嘘だと言ってよ、ベイビー 2

フロイドと共同の自室にこれでもかと散乱した雑誌の数々。足の踏み場もないほどの量に、扉を開けたジェイドが大きく瞬きをして固まった。
「フロイド、これは?」
「え〜、陸のレンアイ系の雑誌。何がいいかわかんねぇから片っ端から取り寄せてもらったぁ」
「恋愛のお勉強中、といったところですか」
「そんな感じ。結構面白いよ」
数日前、廊下で固まっていたフロイドを回収したジェイドはすぐさま状況を理解し、開けたままで床に落ちている雑誌をひとつ手に取った。
ペラペラと適当に捲るだけでも、恋愛について事細かに書かれている。初デートの誘い方。女の子へのNGワード。人気なフレグランス。デートスポットランキング、その他諸々。
デートスポットランキングに山の字が入っていないことに眉を顰めながら、ジェイドは雑誌を閉じて、幾つか拾ってテーブルの上に置いた。
「全部鵜呑みにする必要はないと思いますが」
「鵜呑みにはしねぇ。けど、今のまんまじゃだめだってことは分かったから」
「そうですか」
あまり根を詰めすぎないように、とだけ忠告してジェイドは部屋を出て行こうとする。
「何か用だったんじゃねえの?」
「あぁ、アズールが呼んでいたのですが、僕ひとりで十分です。フロイドはお勉強を続けてください」
もしも成果があったなら、その時は一番に教えてくださいね。
にっこりと口角を上げたジェイドにフロイドは「ありがと」と言い、再び雑誌に視線を落とした。


***


都合のいい聞き間違いでなければ、監督生は随分と前から自分のことを好きでいてくれたようだった。そして今も好きでいてくれている。
ならば、フロイドがまずしなくてはいけないことは「遊び人」という称号を取っ払うことだ。あれは元々厳格な審査の上で与えられた称号ではない。ただの言葉の掛け違いなのだ。
かと言って、あれは全部嘘です、間違いです、オレは清らかな童貞です、と言い張ったところで監督生は信じてくれないだろう。「私に気を遣わなくてもいいですよ、ところでそろそろ飽きましたか? 別れますか?」なんて言われそうだ。
そんなことを言われたら今度こそ息が止まる。とっとと海に帰ってアズールの蛸壺を奪って引き籠りのウツボになるしかない。

──では、どうするか。行動で示す他ない。

「小エビちゃん。これね、モストロで新しく出そうと思ってんだけど、味見してくんない?」
「わ! もちろん、いいですよ」
飽きるなら早く捨ててくれ、と言っていたが、監督生はフロイドが近寄ってくることは許してくれている。好きだからこそ、完全に拒絶することは出来ないのだろう。その甘さを利用することにした。
昼休みは大食堂で姿を見かけることが多いから、そのタイミングで新作の料理をお弁当箱に入れて持っていく。監督生は食事しているときは無防備だ。何もかもを忘れた顔で、嬉しそうに頬張って「美味しいです」と笑ってくれる。他愛のない話をして、少しずつ触れていく肌を許してくれる。
「オレね、美味しいって言われてこんなに嬉しいの小エビちゃんが初めてだよ」
その笑顔を見るだけで、あれほど面倒だった称号の撤回も頑張ろうと思える。

勿論、フロイドが考えたのは餌付けだけではない。
雑誌で得た知識をフル活用しつつ、週末はオンボロ寮に遊びに行くことにした。
少しずつ自分の私物も置いて、執着心を見せつける。でもまだお泊りはしない。どんなに夜遅くなろうと絶対にオクタヴィネル寮に帰るようにしている。キスだってしていない。人間は手順というやつを重んじるらしいから。
ただ、どうしても自分の気持ちに素直に生きているので、早々に、ぎゅうっと抱き締めて、髪の毛を梳くことくらいは許してくれと頼み込んだ。
そして、このスキンシップはわりと功を奏しているのではと考えている。
オンボロ寮の古い、けれどそれなりに大きいソファに座って、太腿の上に彼女を乗せる。そのまま正面からハグをする。すう、と息を吸えば全身が監督生の匂いで満たされて、お返しに自分の匂いを擦り付ける。誰にも盗られないように。
「小エビちゃん、いい匂い。かわいいねぇ」
好き、好き、と。
全身から溢れ出した感情を「かわいい」という言葉に乗せて、監督生にこれでもかと伝える。
そうすれば、おずおずと背中に手が回されて、肩口に頭が寄りかかってくる。
「フロイド先輩の方がいい匂いがします」
「今日ずっと厨房にいたからね」
「成程、お腹が空きますね」
「何か食べよっかぁ」
話ながらもホッと息を吐いて、体を弛緩させる監督生が愛おしい。
けれど、いつもならすぐに「食べます、食べたいです」と主張してくる口は静かで、背中に回された手に力が入る。
「もうちょっとあとにする?」
「……はい」
こんな風に甘えてくれることが多くなってきたので、やっぱりスキンシップの効果は絶大なのだと小さくガッツポーズをした。

──この数週間後、再び絶望するとは知らずに。



***



すん、と鼻を鳴らせば、いつもと違う匂いがした。

最初は正体が分からなかったそれは、監督生と一緒に過ごすうちに理解出来るようになった。甘くて、雄の本能を掻き立てる匂いは排卵日。それが落ち着いてくると生理がはじまる。
好きだと自覚して初めての排卵日など、フロイドにとって地獄でしかなかった。
あの甘い匂いに理性という理性を全部持っていかれて、打ち砕かれて、タイミング悪く喧嘩を吹っかけてきた上級生をうっかり病院送りにして、反省文三十枚書かされてしまった。
謹慎にはならなかったけれど学校になんていける気がしなくて、アズールやジェイドには適当に言い訳して三日間部屋に閉じこもった。その後二日はモストロ・ラウンジの水槽の奥底に閉じこもった。
人間の姿であれだけ興奮して自慰が止まらなかったのも初めてだったので、生理が終わる頃にようやっと顔を合わせた時、人は罪悪感で死ねると悟った。

それからは、随分と気を付けるようにしている。
甘い匂いがし始めたらとにかく監督生と顔を合わせない。距離を取る。モストロ・ラウンジに顔を出しに来てくれても、手が離せないからと厨房から出ないようにしている。付き合う前も、付き合ってからもそうだ。
だって、普段でも監督生の匂いが大好きで仕方がないのに、排卵日の匂いなど真正面から受けてしまったら馬鹿みたいに白目剥いて泡を噴いて気絶してしまうかもしれない。気絶するだけならまだいいが、暴走して襲って泣かせてしまったらと思うと気が気でない。
そんな失態は絶対に嫌だ。
スカした顔をして大人びていたとしても十七歳。まだまだ彼女の前では格好をつけて生きていたい。

それにしても今回はいっそう匂いが濃ゆい。
これは駄目だと直感したフロイドは、廊下の向こうからやって来る監督生に気付きながらも、手を振る余裕もなく背中を向けて距離をとることにした。
この非礼は、また生理が終わったころにすればいいと、そう思っていたのだ。


結局、匂いが完全になくなって、冷静な自分が取り戻せるまで約十日間。フロイドは仕方なく監督生を避けに避けた。
とは言え、逃げてばかりでは駄目だと、エースやデュースだけを掴まえて、監督生用に作ったお菓子やお弁当を届けてもらっていた。どんなに仕事が忙しくても彼女を疎かにしてはいけないと、雑誌に書いていたのでフロイドは頑張ったのだ。
そうしてようやっと清々しい気持ちで、放課後に監督生を迎えに行った。
「小エビちゃん、今日はオレとデートしよ」
中庭で話をするのでも、図書室で勉強をするのでも、ノートを運ぶだけでもなんでもいい。一緒に話をして、そうして監督生の存在を摂取したかった。今日しないと絶対に干からびる。絶望の顔をしたウツボの干物なんて、購買でも、食堂でも、モストロ・ラウンジでも取り扱ってくれないだろう。
「そうですね。私も先輩と話がしたかったので、……どこか静かなところがいいです」
「うーん、図書室?」
「静かですけど話はしちゃだめなんですよ」
「じゃあ裏庭は? 中庭より寂れてるけど静かだよ」
「いいですね」
やったー、とフロイドは感情を隠すこともなく両腕を高く持ち上げて喜んだ。

裏庭は日陰になっている部分が多いからか、あまり人が寄り付かない。とは言え、きっちりと管理されているのでオンボロ寮の庭とは比べ物にならないくらいに綺麗だ。
等間隔に三つ並んでいるベンチのうちのひとつに二人で座って、会えなかった間のことを話した。
特に大きな事件があったわけじゃない。グリムは相変わらずツナ缶ばかり要求するし、お金はないし、エースもデュースも騒がしくて、ジャックが大人に見えて仕方ない。でも一度ゲームや勝負事を交えるとジャックも大人気なくなって面白い。
フロイドも話をする。今度アズールが始めようとしている商売の話。それからまたジェイドが山に行ってこれでもかと茸を持って帰ってきた話。新作メニューがどれもピンと来ないからまた試食してほしいっていう次のデートのお誘いも織り交ぜた。
一時間ほど飽きずに話をして、ようやっと会話が落ち着いてきた頃に、フロイドは監督生の右手を取った。
彼女の手は小さい。上から包み込むように握ればあっという間に見えなくなるくらい。爪だって自分の半分くらいかもしれない。
その手を取って、自分の頬へと導いた。
「小エビちゃんの手ちっちゃーい」
こんな小さな手じゃ頬だけでいっぱいいっぱいだ。フロイドはへらりと笑いながら、甘えるように小さな手に擦り寄った。
抵抗されないことと、久しぶりに監督生に触れることが出来たことで、いっそう上機嫌になっていくフロイドは、あっと言う間に距離を詰めていく。
監督生の腰に手を回して体を密着させ、花のような匂いがする髪の毛に顔を擦り寄せる。
すると。
「──……先輩」
そっと、小さな手が二人の間に割り込んでくる。フロイドの胸をそっと押し返してくる。
「なに?」
もっと触りたくてしかたがないのに、邪魔をされて僅かに機嫌が悪くなる。フロイドの低くなった声に、びくりと震えた監督生の肩。しかしそれをフロイドは見逃した。
「オレ、もっと触りたいんだけど」
何日触れなかったと思ってんの、続ければ、俯いていた監督生の顔が持ち上がる。
そして。
「あの、私、処女なんです」
と言われてキョトンとした。
予想斜め上からきた言葉に脳が止まってしまって、処女という言葉の意味を懸命に思い出すところから始めた。
頭の中の辞書を引っ張り出して、捲って、ようやっとそう言えばまだ交尾をしたことがない人間のメスはそういうのだと思い出した。ちなみにオスは童貞だ。自分のことだ。間違いない。
「……へぇ、そうなんだ」
ただただ単純に、フロイドは嬉しい。
だって監督生はまだ誰のものにもなってない。誰にも触られていない。触られていてもそれは別に気にしないのだが、でも自分しか知らない監督生というのは非常にテンションが上がってしまう。
あぁ、やっぱり早く今のうちに誤解を解いて、自分のものにしたい。腹の底がむずむずする。排卵日のあの匂いがどこからともなく漂ってきた気がして喉が鳴る。
でもここで笑ってしまっては、馬鹿にしたように思われるかもしれない。人魚と違い、人間は処女や童貞を恥ずかしがる傾向があると雑誌で読んだ。
(ちゃんと勉強しててよかった。オレえらーい)
だから、あまりジロジロ見ないように顔を背けて、極力興味がなさそうに「ふうん」と、もう一度反応を示した。
すると。
「──……やっぱり面倒くさいですよね。そうかなって思ったんで、まぁ予想通りなんですけど」
これまた予想斜め上の言葉。
慌てて監督生の顔を見れば、どこかスッキリしたような、それでいて悲しそうな色をしていた。
「誰か、面倒じゃないって言う人に、適当に抱かれておいたほうがいいですよね」
「…………え、」
ちょっと待て。待ってくれ。
理解が追いつかない今、監督生は何の話をしているのだ。どうしてそういう結論になった。フロイドの頭の中は恐慌状態である。
「……は?」
喉が張り付いて上手く声が出ない。
「私は先輩が好きなので初めては先輩がいいんですけど、こればっかりは自分じゃどうしようもできないので。……多分ケイト先輩なら顔も広いし、適当な人見つけてくれそうなので相談してみます」
大丈夫です、分かってましたから、と続く。
「だって先輩いつも私の生理が始まると来なくなっちゃうし、お泊りしないのだって、今以上のことしないのだって、私のガードが堅いのが悪いんですよね。……でも、やっぱり、ちょっとこわくて」
だって先輩は他の人を知ってる。私以外を知っている。私はきっとうまく出来ないのに。どう頑張ってもその差は埋まらなくて、自分じゃどうしようもなくて。
「捨てないでくれてるから、せめて、エッチくらい、ちゃんと出来るように頑張りますから」
監督生の言葉がどうしようもなく心臓を抉って来るのに、なのに頭が理解してくれなくて、ただ血を流して固まっているだけだ。
「準備が終わったら私から声かけるんで、それまでは会いに来ないでください」
一拍置いて、上手く笑えていない顔で、それでも笑う。
「フロイド先輩見たら、甘えちゃいそう」
困ったように、泣きそう顔で笑うのに、それがあまりにも綺麗でフロイドは目が離せない。伸ばそうとした手は固まったまま、でも頭の中でずっと警鐘が鳴り響いている。耳鳴りまで始まって痛いくらいだ。
行かせるな、だめだ、と声がする。
そう言われても、なんと言えばいいのかわからない。なんと言えば正解なのか、なんと言えば監督生が泣かなくて済むのか、答えが見当たらない。

──ただ、自分の好きはまだ伝わっていなかったのだと理解して、深く絶望した。


監督生がいなくなった裏庭で、フロイドは固いベンチに倒れ込んだ。長い足を折り畳んで小さくなる。上手くいっていると思ったのに。好きだという気持ちが伝わっていると思ったのに。
こういうときどうすればいいのか、そんなことまでは雑誌には書いていなかった。
だから自分で考える。でも考えたってわからない。わからないから動けない。悪循環だった。
鼻の奥がツンと痛んで、息が苦しい。陸での生活なんてとうに慣れたと思っていたのに、息苦しくて仕方ない。心臓が痛くて仕方ない。口を開けても酸素が上手く取り込めない。眼窩が熱くて、視界がボヤけて、一歩だって歩けそうにない。

あの子が隣にいないだけで、こんなに息苦しいのか。

「──フロイド、ここにいましたか」
「じぇいどぉ」
久しぶりに聞いた自分の声は随分と情けなかった。ぐず、と鼻を啜って、顔を隠していた手を退ける。すると、ジェイドの目が驚いて丸くなって、それから悲しそうにくしゃりと歪んだ。フロイドにも経験がある。双子は感情の共有をしやすいのだ。
スラックスが汚れることも厭わず地面に膝をついたジェイドが、いつも以上に乱れてしまっている髪の毛を整えてくれる。それだけでも、監督生の手を思い出してしまって、息が詰まった。
「ジェイド、オレ、小エビちゃんが好きなのに、ずっとここが痛い」
心臓の奥底。きっと心というやつがあるところがずっと痛い。好きだけど、──いや、好きだからこそ、もうずっと痛い。いっそのこと一思いに引き千切って、かなぐり捨ててくれればいいのにと思うほどに。
「オレ、もう、わっかんねぇ」
とうとう、フロイドの喉がヒグ、と引き攣って、垂れた眦に引っ掛かっていた涙が落ちていく。
「小エビちゃんが、すきなのに」
ただ、好きなだけなのに。

なのに、どうして。
あの子は自分だけのものになってくれないんだろう。

好きと言ったその口で、他の人に抱かれてくるなんてことを言うのだろう。

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