boarder

「――……あの、先輩って距離が近いってよく言われませんか?」
「言われたことなーい」
「それ本当です?」
「オレが言うこと信じられねーの?」
「えぇまぁ、そうですね」
「ひっで〜」
だってこの体勢で言われても信用ならないなぁ、と苦く笑う監督生の頭頂部にフロイドが強く顎を押し当ててきた。遠慮などなく、ぐりぐりと音がした。
「いたたた」
逃げようと前のめりになっても、腹のあたりに絡みついてきているフロイドの腕が逃がしてくれない。立ち上がろうとしても、長い足に囲われてしまっていて無理だ。
海の中で生活している時から「絞める」ことを得意としてきた男に、後ろから抱っこされている時点で監督生の負けは確定している。
「先輩痛い、痛いですって」
「……フン」
何か怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。
離れてくれた顎の代わりに不貞腐れたような鼻息がひとつ。監督生が首だけで振り返って見上げると、なんだか変な顔をして下唇を突き出し、あっち向いててと強制的に前を向かされた。
それから、大きな背中を丸めてぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。
「先輩、ちょっと強いです、腕」
「……」
「ん、ありがとうございます」
「うん」
だんだんと夏の空気に変わってきた中庭で、こうやって後ろから抱えられて話をするのが当たり前になってしまった。二人を包み込む風に春の匂いが混じっていた頃はまだ、ベンチで並んで座っていたと言うのに。
(すっかりここが定位置になっちゃった)
今日もお話しようよと手を引かれて誘われて、フロイドの足の間にお邪魔する。それはとても嬉しいような、いやでもやっぱり――……。
「小エビちゃん」
「っ、ハイ!」
フロイドに背中を向けて顔を赤らめているのがバレてしまったのかと思うくらい、謀ったようなタイミングで呼ばれて声が引っ繰り返った。
「あはっ、なに今の。変な声」
「なっ、なんでもないです! それより何ですか?」
「んー? や、こうやって抱っこしてんの小エビちゃんはイヤかなぁって」
「イヤ、……ではないですけど」
やっぱり恥ずかしいが心の中の大多数を占めているだけ。
「あの、その……」
そしてその恥ずかしさの理由が、フロイドに恋をしているからである。
好きな人に後ろから抱き締められて、ドキドキしない人間なんていやしない。けれどそれをハッキリと口に出せるほど、監督生には勇気がなかった。
ペパーミントキャンディーの香り。それから少しだけ汗の匂い。すぐ近くで揺れるピアスの爽やかな音。くっついていても不快じゃない低い体温。それら全てを感じられる距離が嬉しくて、好きが募っていっそう恥ずかしくて、でも幸せで。
(……もしも告白して、振られちゃったら、)
もう二度とこんな時間は訪れないのだと、想像しては泣いてしまうくらいに離れ難い。
しかし。
「イヤなら、離れよっかぁ?」
フロイドの一言に頭が真っ白になって、声を上げる余裕もなく振り返った。
何も言わずに振り返ったからか、それともとんでもなく間抜けな顔をしてしまっていたのか。
バチ、と至近距離で目が合ったゴールドとオリーブの瞳が丸くなって、それからゆうっくりと優しく細まった。
「イヤじゃないなら、もうちょっとこうしてよっか」
するりとフロイドの手が顎に伸びて、強制的に前を向かされた。
間抜けな顔を見せなくて済むと安堵したのも束の間で、フロイドの滑らかな頬が頭に擦り寄ってきて変な声を上げそうになった。
更に。
「オレはねぇ、小エビちゃんとくっついてんの好き〜」
なんてことを言うものだから、心臓がドッと大きな音を立てて体が固まった。自分と同じ意味じゃないとしても、その単語だけで勝手に体温が上がっていく。
「そっ、そう、ですか」
「ぎゅってしてると落ち着くじゃん」
「あ、あぁ、わたしも、グリム抱っこしてると落ち着きます」
「オレは小エビちゃんぎゅーってしてるほうがいいや」
「グリムもとっても抱き心地いいんですよ」
「絶対に逃げるじゃん。それに、アザラシちゃんちっちぇーから捕まえんの苦労すんの」
だから。
「また、小エビちゃんのことぎゅーってさせて?」
ワントーン低くなった声が鼓膜を揺さぶって、今まで感じたことがない微弱な電流のような何かが体中を駆け巡っていく。無意識に、ほう、と吐き出した息が何だか熱っぽい気がした。
心臓の音も大きなままで、落ち着かなくて頷くだけで精一杯。
「私なんかで、よければ……」
「小エビちゃんがいいって言ってんの」
「……はい」
絡みついてくる腕の力が強くなって、いっそうフロイドの匂いや体温を感じる。その感覚に背中を押されるように、おずおずと自ら手を伸ばしてフロイドの手に触れた。
「小エビちゃん」
いつものように間延びした声が落ちてきて、手に触れても怒られないことに安堵する。
「……やっぱ、こっち向いて」
言われるがまま、ゆっくりと振り返ったその先で、掠めるようにして触れ合った唇に、監督生は目を丸くした。
「――――……えっ、」
きっちりと十秒固まって、ようやっと絞り出した声にフロイドがからからと笑う。
そして。
「オレは小エビちゃんがいいの。明日も明後日も、もっと先だって。ぎゅーってすんのは小エビちゃんがいい。小エビちゃんだけがいい」
これでも結構分かりやすくアピールしてたんだけど。全然伝わんないねぇ。
「ずっと待ってたけど、小エビちゃんにはちゃんと言葉にしなきゃ分かねぇんだなって今分かった〜。ま、鈍感すぎてそういうところも面白れーけど」
でも。
「もっと色んなことしたいから、そろそろ分かってよ」
重ねられる言葉の数々は全然頭に入って来なくて、するすると耳を通り抜けていく。
けれど、体だけは正直で。風邪でもひいたかのように熱くなって、使い物にならない思考回路はバチバチと火花を散らしてショートする。
「フロイド、せんぱい……?」
一秒にも満たないキスだけでもキャパオーバーだというのに、フロイドは容赦なく監督生の頬に手を添える。目を閉じてくれる優しさはなく、しっかりとゴールドとオリーブの瞳に囚われて二回目のキス。
あ、と意味もなく出た声ごと食べられて、長く長く堪能される。
(先輩と、キス、してる)
状況を理解したと同時に、垂れた眦が蕩けるように微笑んだのが分かった。
「せ、んぱ、」
「小エビちゃん」
唇が離れたと同時に発した声は、フロイドのそれと重なって奪われる。なに、と目を合わせて静かに待てば、夏の風が吹き抜けてピアスが軽やかな音を立てた。
そして、それが合図だというようにフロイドが口を開く。
「だいすき」
返事を促すようにもう一度風が吹いて、ピアスが鳴った。

監督生は唇と震わせながらも懸命に、フロイドを真っ直ぐに見つめて思いの丈を言葉にした。

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