嘘だと言ってよ、ベイビー 3

「監督生さん、少しお話ししませんか?」
僕が作ったものでよろしければ、焼きたてのホットサンドと紅茶をご用意いたしました。
さぁ授業が終わったから帰ろうかとエースと話をしていれば、音もなく背後に立ち、恭しく胸元に手を置いて、声をかけてきたのはジェイド・リーチだった。
クラスどころか学年が違う彼がこんなところに現れるとは夢にも思わず、エースや他のクラスメイトと共に監督生は奇声を上げる羽目になった。
「そんなに驚かなくても」
しょんぼりと眉を落として悲しそうな顔をしているジェイドの腕を引っ張って、教室を飛び出した。これ以上騒ぎを大きくしたくないという本能からの行動である。
ちなみにグリムは、監督生が奇声を上げるその後ろでデュースのもとへと逃げていた。
「……フ、フロイド先輩から、何か頼まれたんですか?」
自由な放課後を謳歌しようとしている人たちが行き交う廊下の隅で、監督生はジェイドに聞いた。
だって、フロイドとあんな話をした、昨日の今日だ。今まで一度だって二人で話そうなんて誘ってきたことがないジェイドを疑うのも無理はない。
「いいえ」
剥き出しの猜疑心そのままを視線に乗せて目を合わせても、ジェイドは嫌な顔一つせず、というよりも笑顔を貼り付けた顔を一ミリだって崩さずに首を横に振った。
「じゃあ、何か聞きましたか?」
「ふふ、疑り深いですね。ただ貴女とお話がしたくて、こうしてホットサンド片手にやって来ただけですよ。ラウンジの開店時間が来るまでで結構ですから」
にこやかにジェイドが伝えたところで、監督生の警戒レベルは引き下げられることはない。信用されてないですね、と泣き真似をした後で、ジェイドはそっと顔を寄せてくる。長い腕に抱えられたままの紙袋から、ホットサンドのいい匂いがした。
「フロイドはずっと自室に引き籠ったままなんです。授業に出るどころか、海にすら行こうとしない。お陰で僕は部屋を追い出されている状態です」
自室に入ろうとすれば拒否されて、アズールの部屋にお邪魔しようとすれば邪険に扱われているのだという。だから少しくらい慰めてくれてもいいじゃないか、と。
フロイドが自室に引き籠もっている理由に見当も付いていない監督生は、何故自分がジェイドを慰めなければいけないのかが分からずに眉を顰めた。そもそも、海であろうと陸であろうと、自由に泳ぎ、駆け回っている男が本当に引き籠もっているのだろうか。それすら疑わしい。
そんな考えが顔に表れていたのだろう。ジェイドは、ここまで伝わっていないというのも一種の才能ですねと苦く笑った。



厚切りのハムとコーン、たっぷりのチーズ。それから少し濃い目のデミグラスソース。紙袋からお目見えしたホットサンドは、授業で疲れた体に染み渡っていく。
廊下から景色のいい中庭へと場所を移したので、外の空気も相俟って美味しく、頬が緩む。
「美味しい……」
「それはよかった」
こんがりとしたきつね色に焼かれたトーストは噛む度にサクサクといい音を立てる。本当に作ったばかりのものを持ってきてくれたようだ。
学年が違えど放課のタイミングは同じはずなのだが、これに関しては深く突っ込まなかった。いつもの思考が読めないあの笑顔で「知りたいですか?」と聞かれても、きっと「やっぱりいいです」と言ってしまうに決まっている。
「よろしければこちらもどうぞ。あっさりとした飲み物が合うかと思いまして、白桃のゼリーティーです」
「ゼリーティー?」
「はい。一口大に切った白桃を一旦ゼリーにして固め、それを沈めた紅茶です。本当は潰しながら飲んでもらうほうが食感を楽しめるのですが、荒く潰したものをご用意させていただきました」
「……あ、なるほど。新作メニューの試作品なんですね」
「ふふ」
「でも、桃のチョイスは嬉しいです」
放課後の、人が疎らな中庭にはテーブルはない。更に片手はホットサンドで塞がっているので、何もかもを見越しているジェイドが、手間がかからないようにと先に済ませてくれているようだ。
監督生は、好物の桃が沈んだ紅茶のボトルを空へと透かした。
透明のボトルにたっぷりと入った蜂蜜色の紅茶は、陽の光を受けていっそう明るいものになる。発色のいい濃い水色で装飾されたボトルには海を泳ぐ魚が描かれていて、それらと一緒に泳ぐ白桃とゼリーはキラキラと乱反射している。見るだけでも楽しい。
「桃はお好きですか?」
「はい。フルーツの中では一番かもしれません」
「そうでしたか。桃と言っても色々と種類がありますよね。確か、水密種、ネクタリン、花モモ、蟠桃とか」
「え、そうなんですか。私、桃は桃としか認識してなくて」
恥ずかしい、と赤くなった顔で照れたように笑えば、僕も文字としてしか見たことがないのでお相子ですよと言ってくれた。
「キノコだけじゃなくて、桃にも興味があるんですか?」
「いいえ。特に興味があって調べたわけではありません。ただ、目の前にそういう本があったので気になって覗いただけなんです」
「ジェイド先輩、よく図書室で本読んでますもんね」
「僕だけが図書室に入り浸っているわけではないですよ」
「あ、アズール先輩もよく御見かけします」
「アズールなら今日も図書室に行くと言っていましたよ」
言いながら、ジェイドは既に二つ目のホットサンドを紙袋から取り出して齧り付いている。上品に食べているように見えて、かなりの大口だった。それなのにソースの一滴だって零さない。
監督生も、負けじと大きく齧り付く。
「ゆっくり食べていいんですよ」
まだありますから、と紙袋から三つ目が出てきたときには笑ってしまった。あれは四次元と繋がっているのだろうか。あといくつ出てくるんだろうかと興味が湧いた。
「食べられるようならもう一種類作っているので、食べてくださいね」
「や、流石にお腹がいっぱいで。……ちなみに具材は?」
「こちらは、ツナと玉葱をマヨネーズで和えたものにキャベツの千切りをたっぷりと乗せて、」
「い、いただきます……っ!」
「はい、どうぞ」
お腹はいっぱいだったのに、具材を聞いただけで欲しくなってしまって手を伸ばした。フルーツティーだけでなく、ホットサンドも監督生の好みだったのだ。
「やっぱりツナマヨにはレタスよりキャベツが合うと思うんですよね」
「レタスはお嫌いですか?」
「嫌いというか、温かいレタスが苦手で」
「なるほど」
ホットサンドにするのならレタスよりキャベツを入れてほしい。厚切りのベーコンより、ハムのほうが重たくなくて好き。トマトは好きだけどケチャップの酸味が苦手だからデミグラスソースが嬉しい。
謀らずも、どれも監督生の好みで、美味しさの幸せにどっぷりと浸ってしまう。
ジェイドに対する警戒心も二つ目のホットサンドもあっという間になくなってしまった。
だから。
「試食係に選んでいただけて良かったです」
「試食係ではありませんよ」
即座に返ってきたジェイドの言葉に、呑気に首を傾げた。
ジェイドは、三つ目のホットサンドを胃に収めるとハンカチで口元を拭った。そして、飲みかけのフルーツティーが入ったボトルにきっちりと蓋を閉め。逆さまにする。海を切り取ったようなボトルの底。書かれていた名前は「フロイド・リーチ」である。あっと声が出た。
「フロイドが、貴女とお揃いにするんだって意気込んで作ったオリジナルボトルです。容器の大きさからデザインに至るまで、フロイドが全て考えたものです」
言われて、監督生は慌ててボトルの底を覗き込んだ。こちらには「小エビちゃん」と書かれている。お世辞にも上手いとは言えない独特な文字は、紛れもなくフロイドのものだった。
「今朝出来上がって寮に届いたのですが、生憎部屋に入れてくれないものでして。勝手に持ってきちゃいました。一番に使ったと知れば、流石に怒るでしょうね」
確信犯の顔をしているジェイドに、監督生は苦笑いを返す他ない。どうやら思った以上に部屋を追い出されたことを怒っているようだ。
「ホットサンドとフルーツティーは、以前フロイドがレシピをノートに書いて部屋に置きっぱなしにしていたので、それを思い出しながら作ったものです。きっと細かい部分はフロイドの頭の中にあるのでしょう。所々は僕のオリジナルです。ですので、不手際があれば申し訳ありません」
「い、いえ、そんな、どれも美味しくて、」
大きく首を横に振って、美味しかったのだと伝える。だって本当に美味しかった。どれも自分の好みのもので、自分のためだけのメニューみたいで、一口一口が幸せだった。
「……あの、やっぱりフロイド先輩から何か聞いてますよね……?」
「はい。それはもう」
観念したように聞けば、ジェイドは素直に頷いてくれた。よくよく考えてみれば、誘われたときはちゃんとした答えを聞いていなかった。あぁ、やられた。監督生は頭を抱える。
「ごめんなさい、私そろそろ、」
帰ります、と言いながら残り少ない紅茶が入ったボトルを置いた。
すると。
「──小エビちゃん、メシ食ってる時はオレのこと見てくれんだよねぇ」
ここ最近ですっかり耳に馴染んでしまった声が聞こえて体が固まった。思わず周りを見渡すも、誰一人いない。ジェイドは、クツクツと機嫌よさそうに笑っている。
「……は?」
今の先輩が? と、目をぱちくりとさせればジェイドが頷いた。
「以前フロイドがそう言っていたんですよ。確かに、食事しているときは素直で警戒心が欠片もありませんね」
フロイドの声が消えて、ジェイドの声に戻る。双子だからと言ってここまで声も似せられるのかと純粋に驚いた。次いで、ジェイドにもフロイドにも自分が知らないところで揶揄われ、笑われていたのかと体が熱くなった。
「く、食い意地が張っててすみませんね!」
「そういうことは言っていませんよ。素直で警戒心がないから普段よりも話しやすく、可愛らしいと言っているのです」
「そうは聞こえませんでしたけど!?」
「おやおや、それは失礼しました」
以後気をつけます、とまた胸元に手を当てて、全く悪びれていない顔で謝ってくる。だが、そんなことはもうどうだっていい。さっさとこの人から離れてしまおうと、今度こそ立ち上がった。
しかし。
「やはり、人の言葉など聞き手によって都合よく解釈されてしまうものですね」
歌うように、呪文を唱えるように、するりとジェイドの唇から零れる言葉は監督生の足を捉えて離さない。
「言葉は難しく、それでいて面白い」
一度そう受け取られてしまえば、言葉を発した側の意図とは違っていたとしても取り返しがつかなくなる。あとは勝手に事実となってしまったものが独り歩きするだけ。
「特に自分では想像し難い異種属の恋愛話など、正確に飲み込むことは容易ではない」
離れようとしているのに、折角立ち上がったというのに、囚われた足が自分の意志通りには動いてくれない。耳はジェイドの言葉を取りこぼさないように必死になっている。
「フロイドは必要以上に説明したり言葉を重ねたりすることを、その時の気分でやめてしまいますから、そうすると聞き手は勝手に正解を作り上げてしまうんです」
ギギギ、と音を立てて監督生は首を捻る。よく誤解されることが多かったんですよ、と昔話をしているジェイドと視線が絡む。
確かに、フロイドのそういう話にはひとつ心当たりがある。
「桃と一言で言ってもどの種類を指しているか分からない。キノコと一言で纏めたところで実は数百種類以上ある。だから、言葉を発した側の頭の中に何が浮かんでいたのか、何を思い描いていたのか、言った本人じゃないと正解は分からない」
なのに。
「何故、聞き手側の言葉だけを信用するのでしょうか?」
不思議です、と首を傾げたジェイドの長い一房の髪の毛が揺れる。
「あ、あの、待って、ください」
発した声は掠れていた。ジェイドは今何の話をしているんだと、頭の中では脳が急速回転している。ギュルギュル、と思考回路は嫌な音を立て、今にも火を吹いて焼き切れそうだ。
「特に支障がなく、面倒だからという理由で放置していたフロイドにも多少は責任があるかもしれませんが、誰一人として真偽を確認しないというのも問題だと僕は思うんです」
「ジェイド先輩、あの、主語、主語が欲しいです」
「おや? フロイドの話ですよ?」
「それは分かってるんですけど、フロイド先輩の、何の話をして……」
「貴女が思い浮かべている通り、と言いたいところですが、今お話をしたばかりですからね、ちゃんと答え合わせをしておきましょうか」
にこやかな眦はそのままに、ジェイドがゆっくりと立ち上がり距離を詰めてきた。フロイドと全く同じの様で、その実全然違う大きな手が、グローブ越しに両頬を包んでくる。凡そ真上を向くように顔を持ち上げられた。
西に傾いていく夕日が、ジェイドのピアスを煌かせた。透明感のある青に、深みのある橙が混じって、チカチカと小さな星が飛ぶ。
「監督生さん、どうか信じて」

──貴女はフロイドの初めての人なんです。

「有象無象の声よりも、フロイドの言葉を信じて。フロイドの言葉を聞いて。お願いします、初恋は実らないなんてお伽噺の中だけで十分なんです」
ユニーク魔法を使われるかもしれない、なんて微塵も考える暇がなかった。だってジェイドの声色は、ただただ純粋に兄弟を案じている、兄であり弟でもあるものだったから。
(……あ、そうだ、わたし)
ジェイドの言葉に触発された海馬が、フロイドとの記憶を蘇らせる。心の中に風が吹き込んできた気分だ。

──小エビちゃん。オレと付き合ってよ。

賑やかな大食堂での、何気ない告白。普段と何ら変わらない声で、態度で、ムードなんてものは欠片もなかった。
あの時、フロイドはどんな顔をしていただろう。

──他の女の人と同じように、飽きたら捨てるとか、そういうのは、出来るだけ早くして欲しいです。

静かな廊下で、自分を追いかけてきてくれたフロイドに言い放った言葉。
あの時フロイドはどう思ったのだろう。

──捨てないでくれてるから、せめて、エッチくらい、ちゃんと出来るように頑張りますから。準備が終わったら私から声かけるんで、それまでは会いに来ないでください。

あぁ、こんな言葉を投げかけておいて、フロイドがどんな瞳をしていたのかすら思い出せない。ちっとも見ていなかったのだと思い知らされる。彼からも、彼の噂からも、ずっと目を逸らしていた。
ジェイドの言う通りだ。
他の人がみんなそう言っているから、フロイドは他の女性を既に知っていて、慣れていて、自分などすぐに捨てられてしまうのだと思い込んでいた。
けれど、本当はフロイドと向き合って話をすべきだったのだ。こんな話を聞いたのだけど本当なんですか、と。たった一言で良かった。
事実と違うのならフロイドは「はぁ? 全然ちげーし」とか言って不機嫌そうに唇を尖らせただろう。それから「オレは、小エビちゃんしか知らねぇの。どう? 嬉しい?」なんて言ってくれたかもしれない。


──もしかしたら、ずっと欲しかった「すき」の一言が貰えたかもしれない。


「わ、たし、フロイド先輩に、好かれていたんでしょうか……?」
話を聞いても尚、自信は持てない。
ジェイドは初恋だと言ってくれたけれど、本当に好きだと思ってくれていたのだろうか。自由という言葉を体現したような人魚が、何の取柄もなく、生きるための魔法すら使えない自分を好きになってくれたのだろうか。
縋るようにジェイドの腕を掴んだ。制服が皺になってしまうのに、思わず力が入ってしまう。そうしないと、見っとも無く子どものように泣いてしまいそうだった。力を籠めた腹が震えて、呼吸が浅くなる。ふ、と吐き出す息が熱い。
「付き合って、って言われて、でも、す、好きって、言われてことがなくて……ッ」
必死になって訴えれば、ジェイドの目が丸くなって、それから困ったように笑った。
「あれだけ陸の雑誌を読んで、貴女を喜ばそうと必死になっていたのに、そんな初歩的なことをすっ飛ばしていたんですね」
では、とジェイドの手が離れた。
「それは本人に聞くのが一番ですよ」
なにせ、正解はフロイドの頭の中にしかないのだから。
離れていったジェイドの手がマジカルペンへと伸びた。宝石がキラリと煌いたと思えば、それで頭をポンと叩かれる。痛くはない。ただ、何とも言えない、不思議なベールに包まれ、丁寧にリボンをつけられ、ラッピングされた気分だ。
「部屋を追い出されているのは本当の話ですので、何があってもいいように強めの防衛魔法をかけておきました」
ついでに少しだけ面白い魔法も、と続く。
「さぁ、これで何の問題もないでしょう。聞きたいことはフロイドに聞いてみればいいですよ」
「あ、ありがとうございます……!」
「いえ、きちんと対価は頂きますのでご心配なく。そうですね、……今夜オンボロ寮で一泊させてください。もしも監督生さんがいらっしゃらなくても勝手にお邪魔させていただきます。折角ですので、余ったホットサンドは僕の顔を見て逃げたグリムくんに食べていただきましょう」
ジェイドの提案に、監督生はいっそう泣きそうになって頭を下げた。
そうして背中を押され、大きく一歩踏み出した。息が切れても走って、走って。辿り着いた鏡の中へと躊躇なく飛び込んだ。風の音が止んで、ひんやりとした水が流れる音がする。

一秒でも早く顔が見たかった。
一秒でも早く話がしたかった。

ねぇ、と記憶の中のフロイドに声を掛ける。
振り返ってこちらを見る目は、見たこともないほどに悲しそうで、うっかり涙を一粒零してしまった。それでも走る足は止めない。

こんな私でも、まだあなたの初恋を受け取る権利はあるだろうか。



***



ジェイドにかけられた防衛魔法の意味を十二分に理解したのは、ジェイドとフロイドの共有部屋のドアノブに手が触れた瞬間である。
静電気なんて可愛らしいものではないほどの電流に襲われて、きっと生身の体ならば焼け焦げていたはずだ。それほどまでに誰かと会うことを拒絶しているのだと目の当たりにして、監督生は怖気づきそうになる。
けれど。
(話がしたい)
その一心で手を離すことはない。オンボロ寮のものよりも頑丈で、重みのあるドアノブをしっかりと握って、そっと開く。
「フロイド、先輩……?」
僅かな隙間から顔を覗き込ませて、中の様子を伺った。
声を掛けたが返事はなく、ターコイズブルーの乱れた髪の毛はベッドの上に見えた。うつ伏せになって、乱れたベッドに沈んでいる。
監督生はもう一度名前を呼んで、一歩踏み込む。すると、カサリ、と音を立てて何かを踏んだ。音に気を取られて下を向けば、床の至る所に破り捨てられた紙が散乱していた。
(……これって……)
授業で使用されるモノクロの味気のないプリントでも、校内新聞でも、モストロ・ラウンジのメニュー表でもない。ポップな色味がこれでもかと使われた、学生向けの雑誌だ。
(本当に読んでくれてたんだ)
どれも乱暴に破り捨てられているが、所々に付箋が張っていたり、書き込みがしてあったりと、それだけは見て取れた。
それらと出来るだけ踏まないようにして、もう一度フロイドを呼んだ。今度はちゃんと届くように、大きな声で。すると、自分のものとは比べものにならないくらいに大きな体がビクリと動いて、なに、と不機嫌な低い声が部屋に響く。
「あ、あの、ちょっと話がしたくて、来ちゃって、その、このまま入ってもいいですか……?」
「ハァ? 話がしたい気分じゃねぇし。つうかなに、その変な喋り方」
まぁた変なキノコでも食ったの? ジェイド。
そう名前を呼ばれて、監督生が首を傾げるより前にフロイドの顔がこちらに向いた。大きく長いベッドに寝転がったままで、首を捻るようにしてこちらに向いたオッドアイと目が合った。

──瞬間。

「は、」
監督生を包み込んでいた不思議なベールが霧散した。
ベールを結っていたリボンも一緒になって、泡になるように消えていく。同時にフロイドは顔を青くして、引き攣ったような声を出した。寝転がっていた体が文字通り飛び上がって、少しでも監督生と距離を取ろうと逃げる。
「こ、こえ、こえびちゃん……ッ!?」
大きな背中をべったりと壁にくっ付けて、丸めた布団や枕をぎゅうと抱えて、不機嫌な低い声など忘れたように声が引っ繰り返っている。
(──あ、面白い魔法)
頭の隅で、ふふふとジェイドが楽しそうに笑っている。
どういうものかは分からないが、きっと監督生がジェイドに見えるような魔法でもかけていたのだろう。そして、フロイドと目が合ったことでそれが解けたのだ。
「フロイド先輩、お部屋入ってもいいですか?」
もう勝手に入ってしまっているのだけれど、と苦く笑って許可を求めるが、フロイドはぶんぶんと首を横に振る。
「だ、だめ、入っちゃダメ、オレ、今こんなんだし、部屋も……っ」
確かに部屋の中は雑誌以外にも物が散乱していて、大暴れしたのだろうということは聞かなくても分かる。唯一乱れていないのはジェイドのものであろうベッドとテラリウムだけ。
それにずっと不貞寝していたのかいつも以上に髪の毛が乱れていて、部屋着にしているTシャツは皺だらけで、──それに、それに。
(目が真っ赤だ……)
面白いことを見つけてはにんまりと三日月を描く眦も、黄金色の瞳を浮かべている白目も、全部が痛そうなくらいに真っ赤になっていた。
自分が碌に確認もせずに信用しなかったから。きっと処女なんて面倒だろうから他の誰かに抱かれて来ますなんて言ってしまったから。だから、こんなに目を腫らしてフロイドは泣いてしまった。
(最低だ、わたし)
心底、何もかもが嘘であればいいと思った。フロイドが自分のことを好きでいてくれるのも、何もかもが初めてなのも。全部嘘で、フロイドとジェイドが退屈凌ぎに始めたゲームであればいい。そうすればフロイドが傷ついて、悲しんで、泣くことなんてなかったのに。
「小エビちゃん、ごめん、オレまだ頭ン中整理出来てねぇし、だから、今他の雑魚にだ、……抱かれた、とか、そういう話聞くと、我慢出来る気がしねぇから」
けれどこれはちゃんと現実で、嘘ではなくて、自分が向き合わなければいけないのだ。
監督生は、これ以上逃げ場のないフロイドを追い詰めるように部屋に足を踏み入れていく。どうしたって散らばった雑誌を踏んでしまって、それがフロイドの心を踏みにじっているように思えて心苦しかった。
「──フロイド先輩」
ベッドの近くまで来て、床に膝をついた。乱れたシーツに手を添えて、それから決意が揺らがないように固く握る。
すう、とひとつ深呼吸をした。
「ずっと聞きたかったことがあるんです。……先輩の噂のことです」
枕に顔を埋めて、視線を泳がせているフロイドの指がピクリと跳ねた。
「私はこっちの世界に来てからの先輩しか知らなくて、だから、教えてほしいんです」
先輩は、今まで沢山恋人がいたんですか?
「っ、ちげーし!」
即座に否定されて、きゅうと喉が鳴るくらい嬉しかった。
「オレは小エビちゃんが全部初めてなの! ツガイになりてぇって思ったのも、告白したのも、デートも、全部、全部!」
重ねられた言葉は夢のようだった。監督生が知らない他の誰かと同じように、あっさりとある日突然唐突に捨てられるのだと思い込んでいたけれど、違った。
「アイツらが勝手に広めただけでオレは海の中にいるときからレンアイとかツガイとか興味ねぇって思ってたし。それに、ジェイドやアズールといるほうがおもしれーし」
たったこれだけでよかったのだ。難しいことなど何もない。フロイドの言葉を聞いて、信じればよかった。
「でも小エビちゃんは、特別。アズールともジェイドとも違って、おもしれーし、ちゅーしてぇし、……交尾もしたい」
どうか信じて、と訴えてきたジェイドの声を思い出した。はい、はい、と何度も頷く。後悔と安心と嬉しさが入り混じった心と頭は大忙しで、気が付けば大粒の涙をボロボロと零していた。それに引き摺られたのか、フロイドの声にも涙が混じる。
「小エビちゃん、オレ、小エビちゃんの初めてがいい。オレのもあげるから小エビちゃんのもちょうだい。他の奴にあげないでよ」
ヒグ、と無様に喉が引き攣って、それを隠すようにシーツに顔を埋めた。ねぇだめ?と聞いてくるフロイドの声が震えていて、どうしようもなく愛おしくて仕方がなかった。
監督生は顔を上げて、フロイドのことを真正面から見つめた。
二メートル近い体を小さく丸くして、不安そうに枕や布団を抱え込んで、腫れぼったい瞼で今にも泣きそうだ。ぐず、と鼻を鳴らして更に小さくなっていく。
自分が知らぬ間に、何度フロイドにこんな顔をさせたのだろう。もう二度と御免だと、監督生は下手くそながらに笑顔を浮かべる。口角は気を抜けば泣いてしまいそうだったけれど、どうにか持ち上げる。
それから。
「嬉しい。嬉しいんです、フロイド先輩。私も先輩の初恋が欲しい」
他の誰にもあげないで。一生私だけの初恋にして。
握りしめていた拳を解いて、そろそろとフロイドのほうへと伸ばした。
「私の初めても全部、ひとつ残らず全部貰ってくれますか?」
赤く腫れた目が丸くなって、それから綺麗な顔がくしゃりと歪んだ。うん、と頷いて、大きな手がこちらに伸びてくる。指先が触れたと思えば、大きな手に食われるように捕まえられて、簡単にベッドの上へと引き摺り上げられた。
フロイドが抱えていた枕はベッドの外へと放られて、骨が軋むくらいに抱き締められた。監督生は丸まっていた背中ごと愛するように撫でて、丸い後頭部の跳ねた髪を梳いていく。
ドクドクと深くポンプする心臓の音がどちらのものかは分からない。どうだっていい。
ただ、ようやっと恋人になれたのだと泣くことしか出来ない頭で理解した。
「小エビちゃん」
呼ばれて、二人の体に僅かに隙間が出来た。
体が大きな年上の、しかし何よりも可愛くて仕方がない恋人が強請るように顔を覗き込んでくる。
「ちゅーしてもいい?」
思わず即座に頷きそうになって、しかし監督生は首を横に振った。
傷付いて歪んだフロイドの唇に、待って、と人差し指を当てる。
「キスの前に、」

ずっと欲しかった二文字がフロイドの声で象られて、監督生は自分からそっと顔を寄せた。

>> list <<