「消太さん、今からちょっと出かけてくっから。帰ってきたら飯作る。何がいい?」
「遅くなるなら無理して作らなくてもいいぞ?」
「いい、作る。つうか飯作るっつう理由がある方が帰りやすいんだよ」
聞けば、今日は芦戸の買い物に付き合うことになっているらしい。一体どういう経緯を経てそういう約束になったかは知らないが、爆豪が高校を卒業しても尚同期と関わりを持っているのは元担任として安心する。
狭いリビングをパタパタと歩き回りながら用意をしている爆豪を、相澤はソファに座って眺めながら食べたいものを頭の中で探す。
「折角の休みに出かけちまうから、消太さんの好きなもん作るぜ」
洗面所の鏡で髪の毛をチェックしてから、黒のジャケットを羽織る。財布やスマートフォンをポケットに入れ始めたのでもうすぐにでも出て行くのだろう。んん、と献立を悩んでいるフリをしながら相澤は心の中で深呼吸。
よし、今なら言えそうな気がする。と言うより言いたい。言える。頑張れ。
散々自分を励ましてから意を決して、口を開く。
「か、」
最初の一文字を声に出した瞬間に、爆豪がこちらへと振り返った。同時に舌が縺れる。
「か?」
石榴色が不自然に言葉の続きを催促する。
「……か、れーとか、食べたいかな、爆豪のお手製のやつ」
「ドライカレー? それか普通の野菜ゴロゴロしてるやつか?」
「ドライカレーがいい。目玉焼きが乗ってるやつ」
「ん。わあった」
振り向いていた爆豪の顔が元に戻って準備を再開し、それから玄関へと向かっていく。相澤は頭の中で自分を殴って叩いて「このヘタレ!」と罵った。
しかしまだチャンスはある。泣くのはまだ早い。
情けなさに背中を丸めたままで、出掛けようとする爆豪を追いかけて玄関へ。お気に入りだという黒とオレンジのスニーカーを履いている爆豪は、今日も今日とて格好いい。最近少し短くしている前髪も、新しく購入した黒のジャケットもよく似合っている。
相澤がジッと上から下まで見ていれば、爆豪が首を傾げて見上げてきた。
「なに」
「よく似合ってるなって」
「そうかよ」
目を逸らして冷たく返事をするわりに、少しだけ照れたように耳を赤くするから可愛らしい。
爆豪の男らしく、荒っぽく、そして格好いい部分を知っている人間はこの世に大勢いるだろうけれど、こういう可愛らしい反応を知る者は極々少数だろう。その極々少数の人間の中に自分がいることが誇らしく嬉しく思う。そろそろ三十路の折り返しが見えてきた大人が子どものようだと思われるかもしれないが、相澤にとっては大事なことなのだ。
(――あ、なんか、今なら)
言えそうな気がする。誇らしさと嬉しさに背中を押されるがまま口を開いた。
「か、」
するり、と出た音に反応して爆豪の目が再び此方へと向く。まだ少しだけ照れを残したその目がパチリと合った瞬間に、自信も勇気も崩れ落ちてしまった。
「……か、か……か……らくないのに、してくれ」
予定していた言葉は急遽ゴクリと飲み込まれて、慌てて引っ張り出した言葉はどうでもいい夕飯の追加リクエスト。
「……あぁ、カレーな。ん、辛くないのにする」
「う、うん、頼んだよ」
「じゃあ行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
再び脳内で自分自身を罵りながら、何でもない顔で爆豪を送り出す。完全に扉が閉まり、足音が遠くなっていくのを聞き届けてから壁にゴンと頭を打ち付けた。
(なさけない)
情けない、本当に情けない。
この年齢で、恋人の名前ひとつ碌に呼んであげられないなんて。
(なさけない……)
恋人関係になったのなんて爆豪が初めてでは無いはずなのに。もう顔も覚えていない元恋人だって確か下の名前で呼んでいたはずなのに。十五も年下の恋人は、いとも簡単に相澤のことを「消太さん」と呼んでみせるのに。
(何を恥ずかしがってんだ、俺は。クソッ)
乱暴に頭を掻いて、誰もいなくなった部屋で「勝己」と呼んだ。顔さえ見なければ呼べるのだが、しかし顔を見なければ、本人を前にしなければ意味がないのだ。
「……よし」
こうなったら特訓あるのみ。
相澤は踵を返して洗濯物を取り込むためにベランダへと向かう。それから、一人になった部屋で恋人の名前を呼ぶ練習を重ねた。
***
芦戸との待ち合わせ場所に向かう爆豪は、相澤の顔を思い出してはニヤリと笑う。
(呼んでくれようとはしてんだよな)
不自然に途切れる言葉。取ってつけたような夕飯のリクエスト。相澤が懸命に「勝己」と呼んでくれようとしているのに気付いたのはいつだったか。
(早く呼んでくれねぇかな)
大好きな低音で初めてその名を呼ばれたら、きっと嬉しくて嬉しくてキスしてしまうだろう。止められたって止まらないくらいにキスをして抱き締めて、彼の頑張りを称えて手入れなどされていない伸びっぱなしの髪の毛を思いっきり撫でて。馬鹿みたいにもっと呼んでくれと強請るだろう。
(はやく、しょーたさん)
しかし、聞きたいと思う反面、随分と年上の大人であるあの男が、自分の名前ひとつ満足に呼べずに照れたり落ち込んだりしている姿をもう少し見ていたい。
我が儘だけど、どちらも素直な欲求だ。
三年間見てきた担任の顔とも、プロヒーローとしての顔とも違う恋人の素顔は、爆豪の心を甘く深く侵食していく。後戻りなんて考える余裕がないほどにあの男しか見ていない。
「なになにバクゴー、機嫌良いじゃん! 先生となにかあった?」
「まぁな。……んな顔したって教えねぇぞ」
ただ待っているだけの時間すら愛おしいのだと伝えたら、こんな気持ちになれたのは初めてなのだと伝えたら、あの男はどんな風に喜んでくれるだろう。