元教え子である爆豪と一緒に食事をしたあとの帰り道。もう少し話さないかと誘った夜の公園には二人以外誰もいない。古びたベンチに並んで座り、話が途切れた瞬間に相澤は告白をした。
彼の記憶に残らなくてもいいようにあっさりと。次いで、忘れてくれてもいいと付け加えた。
なのに、これまたあっさりとお付き合いが承諾されてしまった。
「……お前、本当に、意味が分かってるのか? 俺は、お前が好きだと言ってるんだぞ」
動揺したのは言い出した側の相澤である。
何せ爆豪は一回だってそういう素振りを見せてこなかった。自慢じゃないが振られる自信しかなかった。こんなに気持ちの悪い男が三年間も担任だったのかと爆破される覚悟すらあったのだ。
「うっせぇなぁ。ガキじゃねぇんだから何回も言われなくたって分かってんだよ。アンタが今俺にしてんのは歴とした告白だろ」
相澤の恋心を受け取った爆豪はひどく冷静で、おろおろとしている大人は大変恥ずかしい。仕切り直すように咳払いをして、分かってるならいいんだが、と言って目を逸らした。
それから暫く沈黙が続いて、秋から冬へと移ろっていく冷たい風が二人の間を通り抜けていく。昼間と違って陽射しがないので夜はよく冷える。そろそろ冬用のアウターを出したほうがいいかもしれない。現実逃避するように他所事ばかり考える。
「……なぁ」
沈黙を破ったのは爆豪だった。
真っ直ぐ、誰も使っていない遊具を眺めたまま相澤を呼んで、それから右手を差し出してきた。
「寒ィんだけど」
言うわりにはやけに顔が赤いぞとか。大事な手をそんなに簡単に差し出していいのかとか。寒いなら帰ろうかとか。
言いたいことは沢山あったけれど、爆豪の心情に気付かないほど野暮な男ではない。
「そうだな、寒いな」
言って、赤い横顔を見つめながら相澤は爆豪の右手を取った。柄にもなく緊張して指が震えてしまって、言い訳のできる寒い夜で良かったと心底思った。
三年間教師として、その後はプロヒーローの先輩として傍に居ることはそれなりに多かったけれど、この手に触れるのは初めてだ。自分のものとまた違った分厚さを持っていて、でもほんの少しだけ小さい。触り心地はとても良かった。
「……あんま、ジロジロ見てんじゃねぇわ」
触れることが出来ると思わなかった手の平の感触に感動していれば、ようやっと爆豪の石榴色の瞳がこちらを向いた。
「すまん」
相澤は右手から視線を外して、その代り距離を詰めた。繋いだ手は自分の太腿の上へと移動させて、肩が触れる程度に近寄る。人との接触を好まない爆豪が近いだなんだと文句を言うことはない。この距離を許されたのだと実感が徐々に湧いていく。追い掛けるように嬉しさが込み上げてくる。
だから。
「爆豪、好きだよ」
もう一度。今度は少しだけ自信を持ってそう言った。聞こえるように、伝わるように。
爆豪は恥ずかしそうに一頻り唸ってから、ツンツンと威嚇するように尖った頭を相澤の肩へと寄せてきた。マーキングでもしているかのように何度も擦り付けて、顔を上げてこちらを見てくる。
「さっきも聞いた」
唇を尖らせて、眉を寄せながらも照れているのが可愛らしく、思わず「タイム!」と休憩を要求すれば珍しく声を上げて笑っていた。
浮かれていたのだろうと、今なら分かる。
人生の春という春をあの秋の夜に詰め込んだ三十路の男は、一番大事なことを失念したまま、一年と少し、夢のような時間を過ごした。
大事なことに気付いた切っ掛けはありふれた恋愛ドラマ。生徒寮の見廻りでたまたま目にしたそれは一番の山場である告白シーンだった。
最近売り出し中の若手女優が涙を浮かべて相手の男に縋りついて「好きなの」と告げた。そして告白された男は「俺も好きだよ」と微笑んだ。こちらも随分と顔が良いが、正直言えば爆豪の顔のほうが断然良い。勝手に名前も知らない俳優と勝負させては、勝利を収めた恋人に鼻高々。
それから二人を祝福するようなしっとりとした音楽が流れて、テレビの前では女生徒たちが大泣きしている。相澤が知らない波乱万丈がテレビの中ではあったらしいが、そんなに泣かなくても。
「ドラマなんだからこうなることくらい分かるだろ」
「シッ! 乙女心が分からない先生は黙ってて!」
うっかり零した本音はにべもなく叱られて、見かねた男子生徒が遠くから相澤を手招く。
「先生ダメですよ、水差しちゃあ。あのドラマ今すっげぇ流行ってて、俺たちも放送中は騒ぐなって釘刺されてんですから」
「大変だな、お前らも」
「でも見てたら意外と面白いですよ」
見ていると相手もいないのに恋がしたくなったのだと、男子生徒は笑う。
「好きって言ったら、相手にも言ってもらえんの、すっげぇ幸せなんだなって。そう思えちゃって」
だってそれは奇跡のような確率だから、と続く。
「そうだな」
まだまだ純粋な男子生徒の言葉に頷いて、テレビに映っている恋人になったばかりの二人の奥に自分の恋人を思い浮かべた。
確かにこれだけ人間が溢れ返った世界で、お互いが好きだと思えて手を取り合えるのは過不足なく奇跡と称していいだろう。しかもこちらは随分と年上で同性である。自慢じゃないが付き合おうものならハードルだらけの人間。よくもまぁ手を取ってくれたものだ。
(……アイツ、今日は何時上がりだったかな)
爆豪のことを考えていれば声が聴きたくなった。自分の部屋に帰ってから電話をしてみようか。恋愛ドラマを見て声を聞きたくなったのだと言えば、あの子はきっと大笑いするに違いない。揶揄われて恥ずかしい思いをするかもしれないがそれでもいい。兎に角、ドラマに触発されてうずうずと膨れ上がってきた「好き」と伝えたい。
何度も伝えて、それから――……。
「……先生?」
ピタ、と思考回路も体も固まった。瞬きも、呼吸も忘れて、生徒の声など耳に入らない。
(待て、ちょっと待て)
もしかして、今まで非常に大事なことを見逃していたのでは。口元を冷えた手で覆う。
気付いたほうがよかったのか、気付かず一生恋愛に現を抜かした阿呆のままでいたほうがよかったのか。冷静さを欠いている今の自分では判断できないけれど、一度気付いてしまったことを簡単に忘れられないのは分かる。
(……そうだ。一番初めに告白したときも、そのあとも、セックスしたときだって)
爆豪の口から「好き」の二文字を聞いたことがない。
***
電話をする勇気が出ずに月日が経って、いい加減いつ逢えるのかと爆豪から声を掛けられた。
約束を取り付けたその日は夜通し二人きりで居られる貴重な一日。
もう子どもではない大人が二人、夜通し一緒に居るのだから息をするように肌を合わせる。しっとりと汗をかいた首筋を甘く噛んで、鍛え上げられた足を抱え込んでひとつになる。溺れるように浅い呼吸を繰り返す唇にキスをすれば当然のようにそこが大きく開いていく。
爆豪は最初からこうだ。相澤に急所を差し出すことを微塵も厭わない。大事にしている両手だって素直に差し出してくるので、心配になるレベル。
でも言葉にしない信頼と信用はいつだって心地の良い重み。
「かつき」
好かれているのだろうとは思う。
「すきだよ」
相澤がその言葉を口にすれば嬉しそうに瞳を細めるのだ。水分量の多い石榴色を綺麗に乱反射させて、相澤を見上げては名前を呼んでくる。蕩けるように、甘えるように。
顔と声と匂いだけで達してしまいそうになるのを、いつだって我慢して内部を暴いていく。
「すきだ、すき。かつき」
このままもっと快楽に溺れさせれば本音を零してくれるだろうか。
なんとも身勝手な考えで爆豪の体を限界まで追い詰めて、不規則な痙攣を繰り返して啼いている唇を閉じられないように指を滑り込ませた。唾液が絡まった歯列を指先で撫でて、上顎を擽る。そのまま、期待を込めてもう一度想いを伝えてみる。
しかし、やはり言葉にはしてくれない。
どれだけ深い快感に襲われようと、相澤が催促をするように想いを口に出した瞬間、瞳の中に冷静な色が混ざり込んでくる。
嬉しそうに笑うのに。幸せそうに縋りついてくるのに。好きだと言わない覚悟のほうが強い。決して流されないその理由が知りたい。
好きな相手からの「好き」が欲しいなど、子どもの頃でも思ったことはない。相澤が記憶している限り爆豪限定である。
滑らかに悪態を吐いては強気に笑う型の良い唇からそれが溢れたら自分は泣いてしまうのではないだろうかと自嘲してしまうくらいには聞いてみたかった。
でも今夜は失敗。これ以上粘ったところで成果は無さそうだ。
熱い心臓の裏側が冷えていくのには目を逸らし、広い部屋を一人分の愛情で満たして、――――……
「――そりゃセフレだな。セフレ。ショータと爆豪はセックスフレンド。ノットラヴァーズ。ドゥーユーアンダースタン?」
好きと言われたことがないこと。好きと言ってくれる気配がないこと。気になり始めると爆豪の言動が全て気になってしまって、このままでは悪い方向に行きかねないと踏んだ相澤は早々にプレゼント・マイクを酒で釣った。
生ビールを二杯、一気に流し込んで理性を崩してから事細かに相談したにもかかわらず、旧友の答えは存外冷たいものだ。頼むからもっと優しくしてくれ。
「うるせぇ。あっさりセフレとか言うな」
「だってよぉ。好きって言わないのは好きじゃねぇからだろ?」
「……そんな、こと、ねぇ」
「お前その関係何年目だよ」
「……一年半」
「本当は?」
「…………もうすぐ二年」
「セフレだな。決定。爆豪が興味あるのはショータのディックだけ。以上解散。ゴチソーサマ」
酔いも回ってケタケタと腹を抱えて笑うマイクには全力でおしぼりを投げつけて、しかし否定できない自信のなさに更に肩を落とす。
「――……それより、もっと向き合わないといけねぇことあるだろ」
すっと低くなった旧友の声と、スマートフォンの着信音は聞きたくなくて耳を塞いだ。
***
二年目の冬が来た。
どうしても諦めきれないままで爆豪の隣にいられるポジションに居座り続けたので、恋人と胸を張れるわけでもセフレと割り切れるわけでもない宙ぶらりんな関係だ。勿論、今でも時間さえ合えば一緒に外出はするし、最近は相澤の家に泊まりに来ることが増えた。爆豪が作ってくれたご飯を二人で食べて、並んで洗い物をしながらテレビのバラエティのワンシーンで同時に小さく笑う。
「絶対に笑うと思った」
「お前もな」
「消太さんのほうが先だっただろ」
「いいや、お前が先だった」
二人とも手は洗い物をしながら足だけで小競り合い。的確に脛を狙ってくるあたりが爆豪らしくていっそう笑う。
「こらこら、痛いよ」
身長はいつの間にかそんなに変わらなくなった。爆豪的にはもっと身長を伸ばしたいらしく色々と努力を重ねているようだが、相澤よりも数センチ低いところで止まってしまっている。
再会した時よりも顔の精悍さが増した。頬の丸みが取れて大人の男らしくなった。つり上がった目は変わらないけれど、どこか優しい色をしている。
ヒーローとして、ランキングは落とすことなく上昇あるのみ。雄英在学時に懸念されていたメディアに向かない性格も幾分か丸くなって、担当地区が近いデクやショートとも上手くやっているようだ。最近は特に三人セットでメディアに取り上げられることも多くなった。
(いい男だと思うよ。欲目なしに)
ケケケ、と悪い顔で笑って、まだ脛を狙ってくる爆豪の額にキスをする。最近は前髪が短いのが好きらしい。相澤も気に入っている。
二年も一緒に居れば照れることも無くなって、すっかり慣れた愛情表現。お返しの頬へのキスは温かくて、可愛らしい音がした。洗い物はあと小皿が何枚か。それで終わりだ。
「勝己、話がある」
相澤は割らないように手元に目線を落として、感情をひた隠して言う。深く呼吸してしまえば声が震えそうになるから、出来るだけ息を止めて、腹に力を籠める。
どうせなら、情けないところは見せたくない。大人の最後の意地。
「今度、見合いをすることになった」
食器を拭いている爆豪の手が止まったのは、一瞬だけ。
「見合い、と言っても校長の知り合いの娘さんで、まぁあれだ、大人の事情で断り切れなくてな」
「……」
「これでももう何年も断って、校長やご両親を交えて話し合いもしてたんだ。でも相手方の強い意向は変わらなかった」
見合いの相手は、爆豪ほどではないがそれなりに年が離れていて、相澤が助けた一般市民。
吊り橋効果のようなものだとは思うが、敵から守ってくれた「イレイザーヘッド」に一目惚れしたらしい。熱烈な告白を直接お断りしても、校長から断ってもらっても、親が説得しても、どうしても結婚するのだと言い張ったまま長い年月が経った。
途中、爆豪と付き合えることになったのでそれもきちんとお伝えしたのだが、やっぱり駄目だった。あなたは私の運命の人なの、とその一点張り。
とうとう根負けしたような形になって、校長とご両親まで結婚を勧めてくるようになった。
相澤が断り続けている間、当然お互い歳を重ねている。三十代に入った彼女は強く妊娠を希望しているらしい。そして妊娠を希望しているのは彼女だけではない。彼女の父親も母親も孫の顔が見たいんだと、どうかうちの娘と、と相澤の知らないところで校長に頭を必死に下げてきたらしい。
『君ももう四十だし、一回くらい結婚してみてもいいと思うのさ』
校長の言葉に怒鳴らなかった自分を褒めてやりたいくらいに強い憤りを感じた。特別な相手がいるから何年も断り続けてきたのだ。例え爆豪と結婚できる制度がこの世になかったとしてもだ。
面倒でも何度も面会して、相手方の御両親にも頭を下げて、校長にも頼み込んで。それのせいで数少ない休日が潰れようと、睡眠時間が削られようと苦ではなかった。それだけの労力をかけてでも、爆豪との関係を守りたかった。
だってずっと好きだったのだ。
それこそこの子が自分のもとでヒーロー学を学んでいたあの頃から。
強個性に恵まれながらも決して手を抜かずに自らを高め、誰を相手にしても油断しないその姿勢も。不愛想で周囲に睨みを効かせて敵顔だと揶揄されても、ふと笑った表情がいつまでも幼いところも。乱暴な性格と思われがちだが手料理はいつだって繊細で栄養バランスを考えてくれているところも。誰にも隙を見せないくせに、片意地張っているくせに、相澤の隣に来ると素直にホッと息を吐くところも。
好きで、大事にしたくて。烏滸がましくも守りたくて、居場所になりたくて仕方がなかった。
でも。
「なぁ、勝己。お前は俺のこと好きか?」
歳を重ねるごとに大人はひどく臆病になっていく。もう確証が持てない恋愛に現を抜かせられるほど若くない。
結婚がしたい訳じゃない。子供が欲しいのだと望むわけでもない。ただちゃんと「恋人」として爆豪勝己の隣にいたい。
「もし少しでも好きだと思ってくれているなら、言ってくれないか」
言ってくれればまた頑張れる。たった一度でいい。それ以上は望まない。自分と同じ熱量で愛してくれとも言わない。
縁談を断るのだって自分の意志で、責任を押し付けたいわけじゃない。
ただ今は、断るだけの確証を。特別な相手がいるのだと胸を張って言える自信が欲しい。
「勝己」
洗い物は全部終わった。最後の一枚を手渡して、お前は俺のことが好きかとゆっくりと、もう一度聞いた。これが最後。
隣にいる爆豪は最後の皿を拭くことなく、水切りカゴにそっと置く。立て掛けられた皿から透明の水滴が流れて、重なって、大きな一滴になって、その内排水溝へと流れていく。
爆豪の顔は俯いていて見えない。緊迫した時間に、胃が締め付けられそうだった。
そして。
「――……ごめん」
結局顔は見えないまま、爆豪はそれだけ言って隣から離れていく。
自分の荷物を抱えるようにして持ち、足早に出て行ってしまった。パタンと閉じられた扉に錠が落ちる音はしない。渡した合鍵はご丁寧に置いて行ってくれたようだ。
相澤はようやっと深く息をして、腰が抜けたように床に座り込んだ。もう一歩だって動ける気がしなかった。目の前の戸棚に頭を打ち付ける。ゴン、と鈍い音がした。それなのに痛くもなんともない。だって心臓のほうがもっと痛い。
痛くて痛くて、涙が出た。
――……こうなることは、きっと頭のどこかで分かっていた。
外出をしても手には触れず、名前を呼んでくれるのは人の目がない時だけ。家に泊まりに来てくれても爆豪は小物の一つだって置いていかない。セックスをしてもいつだって一欠けらの理性が残っている。好きだと言えば嬉しそうに目を輝かせるのに、応えるように喉を震わせてくれることはない。
誰かを好きになると心臓が痛くなって、連動するように鼻の奥が痛くなることを初めて知った。
好きな相手の気持ちが分からないと寝不足になるのだと初めて知った。
気の知れた、旧友の言葉をスルーできるほどの心の余裕がなくなると初めて知った。
でも、好きな相手に「好き」と言われる奇跡のような幸せは、温かさは、爆豪はいつだって与えてくれないのだ。
浮かれていたのだと、今なら自信を持って答えられる。
はぁ、と情けないほどに震えた息を吐いて名前を呟いた。どうか自分が知らぬ誰かと幸せに、とは到底思えそうにない。
「好き、――――……たっだんだ」
未練がましい最後の告白はテレビの音に掻き消されて、誰にも届くことなく空気となって消えていく。
2.
――これは私の
鬱蒼と伸びた黒い髪の毛を乱して、隙間から狂気じみた右目が覗く。自分と似たような赤い瞳ということが既に気に食わない。しかし似ているだけで全く違う代物だ。この赤は深く仄暗い血の色に似ている。怖いとは思わない。思わないけれど気味が悪かった。自分が認識していない、所謂モブに対してもすぐに「死ね」だの「殺す」だの言う口を閉ざしてしまうくらいには。
光のない瞳の中でゆらゆらと憎悪が揺れる。
爆豪と同じ折寺中学の制服に身を包んだその女は一つ上の先輩で、緑谷のことが好きらしい。だからこそ緑谷に悪態を吐き、威嚇して暴言を吐く自分が大嫌いなのだと金切り声を上げる。
「人を愛するって素敵なことなの。世界が一変するのよ。明るくなって、いい匂いがして、ご飯が美味しくて、笑顔に溢れるの。緑谷くんのことを考えれば私はどこまでも強くなれるわ」
例えばそう、今みたいに。
「私の個性ではアンタに叶うわけがない。個性を使わなくたってヒーロー志望で男の子のアンタには負けちゃう。でもね、緑谷くんを思えばこそ強くなれるの。こうやって、強いアンタを追い詰めて、煩い口を黙らせるくらいには」
冷たく、皮膚が切れそうな空気に壁際まで追いやられて、覗き込むように見上げられる。サラリ、と乱れた黒髪が流れた。真っ黒の隙間から赤い両目で捕らえられるといっそうゾクゾクと鳥肌が立って、思わず下唇を噛み締めた。
「緑谷くんのおかげで私は今の私があるわ。優しい優しい緑谷くんのおかげ。恋のおかげ。好きになれたおかげ。振り向いてくれなくてもいいの。ただ好きでいたいの」
だから、だからね。
「こんな素敵な感情はアンタから奪ってあげるの」
アンタが一生幸せになれないように「好き」なんて言葉は私が閉じ込めてあげるわ。
***
相澤の家を飛び出して電車に滑り込む。少し離れたところにある自分のマンションがいつも以上に遠くて、噛み締めた唇が切れて、顔を上げずに寝たふりするので精一杯。
電車が着いて駅を出たら全速力で走った。いつも通りの呼吸法が出来ず、過呼吸になりそうなほどに肺腑が冷たくて熱くて苦しくて、それでも走って部屋に入る。
バックパックは放り投げて、鍵を閉める余裕もなくて、ドアに背中を預けてズルズルと崩れ落ちた。喘鳴がやたらと大きく響く。
「――っ、く、ふぅ、ゔ、うう……っ」
糸が切れたようにボロボロと涙が出て嗚咽が零れる。躊躇なく自分の腕を噛んで叫びそうになるのを我慢した。
『今度、見合いをすることになった』
いやだ。そんなのいやだ。
『もし少しでも好きだと思ってくれているなら、言ってくれないか』
好きなんて言葉じゃ足りないくらいに好きに決まっている。
中学の時に悍しい個性をかけられても「人を好きになるなんて想像できないから」という理由で放置していた自分を心底恨んでしまうくらい好きだった。
なんの偏見も持たず、真っ直ぐに向き合ってくれる初めての大人だった。間違ったことをすればきちんと叱ってくれる大人だった。でもきちんと先に理由と原因を聞いてくれた。この人の隣ならば、肩の力を抜いて、好きなように息をしていいのだと思えた人だった。
「ゔぅ、ううっ、せ、んせ、せんせぇ……っ」
生まれて初めて人に触れたいと思えた。
でも伸ばした手はいつだって相澤のコスチュームに触れることはない。好きと言えない自分は遠くから眺めることしかできないのだ。どれだけ慕っていても、邪な感情を持て余していても、伝える術がない。この呪われた唇は相澤を喜ばせる言葉を吐き出せない。
素直に接することができる同級生がいつも眩しくて、ずっと目を逸らしていた。
――だから、心底驚いた。
プロヒーローになって再会した相澤にご飯に誘われて、帰り際に名残惜しそうに公園へと誘われて。それから次にまた会えるかわからないからと、前置きをして告白されて。
自分の人生にもこんな都合のいいドラマティックな奇跡が用意されているのかと、嬉しくなって口元が緩んだ。そして、どれだけ緩んだ口元を動かしても俺も好きだと声が出なくて絶望した。
個性をかけられたあの時に、周りの大人に相談していればこんな未来じゃなかっただろうか。相澤に好きだと言えて、大人の事情が絡んだ見合いなど断ってくれていただろうか。
「……っ、ちくしょう、ちくしょ……ッ…!」
噛んでいた腕を離して、悔しく唸りながら三和土に拳を叩きつけた。バチバチと火花が散る。個性を制御出来ないなんてプロヒーローとして失格だ。
それでも膨れ上がった感情を昇華させるにはこれしか思いつかない。
再び拳を打ち付けようとして、いつか相澤に言われた言葉が耳元で聞こえてきた。
『ちゃんと手を大事にしなさい。いいか、誰にでも素直に手を差し出すなよ。心配になるよ』
振り下ろした拳が三和土に当たる直前で止まる。
「――ッ、俺が! 誰にでも差し出すかよッ!」
堪らず叫んだ。声は上擦って、掠れて、なんとも情けない。
背中を丸めて蹲る。涙腺が壊れてしまったかのように涙がいつまでも溢れて眼窩がどうしようもないほどに熱い。
「おれは、いつだって、いえなくたって」
いつだって相澤だけを見ていた。言えなくたって訴えていた。この人なら、言わなくても伝わるんじゃないか、分かってくれているんじゃないかと、勝手に安心していた節もある。
でも違った。当たり前だ。どれだけ相澤が教師としてプロヒーローとして有能で、爆豪から見れば先を行く大人だとしても、所詮は人間である。長い年月共にいて、その関係性に名前が付けられなければ不安になる。見ているだけでは解決出来ない。言わなければ伝わらない。
自分がしていたことは、ただ相澤に甘えて言い訳を繰り返し、問題を先延ばしにしていただけ。
その結果が今。自業自得の一言。
「しょうたさん、が、 」
この期に及んでまだ声にならないその想いは、結局相澤の耳に届くことなく消えていく。二つ、三つと歯型が増えて血が流れても悲しみが終わることはない。
相澤と顔も知らない女性の確定された未来を思い浮かべて、爆豪は夜が明けるまで泣いた。
***
どれだけ好きだった相手と別れようと、左腕の噛み跡が赤黒く変色していこうと、ヒーローに助けを乞う声は止まらない。
事務所の所長に苦言を呈されても爆豪は限界まで仕事を詰め込み、地方への出張も率先して行った。家には出来るだけ帰りたくなかった。着信のないスマートフォンも見たくない。何かに集中して、ただ時が流れていくのを待つのみ。
その結果、左の前腕に巻かれた包帯の下で皮膚が綺麗に再生される頃には、今が朝なのか夜なのかの感覚が鈍っていた。空腹も感じない。ただ生命を維持するためだけに食べ物を胃へと落とし込んでいるだけだ。
あれからどれくらい日が経ったのだろう。
もう見合いは終わったのだろうか。結婚はいつなんのだろうか。
聞きたいけれど聞く術も聞く人もおらず、消化不良の気持ちだけが心の中に溜まっていく。歩くにも走るにも、腹の底が重くて視界がブレそうになる。
でも、聞けなくていい。聞いてしまったら、事実を目にしてしまったら、きっと自分は立っていられない。世界には沢山の人間が溢れているのに、たった一人の男との思い出に縋ってようやっと立つことが出来る自分が、情けなくて仕方ない。
「――おい! あぶねぇぞ、爆心地!」
後ろから聞こえた声にハッと意識を前方へと向ける。地上は遥か下。両手は後ろに翳して、今自分は空を飛んでいる。そうだ、考え事をしている場合ではない。他事務所と合同で敵を追い詰めている最中で、……と鈍い頭を回転させるより前に目の前から真っ直ぐとナイフが飛んでくる。条件反射で逃れて避けたと思えば、その動きを予測していた別の角度から二本目のナイフが飛んできて、まるで魔法にでも掛けられたかのように形状が変わった。
ただのナイフが銀色の網へと変化して覆いかぶさってくる。あの網も普通のそれではなさそうだ。ギラギラと悪意を含んだ光り方をしていて、きっと触れれば切れるのだろうと直感。爆破が間に合うかどうかの瀬戸際。考え事の代償は大きすぎた。
「チッ!」
少々の怪我は避けられないかと舌打ちをした瞬間、網に向けて翳そうとしていた右の篭手に何かが巻き付いた。薄汚れた、灰色の布である。薄っぺらな見た目によらずギチギチと音を立てて絡みついてきたそれはあっと言う間に爆豪の体を更に上空へと誘う。
悪意を持って光る銀色の網は爆豪を捕らえることなく地上へと落ちていく。それを待ち構えているショートが見えた。あれなら上手く氷漬けにして処理をするだろう。任せたほうがよ良さそうだ。
爆豪はそのまま一本釣りのように天高くまで持ち上げられて、急降下。連れてこられた先は元いた場所から少し離れた、ビルの屋上。
巻き付いている布の正体を、爆豪はよく知っていた。
雄英在学時に何度も何度もそれで縛られては叱られた。どんなに暴れてもビクともしない。爆破の威力も削られる。見た目以上に厄介な捕縛武器。
勝手に心臓が痛くなったり熱くなったりを繰り返す。捕縛布が巻きついた右腕からじわじわと全身になにかが広がっていく。焦燥と動揺と、それから少しの期待。
(まさか、まさか……)
あぁ駄目だ。こんな情けないところを見られてしまったのに。それなのに、それでも。
小さな音を立てて無事に着地した爆豪は、離れていく捕縛布を追いかけるように振り返る。
そして。
「何やってんだよ、お前」
黒い髪――……ではなく、紫色の髪の毛を風に靡かせた男と目が合った。捕縛布をもっているのはあの男だけではないことをすっかり失念していた。
そうだった。この男ならそれを持っていてもおかしくない。
雄英在学時に相澤本人からそれを直接譲り受けた、唯一の弟子。心操人使なら。
***
助けてやったんだから飯でも奢ってくれよ、なんて心操に言われたのは所長の説教が終わった後だった。今回のお説教はいつもの三倍ほど執拗だったので、必然と長い時間外で待たされていた形になっていたのだろう。マフラーに埋められない鼻先が赤くなっていた。よく見れば耳朶も赤い。
「……そんなに待ってんだったら帰ればいいだろうが」
「腹減ったんだよ」
「尚更帰れや」
舌打ちしようと睨もうと、元々あまり表情が豊かではない心操の顔はまったく変わらない。爆豪はこれ以上のやり取りが馬鹿らしくなって、諦めるように何が食べたいかと聞いた。
「焼肉。食べ放題じゃないやつ」
「ちゃっかり高いもん要求してんじゃねぇわ!」
何事にも無頓着そうに見えて、実は図々しいところも師匠譲りなのだろうかと思えば余計に腹が立つ。自分でも思うが珍しい組み合わせなので、誰かに見られたら面倒だと個室のある焼き肉店をアプリで探す。そして、寒いだの腹が減っただの文句を垂れ流す心操を怒鳴りながら散々歩かせ、ようやっと狭い店内に入ったと思えば容赦なく注文に注文を重ねていく。食欲のない爆豪は見ているだけで胸が灼けた。
「あれ、食わないのか?」
「うるせ。さっさと食え。食って帰れ」
「冷たいな。折角助けてやったのに」
「頼んでねぇわ」
「あの個性が一番厄介で危険だって言われてただろ? あの敵が操る武器は形状を変えられる上に、全部刃物みたいになってるって。しかも衝撃にも強い」
「……」
「つまりあれを爆破しても効果はない。もし触れてたら商売道具の右手はズタボロだった」
「…………何が言いてぇんだよ」
「ビビンバも頼んでいいか?」
「勝手にしやがれ!」
他事務所との共同戦線を終えた後とは言え、どれだけ食べるんだと怒鳴る。しかし、心操が言っていることは正直痛すぎるほどに痛い部分だったので反論せずに、苦々しくジンジャーエールを飲み込んでいくだけ。
しゅわしゅわ、と腹のなかで弾ける泡が唯一の心地良さだった。それ以外は苦痛だ。
銀色の網の上で焼かれている肉は焦げる前に心操の口の中へと消えていく。時々、これ焼けてるぞと声を掛けてくれるけれど、やっぱり一枚だって口に入れることはなかった。美味しそうな料理でも食べたいとは思わない。食べ慣れた自分の料理ですら拒否反応が出る。匂いすらも霞んでいる。もうずっとこんな感じだ。
『人を愛するって素敵なことなの。世界が一変するのよ。明るくなって、いい匂いがして、ご飯が美味しくて、笑顔に溢れるの』
忌々しい少女の声が頭の中で響いて頭痛へと変化する。腹の底から沸き上がってくる嫌悪感を吐きそうになって慌ててジンジャーエールを口にした。今度は気泡すらも気持ちが悪い。
ふ、ふ、と吐かないように短い息を吐いて顔を上げれば心操と目が合った。天井に備え付けられた換気扇に吸い上げられていく煙越しに、やる気の無さそうな、しかし底知れない力を持った瞳がじっとこちらを見てくる。
「――――……イレイザーと、」
「やめろ」
そして、ゆっくりと紡がれたその呼称を条件反射で遮った。心操は邪魔されると分かっていて口に出したのだろう。不快感も、驚きも顔に出すことなくさらに一枚肉を頬張る。
心操が自分たちの関係を察したのは、随分と早い段階だった。
これに関して爆豪は正面から心操と話をしたことはない。どう思っているのかも、どう感じているのかも爆豪にとっては関係ないことだからだ。自分が関係を持っているのは相澤であって、その弟子まで気遣うことはない。
直接話さずとも爆豪の態度で心操も色々と察し、同意見の部分もあったのだろう。結局二年間お互い特に詮索せず、遠慮もしなかった。
ただ、相澤は何だかんだと心操には甘い。余計なことは言わない子だから、とすぐに隙を見せる。
師を持たない爆豪からすれば、そんなに隙を見せるのは師としてどうなんだと呆れるところもあるけれど、この二人がそれで良しとしているのなら文句は言えない。
――師と弟子というのは一生ものだ。時には血よりも関係は濃く深くなっていく。
そんな間柄に、ただの恋人であった自分が口を出すことなどない。実際出していない。だからこそ、こちらとしても放っておいてほしい。特に、今は。
「それ以上喋るとぶっ飛ばす」
「こんな引火しやすいものばかりある狭い場所で、個性は使えないだろ」
しれっと言い放つ心操に、焼き肉店を選んだのはわざとかと奥歯を噛んだ。元よりただの喧嘩に使う気など毛頭ないけれど、人の攻め手を黙って潰していくところも相澤によく似ていて腹が立つ。
「個性なんざ使わなくてもテメー一人くらいどうとでも出来る」
「どうやって? もう高校生じゃないんだから、あっさりとはやられるつもりはないよ」
「ハッ! なめんな、テメーなんざ、」
ついカッとなって応えてしまったと気付いた時にはもう遅い。
強制的に脳内の電子回路が書き換えられたような感覚がして、意識を取り戻した頃には、まだ店員が持ってきてもいなかったはずのビビンバが空になっていた。やられた。
「てめぇ……ッ!」
ギリギリと奥歯を鳴らして、射殺さんばかりに睨み付けても心操は謝ることはない。最後に一枚残っていた肉を口に入れて、呑気にご馳走様でしたのご挨拶。
「こうでもしないとアンタたちは面倒くさい」
「アァン!?」
「付き合い始めた時から面倒くさい面倒くさいと思っていたけど、ここまでだったとはなぁ……」
「面倒くさいって連呼すんじゃねぇわ!」
「本当にあの後からイレイザーと連絡とってなかったんだな」
「どうせ全部聞いたんだろうが! 今! 俺からな!」
「……あー、まぁ、聞きたくないことまで教えてくれたけど。……なんかこの個性で出来る幅を増やしたこと、今日だけは後悔したかも」
師匠のそういうところは知りたくなかった、なんて項垂れている。
そういうところがどういうところなのか、洗脳にかけられていた爆豪の知るところではないけれど、大方思いがけず夜の情事でも喋られたのだろう。若干の恥ずかしさはあるがザマァミロという気分でもある。人の恋愛に勝手に踏み込んできた罰が当たったのだ。
食事が全部終わって火を落とす。心操は紙ナプキンで口元を拭いながら、ふうと息を吐いた。
「個性で言葉が閉じ込められる、か。催眠術みたいなもんかな」
「……さぁな、知らねぇ。あの女、すぐに転校しちまったんだよ。デクに纏わりつき過ぎで先生や警察から注意食らって、世間体を気にする親が強制的に引き剥がしたんだと。今も生きてるかどうかすら知らねぇ」
「成程。だからこそ、個性の解除方法が分からないままか」
言いながら、空になった器を避けていると思ったら、店員が入ってくる。手に持っているのは透明なグラスに飾られた、猫型のチョコアイス。頭頂部には金粉付き。
「人の金だからってデザートまで頼んでやがったのか」
「猫だったから、つい」
「つい、じゃねぇわ。ふざけんなよ」
「でもまぁ確かに食べ過ぎた」
だから、と猫型のアイスをスマートフォンで何枚も写真を取ってから、こちらを見てくる。またいつ個性にかけられるのか分からないので応えずに言葉を待つ。
「食べ過ぎたからもう少しくらい働いてあげてもいい」
「……」
「なぁ、ちょっと考えてみろよ。その女の個性が呪いという名のただの催眠術だとしたら」
――俺の個性の下位互換だ。
3.
『この前家に行った時に資料を忘れて帰ってしまって、今から取りに行ってもいいですか?』
スマートフォンに届いたのは心操からのメッセージ。日付を跨ぎそうなこんな時間帯にわざわざ取りに来なくてもいいんじゃないかと返せば、大事なものなんですと言って引かない。ついでに渡したいものもあると。
どうしても、いつまでも高校生扱いをしてしまうのであまり遅い時間に出歩いてほしくはないが、一度言い出せば聞かない頑固な面もあるので仕方なく了承した。続いて送られてきた猫の形のアイスはちゃっかりと保存して、心操が言う資料というものを探す。
確か、次に担当すると言っていた事件の資料をこの前持ってきていたなと考えて、珍しく物が散乱した部屋の中を歩き回る。しかし、ない。
『資料なんてないぞ』
間違って捨ててしまったかと焦りつつメッセージを送れば、
『ありませんか? 新しく出来た猫カフェのチラシ』
と返ってきたので、紛らわしい言い方をするなよと頭を掻いた。そのチラシならばある。心操が置いて行ったのでてっきりくれたのかと思って冷蔵庫に貼っていたのだ。
『あって良かったです。多分、三十分くらいで着きます』
了解した旨を送って、相澤はチラシを取りにキッチンへと向かった。家に持ち帰ってきていた書類や、気になっていた文献が床に散らばっているのを踏まないように気を付ける。途中、テーブルの上に置きっぱなしにしていた新品のゴミ袋を一枚取る。
チラシは捨ててしまわないように気を付けて、それ以外のキッチン用品を分別しながらゴミ袋へと入れていく。
白と黒で統一された調理器具は、いつのまにか埃を被っていた。普段どこに収納されていたのかを相澤は知らない。当然だ。相澤は一切料理をしない。たまにやってくるマイクも心操もしない。
相澤の周りで、料理をするのは爆豪だけだった。
シンクが狭いだの、ガスコンロの火力が足りないだの、水切り籠が小さすぎるだの、文句を言いながらもいつだってこのキッチンに立っては目にも楽しい料理を作ってくれていた。
出来上がる直前の料理を小皿にとって「味見しろ」って持ってきてくれるのが好きだった。これは爆豪が自分のために作ってくれているのだと、より実感が湧くから。そして「美味しいよ」と言えば嬉しそうに笑いながら「俺が作ってんだからあったりまえだろうが!」と吠えるのだ。そういうところも好きだった。
誰も使わなくなって、心なしかくすんだ色をしている菜箸やお玉、フライ返しを一つずつゴミ袋へと落としていく。爆豪が選んでくれたシンプルな柄の小皿も、揃いのお茶碗もお箸も、可愛らしい猫が描かれたマグカップも全部、全部捨てていく。
空になっていくキッチンと、重たくなっていくゴミ袋の中身に背中を丸めて、辛気臭い溜息をこれでもかと吐き出した。
こんな姿を見られてしまったら、また弟子に懇々と説教をされて「思ってた以上に面倒くさい大人ですよね。その背中蹴り飛ばしたいです」と斬り捨てられてしまうかもしれないが、今はいないからいいのだ。情けなく、もの悲しく思い出に浸っていく。
料理名など碌に分からないけれど、爆豪が作ってくれていた料理ならば思い出すことが出来る。リクエストしていた料理がいくつかあったけれど、それを食べることはもうない。あの小さなテーブルに二人向かい合わせで「いただきます」と言える日は、もう夢の中でしか見られない。
とうとう空っぽになってしまったキッチンにゆっくりと手を這わせて、爆豪の立ち位置に立ってみた。振り返れば、相澤がいつも仕事をしながらご飯を待っているソファが見える。
『シンクは小せぇし、火力は弱ぇ。換気扇も動きが悪ぃ。鍋もフライパンも小せぇ。嫌なとこばっかだけど、……ここから見るアンタの横顔はかっけぇな』
「あのソファから、料理をしているお前を見るのが好きだったよ」
どうせなら写真の一枚でも残しておけばよかった。
相澤はもうすぐ、思い出の詰まったこの家を出て行く。
***
ドンドン、と玄関から音がした。
思い出に浸っていた相澤は、ハッと顔を上げて玄関へと向かった。もう一度響いた音は、どうやら玄関ドアを蹴っている音らしい。いつもはインターフォンを鳴らしてくるのにどうしたのかと不思議に思いつつ、用心のために覗き穴から外の様子を伺って目を丸くした。
見間違いだろうかと慌ててドアを開ける。
「こんばんは。夜分遅くにすみません」
「し、しん、しんそ、おまえ、それ……っ」
「あぁ。今日現場が一緒になって打ち上げがあったんですけど、先輩方に飲まされ過ぎたみたいで。潰れてたんで回収してきました」
渡したいものがあるって言ったでしょう。
なんの悪びれもなく潰れている酔っ払い――爆豪を差し出してくる心操に、相澤は言葉が出てこない。
「お、まえ、なぁ……」
分かりやすく混乱している相澤を、笑うことなく心操は爆豪を押し付ける。
「あとは二人で話し合ってください。俺、あなたについていくのはいいんですけど介護までは出来ないんで」
「お前にそんなこと頼まないよ」
「例えばの話です」
指先のひとつにすら力が入っていない爆豪はずっしりと重たく、落とさないようにしっかりと腰を抱える。力が入っていない分重いけれど、体自体は薄くなっているような気がする。
「じゃあ俺帰るんで」
「あ、待て、チラシは」
「来るための口実なんでいりません。どうぞ」
「…………お前ね」
もう少し隠しなさいよ、と苦笑い。すると心操は眉間に皺を寄せて、びしりと相澤を指差す。
「それです。隠すから面倒なんですよ。二人は」
今度はぐったりとなっている爆豪を指差す。
「好きなくせにお互い気を遣って隠すから面倒なことになって拗れて、こんなことになってるんです。次こういうことがあれば二人に個性かけて色々恥ずかしいことさせるんで覚悟してください」
「あ、あぁ、分かったよ……」
どこからどう突っ込んで聞いていいものやら分からず、更に心操の顔が心底怒っているものになっていることから相澤は下手に口答えするのは止めておこうと考えて頷くだけにする。どうやらその魂胆はバレているらしく、目がいっそう厳しいものになったが、それ以上の説教はなかった。
その代わり。
「爆豪のことは色々聞きましたけど、イレイザーのことは何も言ってないんで、それは自分から説明してくださいね」
言って、フンッとせせら笑う。そして相澤が何か言うより先に踵を返して帰っていく。
爆豪と二人きりになるのが気まずく、引き留めたい気持ちでいっぱいだが、どうにか「気を付けて帰れよ」と絞り出した。
すると、何かを思い出したように心操の足が止まって振り返った。
「爆豪にひとつ伝言を。俺のことも信用してくれて嬉しいよって言っておいてください」
嬉しい、というわりには随分と悪い顔をしているので、きっとそれを伝えれば爆豪が怒り狂うなにかなんだろうと察しつつ、何も言わずに頷いた。
ベッドに寝かせた爆豪はそこまで強い酒の匂いはしないことにホッとした。そんなに強くないくせに言われるがまま飲むんじゃないよ、と零しながら窮屈であろうベルトを引き抜く。匂いのわりに真っ赤になっている顔や首は、驚くほどに熱い。
一度起こして水でも飲ませるべきだろうかと悩んで、しかし突然の出来事に動揺している心を一旦落ち着かせようと寝室を出て行こうと決める。起きたらその時水を飲ませればいい。兎に角今は少し距離を取りたかった。
二人で話し合えと言われても、捨てられた側のこちらがどうしろというのだ。
荒い息を繰り返す爆豪を背に、ベッドの淵に座って頭を抱え込み、それから立ち上がろうとすればぐっと服を引っ張られた。
「なぁ」
随分と久しぶりに聞いた爆豪の声は、酒のせいで覇気がない。きっと服を掴んできている手にも力は入っていないだろうけれど、相澤はそれを振り払えない。顔だって見れない。
しかし。
「……きもちわりぃ」
と、言われてしまったので慌てて振り返った。
やはり水でも飲ませておくべきだったかと考えながら大丈夫かと聞こうとして、――それより先に爆豪の両手が伸びてきた。素早く起き上がった爆豪に胸倉を掴まれて引き寄せられる。真っ赤な顔が近付くのがスローモーションのように思えて、息を呑む前に唇が触れ合った。
きっと抵抗しようと思えば出来たはず。避けようと思えば出来たはず。それをしなかったのは、驚きと、ほんの少しの期待と下心。
『隠すから面倒なんです。二人は』
心操はそう言っていた。確かに相澤は二人の終わりが来るまで、ずっと好きと言ってほしいと思っていた気持ちを隠していた。伝えることはしなかった。
じゃあ爆豪は? 一体何を隠していたというのだ。
別れを受け入れるほどに隠さなければいけなかったことは何だ。知りたい。聞きたい。ちゃんと言ってくれないと、都合よく考えてしまいそうだ。
「せんせ……っ」
勢いのわりに柔らかく触れた唇はウイスキーの味がして、入り込んできた舌は火傷しそうなほどに熱い。酔っているからか呼吸が荒く、短く、浅く。キスはそう長く続かなかった。はふはふと溺れてしまいそうになる手前で顔が離れていく。だらしなく放り出された爆豪の舌から唾液の糸がこちらへの繋がっていて、それすらも溢さないようにと舐めとってきた。
「もいっかい」
独り言のように呟き、爆豪は相澤をベッドへと強引に引き摺り込む。酔っている分容赦がなく力任せで、ベッドでなければ頭を痛めているくらいに無理やり押さえつけてきた。キス、というよりも噛み付かんばかりに口を開いて寄ってくる。
「こら、待ちなさい……!」
圧し掛かってくる爆豪を押し返すようにすれば辛そうにくしゃりと顔を歪めて、それから意を決したように深呼吸を一回。
「すき」
何年も。
何年もずっと欲しくて堪らなかった言葉が降って来る。
それはあまりにも唐突で、突拍子がなくて、喜びよりもなによりも驚いてしまって普段から重たい瞼が持ち上がる。しかし、自分よりもっと驚いた顔をしているのは爆豪である。つり上がった目が子どものように丸くなって、好きと零した唇は開きっぱなし。まるで言えると思わなかったんだと、言うつもりなどなかったのだといった顔をしている。
ぱちぱち、と大きく瞬きしている音につられて相澤も瞬きを一度、二度。
別れてしまったはずの二人が再会して愛の告白、と言うにはやけに間抜けな空気が流れて、やはりそれを断ち切ったのは爆豪だった。
「す、き、すき、すきだ、あんたが好き、好き、すき、すきだ」
それ以外の言葉を知らないかのように連呼して、嬉しそうに頬がむずむずと震えて、唇に笑みが浮かんでいく。じわじわと石榴色が涙で歪んでいく。相澤の上に乗っかっている体は段々と力が抜けたように下がってきて、甘えるように胸元に縋り付てくる。
絶対に離れないと言わんばかりに服を掴む。
「しょ、たさ、すき、すき……っ」
そのうち、ヒグ、と喉が鳴って。本格的に泣き始めた。目が溶けてしまいそうなほどに大粒の涙が頬を伝って、相澤の服を濡らしていく。
っ、す、すき、……っ……、すき、すき、好きだ」
俺はずっと前から消太さんが、消太さんだけが、好き。
「――――ッ、なにを、」
今更、と声を張り上げようとしたのに塞ぐようにキスをされる。爆豪はまったく話を聞いてくれる気配がない。譫言のように好きを繰り返して、相澤のことなど置いてけぼり。
これでは駄目だ、きちんと話をしなければ。そう僅かに残った冷静な部分が声を上げているのに、ずっと冷え切ったままの心臓の裏側がどうしようもないくらいに熱を持って仕方ない。別れてからもずっと聞きたくて夢にまで見た言葉は、想像以上に温かくて幸せで頭の中が溶けていく。
そして。
「なぁ結婚すんな、俺はアンタがいい」
言って、また大粒の涙がポロリと零れた。
「……結婚、すんな」
反対側からもう一粒。
どんなに願ってもその言葉をくれなかったくせに。
あれから、こちらがどんな思いで過ごしたかなど微塵も知らないくせに。
「消太さんが、すきだ」
やっぱりその一言で泣いてしまうくらいには、好きなのだと思い知らされる。
今までのことも、これからのことも、今は冷静になんて考えられなくて。
兎に角涙が滲んだ両目を乱暴に拭い、圧し掛かってきている爆豪を痛いくらいに抱き締めた。そのまま体勢を反転させて、甘えるように首元に顔を埋め、もう逃がさないと言わんばかりに噛み付いた。元々赤かったそこは、相澤の歯の形にいっそう色濃くなる。
「酔ってたから、なんて言い訳が通じると思うなよ」
酒のせいになんかしてやらない。忘れたなんて言わせない。自分はいつまでも「優しい元担任の先生」でも「理性のある大人」でもない。好きな人からのたった一言で全てを手放して、欲しいものだけに所有の証を刻み込むような、ただの馬鹿な男なのだ。
「もう、らしくねぇ言い訳で自分の首締めたくねぇんだよ」
だから覚悟を決めるのはアンタだ。
見たことがないくらいに泣いて顔を歪めていくるせに、それでもキラキラと乱反射している石榴色の瞳はどこまでも強い。本当ならじっくりと話を聞き、話し合うべきなのだろうけれど、分かっていても、キスをして彼の服を脱がせていく手が止められなかった。
今はただ。
「しょうたさん、すき」
夢にまで見たその言葉だけを、ずっとずっと聞いていたいのだ。
4.
カチ、と軽い音を立ててからガスコンロに灯る火を見て爆豪は納得したように頷いた。
「料理しねぇアンタが選んだにしちゃあいいキッチンじゃねぇか」
シンクは広いし、蛇口はタッチレス。全自動食洗機も完備されている。なによりガスコンロの火力も申し分ない。水を得た魚のように鼻唄混じりに料理に取り掛かる爆豪は今までにないほどに上機嫌。カウンター越しにそれを眺めていた相澤は十二分に冷えた水をグラスに注ぎ、無意識で爆豪が気に入りそうなキッチンを選んでましたとは絶対に言えないな、と考えては苦笑いを零した。
「あー、まぁ、気に入ってくれたなら良かったよ」
カウンターに凭れたままグラスに口をつけて、忙しなく動き回る背中を見つめる。どうやら新調した調理器具も気に入ってもらえたらしい。
分かりやすい態度に小さく笑えば、まだ真新しい木の匂いが鼻腔を擽る。
雄英高校から程よい距離で、駅もすぐ近く。爆豪の事務所に行くにも交通の便が良い場所。
とある高層マンションの、大きな窓があしらわれた見晴らしのいい部屋。
ここが相澤の新しい家である。
まだ慣れない新居に、点けっぱなしになっていたテレビからニュースが流れてくる。
『先ほどもお伝えしました通り、新進気鋭、大人気の若手ヒーロー、――が入籍しました。お相手は不動産会社社長のご令嬢で、お互い一目惚れだったそうです。お互いを運命の人だと惚気る姿は実に微笑ましく――――』
女性アナウンサーがにこやかに伝える、とある若手ヒーローの結婚の話題は相澤の肩を一気に重くした。大股でダイニングテーブルの上に置かれていたリモコンをとって電源を切る。
「あ? いいんか、元運命の人のおめでたいニュース聞かなくて」
「ニュースで聞かなくたって全部知ってるよ」
「知ってるっつうか体験してるっつうか、……ブフッ」
「笑うんじゃないよ」
下唇を突き出して恨めしく爆豪を睨める。当の爆豪はそんな相澤の視線など欠片も気にしていない。深めの大きなフライパンに切った具材を入れ、手際よく振りながら堪えきれずに大笑い。ひぃひぃと呼吸困難になりそうだ。
そうか、そうか。そんなにおかしいか。
長年片想いをしていた相手と断腸の思いで別れ、死んだ心でどうにか覚悟を決めて見合いを受けようとすれば「貴方は運命の人じゃなかったみたい」とすっぱりと断られ、次の日には別の有望で顔のいい若者と婚約されたことが。
「……お前ね、いつまでそれ笑うんだよ」
これでも爆豪の笑いは大分収まった方だ。爆豪に初めて好きと言われて散々求め合ったあの夜のあと、嫌々ながらも事の顛末を説明すれば一日中笑い転げていた。
「たぶん一生だな」
「ひどいやつ」
こっちは人生の不幸という不幸を詰め込まれた時期だったんだぞと続ける。これで爆豪が帰ってきてくれなかったらどうなっていたか、考えるだけで肝が冷える。
この一件での唯一の利点は、今までの非礼のお詫びとして不動産会社を経営している父親にこの新築物件を格安で譲ってもらえたことくらいだ。
「だからこそ一生笑ってやるよ。アンタの情けない不幸話くらい俺が笑い飛ばしてやる」
「なんか、プロポーズみたいだな」
「空気読めや、おっさん」
「……プロポーズだったのか!?」
「さァな」
ピピピ、と鳴るキッチンタイマーを止めて、フライパンの隣のコンロで湯がいていたパスタを取り出して、用意していたザルへ。もわ、と大きな湯気が上がる。邪魔だけはしないようにキッチンに忍び込んで、怒られない程度に距離を詰めていく。
「プロポーズは俺にさせてくれよ」
「邪魔だからあと二歩下がれ」
「じゃあ一回だけキスしよう」
「ばかだろ。後にしろや。今忙しいんだよ」
「いやだ」
「駄々捏ねんな、おっさん」
アンタそんなキャラだったか、と呆れた顔で言われてしまう。
「浮かれてるんだよ」
「浮かれ過ぎだわ」
「じゃあ浮かれ過ぎないようにするから、キスしよう」
どうしても退かないからなと後ろから抱き締めて態度で示せば、溜め息がひとつ。しかしちゃんと手を止めて、首を捻ってこちらを向く。
相澤はにんまりと唇で弧を描き、差し出された爆豪の唇を味わおうと顔を近付け、
「だから、師匠のそういうところは見たくないんですって」
心底呆れた声が聞こえてきて、舌打ちをした。
開いたままの扉からキッチンを覗き込んでいるのは、引っ越しを手伝いに来ていた心操である。
「心操、こういう時は声をかけるなって言ったはずだぞ」
「嫌ですよ。先手打っておかないと色々手遅れになるでしょう。これみたいに」
言いながら、抱えている段ボールを見せてくる。中に入っていたのは未開封のローションやスキンなどの、所謂大人の玩具たち。相澤は「あぁそう言えば面倒だったからその辺の段ボールに詰め込んだな」と呑気に考えていたが、爆豪からすれば大事件。BOM! と音がするくらい一気に顔や首を赤く染めて怒鳴る。
「テメ……ッ! っざけんじゃねぇぞ、おっさん!」
「さっき荷物開けた時にないなと思っていたが、そうかそっちの段ボールだったか。すまんすまん」
「棒読みで謝ってんじゃねぇわ! さっさと片付けて来いや!」
これでもかと目をつり上げて怒鳴り散らされたので、相澤はそそくさと心操を連れてリビングから出て行く。気まずい中身しか入っていない段ボールは受け取って、まだ片付けが途中になっているベッドルームへ。
心操がいる手前中身を取り出してナイトテーブルに仕舞っていくわけにもいかないので、段ボールは適当に床に置いた。ついてきていた心操は入り口で半眼のまま睨んできている。
「……わざとですよね」
「さて、何のことだ」
聞かれた言葉には肩を竦めるだけにして、すっとぼける。
「俺が嘘吐いたことまだ怒ってるんですか」
「お前が俺に嘘ついて、爆豪と二人で飯行ってたことなんざ全く怒ってないよ。全くな」
「…………本当に面倒くさい性格してますよね」
俺のおかげで元鞘になったくせに、とチクチク言われてしまって、それに関しては頭が上がらないので素直にお礼を言っておく。次いで、ふと思い出したあの言葉を聞いてみることにした。今なら爆豪もいないのでちょうどいい。
「そう言えば、信用してくれて嬉しいってどういう意味だ」
相澤は聞きながらまだシーツのかかっていないベッドに腰を掛ける。
「あぁ。……中学の時の個性にかけられた話は聞いたんですよね?」
「ざっくりとは」
「イレイザーなら何と無く察しがついてると思うんですけど、あれ個性にかけられたわけじゃなくて、思い込みとかトラウマのようなものかと」
「まぁ、そうだろうな」
そんなに長期間かけられたままの、精神感応系の個性というのは聞いたことがない。
その少女がどんな個性を持っていたかは知ることが出来ないが、もし本当に個性で言葉を封じ込めていても幼い子供が使うものなどそう効力はないはずだ。きっと何かのタイミングで解除されていただろう。
「爆豪から強制的にその時の話を聞いた時、随分と昔のことなのにやけに鮮明に覚えていたんです。女の子の髪の色、長さ、目の色、ほくろの位置、足元にどんな花が咲いていたが、日時、天気、雲の位置。きっと自分が思っている以上にその時の光景がインパクトが強く、脳に強く刻み込まれてしまった。もしかしたら、その女の子が他の誰でもない緑谷のことが好きだったというのも大きかったかもしれません。で、実際に好きな人が出来た時に、無意識化でその光景を思い出してしまった。自分は好きと言えないのだと先に考えてしまった。考えてしまったら錯覚してしまって、本当に声が出なくて、余計に言えないと思い込んでしまった」
負のループですね、と心操が壁に凭れ掛かって腕を組んだ。
「だから、ループを断ち切るのに先手を打ったんです。その子の個性が催眠術なら、それは俺の下位互換だって。俺なら解除する事が出来るって。で、そのあとに個性をかけた振りを少々」
出来るかもしれない、ではなく、出来ると。言い切ることで一先ず安心感を与える。思考回路に新たな道を作る。そのあとは爆豪が心操の力を何処まで信用してくれているかにかかるので、凡そ賭けのようなものではあったが、結論から言えば大成功だったと得意げである。
少しでも思い込みを解く助力になればと、隙を見てジンジャーエールに少しずつ酒を混ぜていたのも良かったのかもしれないとも言った。
「そういうことか。……すまなかったな、手間をかけた」
「いえ、こんな経験はそう出来ないんで。兎に角上手くいってよかったです。まぁもし好きと言えないままだったとしても、あの状況に持っていけばイレイザーがどうにかするかと思いまして」
意外と恋人には強引なところがあるみたいで驚きました、と言われていったいそれはどこ情報なのだと聞きたかったが止めた。きっと穿り返せば分が悪いのはこちらである。
相澤は腰を上げて心操のほうへと近寄った。いつも通り重力に逆らうようにセットされている髪の毛を押し潰すようにぽんぽんと撫でて、助かったよと笑う。
「またもし何かあれば、その時は頼んだ」
「はい」
このまま思い込みやトラウマのようなものが爆豪の中から霧散されていればいいけれど、ある日突然また負のループに陥るかもしれない。その時はきっと相澤の言葉よりも一度問題を解決してくれた実績がある心操の言葉のほうが響きやすいだろう。
それに、今までは二人がギクシャクするかと思い接触も交流も出来る限り避けてきたが、弟子と恋人が仲良くしてくれるのもそれはそれで微笑ましいものだ。わしわしと頭を撫でながら素直に言えば、心操は少し照れたように再び頷く。
しかし。
「あの敵顔負けの爆豪の可愛い部分が見えたんで、俺もそれなりに楽しかったですよ」
などと言うものだから相澤は頭を撫でていた手で頭部を全力で掴み上げた。
「〜〜〜っ、いっ、た……!?」
あまりの痛さに悶絶する心操に、
「分かっているとは思うが、手は出すなよ」
と、目をかっぴらいて、個性が発動するギリギリまで力を籠めた。ピシリ、と額の血管が浮き上がったのが自分でも分かる。自然と低い声が出た。
「だ、出しません! 出すわけないでしょう!? そういう興味はないです!」
「二人で外食は暫く禁止だからな」
「やっぱり根に持って、いでででっ!」
抵抗するように相澤の腕を掴んでくるが、パワーならまだまだ負けない。
すると。
「何やっとんだ、アンタら」
二人が騒がしかったので覗きに来たのだろう。スマートフォン片手に爆豪がやって来た。相澤はパッと手を離し、誤魔化すように「いや、うん、まぁ、いろいろと」と言えば、何かを疑うような視線が強くなっていく。強くなられても、弟子にヤキモチ妬いた挙句手を出さないように牽制してましたとは恥ずかしくて言えない。爆豪の前ではいつまでも格好つけていたいのだ。
「どうした、何か手伝おうか?」
話を逸らすように聞けば、持っていたスマートフォンの画面をこちらに向けてきた。中身はプレゼント・マイクからのメッセージ。ちょっと待て、お前たちいつ連絡先を交換したんだ。聞いてないぞ。驚いて口をはくはくと動かしても爆豪は素知らぬ顔。
「マイクがエントランスまで付いたから迎えに来てくれって。頼んでたガラステーブルがちょっとでけぇから割らないか不安だとよ」
「そ、そうか。じゃあ心操と迎えに行ってくるよ」
絶対に後で聞いてやると心に決めた相澤は未だ頭を抱えて悶絶している心操の首根っこを掴んで玄関に向かい靴を履く。お見送りしてくれるらしく、爆豪も後ろを付いてきた。
「じゃあ迎えに行ってくる」
ドアノブに手を掛けて言えば、不機嫌そうな爆豪の顔が相澤と心操を交互に見つめ、それから相澤に手を伸ばした。あの夜と同じように胸倉を掴んで強引に引き寄せられる。
ちゅう、と可愛らしい音が真新しい玄関に響いた。
唇が離れた後、爆豪は心操を見ては満足気にハンッと鼻を鳴らし、いい匂いがするキッチンへと帰っていく。
どうやらヤキモチを妬いたのは相澤だけではないらしい。
「――……勘弁してくださいよ」
そのことを理解した心操が先程とは違う意味で頭を抱えて唸っているが、上機嫌に花を飛ばしている相澤の耳には入らない。
「……心操」
「なんですか」
「また遊びに来いよ」
「絶対に嫌です」
「そう言うな」
言って、家を出てエレベーターへと向かう。早く行かないとマイクに拗ねられてしまう。
何せ持ってきてくれているガラステーブルは引越し祝いなのだ。引越し祝いにしてはかなり値が張るものなのだが、何も知らなかったとは言えセフレだなんだと囃し立ててしまったからと謝罪の意味も籠もっているらしい。昔から律義な男である。
相澤はエレベーターのボタンを押し、後ろからついてきている心操の視線が気になって振り返る。
「背中になにか着いてるか?」
聞けば、心操は無表情のまま首を振って、それから一回だけ背中に触れてくる。
「……いい背中だなって」
「特に筋肉量は変わってないと思うぞ」
相澤は首を捻りながら聞くも、それ以上心操は答えてはくれない。到着したエレベーターに二人で乗り込んで、静かにエントランスへと降りていく。
心操がひっそりと笑ったことに相澤は気付かなかった。