リテイク

魔法が当たり前の世界にやって来て一番困っているのが、魔法による悪質な事故だ。
お金がないことからくる問題はバイトをすればいい。見ず知らずの他人にとやかく言われたところで耳に入れなければいい話。自分の世界が恋しくなってもエースやデュースたちと騒ぐことで一時は忘れられる。
けれど、事故ばかりはどうしようもない。自分には回避する力がない。
巻き込まれてしまったら大人しく降参するだけ。
「…………はぁ……」
深々と溜め息を吐きながら、真っ白な部屋に掲げられた看板を見上げては肩を落とした。
次いで、隣に立っているフロイドが舌打ちが聞こえてきて、泣きたいくらいに嫌になってしまった。


――ここは、キスをしなければ出られない部屋です。

目を擦って何度読み返してもそう書いてある。頬を抓っても夢じゃない。残念ながら現実。
しかも、一緒に閉じ込める相手が悪い。
魔法に巻き込まれる前は一緒にいなかったはずなのに、何故かフロイドが隣に立っていたのだ。それも運悪く、機嫌が悪いタイミングの彼が。
「……」
「……」
閉じ込められた、と状況を理解したフロイドは眉間に皺を寄せて、無言のままで遠慮なく攻撃魔法を繰り出した。けれど壁は汚れのひとつだって入らない。
そのせいでいっそう機嫌を悪くしたらしいフロイドは更に攻撃の火力を上げた。が、その分魔法石が黒く淀んでいくスピードが早く、監督生は慌てて左腕に身体ごと縋りついた。
「せっ、先輩! これ以上は……!」
「ハァ? ジャマすんなよ」
額に青筋を浮かべ、牙を剥き出しにし、瞳孔が開いた凶悪な人魚に真正面から睨まれると腰が抜けそうになったが、話を聞いてくれて本当に助かった。
そこから舌打ちが連発されているが、オーバーブロッドされるより数百倍マシである。
「……そろそろ誰か助けに来てくれるでしょうか」
返事はない。だが、それが答えにも思えた。
スマートフォンは繋がらず、外の音は聞こえない。中からの攻撃は無効。となれば、残る希望はキスだけ。
(……やだなぁ)
キスはやだ。絶対にいやだ。断固拒否する。
けれど。
(しなきゃ、帰れないもんなぁ……)
ここから出たい。でもキスはいやだ。
別にファーストキスを惜しんでいるわけではない。色気のない唇ひとつで出られるのならば安いものだと思っているし、キスのひとつで泣くほど乙女でもない。
ただ、相手がフロイドということが嫌だった。
(フロイド先輩じゃなきゃ、きっととっくに試してる)
簡単にキスを済ませて、ポケットの中に入っているハンカチを相手に差し出して、災難でしたねと苦く笑っていたはずだ。私は全然気にしてませんから、とも上手に言えたはずだ。
(なんで、好きな人と閉じ込められちゃうんだろ……)
恋愛の神様は意地悪だ。
もしも出会うことがあったなら、これでもかと文句を言ってやる。
キスなんか出来るわけない。だって、一度でもしてしまったら一生忘れられない。ひっそりと想いを寄せているだけで十分なのだ。アズールやジェイドと楽しそうに悪巧みをして笑っているのを、遠巻きに見ているだけでいい。時々こっちを見て、小エビちゃんって笑ってくれたら心臓が潰れそうになるくらい幸せ。
『子分は男の趣味悪ィんだゾ』
グリムは苦い顔でいつもそう言うけれど、これから先、こんなにも心惹かれる人間には出会えないと確信している。
いつか元の世界に帰って、もしくはフロイドが海に帰って、離れ離れになってしまうことは理解している。だから未練や思い出が残るようなことなどしたくないのに。
こんな形ででもキスをしてしまったら、嬉しくなって、悲しくなって、虚しくなって、きっとずっとひとりで覚えたまま。
(惨めだなぁ……)
一秒にも満たない夢のような時間を、初めて知った彼の唇の温度を、何度も何度も反芻しては胸をときめかせ、打ちひしがれて泣くのだ。惨め以外の何物でもない。
(他の誰かなら、)
よかったのになぁと、どうしようもない我儘で胸をいっぱいにしていく。
息がし辛くて、胸が苦しくて。思わず泣いてしまいそうになるのを堪えるように、ジャケットの上から心臓を握りしめた。
すると。
「――――ハァ?」
すぐ隣で舌打ちをしていたフロイドが、聞いたことがないような低い声を出した。
弾かれたように顔を上げ、何十センチも上にあるフロイドの顔を見上げて、――ただでさえ苦しかった心臓が竦み上がった。
「ヒッ……⁉」
思わず悲鳴を上げてしまうほどに、恐ろしい顔をしていた。
攻撃魔法を繰り出している時など比にならないほど、こちらを睨み付けている。瞳孔が開いているせいか瞳が色濃い。しかし顔全体に影が落ちているせいで、ギラリと煌いているようにも見えた。次いで、チリンと鳴るピアスの音は、完全に死刑宣告そのもの。
「今、なんて言った?」
フロイドが言葉を発するたびに、部屋の温度が下がっていく。
確実に自分が怒らせてしまったのだろうけれど、何故怒られているのか見当がつかず、監督生は固まるしか出来ない。嫌な汗が背中を伝って、今度こそ腰が抜けそうだ。
「な、なに、が……ッ」
 どうにか絞り出した声が掠れる。
「なんて言ったか言ってみろって」
「ッ、な、にも、言ってな、」
部屋の中に舌打ちが響いて、体全体が竦み上がる。大きな手がこちらに伸びてきて肩を掴む。
「い、たい……!」
ギチ、と音がしそうな程に掴まれて顔を顰めたら眦に涙が滲んだ。
すると。
「――……他の奴なら、すんの」
これまでの怒りが嘘のように、静かな声が二人の間に落ちた。
すっと胸の奥まで入り込んでくるような声色に、逃げていた視線を戻していく。
「オレとは、……オレとだけはしたくなくて、最初っからずっと嫌そうな顔して溜め息吐いてたんだ。オレのこと全然見てくんなくて、話しかけても上の空で、……そんなにヤだったんだ」
怒っているのに、なんだか泣きそうになっているのを堪えているような表情に思えた。
なんで。
(……なんで、そんな顔をするの……?)
 ついうっかり考え事を口に出してしまっていたのだと、フロイドの言葉で気付くことは出来た。だが、何故こんなにも過剰に反応しているのだろう。
「…………オレ、バカみてぇじゃん」
こんなことなら、と続けながら肩を掴む手の力が抜けていく。
「さっさとすればよかった。そうしたら、小エビちゃんのそんな言葉聞かなくて良かったのに」
そして、お互いに瞼も閉じないままで、触れるだけのキスをした。
ムードも可愛らしさも何もない。どこか冷たい、愛とは程遠い、ただの事務的なキス。
(あ、わたし……)
それでも嬉しいだなんて叫んでいる心が憎らしい。
「っ、せ、んぱい……」
不可抗力で色付いてしまう頬もそのままで、目の前のフロイドはぎゅっと眉を寄せた。
詰まっていた息をそろそろと吐き出して、それからいつものように口角を持ち上げる。
今まで見た中で、一番下手な笑顔だった。
「ザマァミロ」
大嫌いな男にキスされて、一生忘れられなくなっちゃえばいいのに。
「――……え」
ストン、と。
恐怖心から脆くなってしまっている心にナイフが突き立てられたような感覚。体の末端まで冷え切って、唇が戦慄いた。
「っ!」
気が付けば涙が溢れて、叫んでいた。
「なっ、なんで! 大嫌いとか、決めつけるんですか……ッ!」
ヒグ、と喉がつっかえて、声が裏返る。
「わた、私、フロ、……っ、せんぱ、すき、だいすき、なのに、……っ、なんで、だいきらい、なんて……ッ!」
頭が真っ白になるほど腹が立った。
たった一言が許せないくらい、どうしようもなく好きだった。好きで好きで、何度だってこの男に触れる夢を見た。
もしもいつか告白出来たとしても振ってくれていい。嫌いだと言ってくれてもいい。
興味をなくされても、二度と笑いかけてくれなくてもいい。これは所詮身勝手な片想いだから。拒絶すらも笑って受け止める覚悟はあるのだ。
――……ただ、大事に育てたこの恋を勝手に壊されるのだけは我慢ならなかった。
「だっ、だいすき、だから、っ、キス、したくなかっただけなのに……! わたし、本当にフロイド先輩のこと……っ」
眼窩が熱くなって、鼻の奥もずっと痛くて。もっとちゃんと伝えて訂正したいのに頭が回らなくて。わっと叫んで手で顔を覆った。
すると、――……キュウ、クル、と何とも可愛らしい音が聞こえて思わず口を閉じた。
(え、なんの音……?)
あんなに怒っていたはずなのに。その音を聞いただけで不思議と気持ちが落ち着いていく。ゆったりと頭を撫でられているような、それでいて心臓が高鳴るような。
口を閉じれば、そのタイミングでまた聞こえた音。出所を探るように顔を上げる。
「…………フロイド先輩?」
何故か、今度はフロイドが自身の顔を両手で覆っていた。
「なにやってるんです? ……え、遊んでます?」
「ちげーし」
「? 声震えてません?」
「ふるえてねーし」
「震えてますけど」
なんだか可笑しくなって、ふは、と監督生が笑う。
「ちょっと黙っててくんない?」
「なんでですか? 話し合いの途中では?」
「あー、すっげぇうぜー」
「えっ、本当に意味分からないんですけど」
「分かんねぇんだ。すげーね」
ゆっくりとフロイドの手が下へとスライドする。ちょうど目の下あたりで止まった。そこから下はまだ見せてくれないらしい。
「小エビちゃんさぁ」
「はい」
「もう泣き止んだ? 落ち着いた?」
「あ、はい。なんか先輩の震えた声聞いたら可笑しくなっちゃって」
「ヨカッタネ」
「まだ震えてます?」
「うっぜぇ」
そう言えば顔が真っ赤になっていて、目の水分量も多く見えた。けれど、風邪ですかと聞いたら軽い頭突きが返ってきたので元気なのだろう。
「あのさ、……今日の昼休みに中庭に来て」
「いいですよ。そう言えばエースが先輩に本返すって、」
「一人で来て」
「? でもエースが」
「大事なこと言うから、一人で来て」
「大事な話なら人気のないところの方が落ち着きません? あ、放課後にオンボロ寮来ます?」
「……っ、小エビ、マジで、オスに、そういうこと、言うんじゃありません。つうか二人っきりは色々とダメだから、ヤメテ……」
「っていうか、今はダメなんですか?」
「今は、ちょっと、心の準備が出来てないし。あとちょっと反省してくんね。アズールに軽く絞ってもらう」
だから昼休みね、と力が籠った瞳で睨まれてしまっては頷くしか出来ない。
(なんでわざわざ騒がしい中庭なんだろう……)
疑問は残ったが昼休みにならないと教えてくれないだろう。その時には顔の下半分を覆っている、というよりも押さえ付けている謎も解けるだろうか。
じい、とフロイドを見上げていれば、またキュルルと高い音が鳴る。
「この音可愛いですね」
「……」
「なんだか落ち着きます。好きです、この音。可愛い」
「……」
「先輩が出してるんですよね? いつでも出せるんですか?」
「……こ、小エビちゃんは、いつでも聞ける、よぉ」
「ふふ、やったぁ」
いっそうフロイドが赤くなってしまって、顔の全部を隠してしまった。
そのまま珍しく逃げるようにフロイドがその場を去っていき、そこでようやっと部屋が消えているのに気付いた。元いた場所とは違う。人気のない廊下だ。
私も授業行かなきゃなぁ、なんて呑気にフロイドの背中を見送って、――……キスしたから出られたのだという現実を思い出した。
「あっ」
ピシッと体が固まって、一気に熱くなって。それから泣いて叫んでとんでもないことを言ってしまったことも思い出した。今度は一気に青褪める。
(わっ、わたし、好きとか、なんかいっぱい言っちゃった……!)
きっと昼休みの大事な話と言うのはこのことに違いない。フロイドだって心の準備が、と言っていた。
(どうしよう。……でも、ちゃんと、謝らなきゃ)
キスのひとつで癇癪を起して泣いてしまって、最低な告白までしてしまった。
出来ることなら元の世界に戻れるまで、もしくはフロイドがここを卒業するまで逃げたいけれど、すぐに捕まえられるだろう。
だったら腹を括るしかない。
ちゃんと謝って、可能ならばきちんと告白をやり直して、……それから完膚無きまでに振ってもらおう。こちらの覚悟なんざ打ち砕くくらいに最低で最悪な思い出にしてほしい。
(いっそ、ヴィル先輩に恋心を忘れる魔法薬とか作ってもらったほうがいいかなぁ。……あるのかな? 昼休みまでまだ時間あるし、相談してみよっと)

そうして、相談に行った先で事の顛末を話せば何故かヴィルはこれでもかと渋い顔をし、強制的に可愛らしい色のリップを塗られることとなり、その後の昼休みの中庭でフロイドに求愛されるとは、――この時は考えもしなかった。

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