——今回も楽勝だな。
爆豪勝己は心のうちを一切見せない完璧な唇で弧を描き、笑顔を作り上げる。そうするだけで目の前の冴えない男は長い前髪の奥で嬉しそうに目に欲を滲ませた。
汗をかいたグラスの中のアイスコーヒーは、氷が溶けてとうに薄くなっているだろう。それほどお互いがお互いの話に夢中だった、――いや、爆豪は全て計算の上でやっていることなのだが。
(でもまぁ、そろそろいい頃合いか)
話ながら飲もうとしてグラスに伸びたままの男の手を掴む。勿論乱暴なことはしない。愛撫するように優しく、ゆっくりと、手の甲に触れて指先へ。
ピタリ、と男の口が止まった。
そして。
「近くのホテルの部屋取ってんだよ。今日仕事で泊る予定で」
すっと声のトーンを落とした。
反対の手でスーツのジャケットのポケットに入れたままの鍵を揺らして音を立てた。
「静かな場所で、アンタの話もっと聞きてぇって言ったら、……迷惑か?」
潮らしく、でも主導権は握ったままで。距離を詰めるように身を乗り出して、邪魔なアイスコーヒーは端へと寄せた。長めの黒髪で影になって、血色が悪く見える男の顔を覗き込む。
今日も今日とて手入れされていない不精髭が、小汚さを助長させている。身なりを整えればそれなりにいい男になるのでは、と一度提言したがにべもなく却下されたのはもう二か月も前の話。
「――がいいなら、構わないけど、でも、」
耳に馴染まない名前は爆豪が男に教えた偽名だ。
「……でも、俺の話なんか、面白くもなんともないだろ」
「まだそんなこと言ってんのか。俺は面白い。面白いから口実作って会いに来てんだよ。アンタの話を碌に聞きやがらねぇ奴らが馬鹿なだけだ」
俺だけはアンタを理解していると、言外に伝えて熱心な視線を送り続けた。俯き加減の視線がようやっと持ち上がって、爆豪の石榴色の瞳と絡み合う。
謙虚な振りをして、その奥にある浅ましい性欲などとっくにお見通しだ。言わないけれど心の奥底の更に底で中指を立てた。
「……じゃあ、そう言ってくれるなら」
今夜だけ、もう少しだけ。
口の中でもごもごと呟く男に、グラスではなくルームキーを握らせて、爆豪は再び綺麗に作り上げた笑顔を張り付けて「よかった」と囁いた。
◇
爆豪はフリーのスパイである。
まだまだ駆け出しとは言え、それなりの数の任務をこなし、失敗したことはない。
年齢は十八だが、今回は二十四だとターゲットに伝えているし、その前のターゲット相手には十五の子どものふりをした。幼くもなれるし、大人にもなれる。今のこの年齢と体型は本当に重宝している。
さて、今回の雇い主は某製薬会社。でっぷりと太った息の荒い社長に破格の契約金を提示されて二つ返事で請け負った。
ターゲットはライバル社、ではなく雇い主の会社に到底及ばぬ弱小製薬会社の一研究員。初対面からずっと変わらず小汚く、幸が薄そうで覇気がない。合理的なことを好む男だ。
基本的に服装は全身真っ黒で、少しゆったりとした服を好んでいて、丸まった猫背は年季が入っている。
こんな、如何にも冴えない中年の男が持っている情報が到底価値のあるものとは思えないのだけれど、それは爆豪には関係のないこと。雇い主である社長に言われるがまま情報をいただけばいい。それで大金が手に入る。
三ヶ月かけて男に近付き、分かりやすく好意を見せ、男の中に眠っている情欲を刺激し、ようやっと最終段階である二人きりまで漕ぎ着けた。
随分長かったけれど、それも今日で終わり。
「どうかしたか?」
静かに上へと登っていくホテルのエレベーターの中で、ターゲットが心配そうな声色でこちらを見てきた。
しまった。少しばかり余所事を考え過ぎていた。
爆豪はわざと目を逸らして、男との距離を詰める。腕を絡ませるのはやり過ぎだと判断したので、お互いの腕が服越しに触れ合う程度にして、小さく首を横に振った。
「……なんか、いつも人が居るところで話してたから、完璧に二人きりになんのは、ちょと緊張するなって」
言って、それから呆れたように笑ってみせる。
「どうせガキ扱いすんだろ」
爆豪の偽の年齢から十も離れているこの男に、時折子ども扱いされるのはいつもの流れである。
「しないよ。……俺も、ちょっと、緊張してる」
ただ、今はそういう流れは作らないようだ。今日で仕事が全部終わると、この瞬間に確信した。
「本当かよ」
「本当だって」
血色の悪い顔がほんの僅かに色付いて、誤魔化すように咳払いするものだから、ちょっとサービスをしてこの男が一等気に入っている顔を作る。
「っ……!」
ぱっと顔が背けられた。反応がいい。
見られないように顔を俯かせて、あぁ自分の顔が綺麗で本当に良かったと小馬鹿にしたように笑う。
そのうちエレベーターが止まり、爆豪が予め用意していた部屋へと男を招く。シングルタイプの至って普通のその部屋は、少々の物音では上下の階に響かないことは確認済み。両隣の部屋も抑えているので、暴れたところで誰も来ない。
(ま、暴れられることもねぇんだけど)
隙を見て、この男には眠ってもらうつもりだ。何処にも触れることなく大事に取ってある左手の人差し指には睡眠薬が塗られている。成人男性なら二秒もあれば夢の中。
お互い持っていた荷物を置いて、他愛のない話をしながら部屋の奥へと足を向ける。丁寧にベッドメイキングされたシングルベッドに爆豪は腰を下ろし、アンタもこっち座る? と声を掛けた。
「いや、俺はこっちでいいよ」
ベッドに座るなんて悪いからと、一脚だけあった椅子に座ろうとする。だから、完全に腰を下ろす前に名前を呼んで、無防備にベッドに寝転がって見せた。
スーツが皺になろうと関係ない。留めていたジャケットのボタンを一つ外して、それからネクタイを緩める。ワイシャツのボタンも外していく。
「……なぁ、誘ってんだから、あんま恥かかさねぇでくれよ」
いつも話をしているトーンより甘くして、しかし恥ずかしそうに頬を染める。駄目押しで「まだ分かんねぇの」と言えば、ゴクリと大きく男の喉が動いた。
男は自分のことを研究馬鹿だなんだと言っていたし、過去に浮いた話もないと言っていた。爆豪が調べた限りでは元恋人なんてものはいなかった。
小さなころから真面目で勤勉で。その甲斐あってストレートで国内最難関の大学の薬学部に入学。
将来有望のはずが、誰かに陥れられたのか就職先は弱小企業の、予算なんて殆どないような研究室。
休みも返上で、身を粉にして働いて、誰とも関わらずに、楽しいことも何も知らない。
(馬鹿な男だなァ)
性欲を丸出しにした顔でベッドへと近寄ってきて、随分と年下の美しい男に圧し掛かる。きっと賢い頭の中は、言葉にするのも憚られるような如何わしい妄想でいっぱいなのだろう。
(しゃーねぇな)
ちょっとくらい、いい夢を見せてやろうか。
三ヶ月、男と話をしているのは存外楽しかったのだ。その分の駄賃を払ってやっても罰は当たらないだろう。
左の人差し指にだけ気を付けて、男の頬に手を添える。チクチクとした髭はマイナス評価だ。やっぱり剃れよとあとで言ってやろう。
爆豪は最後の情けで、男が気に入っている美しい顔で、ひとつキスをしてやった。
これでもかと乾燥してザラザラと荒れている唇を労わるように、大きく舐めてやる。呼吸の合間に男の名前を囁いた。
男の唇は、一口も飲まなかったアイスコーヒーの味などはせず、男に似合わないやたらと甘ったるい味がした。
「――――ッ!?」
その味には覚えがあった。
子どもの頃に覚えさせられた、とある薬の味。いいかい、これには気を付けなさい、と父親のような師によく言われた。
「っ、ハッ、……ぇ、うそだろ……」
次第にピリピリと舌先が痺れてきて、あっと言う間に全身へと回っていく。
閉じたくないのに、瞼が急激に重たくなって、焦って呼吸が乱れる。息苦しいのにシャツのボタンを外すことすら出来ない。
バクバクと心臓が跳ね上がったせいで全身が熱いのに、末端が冷えていくような奇妙な感覚。
「な、ん……、こ、ぇ……ッ」
呂律が回らない。思考回路が強制的にシャットダウンしていく。体が鉛のように重くなって、指の一本も動かせない。
暗く、狭くなっていく視野の中。
冴えない男がやけに色っぽく笑った気がした。
「不合格だな」
その言葉の真意を知る前に、爆豪は意識を手放した。
◇
――パチ、と唐突に開けた視界に飛び込んできたのはハンドガンの銃口。
「一時間十二分と、四十秒。目覚めるのが遅い。薬の耐性も碌につけずによくフリーでやってこられたな、お前。今日まで生きてこられたのが奇跡だぞ。仕事ナメてんのか」
それから、この三ヶ月で聞いたことがない男の鋭い声。
気怠そうな芯の部分は変わらない。だが、別人だと言われても分からないほどに艶があり、大人の色気が混じっている。
縛られてはいないが、動ける気はしなかった。
「同業者かよ」
「状況把握は速い方か。それは評価しよう」
まるで教師のように爆豪に成績をつける男は、爆豪が仰向けで寝転がっているベッドの端に腰を掛けたまま銃口を向け、凶悪な顔で微笑んだ。
不精髭と充血した目はそのままに、しかし肩まで伸ばしっ放しにしている黒髪は長い前髪ごと一つに縛られて、ゆったりとした服は体のラインが見事に強調されたタイトなシャツへと変わっていた。
そのシャツも一般的なTシャツではないことくらいすぐに見て取れる。特殊繊維が織り込まれた防刃仕様といったところだろう。
相変わらず上から下まで真っ黒だが、自分の体よりも逞しく、大きな筋肉が強調されている分、冴えない男という印象からは程遠い。あのゆったりとした毛玉の多い服の下にこの体が隠れていたことが驚きだ。
どちらかと言えば、研究員やスパイというよりも殺し屋という肩書のほうがよっぽどお似合いなほど。
(あー……クソッ)
すっかり騙された。油断していたわけではないのに、この男の本性に欠片も気付かなかった。
それこそ戸籍から調べたと言うのに違和感など全くなかった。尾行だってバレているとは思ってなかった。心の底から、冴えない中年の、一研究員だと思っていた。
(最悪だ)
比べるまでもなく、銃口を突き付けてきている男のほうが格上。
初めての失敗と敗北は、泣く暇などなく怒りが湧き上がってくる。
――だが、今すぐに殺される心配はないと踏んでいる。
不合格の時点で殺す気ならば、意識が戻るまで待つはずがない。まだ何か自分を利用しようとしているのだ。
「不合格っつうのは何の話だ」
「ほう。ちゃんと覚えてたか。その分だと俺から話を聞かなくても理解してるんだろ。バクゴウカツキくん」
「……採用試験」
「そうだ」
よくある話だろ? 本雇いの前に試されることくらい。
ご褒美だと言わんばかりに眉間に銃口をグリグリと当てられて、威嚇するように舌打ちをする。おかげで体の感覚がきちんと戻ってきているのが分かったと言うのが、これまた心底憎たらしい。
「で、不合格だったから殺すんか」
「殺される心配がないと分かっていてそんな無駄話をするのは合理的じゃないな」
「……それはアンタ自身の口癖なんかよ」
「嘘を吐く時は真実を混ぜろ、なんて基礎中の基礎だろうが。そんなことも教えてもらわなかったのか」
「俺がフリーだってことも知ってんだろ」
「でも目指している人間がいて、支えてくれた人間だっていたんだろう? 人間ひとりじゃ生きていけないからなぁ。それともお前は最初から天涯孤独か?」
「全部調べてるくせにまどろっこしい言い方すんじゃねぇわ!」
ふと、幼少期から憧れている男と、爆豪の師とも言える男の顔が脳裏を過って、振り払うように声を張り上げた。
「そんなに怒るなよ、ガキ。こういう世界に身を置いてんだからちったァ感情を抑えろ」
「うるせぇ!」
もう一度声を荒げれば、無言で安全装置が外された。
男の目がついと細まって、分かりやすく殺意が滲む。殺すつもりはない、が、機嫌を損ねればいつだって殺すことが出来るのだと忠告がしたいのだろう。
そんなものに屈する気はなかった。元より、知らぬ間に採用試験を行われていて気分が悪いのだ。
ギロリ、と最大限に力を籠めた石榴色で男の殺意に対抗する。何があろうと、どういう理由があろうと、負けるのだけは嫌だ。
そして。
「お前、」
男が何かを言おうと口を開いた瞬間に、電子音が部屋に響いた。男は銃口と殺意はそのままに、黒のパンツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「――――はい」
流石に電話の向こうの声は聞こえない。男は、はい、としか喋らないので会話の内容も想像し難い。
だが、段々と男の声のトーンが下がっていって、顔が渋くなっていく。電話が終わる頃には不貞腐れているような様相になって、ゆっくりと銃口が離れていった。
「バクゴウ」
「……あんだよ」
銃を持っていない手で顔を抑えて、一度大きく深々と溜め息。
それから。
「上からの伝言だ。お前は合格で、期間を定めてうちで雇うそうだ」
「へぇ。あの社長のお眼鏡に敵ったんか」
「言っとくがあれもフェイクだぞ。うちのボスはあんなに太くない」
「……心底腹立つな、アンタら」
ということは、最初に提示されたあの破格の契約金もフェイクなんだろうか。いやそれは許さない。一度提示してきたのだから交渉の材料にしてやる。金はどうあっても必要なのだ。
「腹立つついでに、……暫くは俺と組め、だとよ」
「ハァ!? なんでだよ!」
思わず飛び起きた。
薬のせいで痺れている部分は多いものの、どうやら無理をすれば動けるまでに回復していたらしい。
男は不本意だとでも言いたそうな顔で肩を落としていたが、きっちりと腕時計で時間を計測している。
「俺が聞きたいよ。ったく、勘弁してくれ……。俺は育成には不向きなんだ。もっと他に暇な奴らいるだろうが。しかもこんな色仕掛けでどうにかなると思ってやがる中途半端な経験しかねぇようなガキなんざ、」
「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって」
「全部本当のことだろうが。今のところお前の長所は状況整理が早いところと顔の良さだ」
「アンタ、マジで俺の顔が気に入ってたんか」
「…………チッ」
「もっと近くで見るか? アァン?」
感覚が奇妙な四肢をどうにか動かして、男の背中に凭れ掛かる。首に絡めた腕を伸ばして髭を蓄えた顎に指を添える。こちらへと向かせて真正面からわざとらしく微笑んでやった。
すると、ピキ、と音を立てて男の額に青筋が浮かぶ。
機嫌悪く眦が眇められ、そうかと思えば顎を掴まれてキスをされてしまった。
「っ、ん……!」
ほんの僅かに残った甘い香りが再び口腔内から全身へと広がっていく。折角薬が抜けそうだったのに、また一からやり直しである。
あぁクソと思うのに、男の肉厚な舌が入り込んできて犯されていくのが気持ち良くてされるがままになってしまう。
「……っ、ん、ふ、……ぅ……んんっ」
目を閉じる、なんて気の利いたことをしてくれない男とじっと目を合わせたまま、再び意識が遠のきそうになるまで夢中でキスをした。
離れたと思えば男はさっさと立ち上がる。爆豪はベッドの上へと逆戻り。
「二回目で薬の濃度が低いんだから、十分以内に目を覚まして、十五分以内にホテルから出ろ。俺は先に行く。最初だからハンデはやるが、悠長にしてると放っていくからな」
「……わぁ、……った……」
薬に侵されていく感覚は、何度味わっても気持ちの良いものじゃない。
どうにかこの気持ち悪さから逃れたくて、必死に喉を震わせる。荷物を持って部屋を出て行こうとする男を呼んで、しかし、知ってる名前は偽名なのだと思い出した。
「アイザワ、だ」
足を止めた男が、振り返らずにそう名乗る。あいざわ、と心の中で反芻して、もう一度声を絞り出す。
「ぁ、……い、ざ、……せんせ……」
「勘弁してくれ」
渾身の嫌がらせは、どうにかアイザワに響いたらしい。ふふ、と勝気に笑った爆豪は、再び意識を手放した。