「ま、待って、先輩足速いですって!」
まるでバケツをひっくり返したかのような土砂降りの雨は、外に出ていた生徒たちを瞬く間に濡れ鼠にした。勿論、授業を終えて帰ろうとしていた監督生と、暇だからと勝手に監督生を巻き込んで鬼ごっこを始めたフロイドも例外ではない。
二人は突然の雨に身体を固まらせたあとで、オンボロ寮へ向かって走り出す。
厚みのあるジャケットは水分を含んで色が濃くなり、ずっしりと重たい。その重みだけで体力が削られていく。それなのに、監督生の手を掴んで前を走るフロイドは走る速度を落としてくれやしない。
「まって、まって、っ、先輩……っ」
オンボロ寮周辺の舗装されていない道はあっという間にぬかるんで、制服や靴の中まで泥と雨水で汚れてしまった。足元が重くて監督生は早々に息が切れる。どうにかオンボロ寮に逃げ込んだ頃には立っていられないほど限界だった。
床が汚れるのも気にする余裕がなく濡れた体で膝から崩れ落ち、その隣にフロイドが腰を下ろした。こちらも、べしゃりと重たい音がする。
「あーっ、クソッ! 最悪なんだけど」
「ほ、ほんと、に、急に、雨が、っ、」
「あはっ、小エビちゃん息切れ過ぎ〜。運動不足?」
「ち、ちが、せんぱいが……!」
無理矢理引っ張っていくから! と大声を出そうにも息が続かなくて、いっそうフロイドを笑わせるだけで終わった。
「すげー雨だねぇ。ここまでひでーの、陸に来て初めてかも」
古びた扉の向こうでは、まだ雨が降っている。
時折、雷のような音がして古い寮は僅かに揺れる。それが何とも言えず不安を煽るようで、監督生の肩が無意識の内に跳ねた。
「……なぁに、雷怖ぇの?」
「そんなことなかったんですけど……」
「じゃあ寒い? つうか、今気付いたけど小エビちゃん風邪ひいちゃうんじゃねぇの?」
「それは先輩も一緒じゃないですか」
「オレは寒いのとか冷たいの、ある程度へーき」
「人魚だから?」
「そ。人魚だから」
いいなぁ、と雨に濡れて重い体で靴を脱ぐ。中に溜まっていた雨水が床を濡らして、フロイドもそれを真似た。他寮だからと遠慮なくポイポイ投げ捨てている。
今度は泥まみれになった靴下も悪戦苦闘しながら脱ぐ。これは洗っても落ちないかもしれない。あぁまた出費が嵩む、と監督生は肩を落とした。
「取り敢えず暖炉に火入れてあげるから、小エビちゃんお風呂入って来なよ」
「え、でも」
「いいから、いいから」
フロイドは胸元からマジカルペンを取り出して、軽く振った。遠くで、ボオと低い音が聞こえたのはきっと火が点く音だろう。
「ありがとうございます」
「いーよぉ、これくらい。だから早くお風呂行っておいで」
「は、はい……」
言われて、頭ではお風呂に直行することが最善であると分かっていても動けないでいた。
(寒いの平気って、どれくらい? フロイド先輩本当に寒くないの? 私先に入っちゃっていいのかな……)
人魚と言っても今は人間の体だ。いつまでも濡れたままで平気なはずがない、と思う。
返事をするだけで動こうとしない監督生に、フロイドは小首を傾げた。
同時に、ぐっしょりと濡れたターコイズブルーの髪の毛から水滴がポタポタ落ちていく。それを鬱陶しそうに大きな手で髪の毛と一緒に掻き上げた。
(――わ……)
額が出ているのを、初めて見た。
双子の片割れであるジェイドとともに整った顔をしているとは思っていたが、前髪を掻き上げると随分と大人びて見える。タイミングを合わせたかのようにピアスが鳴るものだから、目も耳も惹き付けられる。少し休憩したおかげで落ち着いてきたはずの心拍が、トクン、と何度も大きく跳ねて目が離せなくなる。
次いで、じわりと体温が上がった。
「――……なぁに? 小エビちゃん」
フロイドの口角が意地悪に持ち上がる。
「……や、あの、その、」
「さっきより顔赤くなってんね。熱出てきたんじゃねぇの? ダイジョーブ?」
「だっ、だい、じょーぶ、っていうか、ちかい……ッ」
「ンー?」
ゆっくりと距離を詰められて、いつの間にかフロイドの右手が監督生の体を跨ぐようにして置かれている。二メートル近い身長の男が覆いかぶさってきているにも関わらず、不思議と怖くはない。寧ろ、体のどこかに触れられているわけでもないのに、むず痒いような、くすぐったいような……。
(……ん、ちょっと違うかも)
そうだ、違う。
どちらかと言えば、触れられそうで触れられていないことに、もどかしさを感じている。
「小エビちゃん。オレに、なんか言いたいことでもあんの?」
雨はいっそう激しさを増して、いつもは騒がしいゴーストたちは鳴りを潜めている。
(言いたいこと)
ハーツラビュル寮に遊びに行ったままのグリムも、この雨では暫く帰ってこられないだろう。
(わたしは、せんぱいに)
同じように、雨が止むまではフロイドもオクタヴィネル寮へと帰れない。
「あの、」
引き攣った声を出せば、垂れた眦が笑みを深くする。
――……あぁきっと。
フロイドはこちらが言いたいことも、これからどうなるのかも、全部分かっているんだろうなと頭の隅で考える。同じく、監督生も理解した上で言葉を飲み込むのを止めた。
そして。
「雨まだ止みそうにないし、風邪ひくといけないので、……お風呂一緒に入りませんか?」
返事をするように落とされた冷たいキスを、二人の関係性を未知のものに変えてしまうキスを、――……監督生は少しも拒むことなく従順に受け入れた。
▼
雨は、朝方には止んだらしい。
「……」
ゆっくりと瞼を持ち上げれば馴染んだ自分のベッドの中にいて、――……しかし、フロイドの姿はなかった。まだ気怠い体を起こして目を擦り、薄いカーテンの向こうへと目を向ける。
昨日の雨が嘘のように穏やかな太陽の光が降り注いでいた。
(……雨、止んじゃったんだ)
プツリと糸が切れたように再びベッドに沈み、ふうと息を吐いた。
止まなければ良かったのに、なんて考えるだけ無駄である。雨はいつか止むし、夜だって明けてしまう。貪るようにお互いの体を求め合おうと、フロイドは自分の居場所へと帰る。
だって、セックスをしただけだ。恋人でも何でもない。
あられもない言葉を何度も溢したくせに、肝心なことは何も言えなかった。なんとも情けない話である。
雨が降っていたから、風邪を引いてはいけないから。だから一緒にお風呂に入って、つい盛り上がってセックスをしてしまった。たったそれだけの話。
でも。
「起きるまでいてくれてもいいのに」
そうすれば素直に心の内を口に出来たかもしれない。
(きもちよかったなぁ……)
容赦なくありとあらゆる部分を暴かれて、自分の体が制御出来なくなるほどに乱れたのは初めてだった。何回シただろうか、と指折り数えようとしても途中の記憶がどうにも曖昧で、恥ずかしくなって顔を覆った。あぁ、耳や首まで熱い。
(暫くは忘れられないなぁ。……今日からどうしよ)
きっと顔を見るたびに思い出してしまう。
彼の二色の瞳を見つける度に、風に煽られて額がちらりと見える度に、小エビちゃんと彼だけの名前で呼ばれる度に。思い出しては下腹部がきゅうと熱く疼いて、つい手を伸ばしたくなるのだろう。困った。本当に、困ってしまった。
監督生は時計で時間を確認してから、もう少し時間があると判断して布団に潜り込んだ。
(すき。……好き)
困ったと言いながらも嬉しくて、何度も夜に想いを馳せてしまうくらい。
(少し、寝よう)
余計なことを考えるよりも、今は、夢の中でもう一度フロイドを感じたかった。
汚れていたのが嘘のように綺麗になっていた制服のポケットから、監督生が一枚のメモを見つけるのは数時間後のこと。
走り書きの番号に電話をかけるのは、――……次の雨の日のことである。