃがみ込む。こんな顔じゃあ何処へも行けやしない。
「まったく……」
 そんな風におっさんを弄ぶために贈ったんじゃないんだぞ、その指輪は。
 知れば慄くほどにたんと愛を込めたこと、泣いて謝るまで教え込んでやろうか、このやろう。
 何せこちらの愛情バロメーターは折り紙付き。触れた物に籠められた想いを可視化するというデザイナーの個性を用いて、あの日爆豪の前で指輪をあれだけ煌かせたのだから。そして、お世辞なのか営業トークなのかは知らないが「驚きました。あれほどまでに強い輝きを見たのは初めてです」とまで言われたのだ。
 このカラクリを知らないのは爆豪だけ。
「あとで覚えておけよ」
 本気になった大人の底力を見せてやろう。
 低く唸りながら自分と爆心地のシフトを海馬の底から呼び起こして、捕縛布に手を掛ける。油断していると思って静かに襲いかかってきていた敵を簡単に捕まえて転がした。暴れたので適当に足蹴にする。

 緩んだ捕縛布の下でシルバーチェーンに通された指輪が揺れる。片割れを探すように軽い音を立てて鳴いた。
 大丈夫、すぐに逢えるさと宥めるように指先で撫でて、遠くで聞こえる軽快な爆破音に笑みを零した。


 どこまでも、遠く。遠く。
 君が飛んでいけるように、その薬指に世界一の魔法を。

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