涙のゆくえ

「失礼しまーす……」
極力音が出ないように戸を開けて、監督生は保健室を覗き込んだ。
しかし返事は一向になく、それどころか常駐しているはずの保険医の姿すら見当たらない。どうやら留守にしているようだ。人気のない保健室はどこか薄寒い。
困ったなぁ、痛み止め欲しかったなぁ、と。グリムやゴーストと連日夜遊びをしていたせいで痛む頭を擦っていれば、物音が聞こえた。一番奥のベッドからだ。
そして。
「あれ、小エビちゃん?」
 パーテーションから顔を出したのはフロイド・リーチである。
というより、顔を見なくても誰かは分かる。なにせ「小エビちゃん」などという名前で自分を呼ぶのはこの世界で彼だけだ。
監督生は視界に入ったと同時に名前を呼ぼうと口を開く。
「フロ、」
けれど、監督生が名前を言い終わるより前に、左右で色の違う瞳から大粒の涙が零れた。
「――――え、」
 手を振ろうと持ち上げた右手は変な角度で固まって、唇から零れた声は裏返る。ぱかり、と間抜けに口も空いてしまっている。
頭の中が一瞬でホワイトアウトしてしまうほどに衝撃的な光景。
なにせ、フロイドの涙なんてものは初めて見たのだ。
「……」
「……」
二の次が告げない、とはこのことだ。
しかし、そんな監督生を放っておいて、フロイドはまだ涙を零している。ゴールドとオリーブの双眸から交互に、遠慮なく、ボロボロと音がするほどに。
それから更に無言の時間が続いて、
「あはっ、見られちゃったねぇ」
口火を切ったのはフロイドだった。
いつも通りの間延びした声で、しかしどこか覇気がない。
その声を聞いて監督生はようやっと金縛りが解けた。縺れそうになる足を懸命に動かして、慌ただしくフロイドの元へと駆け寄る。
「ど、どう、したんですか……ッ⁉」
 ぐずぐずに濡れている頬に触れていいのか、その涙を拭っていいのか。分からないで持ち上げた両手は冷たい空気を撫でるだけで終わる。ハンカチを手渡すなんて冷静な考えは、頭の隅にも思い浮かんでいない。
「んー、……別に」
「別にって、そんな、こんなに泣いてるのにっ」
「だぁいじょーぶだって。すぐに止まるよ」
 言いながらも左目で涙を流して、それから鼻を啜っている。長い睫毛をしっとりと濡らしたままで伏し目がちになり、今度は右の眦から涙が落ちていく。
無色透明なそれは、つるりとした頬を伝って、顎のあたりから地へと落ちる。フロイドはへらりと軽薄な笑みを浮かべているのに、涙のせいでこちらは笑える気がしない。
「ごめんね、小エビちゃん。こんなとこ見せちゃって。あーあ、オレって情けねー」
 これ以上は監督生に見せたくないと言うように顔も俯かせてしまう。
只でさえ、立っている自分とベッドに腰を掛けているフロイドではいつもほどの身長差はないというのに、俯かれてしまえばいっそう差が縮む。背中も丸まっていて、二メートル近くあるその体は嘘のように小さく見えた。
「……」
「……せ、んぱい」
 更に静かで大人しいときたものだ。
「フロイド先輩」
どうにかしてあげたい。何かしてあげたい。頭の中はそればかり。
兎にも角にもフロイドをいつもの調子に戻したかった。それはほとんど意地になっているような心持ちで、今までに感じたことがない感情が腹の底から湧き上がる。
 ――……思えば、この時監督生は瞬く間に心臓を鷲掴みにされてしまったのだ。滅多と見ることがない。フロイドの弱りきった姿に。
 それは一般的には「母性」と呼ばれるものに近いのだがな、今の真っ白な頭ではうまく導き出せなかった。
「な、泣かないで、ください……」
 何も知らない私が言える言葉じゃないですが。
 そう続けながら、精一杯の勇気を振り絞って彼の濡れた頬へと手を伸ばす。頭が痛かったことなどすっかり忘れて、優しく優しく眦を指先で撫でた。はらりと涙が散ったというのに、それでもまだ溢れてくる。
「……小エビちゃん」
 こんなにも、こんなにもフロイドが弱ってしまうほどの何かがあったのだ。
「泣かないで、先輩、フロイド先輩」
 見ているだけのこちらのほうが、胸が押し潰されそうな思いだ。
けれど、フロイドはもっと苦しい。もっと悲しい。あぁどうにかして涙を止めてあげたい。彼を笑わせるあげられるほど器用ではないことは分かっているから、どうか涙だけは止めてあげたい。
その一心で監督生は何度も涙を払う。反対の手では、彼の性格を表すように自由に跳ねている髪の毛を撫でつける。
 そうするとフロイドが僅かに顔を上げた。くしゃりと顔を歪めたまま、それでもどうにか口角を持ち上げて、小エビちゃんと呼ぶ。
「ありがと」
 今まで見た中で、一番下手で、不器用な笑顔。
 それを真正面からしっかりと受け止めた監督生は目を瞠り、比喩ではなく息が止まった。次いで、どうにか手や腕を動かしてフロイドの頭を自分の胸へと抱え込む。
「そ、んな、顔で笑わないでください……ッ!」
 吐き出した言葉は、心の底からの悲鳴だ。
 初対面から決していい印象ではなく、何が面白いのか目が合う度に追い掛け回されているが、こんな顔をしているのを放っておけるほど非道な人間にはなれない。
 力の加減も分からずに強く抱き締めて、乱れた青い髪に顔を擦り寄せる。小さな手で大きな背中を擦って、何度も名前を呼んだ。
「私でよければ話だって聞きます。フロイド先輩が辛いなら、気持ちが晴れるまで付き合いますから、だから、だから……ッ!」
 それ以上何を言えばいいか、恐慌状態の頭では考えられなくて、自分で自分に腹が立つ。
アズールならきっと気の利いた言葉を言うのだろう。ジェイドなら言葉がなくとも寄り添えるのだろう。けれど、付き合いの浅い自分では、どっちも出来なくて嫌になる。
 しかし。
「小エビちゃんは優しいねぇ」
 フロイドがもぞりと動いて顔を上げた。
背の高い彼に見上げられるのはなんとも不思議な心地だ。
優しい、と言ってくれているその顔は、さっきよりも随分と綺麗に笑っていた。それに少しだけ安堵する。
「……じゃあさ、ちょっとだけ甘えてもいい?」
「はい、もちろん」
 即座に頷けば、フロイドの顔が再び胸元へと埋められた。宣言した通り、甘えるように擦り寄ってきて、何度か深呼吸をしていた。
それでも時折、ぐず、と鼻を鳴らす。肩は未だに震えている。
「大丈夫です。いつまでもこうしてますから」
「……うん、ありがと〜」
 そうして、暫くフロイドと甘やかしていたのだが、どうにも大きな背中が丸まっているのが窮屈そうに思えてしまって、監督生はひとつ提案をした。
「……ベッド、行きますか?」
「は?」
「えっ」
するとフロイドが随分と驚いた低い声を出すものだから、監督生も声を上げた。
何か気に障ることを言っただろうかと焦りながら言葉を重ねる。
「だ、だって、窮屈じゃないですか……? 私とフロイド先輩だと身長が違い過ぎるし、フロイド先輩は大きいから、その、背中とか腰とか痛くないですか?」
 だから、折角すぐそこにあるベッドで寝転がったほうが楽かと思って。
「あー、ウン、そうね」
 フロイドは何やらブツブツと胸元で呟いたと思えば、監督生の制服をぎゅうと掴む。そして、ベッドで甘えさせて、と言う。
「もちろん!」
フロイドの言葉に使命感が擽られた監督生は力強く頷いて、そそくさとフロイドを導いてベッドへと潜り込んだ。あっさりとした洗剤の匂いがする布団をフロイドに被せてあげる。自分が寒いとか、そういうのはもうどうだってよかったのだ。
それから、頭一つ分低い位置にいるフロイドの頭ごとを抱き締めたり、髪の毛を梳いたり、未だ溢れる涙を拭う。
絡みついてくる二本の腕は好きなようにさせて、何度だって優しく名前を呼んだ。
「……私、ちゃんと、出来てますか?」
 監督生はしっかりとフロイドを抱き締めて尋ねた。
「うん。小エビちゃんに抱き付いてんのすげー落ち着く。涙も止まりそ」
「よかった」
「でも、もっと甘えてもいーい?」
「はい! 私に出来ることなら」
 ほう、と肩の力を抜いてくれていることが嬉しくて、監督生はフロイドの髪の毛を梳く。
 だが。
「小エビちゃん、ちゅーしたい」
 言われて、流石に固まった。
「ちゅー…………」
 ――……それは、甘やかすという行為のカテゴリーに入るのだろうか。
「ええっと」
あれは恋人同士がするものではないのだろうか。それに自分は所謂ファーストキスというもので、上手く出来るかどうかも分からないし自信がない。
 あれやこれやと考えていれば、こちらを見上げてくるフロイドの双眸が水分量を増していく。何も言わないけれど眉を落として、軽く唇を噛み締めている。
 そんな顔をされては、断れるはずもなく。
「い、いいですけど、私きっと下手ですよ」
 それ以外の言葉など思い付かなかった。
「下手とかどうでもいいし。オレね、昔っからいーっぱいくっついてんのが安心すんの」
 ならばと監督生は腹を括る。今はフロイドの涙を止めて、不安を少しでも取り除いてあげることが先決なのだ。別にファーストキスに夢を見ているわけでもあるまいし、これで泣き止んでくれるのなら安いものだ。
「じゃあ、どうぞ」
「ン、ありがと」
 だが、腹は括っても心臓は緊張で張り裂けそう。
自分からするのは無理だと結論付けて、監督生は大人しく目を閉じるだけにする。すると、フロイドの体が上へと伸びて、すぐに唇に柔らかい感触。
こうして、人生一度きりのファーストキスはいとも簡単に奪われて、終わった。
「小エビちゃんとのちゅー気持ちいい」
「そう、ですか……」
「もっとしていい?」
「はい」
 一度してしまえば、二度も三度も変わらない。
ちゅう、ちゅ、と繰り返されるバードキスを享受していれば、ゆっくりと余裕が生まれていく。うずうずと好奇心が疼いて瞼を持ち上げた。すると、そうすることが分かっていたのか、潤んでいる瞳と視線が絡まる。思わず逃げようとして顔を後ろへと引けば、僅かにゴールドとオリーブの色合いに寂しさが滲む。
「〜〜〜っ!」
 今日知ったばかりだが、その色には弱い。
監督生は少し悩んでからそれ以上逃げることなく、寧ろ自分からキスをした。うっすらと唇を触れ合わせただけのキスだったが、フロイドは花でも咲きそうなほどに機嫌よく、尚且つ甘やかに眦を蕩けさせた。
「こえびちゃん」
 そうして、蜂蜜のようにとろりとした声を出すのだ。
きゅう、と胸が締め付けられてしまう。もっともっとと甘やかしたくなる。彼が望むのならば、どこまでも許してしまいそうになる。
「ふろいど、せんぱい……っ」
 二人の形の境界線が無くなるまで抱き締めて。
甘やかしてしまいたいという欲が頭を占拠してしまって。

泣き疲れたフロイドと一緒になって眠ってしまうまで、監督生は触れるだけのキスを何度も何度も繰り返した。





 ――……さて。
 慣れない状況のせいか、何度も繰り返したキスのせいか。随分と深く眠ってしまっている監督生にくっ付いて眠っていたフロイドを力技で叩き起こしたのは、ジェイド・リーチである。
「おはようございます。随分と気持ち良さそうに眠っていましたね、フロイド」
「全力で耳引っ張んなくてもいいじゃん、ジェイド」
 監督生を起こさないようにだけ気を付けて上体を起こし、くあ、と欠伸をひとつ。
固まった筋肉を解すように体を伸ばし、ヒリヒリする眦には舌打ちを。
「なにこれ、目のところすげー痛いんだけど」
「泣いてと擦ってしまうとそうなるようですよ。あぁ、瞼も浮腫んでしまっていますね。アズールに抗炎症剤が入ったクリームを貰ってきて正解でした」
「さっすがジェイド〜!」
 ジャケットのポケットから取り出した容器をジェイドから受け取って、すぐさま蓋を開けた。海の香りによく似たクリームを遠慮なく目の周りに塗っていく。
「ところで、フロイド。どうしてこのような面白い状況になっているのですか?」
「オレが泣いてたら、小エビちゃんが慰めてくれた」
「……慰める?」
 フロイド側にジェイドは腰を下ろし、右手のグローブを外してから、斑になっているクリームを伸ばしていく。
「うん。すっげー手厚く慰めてくれた〜。頭も撫でてくれたし、ぎゅーもしたし、ちゅーもしたし。流石にベッドに誘われたときはどうしようかと思ったけど」
「おやおや。そうでしたか」
「ちゅーはしたけどさ、それ以上何もしなかったの偉くね? つうか、小エビちゃん危機感なさ過ぎて心配なんだけど。こういうの、オレ以外にはしてねぇよなぁ?」
「ふふ」
 熱を持っている瞼に、ジェイドの冷たい指が気持ちいい。フロイドはされるがまま大人しくして、処置が終わると目を開ける。
まだ重たくて仕方ないが、五分もしない間に楽になるはずだ。
「ありがと、ジェイド」
「いえいえ。……ところでフロイド」
「なぁに」
 何を聞かれるかは分かっていて、それでもフロイドは首を傾げてやる。
ジェイドは可笑しくて堪らないと言うように意地悪に眉を下げ、口元に手を当てた。
「何か、慰めてもらわなければならないことでもあったんですか?」
 ――錬金術の授業中に先生の指示も聞かずに勝手に作り上げた魔法薬を一舐めして涙が止まらなくなり、止まるまでと保健室に放り込まれてしまったと聞いたのですが。
「僕が得た情報が間違っていたのでしょうか?」
 淀みのないジェイドの言葉に、フロイドはにんまりと口角を上げた。
「小エビちゃん、これでオレのことちゃんと意識してくれるかな」
「さぁどうでしょう。魂胆がバレて怒られなければいいですが」
 怒られんのはやだなとフロイドが唇を尖らせれば、隣で眠っている監督生が小さく唸った。
何かを直感的に察したのだろうか。ジェイドとフロイドは顔を見合わせて、それから静かに笑い合う。
「小エビちゃんには内緒にしてよ」
「えぇ、勿論。兄弟の恋路くらいは無条件で応援しますよ」
 では僕は次の授業がありますので、とジェイドは保健室を後にした。


 陸に上がってからすっかり聞き慣れた足音が遠くなったのを確認して、フロイドは眠っている監督生の額に唇を寄せる。
「ちゃんとオレのこと意識してね、小エビちゃん」
どうせオレが小エビちゃんを好きで追いかけ回してんのにも、気付いてないんだろうから。
「小エビちゃん、だぁいすき」


 起きたらどんな顔をするのだろう。
 恥ずかしがるだろうか、真っ先に心配してくれるだろうか。
 
 考えるだけでどうにも楽しくなって、早く起きてよとフロイドは監督生の頬を突いた。

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