初恋

――最悪だ。
 慌てて駆け込んだバックヤードの隅っこで、体も背中も小さく丸めて監督生は口元を抑えた。
「……っ、」
 ひく、と無様に泣いてしまいそうな唇を噛む。
 電気も点いていない倉庫内は、物が詰め込まれているが静かなせいで声が響きやすい。
こんなところで泣いてしまったら相手の思うツボだ。例え、身に覚えのないミスを擦りつけられたとしても、そのせいでアズールに冷たい溜め息を吐かれたとしても、泣いてしまえば全てを認めて負けたことになる。それはいやだ。
魔法が使えなくても絶対に勝てるとは思っていない。ただ、負けたくはない。
 けれど。
(今日は流石に、挫けそう……)
 頭の中でリフレインする嘲笑う声が、冷えた空気が、胃を痛めつけていく。
 我慢していた嗚咽をひとつ零してしまったら、もう我慢ができなかった。もっと小さくなるように丸くなって、無機質な壁に寄り掛かるしか出来ない。
(かえりたい)
 どこに、とは言えないけれど。
(かえりたい)
 心の中で叫んで、ぎゅうっと固く目を瞑る。次に目を開けた時、慣れ親しんだ風景に変わっていたらいいのにと思いながら。
 しかし。
「ばあ♡」
 祈るように顔を上げたその先で、随分と楽しそうに笑っていたのはウツボの人魚である。
 微塵も予想していなかった光景に、監督生は驚くことも叫ぶことも忘れて硬直した。飛び跳ねた心臓なんて飛び跳ねたまま戻ってこない。
「あはっ! すっげー変な顔! ねぇねぇ小エビちゃん、こんな暗いところでなにやってんの? サボり? そんなにちっちゃくなって楽しい?」
「っ、っ、ふっ、ふろ……っ」
「はぁい、フロイドでぇす」
 ケタケタと笑いながら監督生のぐずぐずになった目尻を拭い、殆ど影になっている中で二色の瞳だけは静かに煌めかせている。
 どこか不穏なその光に気付き、ようやっと飛び跳ねたままの心臓が帰ってきた。
(な、なんか、怒ってる……? あ、私がサボってたから)
 笑っているのに何故か背筋が凍るような空気にピタリと涙が止まり、監督生は自分の裾でも慌てて目尻を擦った。
「ご、ごめん、なさい、すぐに戻りますから!」
「えー? もう行っちゃうの、小エビちゃん。もうちょっとここにいなよ」
「は? え、いやでも、」
「どうせ今日はそんなに忙しくねぇし、オレと二人いなくてもヘーキだって」
「……フロイド先輩もサボってたんですか?」
「うん。だってだりぃし。ここは暗くて静かでちょうどいいんだよねぇ」
 今日のアズール、機嫌悪ィから本当はマジメにやったほうがいいんだけど。
「でも、ここでサボっててよかった」
 言って、自らの帽子に手を伸ばしたフロイドは、それを監督生の頭に乗せた。
 そして。
「あんまりひとりで泣かないでね、小エビちゃん」
 ちゅう、と可愛らしい音がひとつ。
「……え?」
 フロイドが現れてからというもの、驚くことばかりで心も体もついていけない。それでも唇に僅かに残る感触のおかげで、キスされたのだということだけは理解できた。
 凍ったように固まった監督生にフロイドはまた笑って、
「元気が出るおまじない」 
 とだけ言い、立ち上がった。
「おまじない……?」
「そ。陸ではどうやんのか知らねぇけど、海ではそうやってすんの」
「……あ、そ、そう、ですか……」
 追いかけるようにフロイドを見上げても、いつもと表情は変わらない。寧ろ、元気出た? と無邪気に聞かれて慌てて頷くことしか出来なかった。
「じゃあもっと元気が出るようにオレが賄い作ってあげる〜。何がいい?」
「……ツナが入った、」
「はいダメ〜。それ小エビちゃんが食べたいやつじゃねぇじゃん。持って帰ってアザラシちゃんに分けてあげるつもりだろ」
「う。じゃあ、……オムライス?」
「いーよぉ。トロトロのふわっふわにしてあげる」
 フロイドはジャケットを脱いで監督生に渡し、気合を入れるように腕捲りをした。
「出来たら呼びに来てあげるから、ここで待ってて」
「あ、でも、仕事が、」
「いいって、……オレがちゃんとお話してあげる」
 語尾に行くにつれて低くなっていく声に背筋が震えた。さっさと歩き出した背中に、よろしくお願いしますと言う他、道はなかった。
「……」
 バタン、と閉められた扉を見届けて、監督生は肺腑が空になるまで息を吐く。それから、海のおまじないを思い出しては頬を赤らめる。
(先輩とキスしちゃった)
 フロイドにとってはただのおまじないでも、監督生にとっては特別なキスだ。
(おまじない、生み出してくれた人に感謝しなきゃ)
 フロイドと、――……好きな人と、図らずもキス出来たことが。
(うれしい)
 嫌なことなどすっかり忘れてしまうくらい。
 きっと、これから何度だって夢に見てしまうくらい。
 
 今だけはフロイドの優しさに甘えてしまおうと帽子を目深に被って、大きすぎるジャケットをぎゅうっと抱きしめた。





 カツンと響いた靴音に、フロイドは「嗅ぎつけんのはえ〜」とわざとらしく肩を竦めた。
「賄いには早過ぎるようですが」
「アズールまだ機嫌悪ィんだ」
「別に機嫌など悪くありませんが?」
「すっげー悪いじゃん。昨日の業者、まぁだムリ言ってくんの?」
「……まぁ、そんなところです」
「なるほどねぇ」
 チキンライスに味付けを施していくフロイドはアズールに背中を向けたまま、香ばしい匂いと小気味のいい音を厨房内に響かせてフライパンを振る。
「ところでそれは誰の賄いで、」
「あ、そうだ。小エビちゃん倉庫で泣いてたけどアズールなんか言った〜?」
「……あぁ、監督生さんなら先ほどオーダーミスがあったので注意をしましたよ」
 なにせ、今日だけで三回目ですから。
「ふうん」
「ただでさえ忙しいと言うのに」
 忙しいのはアズールだけなんだけど、と口にするのはやめておく。
勝手に賄いを作り始める前にホール内を見渡してみたが、イベント期間でもない平日の夕方はいつも通りに空いている。
 火を止めてお皿に盛り付け、今度は卵を取り出した。ボウルに割り入れ、生クリームも少しだけ投入。よくかき混ぜた後で熱したフライパンでバターを溶かしていく。
 アズールは本当に疲れているようで、重い溜息とともに眼鏡を外して目頭を押さえ、意味もなく「ああぁ……」と声を出しては肩を落としている。
「あとでノンフライの唐揚げ作ってあげよっか?」
「唐揚げなのにノンフライ」
「矛盾してんのはオレも思ったんだけど、少ない油で揚げ焼きみたいにすんの結構イケる」
 それなら、と碌にカロリーの計算せずにすんなり話に乗っかってきたのでよっぽどなのだろう。今のアズールに強く言うのは流石に気が引けた。
 さてどうしたものかと、火の加減を調節しながら卵液が入ったボウルを傾ける。
「あー……、あのさぁ。さっきの話なんだけど、小エビちゃんが書いたオーダーシート見た?」
 火の加減を調節しながら、卵液が入ったボウルを傾けた。
「見ましたが、……なんだ、言いたいことがあるならハッキリ言えばいいだろう」
「んん〜」
 本人がそう言うならいいか。空いた手で長い髪の毛を耳に引っ掛けて口を開く。
「あれ、よーく見たら途中からインクの色が違うんだけど」
「そうですか」
 魔法など使わなくても、器用な左手でくるくるとフライパンの中を混ぜれば、宣言通りのトロトロふわふわの玉子が出来上がっていく。焦がさないように火を止めて、先ほどのチキンライスの上に、まるでドレスのような形で盛り付けていく。あとはデミグラスソースをたっぷりかけて、パセリを飾り付けたら完成だ。
 同時に、眼鏡をかけ直したアズールの瞳が僅かに大きく開く。
「――……は? インク?」
「そ。あとは自分で確認すれば? そこに置いてるし。オレ、今から忙しいんだよねぇ」
 薄暗く、あまり心地が良いとは言えない倉庫の隅で自分を待っている監督生を、早く明るい場所に引き摺り出してやらなければ。
「つうことで、オレと小エビちゃんは休憩入りまぁす。ノンフライ唐揚げは休憩のあとね」
「あ、オイ、ちょっと待てフロイド」
 さっさとキッチンを後にしようと思ったのに、アズールに呼び止められて顔だけで振り返る。まだなんかあんの? と聞けば、指を指されたのは顔だ。
「?」
「フロイド。お前、熱でもあるんですか? ずっと耳や首まで真っ赤になって、」
「〜〜〜っ、ハァ⁉ ハァーッ⁉ べ、べつに、赤くねぇし!」
「いや、」
「なってねぇし!」
 指摘されていっそう赤くなってしまった顔を隠すようにしてキッチンを飛び出し、ジェイドが作業しているカウンター席にオムライスを置いた。
「おや、フロイド。顔が、」
「赤くねぇし!」
「では帽子とジャケットはどうしたんですか?」
「あっちーから脱いだだけだし! あと何食おうとしてんの! ダメだから!」
「残念です」
 しくしく、と悲しそうにするジェイドはそのままに、美味しそうな匂いを纏ったフロイドは大股で監督生の元へと向かう。
「……」
 最後の扉を開ける前。
 柄にもなく緊張してしまっている体で大きく深呼吸をして、未だ熱い顔を何度か扇いだ。
折角、何でもない風を装っていたのにアズールとジェイドが指摘するから。
(……好きなコに優しくするのって結構難しいんだなぁ)
 初めて知った、と肩を落とす。それから気合を入れ直す。
 例え難しくてもやっぱり優しくしたいし、笑っていてほしい。
それから、どこまでも格好つけていたいのだ。

(おまじないなんてウソ、小エビちゃんには一生バレませんように)

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