さよなら、初恋【中編】

2.


相澤の寝顔を見るのは久しぶりだった。
昔見た面影はそのままに、しかし随分と気が抜けた顔をしているように感じて爆豪はベッドから抜け出るタイミングを失ってしまった。枕に顔を預けて、じっと眺めた。
もう少し見ていたい。起こさない程度に名前を呼んでみたい。顔にかかった髪の毛を払ってやりたい。そんな浅ましい欲がふつふつと湧き上がる。
(――……先生ともしも恋人になれたら、)
こんなにも気が抜けた顔が見られるのか、と欲塗れの頭で考えて鼻の奥がツンと痛くなった。
自分が見られるのは今日の一回きりだ。二度はない。理解していたし、覚悟もしていたはずだろう。そう必死に言い聞かせる。
軋んだ体に力を籠めて、音もなくベッドを抜け出していく。
服を着て、バックパックを背負って黒のキャップは目深に被る。フロントには連絡したので相澤を起こさなくても問題ない。財布から紙幣を何枚か取り出して、ついさっきまで自分がいた枕の上に置いた。
扉が閉まる音ですら相澤には届かなくていい。


* * *


情熱的だったあの夜は本当に現実だったのか、なんて首を傾げてしまうほど何一つ変わらない日常が戻ってきた。
爆豪はホテルから出て六時間後には事務所に出勤していたし、七時間後には敵と対峙していた。今までと同じように怒号を上げて、磨き上げた爆破を繰り出し、暴れる敵を取り押さえた。
唯一、相澤に好き勝手暴かれた下肢がどうにも不調なだけで、それ以外は問題ない。
世界はただただ単調に、顔色一つ変えずに時間を進めていく。相澤と爆豪の一夜を誰も知らない。爆豪の初恋が終わったことを誰も知らない。


あれから何日経とうと相澤からアクションなどなかった。
あの男にかかれば爆豪が住んでいるマンションも、新しくした連絡先も簡単に入手出来るだろう。しかし、今回に限ってそれは紙一重の危うさを持っている。
現役教師の相澤にとって、元とはいえ教え子に手を出したなど最大のタブー。きっと誰にも知られたくないこと。だから、リスクを背負ってまで相澤が積極的に自分のことを探そうとするとは思えなかった。
唯一知っている事務所にも来ないと踏んでいる。職権乱用してまで追いかけるべき相手じゃないからだ。更に事務所に来るなら事前のアポイントメントは必須。それが入った時点で爆豪が避ければいいだけの話である。
もしかしたら、相澤は全部忘れているかもしれない。酔ったら記憶をなくしやすいと誰かが言っていた。いっそ忘れてくれていた方が良い。ズキズキと痛む頭と一糸纏わぬ体、枕元に置かれた紙幣に何があったかは察するだろうが、それ以上のことはどうやったって思い出せないくらいがいい。思い出せないままで時間が経って、記憶が薄れて、関心が無くなって、風化していけばいい。
(もし忘れてくれてたら、あの夜は俺だけのもんだ。全部、全部俺だけの)
決意も幸せも寂しさも初恋も。偽りの好きも。全部全部自分だけのもの。
忘れていてほしい。記憶に残さないでほしい。この先、あの夜のことを思い出して恋しくなるのも寂しくなるのも自分だけでいい。
何もかも忘れて、思い出すこともなく、気に掛けることもなく、どうか普通の幸せを。


――ただ、あの夜以来困ったことがひとつある。
音のない一人暮らしの部屋に帰ってくると、今までに感じたことがないほどに体が渇く。いや、有り体に言えば尻が疼いて仕方ないのだ。
仕事中や誰かといるときは平気なのに、一人になるとどうしようもない。我慢したくとも出来ない。あっと言う間に時間が過ぎていく日々の隙間に、相澤に抱かれたことを思い出しては、空っぽの腹の底がしくしくと痛んで仕方ない。
「チッ! クソうぜぇ……!」
今夜は特に駄目だ。連続出動で気持ちが昂っているからというのもあるのだろう。
相澤にされたみたく、奥の奥まで、結腸まで容赦なく突き上げて息も出来ないくらいに抱き締めてほしい。ヤるなら完璧、と尻を開発したことでこうなるとは思いもしなかった。
爆豪は帰って来て早々に熱い湯を浴槽に溜めて浴室を温めていく。その間に尻の洗浄を済ませて、持っている中で一番大きく長いディルドと粘度の高いローションを持ち込んだ。
湯気が篭る狭い浴室でシャワーを出しっ放しにして、温まった床にディルドの吸盤を固定する。指で解す時間すら惜しいくらいに早急に事を進めて、足を大きく開いて飲み込んでいく。
「――ッ、は、ぁ、あっ」
浴槽の縁に手を掛けて、腰を下ろせばあっさりと根元まで挿入してしまった。
ギリ、と奥歯を噛む。
(ち、がう、こんなんじゃ……ッ!)
圧迫感の足りない腹が、きゅうと切なく鳴って訴えてくる。
その訴えを振り払うように、乱暴なほどに腰を上下に動かして腸壁を擦り上げていく。無色透明のローションが段々と濁って、泡立ち始める。
「アッ、ぁっ、はぁ、はっ……!」
何も考えなくていいようにわざとらしく声を上げて快楽に浸っても脳の隅がどうしても冷静で、玩具ではとうに満足できない体なのだと語りかけてくる。
違う、物足りなくなんかない、十分気持ちいいと首を振っても切なさは解消されない。
(……っ、くそ、せ、んせぇの、せんせ、の、ちんこはもっと、大きくて、ゴツゴツしてた)
ナカを穿たれる毎に腸壁が削られているような音がして、カリ首が凶器のように張り出していて、火傷するくらいに熱くて、雄の匂いが堪らなかった。たった一突き動くだけでも前立腺も精嚢も何もかもを押し潰されて抉られて絶叫のような嬌声を何度も押し殺した。チカチカと目の前が眩んだ感覚すら、今でも思い出せる。
「……ッ、く、ぁっ……んっんっ……」
思い出せば出すほどに寂しく物足りない。緩やかに勃起はしているものの射精する予兆が訪れないペニスを見下ろして、爆豪は舌打ちをひとつしてから扱き始めた。尿道口に溜まっているカウパーとディルドを汚すローションを混ぜ合うようにして必死に気分を高めていく。
「せんせ、…せ、ん……、――しょうた、さん……ッ!」
切なさが込み上げてきて、泣きそうになってしまったのを誤魔化すように相澤の名前を呼んだ。もう二度と呼ぶことはないと思っていたけれど、誰も聞いていないから許してほしい。
「しょうたさん、すき、すき」
誘導するように言わせた相澤からの「好き」という言葉を思い出す。抱き締められた温度を思い出す。アルコールのせいで上昇した肌の温度は触れているだけでのぼせそうだった。傷んだ毛先の感触も、髭が当たる痛さですら快感だった。
「あっあっ、きもちい、すき、しょーたさん、すき」
相澤に抱かれている時は簡単に出来たアヌスだけでの絶頂は一人では到底不可能で、ペニスへの刺激でどうにか射精を迎えることが出来た。ドクドクと忙しない心臓を宥める様に大きく息を吸い、まだ寂しがっているアヌスからディルドを引き抜く。
正直に言えばまだまだ足りない。もっと痛いくらいにナカを刺激したいけれど、そうしたところで寂しさが増すことくらいは分かっている。
滲んだ汗と精液をジャワーで流してから湯船に浸かる。
「……さみぃ」
熱いくらいの温度にしたはずなのに、相澤の体温には到底届かなくて、思ったままを口に出す。それから、眦から零れる水滴が乾くまで、寒さに震える体を抱き締めてじっとしていた。


* * *


慌ただしい年末年始が終わり、一月の終わりが見えてきた頃。スマートフォンに送られてきたメッセージ。
『新年会も兼ねて飲みに行かね?』
やたらと可愛らしいスタンプや絵文字付きのメッセージなど、爆豪の周りでは芦戸と上鳴くらいしか送ってこない。今回は上鳴だった。
上鳴は、行くとも行かないとも返事をしていないのに自分のシフトを送ってくる。ピコン、ピコン、と何度も鳴るスマートフォンに苛々しながらも目を通し、三十日、とだけ返事をした。
そんな対応にもすっかり慣れているのだろう。上鳴はまた可愛らしいスタンプを送ってきてはさっさと時間と店を決め、店の位置情報まで送ってきた。それに対しては返事をしない。
やっと静かになったスマートフォンを仕舞って手を止めていたデスクワークに取り掛かる。
会えば、上鳴はきっとこう言うだろう。「爆豪がすぐに返事返してくれんの珍しいじゃん。何かあった?」と。別に深い意味合いはない。
ただ、あの日借りたままにしているお金を返さなくてはと思っただけなのだ。
それ以上に、他意などない。


位置情報が送られてきた店は、まだ真新しいバーだった。
上鳴のマンションからも、爆豪のマンションからもそれなりに離れている。いつも近場の店を見つけてくるのに珍しい、と送られてきた位置情報を頼りに足を進める。
辿り着いたビルの地下一階。看板は小さい割に、やたらと装飾されたネオンの輝きが眩しい。重い扉のその先は、広くはなく薄暗かった。スモークでも焚かれているのか、視界がどこか霞んでいるように感じる。更に、今日はイベントをやっているらしく、騒がしく人口密度が高い。
思わず顔を顰めた。あまり騒がしいところで飲むのが好きではないことを理解してくれているはずの上鳴が、こういった店を選ぶことに違和感が段々と大きくなっていく。
店の奥まで足を進めながら彼を探し、ようやっと暗い店内でも目立つそれをカウンター席に姿を見つけたと思えば、爆豪に気付くことなく隣に座っている誰かと話をしているのが見えた。
(……誰だ)
薄暗い店内の、バーカウンターの一番奥。間接照明が行き届いていないそこは影が濃い。
上鳴が話をしているのだから各段怪しい人物でもないと思うのに、何故か胸騒ぎがした。ゆっくりと目を凝らしながら近寄って、騒いでいる誰かの肩が当たっても知らん顔。
そして。
「おい」
声を掛ければ、上鳴がこちらに振り返った。しかし、爆豪を見つけた上鳴が何か口を開くより前に奥に居た男が声を掛けてくる。
「ハロハロ〜。久しぶりだな」
何時ぞやの飲み会ぶり、とヒラヒラと手を振って顔を見せたのはプレゼント・マイクだった。
いつものようなコスチュームと鶏冠ヘアではなく、シンプルな白いシャツと黒の革ジャンに身を包み、滑らかな金髪は後ろで緩く纏めるように結っている。爆豪の胸騒ぎなど知らぬ顔でへらりと柔らかく笑う。
「……ッス」
なんだ、胸騒ぎを覚えるほどの人物ではなかったか、と僅かに緊張していた体から力を抜く。
爆豪が上鳴を真ん中にするようにして座れば、相変わらずお喋りなマイクが息継ぎも忘れたように話し始めた。その中でこの店を上鳴に教えたのはマイクだと聞き、それで色々と感じた違和感に合点がいく。
「す、薦められたから、かっちゃんもどうかなって思ったら、超奇遇っすよね、俺もさっき先生たち見つけたばっかで、もう本当にびっくりしたっつうか、なんつうか」
言葉の途中でピクリと爆豪の片眉が上がる。
「先生、たち」
つまり他にも誰かいるのかと、言外で問うように聞き返せば上鳴の動きが止まって薄暗い中でも分かりやすく青褪めた。口端がヒクリと揺れる。
問い質そうとすればそのタイミングでマイクが「あ、おい、こっちこっち」なんて言うものだから、胸騒ぎの正体はマイクではなかったのだと思い知る。
「爆豪」
振り返らなくたって分かる。どれ程他人の声が入り混じっている場所でも聞き取れる。当たり前だ。ずっとずっと昔から、この声に名前を呼ばれるのが大好きだったのだから。
――ただ、今は少しも聞きたくなかっただけで。
「帰る」
落ち着き払ったマイクの態度と、上鳴の焦った表情だけでもう十分だ。謀られたのだ。直接的にアクションを起こされたわけではないからと油断していた。
この分だと相澤はあの夜のことをしっかりと覚えているだろう。覚えている、もしくは思い出した上でもう一度会えるように画策したのだ。爆豪の気持ちを知っている上鳴を巻き込んでいると言うのが何とも厄介。これは一番知られたくない部分まで知られているかもしれないと覚悟していた方が良さそうだ。
爆豪は振り返ることなくたった一言言い切って、ボトムスのポケットに入れていた財布から紙幣を取り出す。あの日借りていた金だ、とだけ言って上鳴の手に握らせた。
「それなら俺が払った」
「アンタに奢られる理由はねぇ」
背後からの言葉にはピシャリと突っ撥ねて「多いっつうならあの野郎にでも渡せ」と伝えて踵を返す。完全に拒否しているのだと態度で示して、そのままダークグレーのコートに身を包んだ相澤の横を通り過ぎようとしたが右腕を取られてしまった。強引に手を掴んでくるわけではなく、腕を選ぶあたりがまた腹が立つ。
いっそのこと、何よりも大事なこの手を潰す勢いで掴んでくれたら良かったのに。
「待て。待ってくれ、話がある」
「俺にはねぇよ。つうか、俺に話があるくせに無関係な奴ら巻き込んでんじゃねぇわ。うぜぇやり方取んな」
「こうでもしないと話を聞いてくれないと思った」
「こんなやり方選択したアンタとは話したくねぇ。帰る」
「お前になくても俺にはある。聞いてくれ」
聞きたくない、話などないと言っても相澤は話がしたいと言って聞かない。堂々巡りである。爆豪は大袈裟なほどに大きな溜め息をひとつ吐いた。
「……アンタがどこまで覚えてるかは知らねぇが、」
「全部覚えてる」
探ろうとした言葉は食い気味に奪われた。やっぱり覚えてんのかよ、と舌打ち。あとはどこまで知られているかだ。慌てるな、と言い聞かすように頭の中で言葉を探す。
「そうかよ。じゃあ一回ヤッたくれぇで彼氏面か? 恋人にでもなったつもりか? 一晩だけだっつってんのに気持ち悪ィことしてんじゃねぇわ」
そして。
「それとも、他人まで巻き込んで、逃げ場無くして、あわよくばもう一回ヤりてぇとか思ってんのか? ――ハッ、馬鹿だろ」
ようやっと相澤の方を見据えて、蔑むように眦を眇めた。
温度のない声で吐き捨てれば眉間に皺が寄ったのが分かった。それから、薄暗い店内よりもいっそう深い黒い瞳に怒りのような感情が流れ込んでいるのも見えた。
その感情の正体はなんだ、と探る。
(……計算違いだった)
リスクを背負ってまで接触してこないと思ったのに。
全部忘れているかもしれないと思っていたのに。
(忘れてろよ、クソが)
掴まれている右腕はやっぱりビクともしない。抹消という個性柄なのだろう。そう言えば昔から、見た目からは想像が出来ないほどに力が強かったなと思い出す。試験や演習で何度か手合わせをした時、食らった攻撃が予想以上に重くて暫く痛みを引き摺ったこともあった。
となれば力で張り合うのは合理的ではない。爆豪は自由な左手を伸ばして近くのソファ席にセッティングされていたクッションを掴む。
「あの日は偶々アンタが一番都合よかっただけだって言ったのは忘れてんじゃねぇよ」
あぁ、早くこの場から早く立ち去らなければ。下手なことを口に出してしまう前に、浅はかな欲が顔を出す前に。早く、早くこの男から離れなければ。
爆豪は掴んだクッションを相澤の顔を目掛けて振り被る。どうせ避けるだろうけれど一瞬でも隙が出来ればいいと思いながら。
しかし、思惑から外れて直撃し、衝撃の勢いそのままに相澤の顔が横を向く。
「――ッ!?」
「っ、先生……!」
慌てた上鳴の声が耳に響く。避けなかったことに驚いたけれど、そのタイミングで腕を掴む力が緩んだので爆豪は相澤の手から抜け出した。クッションは投げるようにソファ席へと戻し、何事かとこちらを見てくる野暮ったい視線と言葉を振り払うように出口へと向かって走る。
背後で上鳴とマイクが動いたのが分かったから、相澤のことはあの二人がどうにかするだろうと勝手に任せることにした。
とにかく、今はここから離れたい。相澤と距離を取りたい。
それから嘘ばかり吐いてしまったこの口を、どこかで洗い流したい。


「――――ばくごうッ! なぁ待てって、待って、爆豪ってば!」
五分もしない間に追いついてきたのは、上鳴である。
丁寧にセットしている髪の毛が乱れようと気にせずに全力で走ってきては追いついて、止まろうとしない爆豪の腕を取った。そのまま強引に引っ張られて、近くの公園へと強制的に引き摺られていく。昼間と違って静かで不気味な公園の端に備え付けられているベンチに、これまた強制的に腰を下ろすこととなった。
「……テメーは、誰に何をどう頼まれた」
まだ荒い息を吐いて、額に滲んだ汗を拭っている上鳴を睨み付けるように見れば、ビクリと跳ねて固まった。それから視線がキョロキョロと動いて、観念したように肩を落とした。
「ごめん。俺勘違いして、……てっきりもう相澤先生と付き合ってんだって思って」
「質問に答えろ」
「マイク先生から連絡来て、えっと、相澤先生が爆豪と話したいことあるから会えるように手伝ってほしいっつうからよぉ。しかもすっげー大事な話なんだって、頼むからって相澤先生からも言われちまって」
てっきり、やっと先生と付き合ったのにツンデレ発動して逃げてんのかと思った。
思い込んでしまって、深く聞かずに了承してしまったと言う。これ以上ないほどに情けなく眉を落として、落ち着かないのか足を擦ったり、指をソワソワと動かしたりしている。
「ツンデレってなんだよ、ふざけんな」
「ごめん、本当にごめん。……だって、かっちゃん、ちゃんと先生に言ったんだって嬉しくなっちまったんだもん」
「俺に確認取れや」
「サ、サプライズ的な感じと思ってました……」
「アホだろ」
「返す言葉もございません」
言い逃れ出来ない失態に、いっそう背中を丸めては何度も謝る。
例え本当にサプライズだとしても「先生たち」と早々に言ってしまった時点で失敗である。しょんぼりと角度を落としたままの左肩に、爆豪は寄りかかるようにして頭を預けた。上鳴は驚いて名前を呼んできたが、それに応えることはなくわざとらしく体重を掛けた。
なんだか、上鳴の情けない顔を見ていたら少しだけ気が抜けてしまったのだ。
「先生とは一回ヤッただけだ」
「……そっかぁ」
怒るのももう疲れてしまって、誰も知らないはずだった初恋の終わりを口にする。
「好きだったんだ、ずっと」
「うん。知ってる」
「何年好きだと思ってんだ」
「あれでしょ? 高校ん時さ、神野の」
「……ん」
「長いよなぁ」
「長い。だから俺の気持ちは重過ぎんだよ」
振り払われないのをいいことに、グリグリと何度も頭を肩に擦り付けた。痛いって、しかも髪の毛擽ってぇし、と笑うように言うだけで上鳴は離れろとは言わない。罪悪感があるからかもしれないが、今はそこに付け込む。誰か、自分以外の人間の体温に甘えたい。
「重いから、こんなもんあの人には渡せねぇ」
もうずっと前から好きだから。だからこそ渡せない。
相手が、冷酷で非道な人間だったなら渡すことが出来たかもしれない。こんな重たい気持ちなど一刀両断して、余韻も残さずに殺してくれるだろうから。
でも相澤は駄目だ。冷たいくせに優しいから、甘いから。きっと何度だって言葉を選んで傷つけないように、それでもちゃんと恋が終わるように時間と労力をかけてくれる。それは爆豪の本意ではない。
「一回だけヤッて、思い出が作れたんだからそんでいい」
これ以上の物語は無くていい。あの日で終わりだと決めていたのだ。
それに、もしも相澤が好きになってくれたとしても想いの重さが全く違うことに嫌になるだろう。こちらは一夜の過ちで好きかもしれないとか、気に入ったかもしれないとか、その程度の重さではないのだ。
感情の重みが心地いいなど最初だけ。上手くいきっこない。分かっている。
何も言わない上鳴は、背中を擦ってくれている。慰めるというより温めてくれているように感じた。
そして。
「俺はもうこの想いを終わらせてぇんだ」
他の誰かを好きになりたいとか、普通の恋愛がしたいとか、何もかもが嫌になったとか、そういうわけじゃない。ただ、この想いを捨てて踏ん切りをつければきっともっと強くなれる。
「もう二度と日の目を浴びねぇように、ぶっ殺してぇだけだ」
恐らく、こんな弱々しい声で弱音を吐くことなどない程度には。
しかし。
「それは俺が困る」
爆豪と上鳴しかいないはずの公園に、唐突に第三者の声が響いた。
今の今まで感じなかった人の気配に二人は弾かれたように顔を上げて、思わず戦闘態勢を取るように立ち上がった。弱音を吐いていたことなど嘘のように石榴色をギラつかせて、声がした方向を睨み付ける。
木の陰から音もなく姿を現したのは相澤だった。幾ら気も漫ろだったとは言え後をつけられていたのも、聞かれていたのも気付かなかったのはプロヒーローとして大失態。悔しさから奥歯をギリ、と強く噛んだ。
「すまん、上鳴。少し二人で話をさせてくれないか」
一気に怒気を膨らませた爆豪ではなく、驚いている上鳴に声を掛けながら相澤が近寄ってきた。
「えっ、と、いや、でも……」
流石にもう何も知らないわけではないので、戸惑いながら爆豪を横目で見て首を振ろうとしたが、それより先に相澤が頭を下げた。
「頼む」
まさか自分相手に頭を下げるとは思っていなかった上鳴が、ぐ、と断りの言葉を呑んだ。
それから暫く唸りながら逡巡し、相澤と爆豪を交互に見て、爆豪の両肩を掴む。
「かっちゃん。俺すぐそこにいるから何かあったら怒鳴って、お願い」
「テメ……ッ!」
さっきまでの話聞いてなかったんか、とでも言うように爆豪が噛み付けば、上鳴が慌てて首を横に振る。
「俺は! ……俺は、先生と話してから気持ちをぶっ殺すんでもいいんじゃねぇかなって思ってんの。なんか、どうしても爆豪が先生から逃げてるように思っちまって、」
「逃、げてねぇわ!」
「分かってる、それも分かってんだけど! 多分、アホな俺が考えるよりもっとずっといっぱい爆豪が考えて考えて考えて、そう結論付けたっつうのも分かってんだけど、でも、俺は」
誰かを好きになったその気持ちを、もう少し大事にしてほしい。
ピリ、と音を立てて上鳴の周りに微弱な電気が走った。目の前の双眸は逸らしたくなるほどに力強くて、両肩を掴んでくる手は痛いくらいだ。
悪ふざけでも、自分だけ逃げようとしているわけでもない。寧ろ、目を逸らしたくなるほど真剣にこちらのことを思って考えて、そう言ってくれているのが分かった。
「振られたらすっげー慰めるし、先生がこれ以上何か悪さしようとすれば俺がやっつけるし、爆豪の気が済むまで何にだって付き合うから」
だから。
「何年も何年も、ずっと大事にしてた好きって気持ちを簡単に捨てんなよ」
お願い、と至近距離で力強く頼み込まれて、その向こうでは相澤が頭を下げていて。
もう何を言ったところで二人は頑として退かないだろう、と察した爆豪は、肺腑が空になるまで大きく溜め息を吐いた。
「……わかった。わかったから、あっち行ってろ、アホ」
言えば上鳴の体から力が抜ける。少しばかりの安堵を覗かせる。
「うん。何かあったら呼べよ、約束な」
「うるせ。俺ァか弱くねぇんだわ、守ろうとすんな」
「うん。でも呼んで」
爆豪はそれにも根負けして、適当に何度か頷いた。了承を得た上鳴は振り返って相澤に声を掛けた。ようやっと頭を上げた相澤の方へと向かって歩き出す。
「俺が見てるんで」
擦れ違いざま、威嚇するような低い声を残して上鳴は少し離れたベンチへと向かう。
「肝に銘じておくよ」
交代するように近付いてきた相澤は、しかし随分と距離を取ったままで話し始めた。
「一つ確認だが、お前はあの夜のこと全部覚えてるんだな?」
「当ったり前だろうが。どっかの酔っ払いと違って俺ァそんなに酒飲んでねぇよ」
「そうか」
答えながら爆豪はベンチに座り直した。攻撃する必要はないので、ポケットに両手を突っ込み、足を組んで背中を丸める。上鳴に分けてもらった体温はすっかり冷えてしまって寒い。
「回りくどいことを言うのは合理的じゃないからな。さっさと本題に移らせてもらう。お前俺のことが好きだったのか? だからあの日誘ってきたのか?」
「……どうせ聞かなくても知ってんだろうが」
「お前の口からちゃんと聞いたわけじゃない」
「今はもう言う必要がねぇことだ」
ついさっき自分の気持ちを大事にしろと言われたばかりなのに、やっぱり本人を目の前にしてしまっては、素直じゃない口は感情を吐露できない。
「じゃあ、これはお前が俺のことを好きだったという仮定の上で続ける話だが、俺は正直爆豪が好きかどうかは分からん。そんな風に見たことも考えたこともなかったからな」
「だろうな」
「ただ、俺はもうお前の中で終わった存在だと知って、それが嫌だった」
「……は?」
「嫌、というのは少し違うか。……ショックだった、と言う方がしっくりくるかもしれん」
言葉にしながらも自分の気持ちを模索するように、相澤は腕を組みながらも右の指先で自らの顎鬚を触る。
「どうしたって俺の記憶には高校生のお前がいて、爆豪が卒業して大人になってプロの道に進もうとそのイメージが強かった。現場が一緒になっても、ふとした拍子に生徒扱いしてしまいそうになるくらいだ。恋愛対象だなんだと考えたことなんてない」
相澤が吐き出す言葉の端々に心臓を傷めながら、爆豪は耳を塞ぐことなく聞き入れて飲み込んでいく。
「だが、あの夜で全部が引っ繰り返った」
その一言すらも飲み込んで、しかし期待しそうになる心を握りつぶすようにポケットの中で両手を固く結んだ。
「正直に言っちまえば、あの夜の爆豪には十分すぎるくらいに惹かれたよ。年甲斐もなく浮かれて、お前がいなくなったあとに目が覚めたときは寂しかった。人伝いに俺のことが好きだったと聞いて嬉しいと思った。……でも、さっきお前が自分で言っていた通り、あの夜の記憶と気持ちだけではお前の重みに到底敵わない。お前と同じように好きかどうかは分からない」
もしも付き合ったとしても、きっと爆豪が寂しく思う日が来るだろう。いつか爆豪の想いを相澤が重く感じてしまうことがあるだろう。
「お互いそれが分かっていて、それでも手を取り合うのは合理的じゃない」
「……そうだろうな」
爆豪は、知らぬ間に詰めていた息を吐き出すと同時に頷いた。そして、そうくると思っていたと大人ぶって静かに笑ってみせた。やっぱり相澤は駄目だ。優し過ぎる。回りくどいことを言うのは合理的じゃない、なんて言っておいて随分と遠回りをしている。大人になった爆豪はちゃんと魅力的だと、好きになってくれたことは嬉しいとまで言ってくれて。でも付き合えないのだと優しく気持ちを弔おうとしてくれている。こんな真冬の夜空の下で、寒いだなんだと文句も言わず、適切な距離を取って、それでも最後まで付き合おうとしてくれている。
(優しいっつうのも、考えもんだな)
 甘くて優しいところも好きなのだけど、ここまでくると残酷だ。
やっぱり後悔する暇もないくらいに一刀両断してくれる方が性に合っている。そうしてくれと、最初に頼んでおくべきだっただろうか。
(でも、もういい。アンタがそうやって弔おうとしてくれんなら)
自分がこの人だと決めた男が、そういう弔い方を選んだのならば、最後まで付き合うのが筋というものだ。じわじわと血を流していく恋心が千切れないように必死に抱き締めて、そうやって相澤の言葉を待つ。
「爆豪」
最後通告のように名前を呼ばれて、爆豪はゆっくりと顔を上げた。どうせならちゃんと顔が見たかった。雑多に伸ばしている髪の毛はハーフアップにして、前髪を上げてくれているからよく見える。外で飲むときくらいはちゃんと髭を整えてるんだな、と他所事を考えながら震える指先は握り締めて、絶対に泣くまいと腹に力を入れる。なんだよ、と普段と何ら変わらない声を装って返事をする。
そして。
「もっとお前のことを教えてくれないか」
ゆっくりと紡がれた言葉に、色々なことを考えて、覚悟を決めていた脳が急停止した。
「――――……は?」
残念だがお前とは付き合えないし、あの夜のことは忘れてくれと。そういった類の言葉を言われるだろうと心構えをしていた耳に、想定外の言葉が流れ込んできた。
「あの夜以外のお前のことを、もう俺の生徒じゃないお前のことをきちんと知りたい」
生きながら恋心を殺していく覚悟をしたと言うのに。爆豪はなんとも情けない声を上げて、ポカンと口を開いて、目をまん丸にする。
何がどうなったのか、何と言われたのか、足踏みしているだけの鈍足な思考回路では理解出来ず、フリーズしてしまってどうしようもない。
相澤はそんな爆豪の状態を知ってか知らずか、さっさと話を進めていく。
「今慌てて付き合ったところで上手くいかないのは分かりきってる。だから今度は、真正面から、正攻法で爆豪のことを知りたいんだ」
それに、と続く。
「最初に言っただろう。お前にその気持ちを仕舞われるのは俺が困る。まだ間に合うなら勝手に諦めて終わらせないでくれ。前に、爆豪は俺に逃げ道を用意するために散々言い訳を考えてくれただろう? それと同じように、今度は俺がお前に理由作らせてくれないか」
気持ちを仕舞わなくてもいい理由を。終わらなくていい理由を。また会える理由を。お互いが近付ける理由を。
「だめか?」
眉を下げて聞いてきた相澤に、爆豪は何を考えるより先に首を横に振った。
「そうか」
そうすると嬉しそうに目を細めて口元を緩めるものだから、そんな顔を今日見られると思っていなかったので混乱する。全身の血液が茹って酸欠でぶっ倒れそうだ。何があってもプロヒーローとして冷静さを欠くことは褒められたことじゃないが、好きな相手の嬉しそうな顔に胸を打たれない人間なんてこの世にいない。
きゅう、と鳴った心臓を慌ててポケットから出した手で握り締める。
すると相澤が目を丸くして、それから吹き出すように笑った。恥ずかしくなって話を逸らすように「先生は、それでいいんかよ」と舌を縺れさせながら聞けば、迷いもなくひとつ頷いた。
「当たり前だろ。俺から言い出してんだぞ。それに、」
それに、と言ったわりに言葉が続かなくて急かすように聞けば、
「あー……、もうここまで全部話したから言うけど、笑うなよ? ……お前とヤッてるとき、ちょっと嫉妬したんだよ」
「嫉妬? 何に?」
「お前が今まで相手してきた奴ら」
言いながら、気まずそうに渋い顔を片手で隠す。表情自体は影になって分かり難いが、月明りに照らされた耳が、どうにも真っ赤になっているように見えて仕方ない。
教師として、先を行く大人として、不特定多数の人間とセックスしている元生徒を心配することはあっても、嫉妬されるとは思っていなかったので完全に想定外である。
相澤の耳の赤さにつられるように爆豪の頬が色付いていく。次いで、じわじわと形容しがたい温もりが体の中を熱くしていく。
「あと、上鳴も」
「アホ面がなんだってんだよ」
「さっき仲良さそうに寄りかかってただろうが」
ああいうのも妬いてしまうのだ、と言われてとうとう堪えきれずに声を出して笑ってしまった。そんな爆豪の様子に、何も知らない上鳴が遠くのベンチで変な顔をしている。
「笑うなよ」
「笑うだろ」
セックスはとにかく、あんな接触くらいは珍しいことではない。上鳴だけでなく、瀬呂であろうと切島であろうと、よくあることだ。でも、嫉妬してくれるのは素直に嬉しい。惹かれていると、爆豪に好かれているのが嬉しいと、そう言ったのは嘘ではないということだ。
(だめだ)
そんな風に言われてしまっては、そんな顔を見てしまっては、固めていた決意が揺らいでいく。思い出が作れたからもういいと、初めてがもらえたから幸せだったと、諦めようとしていた初恋が息を吹き返す。
「なぁ、俺のこと教えろって具体的には何したらいいんだよ」
次の瞬間には、そんなことを口走っていた。
「何か考えでもあるんか」
「そうだな。例えば、一緒に飯を食ったりどこかに出掛けたり」
「デートか」
「でも手は繋がない」
「あ? じゃあキスもセックスもか」
「しません」
当たり前だろ、と言われてしまう。
「なんでだよ」
「お付き合いはしてないからね」
「今更紳士ぶってんじゃねぇぞ」
「今更だからこそちゃんと段階踏ませろ。それに俺は、俺なりにちゃんと気持ちを整理したいんだよ」
言っただろう、まだお前と同じように好きかどうか分からないと。
そう言われて、すっかり浮かれていた心を慌てて掴んで頷いた。
「悪いな。大人になると考えなくてもいいようなことを考えちまうんだよ」
距離を取っていた相澤が近寄ってもいいかと聞いてきたので許可を出した。遠くにいる上鳴が腰を浮かせたのが見えたので、大丈夫だと合図を送る。
隣に座るのかと思ったけれど、相澤はすぐ近くまで来てしゃがみこむ。先程よりはぐっと距離が近くなったけれど、まだ少し遠い。手を伸ばしてもあと少し届かない。
きっとこれは、爆豪が簡単に逃げ出せるような距離。
「元担任としてじゃなく、個人的に連絡先を聞いてもいいか?」
そう言って、スマートフォンを差し出された。
「ん」
同じようにスマートフォンを取り出して、連絡先を交換する。五十音順で並べられた連絡先の一番上に「相澤消太」と表示されている。それがなんだか不思議で意味もなく指先でなぞる。
「学校にいる間はなかなか返事も返せない。電話も出られないかもしれない。今受け持っている生徒をどうしても優先してしまうから約束だって約束にならないかもしれない」
でもそれは今だけじゃない。
「これから先一緒にいることになってもそれは続くし、俺は優先順位を変えられない。変えてあげられない」
そのことは、相澤の保護下にいた爆豪が一番よく分かっているから、しっかりと頷いた。
「俺だって仕事が優先だ。アンタとデートするってなっても敵を見つけりゃそっちに行くし、アンタが雄英から離れらんねぇの分かってても出張があれば行く」
「うん。それでいい」
お互い譲れないものがあるから、好きなように生きつつ、それでも二人で居られるか。それでも二人で居たいのか。
「三回、デートしてみようか」
「わかった」
約束が約束にならなかったらノーカウント。何か月かかっても、何年かかってもいいから。三回。二人で過ごしてみよう。
お互い好きなものを食べて。好きなものの話をして。一緒にいることで新たな発見が沢山あるだろう。嫌なところだって目に付くだろう。それでもどうか目を逸らさずに。
初めてのデートの日が決定すれば、大事に、スケジュール管理アプリに打ち込んだ。
それをジッと見つめてくる相澤に、
「今度は騙し討ちみてぇなことすんなよ」
 と、揶揄うように笑ってやる。相澤の顔が渋いものになった。
「分かってる。あとで上鳴にもちゃんと謝罪する」
「悪いと思ってんなら焼肉でも奢ってやれ。それが一番喜ぶ」
「そうか。分かった」
 うんと素直に頷いたので、遠くにいる上鳴を手招きで呼んだ。
事の顛末を話せば、驚きながらも涙目で「よかったぁ」と胸を撫で下ろしていた。その表情に、これ以上ないほどの罪悪感に駆られた相澤は、自分でも食べたことのないような極上の焼肉フルコースをプレゼントしたらしい。


3.


今年の冬は例年に比べて気温が高く、雪が降ることはない。とは言え冬の寒さに震えながらでは碌に話も出来やしない。
散々話をした結果、二人で選んだデートコースは映画鑑賞とディナーである。
「一歩間違えばガキみてぇなデートになりそうだな」
待ち合わせ時間を二分過ぎてやって来た相澤と共に暖かなショッピングモール内を歩き、シアターゾーンへと向かう。日曜日ということもあって子ども連れやカップルが多い。きゃあきゃあと声を上げて走り回る子どもにぶつからないように避けながら、相澤とも一定間隔を取った。手が触れることも、腕が当たることもない距離。
「映画見て飯食って、というのはやっぱりどの世代でも初デートの定番か」
「そうなんじゃねぇの」
「最後はやっぱり夜景か?」
「それは絶対ぇ古いだろ。つうか寒いから却下」
エスカレーターで最上階まで行けば、シアターゾーンはすぐ目の前である。チケットは、事前に相澤がインターネット予約をしてくれていたから急いで買う必要はない。これまた人が多いグッズ売り場を通り過ぎてチケットを発券し、飲み物だけ何か買おうかという話になった。
爆豪はジンジャーエール。相澤はアイスコーヒー。それぞれ飲み物を片手に、上映間近のポスターを見て回る。
「あ、この映画が今人気なんだろ?」
「恋愛映画は見ねぇ。先生見んのか?」
「見ない。でも相手役のこの男が人気だとか生徒が話してたんだよ。何て言ったか、……駄目だ、思い出せん」
「生徒の名前は全部覚えてんのにな」
「それとこれとはまた別だろ?」
今年受け持っている生徒とは仲が良いのだろうか。ポスターに記載されている主題歌や俳優の名前を見るたびに「これも人気だと教えてもらった」と言っている。そのくせ、読み方や正式名称は全く覚えていないことが可笑しかった。
格別そのアーティストなどに興味がなくとも名前くらいは知っているので、ひとつひとつ爆豪が訂正していく。相澤は奥羽返しするが、きっと帰る頃には忘れているのだろう。
「だめだめじゃねぇかよ、おっさん」
「付け焼刃は駄目だってことだな。いい勉強になった」
話しているうちに上映時刻が近付いてきて、アナウンスに誘導されるがまま予約していた座席へと向かう。これから二人で見るのは、かの有名な映画祭にノミネートしたと話題の、海外アクション映画である。先に見たと言う事務所の先輩曰く、アクションが本格的で最後まで飽きることなく観られるそうだ。
「付け焼刃って、流行りの俳優やミュージシャンの名前覚えることも仕事の内なんか」
「いや、そんな仕事はないよ。……ただ、少しくらい若い子が好きなものを知っておいたほうがいいかと思って生徒に聞いたんだが」
失敗したな、と隣同士に座った相澤が苦く笑う。
それを尻目に、スクリーンではポップな音楽とともに近々公開される映画の宣伝が始まった。
「流行りのもの全部を知ろうとするより本人に聞いた方が合理的だ。映画が終わったら爆豪が好きなアーティストや俳優を教えてくれ」
「あ?」
言葉が飲み込み切れていない爆豪を余所に、相澤は約束だからなと言って前を向く。
「あ、ほら、始まるぞ」
「いや待て、ちょっと待てや、おいこら」
詳しく聞きたいのに口元に指先を当てられて「シー」と言われてしまっては黙る他ない。最後の抵抗として小さく舌打ち。乱暴にジンジャーエールが入ったカップを掴んで、ストローに噛み付いた。
(ンだよ、クソッ)
そんな風に話を終わらされてしまっては、年下の自分と話をするのに支障が出ないようにと、流行りものを頭に入れようとしてくれていたと思ってしまうではないか。
むず痒くなるような気恥ずかしさを隠すように、勢いよくジンジャーエールを吸い込んだ。


前評判通り映画は面白く、飽きることなくエンディングを迎えた。本格的だと言っていたアクションは、職業柄どうしても物足りなく思う部分や矛盾点はあったがそれは致し方ない。
二人はショッピングモール内の散策を済ませたあとで外に出て、場所を変えた。寒い寒いと首を竦めながら歩いてやって来たのは、しゃぶしゃぶの専門店である。ここの期間限定激辛スープが食べたいと爆豪がリクエストしたのだ。
「そういや映画の中盤くらいでアンタ笑ってただろ。あれなんだったんだ」
「中盤? どこだ?」
「ほら、途中でバスが爆発して、そこから逃げた主人公が追手と戦ってるときのやつ」
「……あぁ、思い出した。アレか」
一つの大きな鍋が仕切りによってふたつに分かれており、爆豪から見て右側が真っ赤な激辛スープ、左側が白く濁った豚骨スープである。ゴポゴポと湧き上がってまるでマグマのような色合いのスープに豚肉を潜らせ、野菜を巻いて口の中へ。見た目ほど辛くはなかったが、想像以上に美味かった。暖房で暖められた店内と相まって汗が出る。気に入って箸を休めることなく進めていれば、鍋を挟んだ向こう側の相澤は珍しいものでも見るかのような顔で、ジッとこちらを見ている。
「あんだよ」
そんなに見られっと食いにくいわ、と言いつつ烏龍茶を飲めば相澤の硬直が解けた。
「普通に食ってるが、辛くないのか。それ」
「見た目ほどは。先生も食えばいいだろ」
「……」
「美味いって」
「本当だろうな……」
背中を押すように、一枚肉を摘まんで真っ赤なスープに潜らせる。しっかりと辛み成分を纏わせたそれを一口で食べてみせると相澤も真似る。しかし、相澤は口に入れて三秒後には目をまん丸にさせて唸り出し、次いで悶絶したと思ったらガバガバと浴びるほどに水を飲んでいる。
表情豊かな相澤を知らない爆豪からすれば、顔を真っ赤にして涙目になって唸っているのは珍しい光景で、ピッチャーでおかわりの水を空のコップに注ぎながらも声を上げて笑っていた。
「な、美味いだろ?」
「お前の辛くないは金輪際信用しないからな!」
「見た目ほどは辛くないっつったんだよ、俺ァ」
爆豪は上機嫌に笑って、新しい箸を取った。その箸で、相澤の取り皿に豚骨スープに潜らせた肉や野菜を盛り付けてやった。口の中が辛いうちは熱いものを食べるのも苦痛だから少し冷ましたほうがいい、と言えば滲んだ涙を拭いながら礼を言われた。
「で、何で笑ったんだよ」
普段の顔色を取り戻した相澤が、落ち着いて食事が再開したタイミングでもう一度聞く。
何のことだったか思い出した相澤が「あぁ、あれは」と頷いて、突拍子もなくスラスラと英語を話しだしたものだから驚いた。
「へぇ、英語喋れんのか」
「マイクと一緒にいると毎日リスニングの授業受けてるようなもんだからな」
「なるほど」
下手な英語教材よりも英語が上手くなるぞ、と言った相澤は確かに流暢だった。
リスニングのテストで流れてくる、標準語のような英語ではなく、少々癖のある発音だったのは、きっとマイクの影響なのだろう。
「――――っていう皮肉を敵に言われてたもんだから笑っちまったんだよ。これを日本語で表現するのは難しいし、字幕だとどうしても文字制限があるから出来なかったんだろ」
「そういうことか」
英語の発音だけでなく笑った理由の説明まで上手なのは、教師故だろう。なんだか随分と久しぶりに相澤の授業を受けられたような気分になって、懐かしさと共に誰に対するわけでもない優越感が胸を支配する。
「なんだ、そんなに面白かったか? そのジョーク」
どうやらそれは顔にまで出てしまっていたらしい。
相澤に指摘されて緩んでしまっていた口元に気付いて、隠すように野菜を頬張った。口の中いっぱいの水菜や人参を咀嚼しながら、稼いだ時間で言い訳を探す。
「ジョークっつうか、先生の授業は眠くなるって誰かが言ってたなって」
「どうせ上鳴か芦戸か、……いや、葉隠と瀬呂と峰田も言いそうだな」
「多分今言ったの全部当たり」
そんな記憶はないけれど、相澤が挙げた人物は全員確かに言ってそうなので適当に合わせておくことにした。もしかしから、今後現場が一緒になったときなどに何かの拍子にチクチクと言われるかもしれないが、知るもんか。
飲んでいた烏龍茶はもう無くなってしまって、大皿の上にこれでもかと並べられていた肉はもう最後の一枚。相澤はとっくに箸を置いてしまっているので爆豪は遠慮なくそれを箸で掬う。最後はやっぱり激辛スープを選ぶ。
「……お前はどうだったんだ」
相澤が悶絶した辛みごと料理を堪能して箸を置けば、そう言葉が投げかけられた。何が、と小首を傾げれば「俺の授業」と付け加えられた。
「呑気に寝ていたり余所事を考えていたり、そんな印象は無いんだが、実際はどうだったんだ」
「俺は、」
どうだったか、なんてそんなの決まっている。
「アンタが感じたまま、それが正解だ」
教壇に立つ相澤をジッと見つめていても、不思議がられることはない。眠気を誘うほど優しく鼓膜を揺らす低い声に、聞き惚れていても注意されることはない。決して現を抜かしていたわけではないが、それでも、他の授業よりもある種真剣に打ち込んでいただろう。眠ったり、他のことを考えたりする余裕なんて無かった。
勿論それは、
「ヒーローになるための学校なんだから当たり前だろうが」
これが大前提なのだけれど。
だけど、やっぱり。どうしたって教師の顔をして授業をしている相澤を、斜めから見るあの景色ごと好きだった。
(好きだった。ずっと)
今だって寸分違わず思い出せるくらい。
爆豪は当然だと言い切ってやった。勿論、諸々悟られないように気を付けていたはずだったが、鍋の向こう側の相澤は随分と楽しそうに口角を上げて悪い顔で笑っている。居心地の悪い反応に、相澤が何を言うより先に「食ったなら出ようぜ」と言ったのに動く様子はない。
むう、と眉を寄せつつ伝票に手を伸ばせば、一瞬早かった相澤に奪われてしまった。
「その真っ赤な顔をどうにかしてから来るように」
言って、さっさと相澤は席から離れて行ってしまった。
爆豪は赤くなんてなってねぇわ、と歯を剥いてお手洗いへと向かったのだが、鏡に映る自分の顔は想像以上に赤くなっていて、冷水で顔を冷やす羽目になった。


どうにか顔色を整えた爆豪が店の外に出れば、相澤はまだ悪い顔をしていたので恥ずかしさを隠すように舌打ち。
比較的大きな声で「ごちそーさまでした!」と言った。
「はい。こちらこそご馳走様でした」
「あ? 俺ァ別に何もしてねぇわ」
「そんなことないよ。充分楽しませてもらった」
「デートを、か?」
「それもそうだけど。俺はどうやら爆豪が飯を食ってる姿が気に入っているらしい」
「ンなこと人に言われたの初めてだわ」
「そうなのか? 綺麗に食べるから見ていて気持ちいい」
賑やかな大通りを離れるように歩いて行って、遠回りになっても静かな道から駅へと向かう。お互い明日は仕事なので、そろそろお別れの時間だ。デートが始まったときから変わらない距離感はそのままに、しかし足取りはゆっくり。名残惜しく思ってくれているように感じて、寂しさだけに支配されない帰り道はどうにも擽ったかった。
「大事に育ててもらったんだろうなとよく分かる」
やっぱりいい御両親だ、と言いながら相澤の目尻が下がる。
両親を褒められることに慣れていないので、気恥ずかしさを隠すように足を早めて、
「そんなことより俺の好きなアーティストとか知りたいんじゃねぇんかよ」
と、話を逸らした。
そうだった、と立ち止まってスマートフォンを取り出した相澤に寄り添うようにして画面を共有し、好きなバンドの楽曲を一曲だけ再生した。
「最後のサビが好き。かっけぇんだよ」
本当は触りだけでも良かったんだけれど、そう言えばきっと最後のサビがやってくるまで再生してくれるだろうと思ったのだ。明日はお互い仕事だということも、帰らなければいけないということも分かっている。
ただ、あと二分二十七秒だけ、恋人のように寄り添っていたかった。


* * *


一回目と違い、二回目のデートまで少し期間が開いた。食べに行こうかなんて狙っていた期間限定のメニューはあっという間に終わってしまって、その次に狙っていたものも終わってしまっていた。真冬の寒さに首を竦めていたのが遠い昔のように思えるほど、暖かくなった。
相澤は新入生を迎える準備に勤しみ、爆豪は夏用のコスチュームへと衣替え。桜が咲いたと連絡する暇もなく春が終わり、あっと言う間に梅雨が訪れては終わり、初夏がもう目の前。
年齢を重ねる度に一年が早く感じるとは言うけれど、今年は例年以上に早く感じてしまう。
夏休みに入るとすぐに雄英高校名物の夏季合宿が始まってしまうので、それまでにどうにか一回会えればとメッセージを受信し、爆豪はシフトと睨めっこ。こちらも夏祭りシーズンに入ってしまえば、急な休みなんてものは取れそうにない。
『来週の土曜日か、再来週の日曜日は? 美味い鱧料理の店教えてもらった』
唯一、相澤と時間が合いそうな日付をチョイスして送り、次いで黒猫が様子を伺うように小首を傾げているスタンプを送る。
初めからメッセージの返信は遅くなると言われていたが、どうしたって急ぎで連絡が欲しい時はある。そういう時に使うようにしたのがこの黒猫のスタンプである。最初に使ったのはただの気まぐれ。そう言えば猫が好きだったなと思い出して、メッセージアプリに入っていた猫のスタンプを送ってみただけだった。だけど予想外に好評で、後日、電話越しに「あれは可愛かった」と言われたときなど、まるで自分を褒めてもらえたようでドキドキしてしまった。電話を切ってすぐに一番人気の猫のスタンプを購入してしまったのは、致し方ないことだろう。
思い出しただけで思わず口元が緩んでしまいそうになった瞬間に、相澤からメッセージが返ってきた。文章は何もなく。ただ、デフォルメされたツリ目のハリネズミが「了解」と花を飛ばしていた。
「…………まさかな……?」
このハリネズミシリーズのスタンプはよく知っている。
何せ、一部のヒーローファンが爆心地みたいだとSNSで騒いでいると、事務所の先輩に教えてもらったから。けれど、ネット上だけの盛り上がりを、あの男が知っているとは思えない。いや、あの男がスタンプを購入する姿すら想像できない、と言ったほうがいいかもしれない。
(どんな顔で買ったんだよ、これ)
そして、どんな顔で送ってきたのか。
ププッ、と堪えきれなくて吹き出した。相澤の日常を何一つとして知らないけれど、スタンプ一つで想像が膨らんで楽しくなった。
(見たかった)
捕縛布と長い髪の毛に隠れて無表情を装って、こんな可愛いスタンプを買う姿を。
(マジで、可愛いことしてくれてんじゃねぇわ)
相澤も、爆豪の日常の一コマをこんな風に想像しては、可愛いと思ってくれたのだろうか。
「……お、どうした爆心地。今日は機嫌が良さそうだな。何かあったか?」
「うるせ。絶対ェ教えねぇ」
同僚がニヤニヤと下世話に笑いながら肩を組んで来ようとしたが、それをするりと躱し、爆豪はパトロールのために街へと繰り出す。そういう接触はヤキモチを妬くそうなのでお断りだ。誰に言うでもなく心の中で呟いて、ふふんと得意気に鼻を鳴らした。

少しでも早く会いたくなったので、二回目のデートは来週の土曜日にしてもらうことにした。



* * *


二回目のデートは、相澤が行きたいと言い出した期間限定のヒーロー博物館となった。
十時に待ち合わせをしたというのに、やっぱり相澤は少しだけ遅れてくる。集合時間には遅れるなと、口酸っぱく生徒に言ってるくせに。
二人は、徐々に日が強くなっていく初夏の空の下を並んで歩く。
「俺だって、小さい頃からそれなりにヒーローが好きで追いかけてたんだよ」
 ヒーロー博物館なんてものに興味あるのか、と聞いた答えがこれである。次いで、緑谷ほど情熱的ではなかったが、と続いたので、ガオと吠えた。折角のデートなのだから、幼馴染の名前は聞きたくない。察した相澤は素直に「お口チャック」をした。よろしい、と爆豪が大きく頷いてやる。
「それに授業でも使えるんだよ。昔の捜査では事故で処理されていたものが、事件になってました、なんてよくあるからな」
どのヒーローの、どういう個性を使って再捜査した結果、事件になったのか。何が切っ掛けで捜査の方向性が変わったのか。
いつか似たような事件に遭遇したとき、思考の幅が広がるように。
「過去を知ることで新しい一歩が踏み出せるときもある」
「今日は先生の顔してんな」
「……それ、いつの俺と比べてるんだ?」
「内緒」
クツクツと意地悪く笑って、冷房が良く効いた博物館の中を見て回る。
博物館と言っても、限定的な催し物なので、場所自体は県営の図書館だ。ワークスペースなどを移動させ、二十分ほどかけてゆったりと歩いてみて回れるように設営されている。
入場口より手前の、一番目を惹く場所に飾られているのは元平和の象徴・オールマイト。爆豪も、それこそ幼馴染の緑谷も、今よりずっと幼い頃から追いかけている大きな背中がそこにある。引退して以降に産まれた子どもは彼の功績をリアルタイムでは見ていない。けれど、父親や母親の口から、テレビや絵本から、彼を知り憧れる子どもは圧倒的に多い。
(でけぇな)
プロヒーローになった今見ても、オールマイトの背中は大きい。
食い入るようにオールマイトの功績や人となりが書かれたパネルを見ていても、相澤が勝手に先に進んでいくことはない。無言で待っていてくれている姿勢に甘えて、隅から隅まで目を通していく。
「――……ん、終わった」
「もういいのか?」
「ん」
ほとんどが知っているエピソードで写真だった。だが、昔の記憶と照らし合わせて読むにはいい資料だ。よく纏められている。
小さな声で相澤に礼を言う。相澤は「じゃあ今度は俺に付き合ってくれ」と言って、ゆっくりと足を進めていく。
オールマイトのパネルを超えた向こうには、エンデヴァーが飾られていた。その隣にはホークス、ミルコ、シンリンカムイなど若いヒーローも続いていく。
一番初めの曲がり角を曲がれば、大きく開いたスペースに出た。ぐるりと一周囲うようにして展示されているのは、オールマイトやエンデヴァーが若かりし頃にトップテン入りしていたヒーローたち。爆豪にとっては、授業や教科書で名前は聞いたことがあっても、詳しい個性や功績まではよく知らないヒーローばかりだ。
「あぁ懐かしいな。この事件だと、……お前何歳だ?」
「腹ン中だな」
「そ、そうか……」
「ショック受けてんじゃねぇわ」
こんなところで十五歳差を体感して落ち込まないでほしい。ずうん、と重くなった相澤の足を引っ張っていくようにしてパネルの文字を追っていく。
「これは知ってるだろ? 授業でもやった」
「知ってる。でも俺が習ったんとちょっと違ェな」
「お、よく分かったな」
これはな、と喋り出す相澤の口は饒舌だ。このヒーローのことを、幼い相澤は気に入っていたのだろうかと想像した。想像するしか出来ないけれど、考える事は楽しい。
後ろから歩いてくる人たちの邪魔にならない速度で、奥へ奥へと進む。
カラーばかりだった写真に、モノクロが混ざり始めると、相澤でも見たことがないヒーローが増えていく。それでも知識としては頭に入っているようで、この事件で活躍したヒーローはこういうタイミングで空から飛んできて乗客を助けて、などとパネルに書かれていない補足説明までしてくれた。
一回目のデートでも授業を聞いているようだと感じたが、今回のほうがいっそう授業らしい。
でも、こうやって話す相澤の横顔は嫌いじゃない。爆豪はすっかりパネルを見ずに、相澤ばかり見てしまっている。教師の顔をしているけれど、よく見ればどこか子どものよう。
「どうしてもパワー系のヒーローがランキングを独占していた時代が長かったから、俺みたいな個性持ちがヒーローになりたいって言っても、どうにも目標が定まらなかったな」
「それでもヒーロー目指したんだな」
「……まぁ、うん、そうだな」
悩んでいる途中で、運良く引っ張ってくれる奴と出会ったからね。
言って、細まった瞳が大人の色になる。
「プレゼント・マイクか」
「うん、アイツもそうだな」
じゃあ、あとは誰が「そう」なのだろうか。
聞いたところで答えてくれる気はしない。十五年の歳月の重みに肩を落とすのは、今度は自分のほうだった。目を逸らし、そうかよ、とそっけなく、興味なさげに答えたつもりの一言は相澤の耳にどう届いたのだろう。
「爆豪」
名前を呼ばれて、落ち込んだ肩が揺れた。
外したばかりの視線をゆっくりと相澤へと戻していく。すると、相澤の手がこちらに伸びてきた。気合を入れてセットした髪の毛の上に落ちた。
「俺はよく二の足を踏んでいたタイプの人間だったから、だから、明確な目標と夢を持って、計画的に自分を磨いて、きっちりと個性を使いこなしていたお前のことが眩しかった」
長く教師をしていれば、時々そういう逸材には出会う。
それでも。
「お前の目が一番力強かったよ。ヒーローになるとあんなにも強く直感したのは、お前が初めてだったかもしれんな」
そんなことを面と向かって言われたのは初めてだ。十五年の重みに落ち込んでいたことなど、一気に吹っ飛んでしまった。
そして、どうしたって脳裏に浮かぶのはいつかの記者会見。敵に囲まれて、唆されて、逃げ場がなくて。そんなどうしようもない状況で届いた相澤の声。
(あれは、ほんとうに)
嬉しかった。ただただ純粋に。
敵に囲まれて脅されたところで、抵抗することは必須だった。唆されたところで、中指を立ててやろうと決めていた。近寄る魔の手など、この手で爆破してやるのだと息巻いていた。相澤の声が届いていても、届かなくても、きっと未来は変わらなかった。
でも、それでも。爆豪の言葉を、爆破を、最大限まで威力を高めてくれたのは。怖気づかないよう背中を支えてくれたのは。紛れもなく相澤の言葉だった。まだ十六だった子どもの自分に、あれがどれほど力をくれたか、きっと誰にも想像出来やしない。
いや、想像してくれなくていい。あれは全部まとめて自分だけのものだから。
「――……なぁ、」
すぐ隣にいる相澤に、それでも一歩距離を詰めた。
在学中、相澤が明確な言葉をくれたことなど片手分もなかった。弟子として育て上げたのは別の生徒で、自分ではない。相澤がもし苦悩を抱えているとしても、分かち合えるのは一生徒である自分には無理だ。何を抱えているのかも、抱えているものの大きさも知ることはない。
「あのさ、先生」
きっと自分は相澤にとっての一等星ではない。昔も、今も、これからも。視界の端で勝手にギラギラと光を放っている煩い、名前すらない星だろう。
それでも、ちゃんと真正面から見てくれた。
煩わしいと手を翳すことなく、なかったことにはせず、早く朝になればいいなんて言うことはなく。ちゃんとそこにいることを見てくれて、時折優しく瞳を細めるのだ。
嬉しかったけれど、だからこそ自分は相澤の心を貰えないのだと確信していたし、例えお零れで、人からは褒められないような爛れたものでも、貰えるための努力は怠らなかった。
「先生、俺、アンタがあの時、」
いつか、ちゃんとお礼を言わなくてはとは思っている。
しかし。
「――――すまない、ちょっと待っていてくれ」
爆豪の言葉を遮ったのはスマートフォンの着信音である。鳴ったのは相澤のものだ。ポケットから取り出したそれに表示されているのは「雄英高校」の文字。
「すまん」
電話に出ない、なんて選択肢がない相澤はさっさとエリアを出て行ってしまう。
一人残された爆豪は、知らず詰まっていた息をふうと吐き出して、他の客の邪魔にならないよう壁際に移動して寄りかかった。
(……ありがとう、なんざ、今更か)
もう何年前の話だと思っている。その間に相澤がどれだけの数の生徒を見てきたと思っている。自分が言った言葉などとうに忘れているかもしれない。
でも。
(あの人の記憶に俺もちゃんと残ってる)
名前のない星だろうと、爆豪の輝きを受け入れてくれた。それだけでもう十分だった。


その後、すぐに相澤が戻ってきて学校に行かなくてはいけないと言う。そうだろうと思っていた爆豪はひとつ頷いて、足早に会場を出た。
「すまない、折角時間を合わせてもらったのに」
「いい。寧ろこういうパターンばかりだろうって思ってたからな。前ん時が奇跡だろ」
人混みを掻き分けるように県営の図書館を出て、最寄りの駅のホームへと向かう。いつもより歩くのが早いが、ついて行くのは造作もないこと。
「中途半端になっちまったし、ノーカウントでもいいぞ?」
「いや、カウントする」
「そうか」
向かう方向が逆なので、改札の前まで爆豪は付いていき、それから「じゃあな」とあっさり手を振った。
「あ、ちょっと待て」
しかし、その手を相澤が掴んだ。
呆気に取られている爆豪をよそにその手に何かを握らせてくる。
「電話しながら見つけたんだ」
握っていた手を開けば、自分が、ヒーロー・爆心地が、デフォルメされた人形が付いたキーホルダーがそこにいた。随分と目つきの悪いそれと目が合う。
「ハッ。これ俺だっつうの」
他のヒーローのやつ買ってくんだろ、と笑えば、そうだなと気まずそうに頬を掻いている。
「目が合ったからつい手が伸びたんだよ」
いらなければ誰かにあげろ、と言われたので首を振る。
「ばーか。誰がやるかよ。折角アンタに貰ったのに」
「……そうか」
素直に伝えれば一拍置いて相澤の口元が緩んだ。安心したように、嬉しそうに笑う顔に心臓がきゅうとなって、爆豪は相澤の背中を急かすように押した。
「さっさと行けや」
「また連絡する」
「おー」
そのまま相澤は改札を抜けて、遠く遠く離れていく。出来る限り背中を見送ろうと思ったけれど如何せん人が多い。あっと言う間に見えなくなって、見えなくなってしまうと寂しくて、握りしめたキーホルダーごと手をポケットに突っ込んで歩き出した。
二回目は短かかったけれど、収穫は多かった。


「テメーも見つけてもらったんか、イレイザーヘッドに」
帰ってきた部屋で一人、キーホルダーの自分に話しかけた。可愛げのない怖い表情である。
どうせ商品にするならもっとまともな表情にすればいいのに、と思ったが、にこやかに笑っている自分のキーホルダーなんて想像するだけで鳥肌が立つ。
「いい目をしたヒーローだろ?」
でも駄目だ、あれは俺の好きな人だからな。
爆豪は一人きりの部屋で今日のことを思い出しては、ひっそりと笑った。もう既に逢いたくて堪らなかった。


* * *


夏季合宿が始まったのであろう相澤から連絡がないまま、夏の色が濃くなっていく。
博物館のデートのあとに行われた健康診断で、爆豪は二センチ身長が伸びていた。休みの都合でいつもと違う美容室に行けば前髪を切られ過ぎて先輩に笑われた。そんな些細な日常は、やっぱり相澤に届くことはない。
風邪はひいていないだろうか。夏季合宿はどうだったのだろうか。ちゃんと食べているだろうか。寝ているだろうか。想像しても、きっと実際のものとは違うだろう。
――漠然と。本当に、ふと寂しく思う時がある。
それが無くならない限り、自分は相澤が好きなのだろうと覚悟している。


夏から秋にかけて、というのは地元の祭りが多くなる。
祭りがあれば必然的に出歩く人が多くなり、どうでもいい小さな争いも、人命にかかわる大事件も増えていく。当然、ヒーローの仕事も増える。祭りに参加する重役の警備やパトロール、警察と連携して未成年の補導などなど、言い出したらきりがない。
爆豪は、個性柄火気が多い場所では行動制限があるのだが、それでも伊達に敵より敵っぽいヒーローだなんだと言われ続けているわけじゃない。爆豪が爆心地としてヒーローコスチュームを身につけて闊歩するだけで、他のヒーローがパトロールするよりも効果があるのだ。比喩ではなく文字通り睨みを効かせて闊歩する。それだけで犯罪件数は面白いくらい下がっていく。
だからこそ、一年を通して一番忙しい時期となる。纏まった休みなど取れるはずがなく、基本的な休みですら確保が危うい。過剰労働で訴えれば百パーセント勝てるだろう。
今日は、そんな中でもぎ取った、四月以来の二連休。初日。
目が溶けるくらいに眠って、固まった体をストレッチで解せば、随分と思考回路が明瞭になった。どうやら思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。
軽くなった体で買い物を済まして冷蔵庫の中を充実させ、勢いがある間に掃除も済ませた。その頃にはもう夜が近い時間帯になっていて、不快なほどに汗をかいた体を清めるために風呂へと向かう。
浴槽に湯を溜めて、汗で張り付く下着を強引に脱いだところでふと動きを止めた。
(…………最近ヤッてねぇな)
思い出したら、簡単に火が点いてしまうほどには若い。
きっちり十秒考えて、爆豪は秘密の隠し場所へと玩具を取りに行った。


一先ず汗を流して、アヌスを含めて全身をきれいに洗っていく。
いつ事務所から連絡が来ても電話に出られるように、とスマートフォンは浴室に持ち込んで、使いかけのローションを手に取った。すっかり慣れてしまった手つきで洗浄した尻を解し、早々にディルドを嵌めていく。偽物とは言え、久しぶりのペニスの形に僅かに息を詰めた。
浴槽の縁に左手をついて、冷たい床に膝をつく。上体を前に倒して、ゆっくりと馴染ませていく。ここで欲に負けて早急に進めていくと、あとで痛い目に遭うことは経験済みだ。ペニスを受け入れる器官じゃないからこそ、じれったいほどゆっくりと。
「……っ、ふ、……ふ、ぅ、はぁ……」
相澤に抱かれてすぐの時は、ずっとあの日のセックスを思い出していたのに、最近はデートしているときの相澤ばかりを思い出す。担任だった頃とはまた違った横顔。イレイザーヘッドとはまた違った話し方。
表情の種類があまりないように見えて、実はそうでもないのだといったい何人の人間が知っているだろう。それだけじゃない。学校では時間に厳しいくせに、約束の時間に少し遅れてやって来ることが多い。デートという名目をつけているからか、小綺麗にしているけれど寝癖が付いている。捕縛布を自在に操るから手先が器用なのかと思えば不器用。爆豪の知らない古いヒーローやその功績を語る口は饒舌。
知らない部分を知れば知るほどに惹かれて、この男に抱かれたことがあるという事実に、浅ましくも興奮する。
「――……ッ、あ……!」
記憶の中の相澤が、担任でもヒーローでもない顔をしている。意味もなく頭を横に振って、せんせぇ、と呼んだ。ディルドを限界までお尻に嵌められるようになった。それでも届かないところが、きゅうんと寂しそうに締まる。
「くそ、足りねぇ……ッ!」
腹の奥の奥、これ以上はないだろうと思うその先まで。太く長いペニスに、みっちりと犯される感覚を爆豪はもう知っている。
「うぜぇ」
セーターやコートの下に隠された体は存外どっしりとしていて、腰回りなど自分より太い。長い髪に隠れた首から肩、背中にかけても太い筋肉が張り巡らされていて、手を回した時に外見以上の厚みを感じた。圧し掛かられたときの重みなど想像以上で、現実なのだと思い知らされて堪らなかった。
デートをしているときの相澤と、セックスのときの相澤を交互に思い出しては体温が上がっていく。どっちの顔も好きだ。気が抜けている顔も、先生の顔をしているのも、全部食われそうなほどに凶悪な顔をしているところも。
「――ッ、せんせ、せんせぇ、きもちい」
力任せに出し入れをし始めても痛みはなく、それが分かれば手を止めることなど不可能だった。ぐぽ、ぐちゅ、と響く下品な音が浴室に響いて、それすらも興奮剤になる。ピリピリ、と腹の底から弱い電流が走って、久しぶりに後ろだけでイけるかもしれないと感じた。
「っ、ン、しょーたさ、おく、もっと……っ、あっ、あっ、これ、きもちいいっ」
一人だからと油断して喘いで、名前を呼んで、扱きたくなるのを我慢して懸命に腰を振る。
それでもどうにもあと少しの所でイけない。足りないのだ。熱が、質量が、圧迫感が。
「ひ、く、ぁ、ああっ、しょうたさんっ」
とうとう我慢できずに左手で乱暴に扱いて射精して、抜けそうになる腰をどうにか持ち上げて尻を追い詰めるも、過ぎた快楽に負けてすぐにディルドを引き抜いた。太腿が情けなく震えて、ぴゅる、と少しだけ潮が漏れた。
「は、はぁっ、ぁ、はぁ、くそ……ッ!」
息を整えながらシャワーで汗とローションと精液を流していく。ディルドは床に転がして、そのまま体を滑り込ませるように湯船の中へ。片付けなんて、今は出来そうにない。まだムズムズしているアヌスをどうしようかと考えながら余韻に浸っていれば電話が鳴る。
こんなときに呼び出されても使い物にならないかもしれない、なんてぼうっとしている頭で電話に出て、――声が聞こえて驚いた。
『もしもし? 今大丈夫か?』
相澤の声だった。
「――――は?」
今の今まで、自慰の道具にしてしまっていた男の声にうまく言葉が出ない。
「え、あ、せん、な、なんで……っ」
『爆豪? すまん、仮眠でもしてたか?』
パチパチと瞬きして状況を飲み込もうとしていれば、仕事の休憩中だと思ったらしい相澤が電話を切ろうかと提案してきて慌てて引き留めた。相澤から電話なんて片手分もしたことがないのだ。ここで切ってなるものかと、それはもう必死だった。
『寝てたんじゃないのか?』
「べつに、寝てねぇわ。……なんで」
『いや、いつもと声が違う気がしたんだよ。風邪はひいてないんだろうな』
お前ずっと忙しかっただろう、と心配してくれていることになんだか罪悪感。風邪はひいていないと言いつつ、ゴホンとわざとらしい咳払い。
自慰をして、甘ったるい声で喘いで、相澤の名前を呼んでいたから、それをまだ引き摺っていますとは言えない。知られたら恥ずかしさで死ねるとまで思った。
「そっちこそ珍しいじゃねぇかよ、こんな時間に。学校はどうしたんだよ」
『今、色々あって出先なんだが、先方の都合で少し時間が空いてな』
「あ? 暇つぶしかよ」
『今ならお前の声が聞けるんじゃないかと思っただけだよ』
「……あ、そ」
またそんな言い方をする。そう爆豪はむず痒そうに唇を噛んだ。
声が聞きたかった、とでも言いたいようなそんな言葉。これが恋人同士であれば可愛さに悶絶できるのだが、気分が昂っている今は猛毒のようだ。あっという間に煽られる。
(……ちょっとだけ……)
相澤との電話など貴重。機械越しとは言え、耳の中に直接入り込んでくる低い声にうっとりと目を細めながら空いた手を尻へと伸ばす。その拍子に湯が揺れて、ちゃぷん、と音を立てた。
『水の音がするな』
「ん、風呂、入ってる」
『確かによく聞けば声が反響してるな。仕事だったのか?』
「休み、だけど、部屋掃除してたから汗かいた」
『今日も暑いからな。家の中とは言え熱中症には気を付けろよ』
「わぁっとるわ。なめんな、……ッ」
『爆豪?』
「なんでもねぇ!」
まだアヌスは柔く、するりと入った中指を曲げれば簡単に前立腺に行き当たる。少し強く刺激し過ぎて体が跳ねた。バレないように声を荒げて、息を潜める。それでも手が止められず、ちゃぷちゃぷと湯が音を立てる。加減をしながらゆっくりと押して、捏ねて、抜き差しをする。
『あんまり長風呂もよくないぞ』
「保護者かっつうの」
『一応、教師だな』
「い、まは、先生モード、なんか」
『お、またそれか』
「っ、んっ」
『結局お前はいつの俺と比べて先生だの、ただの俺だの言ってるんだろうなぁ』
「ない、しょ……っ」
『やっぱり内緒か。いいよ、大体予想はついてる』
相澤の声を聞きながらアヌスを触るのが、こんなにも気持ちいいとは思わなかった。返事もそこそこに、だらしなく口を開けて、唾液が零れてしまう。浴槽の縁に凭れ掛かって、気を緩めたら出そうになる嬌声は、今度は唇を噛むことで堪える。
それなのに。
『あの夜は途中からお前のことしか考えてなかったんだから、仕方ないだろ』
なんてことを、声のトーンを落として、囁くように言ってくるからもう限界だった。
「〜〜〜〜ッ!」
ひとりでしているときは微弱の電流だったのに、それが強くなって甘さが増した。声を出さなかっただけ褒めてほしい。湯の中で足がガクガクと震えて腰が跳ねた。
(せんせ、おれのことだけ、かんがえてたんか)
 一等星でもなければ、弟子でもない。ただ、決して褒められない行為に溺れて相澤だけを求め続けていたように、相澤も自分だけを見てくれていた。やっぱりあの夜は、何にも代えられない特別だ。胸の奥底から幸せが湧き上がってくる。
相澤からの言葉に舞い上がって、つい薬指も追加で挿れてしまう。広がったところからお湯が入る。熱くて、気持ち悪くて、でも気持ちいい。止めなければと頭では分かっているのに、欲は止められない。もっと相澤の声が聞きたい。
しかし。
『……お前やっぱり今日具合悪そうじゃないか? 息が荒い。もう電話切っていいから早く風呂から出なさい』
 そう言われてしまって、ぐ、と声が詰まった。
「っ、や、でも、」
『でもじゃない。折角の休みなんだ。ゆっくり休みなさい』
仕事の合間だからだろうか、相澤の声がすっかり教師のそれになってしまっている。
名残惜しいけれど、これ以上引き留めてバレてしまうのも嫌だった。教師としてのこの男の勘は、恐ろしいほどに当たってしまう。ここは撤退したほうが身のためだ。
「……じゃ、風呂出て、ちょっと寝る」
『そうしろ。具合が悪くて何か欲しいものあれば持っていくから、いつでも言えよ』 
「ん」
『じゃあな』
そう言って、あっさりと電話が切れた。
それでも爆豪は、自分を止められずにアヌスに嵌めた指で容赦なく前立腺をコツコツと刺激し、スマートフォンを手放した手でペニスを扱く。ゴトン、と重い音を立てて床にスマートフォンが転げる。スマートフォンも、ディルドも取るほどの余裕すらない。このままもう一度イッてしまいたい。耳に残る相澤の声の余韻が消えないように必死に繋ぎとめる。
「アッ、あ゛ぁあッ! しょうたさ、しょうたさん、イきそ、おれ、イく……!」
相澤に、どうしようもなく浅ましい自分を知られるところだったかもしれない。形容しがたい緊張感と興奮に頭が狂いそうだ。限界などあっという間だった。
「ッ、――あ゛ぁっ……!」
カクカクと腰を揺すって、息を詰めたと思ったら、一拍置いて射精した。尿道口から溢れた湯船に浮かぶ精液を見て、はぁと溜め息。心配してくれている相澤を使うような事をしてしまった反省と、電話が終わってしまった切なさ。
それから。
「――……いつでも、言えるわけねぇだろ、馬鹿が」
社交辞令で突きつけられた現実が少し。


風呂から出て、暫くしたら再び電話が鳴った。期待して飛びついたけれど、偶には家に帰って来なさいと口煩い母親からの電話だった。光己は何も悪くない。ただ、タイミングが悪かった。ついついいつも以上に口調が荒くなる。
「あ!? 今から!? ここからどんだけ離れてると思ってんだよクソババァ!」
『アンタが事前に休みを報告しないからでしょうが! いいからさっさと帰ってきて、今夜はこっちで泊りなさい!』
「〜〜〜っ、勝手に決めてんじゃねぇ!!」
『うるさい!! 電話越しに怒鳴らないで!!』
だが、口調が荒くなったところで光己は挫けない。怖がらない。身を引かない。
スピーカー機能を使わなくても部屋中に応戦する光己の声が響き渡る。帰ってこい、嫌だ、の問答を暫く繰り返していたが、光己が言い出したら聞かないことも理解している。
爆豪は電話しながらもさっさと出掛ける準備をして、
「あー、もうわぁったっつってんだろうが! 今回だけだからな!」
敗北宣言をしたあとで、外に出た。
面倒くせぇと吠えながらも大股で駅へと向かい、事務所には外泊することをメールで送った。一人暮らしをしているマンションから実家まで、電車を乗り継いで一時間と少し。見慣れた家が視界に入る頃にはすっかり夜が深くなっていて、明日になるほうが早そうな時間帯だ。
「おかえり、勝己くん」
出迎えてくれた勝も、既にお風呂を済ませてラフな格好だった。
「帰って来てんならあのババァ止めろや」
「ええぇ、喜んでるからなぁ。それよりシャワーで浴びておいで。外は暑かっただろう? 光己さんが夜食作ってくれてるから、出たら食べよう」
「あ? 夜食?」
「うん。勝己くんが好きな麻婆豆腐」
「……辛くしてんだろうな」
「近寄るだけで涙が出そうなくらい、うんと辛いのが出来上がってるよ」
へら、と笑う父親の顔は、ちょっと離れているだけで老けたように感じた。
「……」
 黙って靴を脱いで、並べて。何歩か進んだだけで、見える景色も以前とは違う。飾られている写真立てだって、中身が変わっている。芳香剤の匂いも、父親の革靴も。記憶の中の実家と何も変わらないようで、少しずつ何かが変わっている。
「勝己くん?」
返事がないことを怒るわけではなく、心配そうな声色で勝に呼ばれて生返事だけを返す。
何も変わっていないほうが異質なのだ。自分の時間が進んでいくように、この家の時間だって穏やかにではあるが流れて行っている。
だって、実家に帰ってきたのは、雄英を卒業して以来。じゃあな、とあっさりと別れたあの日が最後。メッセージや電話をくれてもちょうどよく返せることはほとんどない。写真を送り合うような仲でもない。
キョロキョロと辺りを見渡しながらも、浴室へと向かう。後ろからはまだどこか心配そうにしている勝がついてきては、疲れたかい? と聞いてくる。
「別に疲れてるわけじゃねぇわ」
「そっか」
 とうとう脱衣所までついてきてしまった勝に、爆豪は持っていた荷物を全部預けた。
シャワーだけ浴びると自らも言えば、そこでようやっと自分は出て行くべきだと気付いたのだろう。また気の抜けた顔で笑って、じゃあ向こうで光己さんと待ってるね、とそそくさと扉の向こうへと出て行った。
爆豪は、ずっと頼りないと思っていた、その背中に声を掛ける。
「……辛い料理に合う酒、用意してんのか」
 久しぶりに会った父親に対して、可愛げも何もないお酒の誘いである。
「かつきくん、きょう、おさけ、のめるの?」
 一方、勝は何とも間抜けな表情で、子どものような喋り方をする。それに対して言葉は返さず、小さく頷けば、ぱあっと表情が明るくなった。
「勝己くんとお酒飲めるの嬉しいなぁ」
「不味い酒用意したら帰るからな!」
 ここまで喜ぶとは思っていなくて、爆豪はむず痒い感情を持て余すように叫んで、シャツを脱ぎ、乱暴に洗濯機の中へと放り込んだ。じわじわと耳が熱い。相澤に対して照れたり、恥ずかしかったりするのとはまた違う。感情に名前がつけられないけれど、あぁやっぱりこういうことをするのは苦手だと奥歯を噛んだ。
 そんなことなど露知らず、勝は上機嫌なままでずっと話しかけてくる。
「ビールにする? 缶チューハイがいい? ワイン、は麻婆豆腐に合わないか。あぁそうだ、貰ったばかりのウイスキーがあって、光己さん特製の梅酒も、」
「あーもう、うるせぇ! 風呂に入らせろ!」
 いつまで経ってもシャワーが浴びられないと、そう続ければ勝は即座に扉を閉めた。
「光己さーん、今日、勝己くんお酒飲めるって!」
「あら、良かったじゃない」
 ようやっと一人になれた脱衣所で、しかし聞こえてきた会話にまた耳が熱くなって、今度はボトムスを力いっぱい洗濯機の中へと放り込んだ。


夜食、というには多過ぎる料理を全て腹に収めた頃には、深夜二時を回っていた。
「この人、明日仕事休みなんか」
「そうよ。そうじゃなきゃ流石に潰れるまで飲まないでしょ」
いつも以上に締まりのない、真っ赤な顔で笑いながらソファで潰れている勝に、光己が薄手のブランケットをかけた。そのままでも風邪はひかないだろうけれど、勝がいるその場所はエアコンの風が良く当たる。
光己はまだ飲むらしい。勝にブランケットをかけてあげたその足でキッチンへと向かう。新しいグラスに、自家製の梅シロップと焼酎を注ぐ。自分の、酒を飲んでも飲まれない体質はきっと母親譲りだ。
光己に勧められて同じものを作ってもらう。向かいの、勝が眠っているソファに座り直した光己は、口をつける前にグラスが寄せてくる。何度目かも分からない乾杯。カラン、と氷が揺れる音すら、大人になったねと言ってくれているようだ。
点けっぱなしになっているテレビからは、見たこともない映画が流れている。映像はカラーですらなく、白黒で、音声は篭って聞こえる。この前、相澤と見た最新作の映画とは大違いだなと頭の隅で考える。
「――……なぁ、何かあったんかよ」
視線は興味もないテレビに向けたまま、光己に問い掛ける。
あまりにも唐突に呼び出してきたこと。勝の機嫌が終始良すぎたこと。光己が料理を作り過ぎていること。どれもがいつも通りに見えて、小さな違和感を残している。時間の流れだけが原因ではない何かがあるのだと、爆豪は直感している。
「そうね」
穏やかに話す光己の声すら、訝しんでしまう。
「でも、……うん、まだ何もないのよ」
「はあ?」
「何かあったようで、何もなくて。でもちゃんと前に進んでいて、……ちょっとアンタの顔が見たくなったの」
きっとこの人もそう。言って、勝へと視線を向けた。
同じように爆豪も自身の父親を見れば、視線を感じたのか、だらしない顔がいっそうだらしなくなった。ふにゃふにゃと訳の分からない寝言まで言い出したので、光己と二人で顔を合わせて笑った。一家の大黒柱、なんて呼称するには情けなくて頼りなくて、でも何度だってこの優しい笑顔に救われてきた。きっと光己は、勝のこの笑顔が好きなんだろうと、ずっとずっと小さい頃から感じている。
「酔ってんのかよ、クソババァ」
「酔ってないわよ。酔えたほうがアンタにチュー出来んのにね」
「絶対ェすんな」
揶揄うように光己が言うので、爆豪はわざとらしく距離を取った。あら失礼ね、と眉を顰めるけれど、どこの世界に二十一にもなって、母親からのキスに喜ぶ息子がいるのだと訴えたい。
「ねぇ、勝己」
「あんだよ」
爆豪がグラスに口をつけて、再びテレビへと視線を移す。映画はクライマックスを迎えている。どうやら恋愛映画だったようだ。ついさっきまで野暮ったかった男が、それなりに身なりを整えて、スーツに身を包み、恋人にプロポーズをしている。周りに豪華絢爛な花でも咲き乱れそうな、ありきたりなエンディング。
「元気でやってるって言うのはねニュースを見れば分かるけど、ちゃんと顔は見せて」
それから。
「アンタがどこでどう生きるかなんて、それはアンタがヒーローになると決めた時から自由にさせようって決めてるの。だから好きなように生きなさい。でも、でもね、」
羽根を休めるには、いい家だと思うの。
自分の城である今のマンションだって申し分ないだろう。それくらい分かっている。けれどここには勝がいる、光己がいる。なんてことない一日の報告も、人生の相談も、なんだってしていい相手が二人もいる。
勿論、何も話さなくてもいい。だらだらとソファで寝そべって、気ままに眠って、起きて、帰ったっていい。ここは、そういうことをしても許される場所。
「勝さんも、アンタとお酒飲めるの楽しみにしてたんだから。時々はこうやってみんなでご飯を食べて、お酒を飲んで、話をしようね」
光己が最後の一口を飲み込んだ。どうやら今夜の宴会はこれでお終いのようだ。ちょうど映画のエンドロールが流れ始める。返事は、しなかった。
爆豪も同じようにグラスを空にした。そして、片付け始めた光己を追いかけるように、皿を持ってキッチンへと向かう。
「今度はちゃんと前もって電話しろや」
「うん」
「……あとはやるから、もう寝ろ」
「ありがと」
でもベッドに行くのは面倒だと、光己は勝の隣に腰を下ろした。二人でひとつのブランケットを分け合って眠るらしい。風邪ひいても知らねぇぞと忠告したが、酒を飲んだ勝が熱いくらいだからちょうどいいといって目を閉じてしまった。
――そう言えば、まだ自分が小さかった頃にも同じ光景を見た。
夜中にトイレで起きた時、明かりが点いているリビングが気になって、中を覗いたのだ。その時と全く同じ光景。あれは、確か幼稚園の卒園式が終わったあとだった。勝己くんったらこんなに大きくなって、もう小学生か、と勝がわんわん泣いていたから覚えている。
ローテーブルだけじゃなく、ソファや床にまで自分の成長記録が散らばっていて。夜中にこんなもん見るなよ、と恥ずかしくなった。幼稚園を卒園しただけで、明日からも変わらず一緒に暮らして生きていくのに、なんで感傷に浸っているのか理解が出来なかった。
極力音を立てないように食器を洗って、最後に手を洗ってタオルで拭う。どうしようかと悩んだが、なんだか二人の邪魔をする気にはなれなくて、爆豪は二階の自室へと向かった。
酒に酔った体でベッドに倒れ込めば、あっという間に睡魔が襲ってくる。瞼が重くなって、抗うことなく閉じた。久しぶりのベッドは、柔軟剤の真新しい匂いがする。
子どもの成長、というのは、こちらが思っている以上に親を寂しく思わせる部分があるのだろうと今は思う。きっと、爆豪が何かの節目を迎えるたびに、勝と光己はああやって寂しい夜を二人で寄り添って越えてきた。
愛しているからこそ寂しくて、でも成長は嬉しくて仕方ない。巣立っていくことが誇らしくて、でも静かになった家が妙に広く感じてしまう。この家の変化を目の当たりにした自分が感じた感情と、よく似たようなものをあの二人も抱いているのだろう。
羽根を休めるにはいい家だ、と光己は言った。確かにそうだと思う。この家独特の空気は、一朝一夕で作り上げることが出来ないことだとも理解している。愛情も寂しさも、全てをひっくるめて、この家の時間なのだ。誰にも真似できない。唯一の家。唯一の時間。


――では、自分はどうだろうと考える。
羽根を休める家が、思い出が散りばめられた家が、自分には作れるのだろうか。勿論、相澤と二人でという話だ。
想像しようとして、うまくいかなかった。
よくよく考えれば、自分の初恋は最初の夜で終わっているのだ。セックスをして、相澤の初めてを貰って、そっといなくなって、音もなく終わった。まさか相澤が追いかけてくるとは思わなかったのだけれど、それでも初恋は一度死んだ。相澤が会える理由を作ってくれたから、僅かに息を吹き返しただけで。
 そうか、と力なく呟いて、瞼を持ち上げる。
想像も出来ないような、不安定で、靄がかかった未来になんて相澤を連れていくことは出来ないなと思った。自分のこの手を取ってくれても、きっと気苦労しかない。祝福される理由は少ないくせに、バッシングされる理由だけは多い。そんな未来には連れていけない。いきたくない。不幸にさせたいわけじゃないのだ。
(おわらせたほうがいい、……っつうのは分かってる)
 奇しくも、次のデートですべてが終わる。
何もかもを全部焼き付けて、今度こそ相澤から離れたほうがいい。今ならいくらだって言い訳が出来る。簡単だ。あの夜と同じように理由を作ってやればいい。やり方ならいくらでもある。理由なんてその場の思い付きでも十分だ。やろうと思えば、その気にさえなってしまえば、いつだって相澤から離れられる。
 離れよう。さようならを言おう。傷付くことが確定している未来に引き摺り込むよりも、きっと他の誰かと幸せになれるかもしれない未来に賭けたほうがいい。
そうしてしまえ、と心に決めて、瞼を閉じて。一拍置いてから笑ってしまった。
 絶対的に離れると決めているなら、デートすらせず、さようならを言えばいいのに。こんなにも大それたことを言っておきながら、それでも頭のどこかで相澤が手を差し伸べてくれることを望んでいて、嘘偽りなく好きだと言ってくれることを夢見ている。
(この期に及んで逢いてぇのかよ。馬鹿だろ)
 どうしようもなく好きなのだと、こんなタイミングでも思い知らされる。
 乾いた笑いを静かな部屋の中に漂わせて、仰向けになった。酔っているせいで、ちょっと油断をするとすぐに眼窩が熱くなる。人肌が恋しくなる。あの男に逢いたくて仕方がない。
(終わらせろ、今度こそ)
自分で、ちゃんと初恋を殺そう。少しばかり都合のいい夢を見過ぎただけだ。なんてことない。初恋は叶わないものだと、昔から言うじゃないか。ただ、それだけのことだ。
(さよならだ)
いつか相澤が、自分の知らない誰かと結ばれて、歴史が詰まった家があったとして。その場所をヒーローとして守ることが出来たなら上出来だ。
最後を迎える痛みから目を逸らすように、まだ見ぬ未来を思い描いては唇を噛み締めた。


4.

 寝袋ひとつで何処ででも眠れてしまうほど寝汚い旧友が、早朝から家にやって来るときは、大体が切羽詰まっているときだ。そうなる前に頼れと二十年以上言い続けているのだけれど、やっぱりその癖が直ることはない。
 プレゼント・マイクこと、山田ひざしは寝癖がついた金色の髪の毛を手際よく纏めてゴムで縛った。それだけで首回りが快適になる。すっかり夏になってしまった朝の空気は、いくら六時とは言え、暑いのだ。だが、玄関にいる旧友はスーツ姿だ。
「んん、オーケーオーケー。いいじゃん」
「そうか」
 普段は伸び放題の髭は綺麗さっぱり無くなっていて、髪の毛はハーフアップに。スーツ姿も相俟って、いつぞやの記者会見や家庭訪問を思い出すが、あの時とはまたネクタイの色が違う。そんな色持ってたんだ、と言えば、買ったというものだから驚いた。聞かなかったけれど、きっと革靴も新品だ。揶揄ってやりたいが、今やったところで面白い反応は期待できない。
 なにせ、この暑さだというのに、顔色は紙のように真っ白である。
(今、たぶん胃がキリキリしてんだろうなぁ)
 餞別として胃薬くらい渡してやろうか。確か常備薬があったはずだ。
「もうちょーっとイイ感じに笑えよ。そうすると満点」
「それは無理だ」
「あ、やっぱり? 運転出来んの? 待ってくれたら送っていくけど」
「いい。まだ時間もあるし、運転しながら考え事もしたい」
「そういえば時間って何時なんだよ」
「十三時」
「ワッツ!?」
 先にも言ったが、今は六時である。約束の場所までどんなにゆっくり行こうと一時間半もあれば着いてしまう。一体どれだけ考え事をするつもりなのだ。
「相澤、お前、絶対に車当てんなよ!?」
「分かってる。人には当てないし、新車は買ってやるから安心しろ」
「いや、そこじゃねぇ……」
 旧友の懐事情はそれなりに知っているので、車が無くなる心配はしなくていいだろうけれど、そうじゃない。だが、言ったところで今の相澤には無駄だろう。とにかくひと様に迷惑が掛からなければそれでいい。
「ま。上手くいかなかったら夜通し付き合ってやるよ。有給とってパーッとやろうぜ!」
「助かる」
普段は誘っても素直に返事しないのに、と目を丸くして、お目当ての車の鍵を手渡した。
そろそろ行くよと言う相澤に「ウエイト!」と声を掛けて、リビングへと戻る。冷蔵庫を開けて、新品のスポーツドリンクや水、それから軽食と胃薬を乱雑に袋に入れて手渡した。
「頑張れよ」
 うん、と頷く相澤の頼りないこと。もう神頼みしかないなと悟った。


相澤が出て行ったあとで、ベランダへと足を向けた。南向きのベランダは既に真昼のような暑さになっていて、サンダルを履いている間にべったりと汗をかいてしまった。山田は、部屋着にしている古いTシャツの首元を摘まんでパタパタを動かした。
太陽の光で熱された手摺りに手を伸ばして、あちち、と言いながら体を預ける。下を覗き込めば、ちょうど自分の愛車がマンションの駐車場から出て行くところだった。
「おーおー。頼りない運転」
どこか頼りなく、フラフラと揺れているように見えたが、まぁ大丈夫だろう。あれでも一応運転は上手いほうなのだ。合理性に欠けるとか何とか言って、車を所有したことはないけれど。
小さくなっていく愛車を見送って、頑張れよ、ともう一度口にした。
『――爆豪は、自分の想いが俺には重たいって言ったんだよ』
 そう言っていたのは、春先だったか。
確か、新入生の名簿を確認しながら、相澤がふと爆豪のことを口にした。
『マイク。俺と爆豪、どっちが重いか賭けるか?』
 勝負になんねぇよ、とあの時も言ったけれど、やっぱり勝負なんてしなくて良かった。
「安心しろ、相澤。やっぱりお前のほうが重い。ベリーベリーヘビィ。俺ならお断り」
 誰も勝てやしねぇぜ、バカヤロウ! と青空を仰いでカラカラと笑った。
よく晴れた夏の空には、大きくな雲がひとつ。何か面白いことでもあったのか、とでも言いたそうに、山田を覗き込むようにして揺蕩っている。
「……なぁ、」
雲に向かって呼んだ名前に、返ってくる返事は当然ながらない。すっかりそれにも慣れた気でいたのに、今日はほんのりと寂しくなった。
長く生きれば生きるほど、親しい人間の岐路に立ち合う。これで良かったのか、もっと別のやり方があったのか、悩んだところでそれは未来の当事者が決めることだ。
 けれど。
(どうか、)
今日くらいは、どうかいいものでありますように、と願わずにはいられない。


* * *


三回デートをしてみようか、と言い出したのは相澤だ。だが、たった三回デートをするだけで半年以上時間を要することになるとは思わなかった。
新しく購入したばかりの腕時計で時間を確認してから、息を吐く。ダークブラウンの革製のベルトに、ボルドーの刺繍が一周ぐるりと施されているそれ。今日初めてつけたが、しっかりと手首に馴染む革の感触は良い。反対の手でレザーの感触を楽しみながら、半年で三回も二人きりの時間を取れたのは褒めて然るべきなのかもしれないと思い直す。
何せこっちは自他ともに認めるワーカホリック。あちらは、筋金入りの現場主義のヒーロー。
デートひとつするのに、五年かかっても十年かかっても、何ら不思議ではない。下手をすれば、デートを楽しむ前に命を落としていたかもしれない。ヒーローとはそういう職業だ。
まだ油断はできないが、無事に今日で終わることが出来た。これがどういう意味を持つのか、あの子どもは分かっているのだろうか。
人混みの向こうから、爆豪が歩いてくる。こちらに気付いて、目を丸くしては、歩く速度を速めた。相澤はもう一度腕時計を確認しながら、爆豪に向かって小さく手を振った。
現在十八時五十分。集合時間の十分前。
相も変わらない生真面目さ。あの子の色んな顔を見たけれど、やっぱり根幹は変わらないなと隠すことなく微笑んだ。
「ンだよ、今日は早いじゃねぇか」
遅刻常習犯のくせに、と爆豪が挑発するように言葉を投げかけてくる。相澤は、今日くらいはな、とだけ言って、さっさと歩き出した。
今日で、この子どもの初恋に決着がつくのだから、しっかりと勤め上げなければ。
相澤の頭の中は、そればかりである。


打ち上げ花火を見に行かないか、なんて青春真っ只中な思春期にすら言ったことない言葉を、三十路の半ばがきて言うとは思わなかった。
柄にもなくメッセージを送った後で緊張してしまって、返信が来るまで何度も何度もスマートフォンをチェックした。プレゼント・マイクやミッドナイトにまで何かあったのかと聞かれるくらいにスマートフォンを握りしめて過ごす日々を三日。爆豪から「どこの」と、たった三文字の返信が来ただけで肺腑が空になるまで息が出来た。
そこから日時や場所の詳細を送って、更に返信を待つこと二日。オーケーが出た時点で相澤の体力は空になった。知らず力が入りっぱなしだったらしい肩はあり得ないくらいに凝っていて、整体に通う羽目になり、マイクには腹が捩れるほどに笑われた。本当に情けない話である。
何を今更緊張しているのだ。デートなんてもう二度も済ませたくせに。
そう鼻で笑われるかもしれないが、三度目のデートは今までと重みが違う。ここから始まるのか、ここで終わるのか。今日一日で今後が変わる。
それを理解しているのは二人とも。その過程に何があったのかを知るのは相澤だけ。
ひっそりと胸の中で抱えているものを明け渡すとき、爆豪はどんな顔をするのだろうか。
(…………胃に穴が開きそうだ)
キリキリ、と小さな悲鳴を上げる胃を服の上からそっと擦った。マイクに貰った胃薬は三箱目になったので、こちらもそろそろ病院に行かなければいけないかもしれない。
出来る限り二人でゆっくり過ごせるようにと、相澤や爆豪がそれぞれ生活の拠点としているフィールドから離れたため、相澤がちょっと苦い顔をするだけで怯える子供がひとり。ふたり。
「……」
髭を剃れば良かったかと今更後悔したところでもう遅い。せめてもの救いは、着古したスウェットなどではなく、真新しいシャツに腕を通していることだ。ボサボサの髪は、わざと結うのをやめた。ちゃんと理由があるのだ。
「アンタ、メシ食ってんのか」
「いや、食ってない」
ゼリー以外食べられる気がしない、とは言わなかった。
「じゃあ出店で何か買おうぜ。俺も食ってねぇから腹減った」
よし、と頷いて何が食べたいかと尋ねた。二人は人混みの流れに乗って夏祭りの音がする方向へと進んでいく。
目的の神社は、両側に提灯を飾り付けた石段を上った先にある。
白や濃紺の生地に、色とりどりの花や魚が舞う浴衣を着た少女を何人も追い抜いていく。隣を歩く男は皆、恋の色を僅かに映し出していて微笑ましくなる。
「……浴衣とか好きなんか」
石段を登りながら、爆豪に聞かれた。
「まぁ見ていて悪い気はしないな」
歩き方を見ていれば着慣れていないことは明らか。少女たちにとって二十段以上ある石段は苦行以外の何物でもないだろう。それでもこの日に浴衣を選んで、男の前に立つことを決めた少女たちは可愛らしい。言うまでもなく、恋愛感情など微塵もない。爆豪の言葉を借りるならば「先生モード」になって、見守っているだけ。
「あっそ」
だが、どうやら爆豪にはそれがうまく伝わってないらしい。吐き捨てられた相槌は、急激に温度が下がって刺々しい。相澤は唸る。これが良くないことくらい、自分でも分かる。
そして。
「お前は何着ても似合ってるよ」
と言って、これまた真新しそうな黒のTシャツの袖を掴めば、今度はカッと顔を赤らめた爆豪がグルグルと喉を鳴らして唸った。
そうかと思えば遠くの出店を指差して、
「腹減った!」
と怒鳴った。
照れ隠しということは重々承知しているので、相澤は怒ることなく財布を取り出して、リクエストの焼きそばを買いに行くことにした。


大盛り焼きそば、たこ焼き、熱中症対策でスポーツドリンクを二本、それから唐揚げ串。時々、泣いている迷子の女の子の手を取って母親を探し、抹消ヒーローの財布を狙おうと打つかってきた怖いもの知らずの窃盗犯には夏の暑さを忘れられるような笑顔をひとつ。
「相変わらずヒーローって認知されてねぇよな、アンタ」
「認知されてないくらいがちょうどいいよ」
地元のヒーローが集っているテントまで窃盗犯を引き摺っていけば「一般人がこんなことするなんて危ないっス!」と若手ヒーローに叱られてしまった。
その光景に耐え切れずに爆豪は吹き出すように笑って、あとからやって来た面識のあるベテランヒーローは慌てて相澤に頭を下げていた。きっと今頃あの若手ヒーローはベテランヒーローから相澤の職を聞いて後ろに倒れていることだろう。
「せんせー、コーラ飲みてぇ」
「はいはい」
夏祭りの会場へと戻ってきた頃には、人の多さがピークに達していて、ペットボトルのコーラひとつ買うにも一苦労。はぐれないように隣や後ろを歩きながら爆豪がコーラを一口飲んで、こちらに手渡してくる。欲しいわけではなかったけれど、相澤はそれを受け取って飲み口に口をつけた。間接キス、なんて甘酸っぱいフレーズが頭の中に浮かぶくらい、いつの間にか夏祭りの熱に浮かされていた。
「そういや、花火ってここから見えるんか?」
「ここからでも見えるけど、少し場所を移動したほうがよく見えるよ」
神社の西側に流れる大きな川。花火の打ち上げ場所はその川の向こう側だと指を指す。時間を確認すれば花火の打ち上げまであと十五分と言ったところだった。
「じゃあ行こうぜ。折角来たんだからちゃんと見てぇ」
「そうだな」
まだ半分ほど残っているコーラは手に持ったままで、川沿いの桟敷へと向かう。桟敷自体は一年前からの予約制で座れないため、近くで立って眺める人が多い。ぞろぞろと集まってきている観客たちがアクシデントを起こさないようにと、予め配置されているヒーローたちが警察と連携して声を掛けながらパトロールしている。
その中に先程の若手ヒーローがいた。
目が合ったと思えば顔を青くして一目散にこちらにやって来る。
「先程は申し訳ありませんでした……!」
ヒーローだったとは露知らず。
そう続けながら腰から直角に体を折り曲げて謝罪してくる若手ヒーローに、相澤は顔を上げてくださいと言うしかない。というよりも、そんな大声で謝られると、いくら周りが騒がしくても人目を浴びてしまうのだ。それだけは御免被りたい。
なにせ、隣に居るのはヒーロー・爆心地。幾ら普段のフィールドから離れているとは言え、認知度の高さは次元が違う。
すると、若手ヒーローは恐る恐る顔を上げ、
「あ、あの、花火見に来たんっスよね……?」
それなら俺たち地元ヒーローの内緒の特等席が、と続けた。ヒーローたちの待機場所であるテントがある方向を指差す。
「あのテントの裏側の林を抜けたら、ちょうど綺麗に見えるっス。無線で報告しておくんで、本当は立入禁止なんっスけど、入ってもらっても大丈夫っス」
「ありがとう、助かるよ」
「あとこれもどうぞ。興味ないかもしれないっスけど、ちゃんと効果はあるんで、良かったら」
若手ヒーローが、コスチュームのポケットから取り出したのは赤いリボンだ。
「オレも、昔こうやってゲン担ぎして今の奥さん掴まえたんで」
それを相澤と、爆豪の左手首に巻き付ける。
「そういや、そこら辺のモブも付けてんな。なんなんだよ、コレ」
大人しく巻き付けられた赤いリボンを眺めながら、何気なく聞いた爆豪に、相澤がギクリと肩を跳ねさせた。
「あれ、知らないんっスか? これは、」
「ば、ばくごう!」
説明しようと口を開いた若手ヒーローの言葉を奪うように相澤が爆豪を呼べば、そのタイミングで花火の第一発目が濃紺の夜空に花開く。ドォン、と腹に響く重低音に会話が途切れた。
今だ、と相澤はコーラを持っていないほうの手で爆豪の右手首を掴んだ。
「ありがとう」
「はい、気を付けて!」
足早に若手ヒーローの隣をすり抜けて、テントへと向かうことにする。これ以上余計なことは言われたくなかった。ただでさえ柄にもないことをしているのに、それを第三者に説明されるのは勘弁してほしい。痛くなくなっていたはずの胃が、またキリキリと痛み出した。
「おい、せんせ……!」
背中に投げられる文句は聞こえないふりをしてテントまで行けば、これまた別のヒーローがあっちですよと指を指して教えてくれた。会釈だけして、二人はそのままの速度で林の中へと入っていく。立入禁止を知らせるテープを潜っていく。
相澤が大きく足を踏み出す度に、ジリジリと泣いていた蝉が飛んでいき、鈴虫は鳴りを潜める。人気がないからか、風が吹けば涼しい。じっとりと汗をかいた体は冷えていく。
そのうち、場所が開けて、行き止まりの古い木製の手摺りが見えた。塗装が剥げていて、指を滑らせればそれだけで怪我をしそうだ。相澤の腰ほどまでしかない手摺りの向こうはすぐに真っ暗な川が流れている。確かに立入禁止にしておかなければ、誰かが落ちてしまうだろう。
「いい加減離せや」
「あぁ、すまん」
パッと手を離せば、相澤が掴んでいた箇所を爆豪が自身の手で覆う。
「すまん、痛かったか?」
「痛くねぇ。急に進むからびっくりしただけだわ」
「本当にすまない」
「もういい」
言っている傍から花火はどんどん打ち上がる。五発も六発も同時に打ち上がっては、色とりどりに夜空を照らす。
「いいから見ようぜ」
折角穴場教えてもらったんだからな、と言って爆豪が相澤の右側へと移動した。脆い手摺りにそっと手をついて、怪我をしないように、川に落ちてしまわないようにそっと空を見上げる。
「そっちに来たら見えにくくないか?」
僅かに、とは言えまだ相澤の方が身長も体格も大きい。そちらに立ってしまったら、相澤越しに花火を見上げる形になってしまう。しかし、こっちにおいで、と左側を誘っても爆豪は頑として動かなかった。
「こっちがいいんだよ。おら、いいから、見てろ」
そこまで言われてしまったら、相澤も大人しくなるしかない。せめて、と手摺りに凭れ掛かるのは止めて、邪魔にならないように体を引いた。
それから暫くは、のんびりと花火を眺めた。
中心都市で行われるほど大規模なものではないとはいえ、ここは昔から花火が盛んな地域というだけあって、見応えがある。テレビや写真で見るのとはまた違った臨場感。音や、遠くに聞こえる歓声まで、花火を作り上げるひとつの要素となる。時間が進むごとに空の色が深くなって、いっそう散っていく花火の鮮やかさが増した。
相澤は、花火を見上げながら、そっと赤いリボンに手を遣った。
――この神社は、縁結びの神様がいることで有名だ。
特に花火大会の日に、左手に赤いものを巻き付けて花火を見たら恋が成就すると言われている。意中の人と一緒に見ても、見なくてもいい。神様は赤いものを頼りにやって来てくれる。そしてそっと力を貸してくれるそうだ。
普段ならば耳にしても欠片も残らない情報だが、今は信じてもいない神様にも力添えをして欲しい気分だった。あの若手ヒーローがリボンをくれなければ、ポケットの中に仕舞いこんでいる臙脂色のヘアゴムを利用するつもりでいた。暑いから髪を結んでくれとか、花火が始まったからやっぱりあとでいいとか、そういうことを言って。
必死過ぎだろう、と自分でも思っている。馬鹿な男だとも理解している。どうにか、自分とこの子の縁を結んでほしかった。
何も知らずに酔った勢いで体を繋げて、そうかと思えばあっさりと消えた爆豪を必死に追いかけて、デートをしようなどと言いだして。デートをすれば、もう離してやれなくなることくらい最初から分かっていたのに。
(ヤッてる最中に他の野郎に嫉妬してる時点で、結果なんざ分かってたようなもんだ)
その結果が本当に正しいか、半年以上の時間をかけて検証していただけで。
結果が分かっていたとは言え、無駄な時間だったとは思っていない。二人には必要な時間だったと相澤は確信している。時間は有限。だからこそ、着実に。間違いだったと思わないように、思われないように。自分にとっては重みを増すための、そして爆豪にとっては――……。
ふと視線が気になって花火を見るのを止めた。何も言わずに爆豪のほうに振り返る。
花火が川の水面に映し出されるように、爆豪の石榴色の瞳にも映し出されている。チカチカ、キラキラ、と。花火にも負けない程に石榴色が煌いて、爆豪の感情を映し出す。
――……あ、と相澤は僅かに口を開いた。
「なんだよ、せんせぇ」
他の何よりも雄弁で、素直で、美しいそれが。どんな状況に陥ろうと負けん気が強く、凛としていて、高貴なそれが。
「花火、見るんだろ」
何かを諦めるように、ひとつ宝物を捨てるように、ほんの僅かに諦めの色を滲ませていた。
相澤は思わず目を逸らして、一切の興味が無くなった花火を見上げる。あんなにも色鮮やかだった大輪の花はモノクロになって、打ち上げられるときの重低音よりも自身の心臓の方が大きく脈打っている。暑さが気にならなくなって、それなのに背中を嫌な汗が伝っていく。
(……そうか、お前は)
今日を最後に捨てに来たのか、と心の中で呟いた。
相澤が今日という一日に爆豪との縁を結ぼうとしたように、爆豪は相澤への想いを捨てに来たのだ。きっと爆豪が見ているのは花火じゃない。相澤だ。最後に思い出として焼き付けて、それから初めての夜のようにあっさりといなくなるつもりなのだ。
最初から何もなかったように。最初から何も持っていなかったかのように。
それが、爆豪が必死で考え抜いて出した答えならば、相澤もそれでいいと思っている。でもほんの僅かでも、諦めているだけならば認めるわけにはいかない。
納得したから終わりにするのと、諦めたから終わりにするのでは意味が違う。
さて、どうする。
きっとここで判断を間違えたら、もう次はない。――けれど、強要はしたくない。
打ち上げ花火はラストスパートを迎える。惜しみなく花火師の集大成が打ち上げられて、目が追いつかないほど。圧倒的な力強さを伴って、水面の黒を塗り替えていく。視界の全てが極彩色で埋め尽くされていく。
だが、石榴色の輝きには、両の手が放つ洗練された爆破には、到底追いつけない。
「爆豪」
相澤が打ち上げ花火に背を向けるようにして、爆豪へと向き直る。
こちらにまで飛び散ってくる細かな火の粉は、まるでお伽噺の妖精が自由に飛び回れるようにと黄金の粉を振りかけてくれているみたいだ。この粉を頭から被って、空を飛んで、遠くへ行きたいのならばそれでもいい。
でも。
「お前に言おうと思っていたことがある」
もしも、相澤が手に入れた重みと一緒にこの地面を歩いてくれるのなら。
「祭りが終わったら、俺の家に来ないか」
二度とそんな顔をしなくていいように、ありとあらゆる手を尽くすから。
「もし来てくれるのなら、帰すつもりはない。……意味は分かるな?」
今はここが限度だ、と口を閉ざす。
相澤が言葉を重ねる度に、爆豪の肩に力が入っていくのが分かった。少しだけ唇を噛んで、眉を寄せている。
打ち上げ花火の最後の一発が夜空に咲き、あっと言う間に静かになった。その静寂を埋めるように、会場のアナウンスと観客の歓声が夜空に響いた。花火師への感謝と尊敬の拍手は鳴り止むことを知らない。
相澤は、飲みかけのコーラを爆豪に手渡す。
「それを飲み干すまででいい。考えてくれないか。俺は向こうにいるから」
ひとりで帰りたいなら、神社の裏にもうひとつ出入り口があることも伝えた。相澤は少しだけ悩んで、ツンツンと尖った髪の毛に手を置いた。わしわし、と大きく撫でる。
相澤から今後の話を持ち掛けられるとは思っていなかったのだろうか。すっかり思考が停止して硬直している爆豪が、何か言う前に背中を向けて歩き出した。
立入禁止のテープを再び潜って、林を抜ければ打ち上げ花火を見ていた観客が興奮状態でまだ留まっていた。テントに戻ってきていた若手ヒーローは忙しそうだったので、会釈だけしてその場を後にした。
ひらひら、と自分には似合わない赤のリボンを夜風に靡かせて、まだ人が少ない石段を下りていく。一番下まで降りて、邪魔にならないよう隅っこに座り込んだ。
あああ、と深く深く溜め息を吐く。
自分の判断が正解かどうかなど、採点が出来るのは爆豪だけだ。あとはもう、始まるのか終わるのか、彼に任せるほかない。
一・八メートルオーバーの大きな体を丸くして、碌に手入れもされていない長い髪を掻き乱す自分は、要注意人物以外の何物でもないだろう。けれど、ジッとなどしていられない。顔を上げては溜め息を吐く。胃の痛さはピークを越えて、最早何も感じない。
――……半年以上の時間は無駄とは思っていない。必要だったと、今この状況になっても思っている。間違いだったと思わないように、思われないように。即物的に付き合うよりも、一旦冷静に考える時間が必要だった。
加えて、自分にとっては重みを増すための時間だった。そして爆豪にとっては、――いつでも逃げることが出来るための時間。
逃げる、などと言えばあの子はきっと怒り狂うだろう。けれど、逃げるという言葉が一番的確なのだ。逃げるという意思を持って相澤から離れないといけない。の確固たる意志を持ってくれないと、きっときちんと逃がしてあげられない。
片想いの期間が長すぎるから俺の気持ちは重過ぎる、と爆豪はあの冬の日に言っていた。
今の相澤からすれば、鼻で笑ってしまうような言葉だ。まだ若い子どもの重さなど、大の大人からすれば片手でも余るくらいのものだということを分かっていない。だから子どもなのだ。
きっと愛情の重さと言うのは、好きになってからの期間ではなく、年齢と頭の固さで決まるものだ。
(……立ち直れないかもしれない)
深く考え込んでいる間に、人の足音が増え、そして少なくなっていた。皆、花火が終わればもう用はないのだろう。次は何処に行こうか、なんて若い声が飛び交っている。いい時間だからそろそろ帰れと教師としての脳が叫んだが、彼らには届かない。
こんなところで蹲って、頭を抱えて、うんうん唸っていればいずれ通報されるかもしれない。分かっていても体は動かなかった。祭りが完全に終わって、最後の一人になるまでここにいようと決めている。なんだったら日付が変わるまで待っていてもいいと思っている。
(…………重いな……)
一周回って、面白くなって、笑ってしまうくらいだ。どうせ不審者扱いされるなら大声上げて笑ってやろうかとも考えた。
しかし。
「おい」
真上から降ってきた声にピタッと体の動きが止まる。心臓も呼吸も瞬きも、全てが止まる。
「アンタ、周りからすっげぇ目で見られてんぞ。勘弁しろや」
話しかけようにも近付けねぇだろうが。
「格好つけて置いてったくせに。何やっとんだ」
ギギギ、と軋む音がする首をどうにか動かして、顔を上げた。石段の一番下で小さくなっている自分の目の前にいるのは、どう見たって爆豪勝己だった。
「つうか、向こうじゃなくてちゃんと場所で言えや。結構探したんだからな」
太々しく腕を組んで睨むようにこちらを見下ろしてくる。手に持っていたはずのコーラはない。相澤は、ぱか、と口を開けたままで動けないでいた。限界まで息が止まっていたが、もう一度「おい」と低く呼ばれてやっと再開した。酸欠だった脳がようやっと正常に稼働する。
「…………お、まえ、なんで、来たんだ」
「アァン!?」
ふざけんなよ、と目がつり上がっていく。
「し、知らんぞ、俺は、連れて帰るぞ」
けれど、相澤がそう続けたことで、爆豪の怒りは一旦収まって、ふうと軽く息を吐いた。それから相澤と視線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。
「アンタを探し回って、暑くて、喉が渇いた」
コーラは温くなっていたし、すぐに飲み干してしまった。あれじゃあ足りないと爆豪は言う。
「あ、新しいの、買うか……?」
「本気で言ってんじゃねぇだろうな。ふざけんな。馬鹿かよ」
ガシガシと頭を掻いて、呆れたような顔をしている。
それから。
「連れて帰ってくれんだろ。茶ァくらい出せ」
相澤はここが何処かも忘れ、両腕を広げて爆豪を捕らえるように抱き締めた。





* * *




ゆっくり出来るようにと、遠い場所を選んだことをこれほど恨んだことはない。
駅のホームまで歩いていく間も、電車に揺られている時も、やっぱり気が変わったからと逃げられたらどうしようかと気が気じゃなかった。乗り換えを間違えそうになって、爆豪に話しかけられても声が上擦って。とうとう涼しい電車の中で爆豪は肩を震わせ、顔を両手で隠して笑い出してしまった。つけたままの赤いリボンが一緒に揺れる。
「年上を揶揄うな」
「か、から、……プッ、くふ、ふ……からかって、ねぇよ」
「…………」
「拗ねんなって」
相澤が不貞腐れて顔を背けると、笑いそうになるのをどうにか堪えた顔で爆豪が覗き込んでくる。笑い過ぎたせいなのか、汗をかいて擦ったからなのか、別の理由なのか、明るい電車の中で見ると爆豪の目尻がうっすらと赤くなっていて何とも言えない気持ちになった。
「いい考えがあんだよ、まぁ聞けって」
「なんだ」
「先生の家に行こうかと思ったけど、やっぱり止めようぜ」
「……それのどこがいい考えだ、お前、本当にふざけんなよ」
「顔が怖ぇわ。ちゃんと聞けや」
「……」
「先生の家より、俺の家のほうがここから近いんだよ」
「……」
「だから、俺の家にすんぞ」
ちょっとでも早く帰りてぇだろ。
続けて言われて、更に爆豪がそっと体を寄せてくるものだから、相澤は腹の底から絞り出すように低い声で「行く」と答えた。
「だから、顔が怖ぇんだよ。必死過ぎんだろ、おっさん」
言って、爆豪はまた笑い出してしまった。

行き先が変更したことで、主導権が爆豪へと渡る。爆豪は乗り換えを間違うことはなかったし、何を尋ねてもスムーズに返答してくれた。格好つけずに最初からこうしていれば良かったと、後ろを歩きながら頭を掻いた。
「先生、こっち」
閑静な住宅街の中の一角。三階建て、二棟並んだエレベーター無しのマンション。真新しいとは言えない外観だが、自分が仮住まいで借りているアパートよりずっと今風のお洒落なものだった。
「このマンション、住んでるヒーローは俺だけなんだよ」
「そうなのか」
「管理人はヒーローマニアだからもっと住んでほしいっつってるけど、俺ァ誰もいないほうがいい。だから選んだ」
「まぁそのほうが気が楽だよな」
一度だけ、事務所や管轄が被っていないヒーローと同じアパートに住んでいたことがある。
勿論部屋は別だったし、関わりだってそうない。けれど、そのヒーローが夜中に呼び出される度に慌ただしい音がして、何度も目が覚めてしまった。きっと、相澤が呼び出されたときも、そのヒーローは自分のことのように起きてしまっていただろう。要は気が休まらないのだ。
大通りの道路側からは隠れるようにして建っている棟のエントランスを抜けて、階段を上がる。爆豪の部屋は三階らしい。
「三階だと、急いでるときにベランダから飛べる」
「成程な。合理的だ」
爆豪がポケットから鍵を取り出して、解錠。ガチャリと音がして、ドアノブを引こうとしたその手を後ろから掴んだ。
「――最後に言っておくが、俺は、帰らないからな」
いいんだな。知らないぞ、と忠告をする。
すると、爆豪がドアノブを見つめたまま、先生は狡いと小さく零した。
「終わらせようって決めたのに、アンタはその度俺を引き留める」
 セックスだけで充分だと思った。デートが出来たからこれ以上の思い出作りはいらないと覚悟を決めた。初恋は叶わないものだから、叶わなくていいのだと腹を括った。それなのに、とほんの少しだけ声が震えていたから、泣いているのかと思った。
けれど、振り返ってきた石榴色は、いつも通りの強さをそこに秘めていた。
「これから先を円満に過ごして、落ち着ける住処を作って、なんざちっとも想像出来ねぇくせに、何度終わらそうとしたってアンタが手を取ってくれる未来は想像出来るようになっちまった」
 だから諦めきれなくて、こうなったら手を取ってやると開き直ってやったのだと、そうしようと俺が決めたのだと、爆豪が続ける。
そして。
「消太さん。俺がアンタを帰さねぇんだ」
 もう捕まえたからな、覚悟は出来てんだろうな、と眦を眇める。
 相澤は、知らず口角が持ち上がっていた。何とも言い得ぬ高揚感が胸の中を満たして、それが全身へと広がっていく。
そうだ、この目だ。どこまでも強気で勝気で、負けなど絶対に認めない力強さが堪らない。
 返事を返す余裕などない。爆豪の手の上からドアノブを掴んで抉じ開ける。先に解錠されていて良かった。ドアを壊さなくて済んだ。後ろから押すようにして爆豪ごと自分も部屋の中へと入り、靴を脱ぐ時間すら我慢できずにフローリングに押し倒す。頭や体を打ち付けないように気が回せただけ褒めてほしいくらい。
「せんせ……ッ!」
 無人だった部屋は噎せ返るほどに熱い。体温が更に上がって茹だりそうだ。それでもリボンが揺れる左手で爆豪の頬を掴む。もう一度、先生、と呼ばれる前にキスをした。
 三回のデートの間は、手を繋がない、セックスもしない。そう決めていたけれど、もういいだろうと勝手に約束を破って口腔内を堪能する。色気なんてない、甘ったるい炭酸の抜けたコーラの味がする。それでも相手が爆豪だというだけで、何もかもが満たされて、けれど何もかもが足りなくて飢えて、渇いて、仕方がない。もっと欲しい。もっと食べてしまいたい。
「しょうたさ、しょうたさん……!」
 その渇きを満たすように爆豪が口を開けて舌を放り出す。相澤は何も言わず、本能のままにそれを甘く齧ってから食べてやった。お互い、だらしなく唾液が零れて、口の周りが汚れて、それでも終わることはない。爆豪の両腕は首に絡みついてくる。ニトロの甘い香りがいっそう強くなって、頭が馬鹿になっていく。
「好きだ、爆豪、かわいい、好きだ」
 もっと、ちゃんと、出来る限り格好つけて気持ちを伝えようと思っていたのに。蓋を開けてみれば大人の威厳も矜持も感じられない、間抜けな告白だった。
 なのに、爆豪はくしゃりと顔を歪めてから、ヒグッと声を詰まらせた。
 そして。
「あ、アンタに、っ、しょ、うたさんに、好きって、い、言って、もらいたかった……っ」
 嘘でもよかった。偽物でもよかった。一夜限りでも良かった。
「う、れ、しい」
 ひくひくと本格的に泣き出してしまった爆豪に、あの日と同じと思うなよと意地悪く笑う。もう何も知らないわけでも、流されているわけでもない。
言葉の意味が分かり、慌てて逃げるように両腕で顔を隠してしまった恋人に、優しいキスと愛の言葉を降らせていく。
終わりのない、正真正銘の愛の言葉は、可愛い恋人を更に泣かせる羽目になってしまった。

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