ホームルーム終わりに相澤に声を掛けられた爆豪は、短く返事をしてから持っていた鞄を置いた。一緒に帰ろうと近寄ってきていた上鳴には視線を遣ることで断り、何も持たずに廊下へと出る。
爆豪に声を掛けるだけ掛けて、さっさと教室を出て行っていた相澤の背中は既に遠い。
あの男もこのまま進路指導室に行くのだろうかと考えながら足を早めれば、真っ黒な背中が立ち止まる。ゆっくりと振り返ってこちらを見てきた。どうやら職員室に行くことなく直行らしい。
意を汲み取った爆豪はいっそう足を早めて、無言のままで隣に追いついた。
「インターンに関係する書類をこちらで用意してるんだが、そこでお前のヒーロー名を書かかないといけない箇所があってな」
二人以外誰もいない進路指導室は、それ以前も誰も使用していなかったのだろう。冬とは言え寒すぎる温度だった。急速に部屋を暖めようとしている暖房がごうごうと音を立てて、暖気を吐き出し続けている。
小さな机を挟んで向かい合わせ。机の上には爆豪の方へと向けられた書類が何枚か並べられ、この男の私物にしてはやけに可愛らしいピンク色の付箋が幾つか貼られていた。そこを相澤が指で示していく。爆豪は、あぁ、と納得したように頷く。
それから。
「苗字でいい」
きっぱりと言い切った。迷うことなどない。
但し、表記は漢字ではなく、片仮名で。轟が「焦凍」という名を「ショート」と表記して使っているように。
間違えないように二人で表記の確認を行い、すぐに消すことが出来るシャープペンシルで相澤が書類の端っこに「バクゴー」と書いて見せた。それでいいと頷く。
「取り敢えず今は、という風にとっていいのか、それは」
「あぁ」
「わかった」
爆豪に向けられていた書類は相澤の方に向き直って、目の前で空欄が埋められていく。ピンクの付箋は外されて、乱雑に机の端に貼り直される。
「決まったんだな」
仮のヒーロー名が一か所埋まった。カサ、と音を立てて紙が捲られ、別の書類へとボールペンが移動していく。
「あぁ」
主語がない問いかけに端的に答えて、特に何をするでもなく完成していく書類を見つめる。
「ミッドナイトさんが授業の時言っていたと思うが、高校時代につけたヒーロー名が広まって浸透してそのまま使用しているというパターンもある」
「構わねぇ」
「ならいい。本名をヒーロー名にする奴には一応こちらも声を掛けるようになっていてな。色々あるんだよ。メリットもデメリットも」
「分かってる」
二か所目と三か所目が埋まった。
「活躍をすればするほど、どうしたって注目を浴びる。注目を浴びれば、その分このヒーロー名が認知されちまう」
「ま、ナンバーワンヒーローの事務所のインターン生だからな」
四か所目が埋まったところで相澤が顔を上げた。ぱちぱち、と瞬きをして、それから少しだって表情を変えることなく真っ直ぐに爆豪を見る。
「そうじゃない。いや、それもあるかもしれんが、俺が言いたいのはそうじゃない」
「……ンだよ」
「お前はどこの事務所に行こうと活躍するだろ。だから言ってるんだ」
さも当たり前のように。そうであるのが当然かのように。さらりと言い切るものだから、一瞬爆豪の思考回路が止まった。相澤にそんな風に言われたのは初めてだった。
僅かに見開いた目で相澤を見れば、視線はすぐに逸らされて五か所目が埋まっていく。ピンクの付箋は適当に張り付けられているので、今にも落ちそうなくらいに反り返っている。
「……」
「……」
返事をしないまま時間が過ぎていってしまって、あっさりと六ケ所目が埋まったと思えばそれで終わりのようだ。広がった書類を相澤の両手が整えて、クリアファイルに仕舞われていく。
「でもまぁ、世間にどれだけ認知されていようと自分が好きなタイミングで変えればいい」
インターン先も、ヒーロー名も。どれも絶対的に一つである必要はない。
「今は本名のままでも、今だと思った時に改めて名乗ればいい。今はナンバーワンに世話になると決めていても、此処だと思う場所に移ればいい」
ふり幅は大きく。選択肢は広く沢山。可能性は一つでも多く。
大人の監視下である高校生だからこそ何にも縛られることなく、自由に。
「いつか、俺にも教えてくれ」
優しく微笑んだわけではないけれど、それでも目尻が少し下がったのが見えた。決して事務的な催促ではないことくらい、爆豪にも分かる。
「一番じゃねぇぞ」
「いいよ」
「……なら、しょうがねぇから教えてやる」
「ありがとうね」
頷いて、話をそれだけだと言われて席を立つ。
お世話になりましたと、ありがとうございました、を混ぜ込んだ「……ッス」を相澤に対して向ければ「気を付けて帰りなさい」と言われて、それには頷くだけで終わらせた。
進路指導室を出るために扉に手を掛けて、しかし、爆豪は振り返った。
「――アンタは、何か知ってんのか」
誰のことかとは言わずに質問を投げる。主語のない質問をしてきたのは相澤のほうが先だ。
爆豪の質問に相澤は先生の顔ではなく、一人のヒーローの顔をして首を横に振った。
「すまないが、それに関しては役に立てないよ」
「……そうかよ」
知っているとも知らないとも言わない大人は、本当に狡い。
心の中で思い切り舌を出して、今度こそ進路指導室の扉を開けた。