余裕なんてない

しまった、と思った時には既に目の前の石榴色の瞳がじわじわと滲み始めていた。
次いで、ヒグ、と喉が引き攣る音がした時には一気に血の気が引いた。
「ば、ばく、ばくごう……っ」
まさか泣くとは。
情けないほどに狼狽て、上手く回らない口でどうにか名前を呼んだところで返って来たのは「あんたなんかきらいだ」の一言。バッサリと言葉の刃で体を切り捨てられた相澤は、血を吐く思いで謝っては覆いかぶさるようにして抱き締める。ギシリ、とベッドが軋む音がした。つい数分前までこの音にすら興奮していた自分がただの大馬鹿者にしか思えない。
「す、すまん、ごめん、やり過ぎた」
「あっ、あや、謝って済むんならヒーローなんていらねぇんだよ……っ!」
「全く持ってその通りだ。お前が正しい、俺が悪かった、ごめん」
「ううう、きらいだ!」
「それだけは言わないでくれ、死にたくなる」
嫌いだと泣いて怒るわりに暴れて逃げることはしないのは、一重に力が入らないからだろう。
何せ相澤が普段使用しているベッドの上で、爆豪は必要最低限に衣服を乱したままで達してしまったのだ。爆豪の制止の声に耳を貸さず、ようやっと教師と生徒という枠組みを脱したことの喜びに有頂天になってしまっていた相澤の手によって。
今頃、下着の中は大惨事だろう。せめて下衣だけでも脱がせれば泣かすことはなかったのかもしれないが、今更どうこう言ったところで後の祭り。今の相澤に出来ることは誠心誠意謝罪して抱き締めて、それから風呂へと誘導することである。もう初夜だなんだと言っていられない。
しかし。
「爆豪ごめん、ごめんね」
謝れば謝るほど、爆豪の唸り声が大きくなって不服そうだ。
落ち着けるように体を起こしてやって、背中を擦って、それから丸い後頭部を撫でる。そのうち段々と静かになって、ごそごそと動き出しては自分に丁度いいポジションへと収まった。控えめではあるが相澤の服を握っているので、嫌いだと口では言っていても本心ではないらしい。寧ろ本心だと困る。非常に困る。文字通り死活問題に発展する。
相澤は内心ホッとしながらも謝り続け、呼吸が落ち着いたところで体を離した。顔を覗き込めば、恥ずかしさと怒りが入り混じったような色をした瞳と目が合う。
「ごめんな」
出来る限り穏やかに伝え、恐怖心を与えないように努める。しかし、真正面から頭を撫でようとすれば僅かに体が強張ったのが分かって手を引っ込めた。これ以上ないほどに気分が沈んでいく。底なし沼にでも引き摺り込まれている気分だ。
何年もかかってようやっと触れられたと思ったのに、これでは振り出しに戻ったどころかマイナスからのスタートとなりそうだ。勿論、悪いのは自分なのだが。
「もう今日はやめておこうな」
言いながら未だ濡れている眦を親指で拭う。
冷静な大人の仮面を被って、けれどその裏では、あぁこれくらいの接触なら大丈夫か、などと駆け引きを無意識に行っている自分が嫌になる。何とも言えず揺れて不安定な瞳にジッと見つめられるのが居た堪れない。
「風呂の準備をしてくる。湯が溜まるまでもう少し我慢できるか? タオルでも持ってこようか?」
兎に角、一旦距離を取ろう。
その方がお互いのためになりそうだ。そう考えて立ち上がろうとして、――失敗した。
「……爆豪?」
ベッドから下りようとしたところを力任せに捕まえてきたのは爆豪である。ベッドに膝をついて中腰になった相澤の胴に勢いよく飛びついてきて、腹に顔を埋めている。爆破という個性柄、随分と皮の厚い両の手の平が相澤のスウェットを引き千切らんばかりに強くしがみ付いてきている。もう高校生の子どもではないからそんなにも力を籠められると息が詰まるほどに苦しいのだが、振りほどいてしまうとそのまま帰られそうな気がして、相澤はどうしたんだ、とだけ聞く。
すると。
「――ッ、そういうところが腹立つんだよ!」
顔を上げたと思ったら再び涙を引っ掛けた眦をぐっと吊り上げて声を荒げた。
「アンタばっか余裕があって大人で、俺がどんだけ背伸びしたって届きやしねぇ! それなのにアンタはいつだってすぐに一歩引いて俺を優先して先生の顔して優しくして……ッ、どうせもうこんなガキ嫌んなったんだろ!?」
いつまでも教師面すんなとか言っておいて、いざセックスをしようとすれば雰囲気にのまれて固まって、されるがままにあっという間に達してしまって。そうかと思えば癇癪を起して泣いて喚いて気を遣わせて見っとも無い。
感情が爆発するあまり声が引っ繰り返って、詰まって、それでも爆豪は叫ぶように話す。
「お、ればっか、いっぱいいっぱいで、ッ、アンタみてぇに大人になんなきゃいけねぇのに、それが、今すぐに、出来ねぇのが……ッ」
嫌なのだと。不安なのだと。
絞り出すように吐き出した爆豪に、相澤は応えることなくベッドに押し倒してキスをした。
いや、キスなどと可愛らしいものではなく、食らい付いたと言うほうが正しい。涙も嗚咽も不安も何もかもを食べてしまうつもりで大口を開けて齧り付き、爆豪だけを絶頂へと導いた時ですらしたことがないような深い口付けを繰り返す。んん、とくぐもった相澤を呼ぶ声もスルーして、自分の舌を甘い味がする爆豪の口腔内へと滑り込ませる。
好き勝手に細部まで舐め尽くして、左手で爆豪の顎を掴んだ。
そして、閉じることを許さず開かせたままで唾液を流し込む。最後にもう一度唇を擦り寄せて、飲んでと囁く。一拍置いて、爆豪の喉が動いたのを確認してから今度は右の耳へと移動した。
「爆豪」
「――ッ!」
好きな子をこんなにも泣かせているというのに、それでも興奮を滲ませた掠れた声が出てしまっている自分に、笑う余裕はもうない。というよりも、爆豪が感じている大人の余裕なんてもの、最初から欠片も持ち合わせていない。
「可愛いな、お前は。かわいい、ばくごう、すきだ、すきだよ」
ぬるり、と唾液を含んだ舌で薄い耳朶を掬ってゆったりと全体を舐めていく。それに合わせるように体を震わせ、しかし懸命に相澤の背中にしがみ付いてくる手がいじらしくて仕方ない。
「お前がどれだけ俺のことを買い被っているかは知らないが、俺は一度だって余裕があったことなんてないよ」
「っ、う、うそだ……!」
「嘘じゃない。……あのな、爆豪。本当に余裕がある大人は、恋人の心の準備ができるまでちゃんと待てるし、有頂天になって加減を忘れてイかせて嫌な思いなんてさせないし、何気なく嫌いだなんだ言われて死ぬほど落ち込まない」
「う、うそだ……」
なんだったら、十五も年下の子ども同士が仲良くじゃれ合っているのを見て嫉妬しないし、離れて行かないように卒業と同時に捕まえて必死に繋ぎ留めたりしない。
ただ、そこまで言ってしまうのは気が引けたので心の中だけで呟くことにする。兎にも角にも、余裕など小指の爪程度も持ち合わせていないのだということが分かってもらえたらそれでいい。
「ごめんな、俺はお前が思っているほど余裕のある大人じゃないよ」
あまり表情が豊かでない分、何事にも動じず、いつだって大人だと思ってくれているのだろうけれど、三十の半ばが来ても尚、爆豪に振り回されてばかりの毎日なのだ。
勿論嫌だと思ったことはない。こういう自分も嫌いじゃないと、爆豪が思わせてくれているのだ。
「ちょっと触っただけでイッちまったのが可愛くて仕方ないし、もっとヤりたくて仕方ない」
ちゅう、と耳に吸い付いてから耳孔へと舌を差し込んだ。わざとらしくぐちゅりと音を立てて、上擦った声を聞けばそれだけで腰がずくりと疼く。
「しょ、うた、さ……ッ」
「嫌になったか? 幻滅したか?」
「っ、ちが……っ! 聞けって、なぁ……ッ」
右だけでなく左の耳も同じように犯して、抵抗されないのをいいことに首筋にも吸い付いた。
出来ることなら痕を残してやりたいけれど、それをすれば爆豪が困るだろうと寸でのところで堪える。これは決して大人の余裕があるわけではない。プロヒーローとして生きていく恋人に対して、最大の敬意である。
「なに、勝己」
首筋を堪能していた顔を上げれば、はふはふと忙しなく酸素を取り入れようと動く唇が震えた。唾液で濡れているのがまた欲を煽る。もう一度キスしてやろうかと思っていれば、背中にしがみ付いてきていた爆豪の両手が頬へと移動してきた。
碌に手入れなどしていない肌に優しく触れて、右の目尻の傷を擦るのはもう癖になっている。それから無精髭が生えた口元にそろそろと唇を寄せてきた。ちゅう、と何とも可愛らしい音がする。
「……よ、余裕がねぇの、うそじゃねぇなら、もっと、見てぇ」
いつもの威勢が嘘のように小さな声でボソボソと伝えてくるのは、誘い文句と受け取っても問題ないだろうか。
「だめ、なんか……?」
自分よりも随分と色素が薄い肌が、余すとこなく色付いていく。
そして。
「……出来れば、消太さんに、俺のこと大人にしてほしい」
なんてことを言うものだから、言葉が終わるよりも先に相澤は早々に爆豪のボトムスを剥ぐようにして脱がせて、汚れた下着も床へと投げ捨てた。
自分の服も同じように脱ぎ捨てて、消太さん、と甘やかに意図的に誘惑してくる唇に食らい付く。

「お前、今夜寝られると思うなよ」

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