このことに気が付いているのはグリムだけ。何故なら、よく食べると言っても一回の食事量は多くないからだ。
例えばオクタヴィネル寮副寮長のようにランチタイムにプレートに乗り切らないくらいの量を注文していたら。同い年で筋骨隆々であるジャックやセベクのようにワイルドな肉料理舌鼓を打っていたら。そうすればきっと誰かが「お前って結構食べるんだな」と指摘しただろう。
けれど監督生は、細々と、常に何かを口に入れていたいタイプの大食いである。
休憩時間にマフィンを二個ほど食べればどうにか授業一コマ分は頭が回るし、次の休憩時間にはグリムかデュースがお腹を空かせて購買へ行くだろうからついて行けばいい。
昼休みにはランチをきちんと平らげて、午後一番の授業が終われば今度は出来るだけハイカロリーなお菓子をグリムとシェアする。ここまで頑張ればあとはその日の気分次第でモストロ・ラウンジに行ったり、購買に行ったり。
あとは、教師陣のお手伝いをすれば結構な頻度で秘密の食料が手に入る。
クルーウェルがくれるレーズンバターサンドも、バルガスがくれるプロテイン入りのパンケーキもどれも最高だ。それを夕飯までの間にグリムと食べては、この世界の味も悪くないと甘めのコーヒーに口をつける。
夕飯が終わればお風呂に入って、ヴィルが見たら怒り狂いそうなお菓子を食べ、眠る前にはチョコや生クリームがたっぷりと入ったパンを二つ腹に収めておく。それでも夜中にお腹が空いてしまって、時々グリムに内緒でアイスを食べている。勿論、秘密を共有しているゴーストと一緒に。
そして、また朝が来たらバターたっぷりのデニッシュパンを口に放り込む。これの繰り返し。
ここまで好き勝手に食事をしたところで監督生は太らない。寧ろ、痩せていく。
満腹を感じたことはないので、食べようと思えばいつまでも食べられるのだろう。一度、限界まで挑戦しようとしたが、先に顎が痛くなってリタイアした。それ以降は一回に多く食べることは止めた。
おかげで、空腹とエネルギー不足で何度倒れたかもう覚えていない。
――以前、ジェイドが「燃費が悪いんです」と困ったように笑っていたのを見たことがあるが、監督生もこれに当て嵌まるタイプの人間なのだろう。
だからジェイドの言葉を聞いて、あぁ私も今度からそういう風に例えよう、とこっそり考えるくらいには共感した。
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さて、この体質で困ったことがひとつある。
それは、自覚している燃費の悪さが、どのタイミングで輪をかけて悪くなるかが分からないということだ。運動の後なのか、勉強の後なのか。そもそも今食べた量で間に合っているのか。ガス欠が訪れてみないと分からない。
(――……今日は、失敗した)
こんな風に倒れてみないと分からない。
困ったなぁ、と。冷えていく手足の先と、力なく折れる膝。目の前が回っているような、揺れているような。吐きそうなくらいに気持ち悪いのに、腹の中はとっくに空っぽ。
グリムがいれば状況を理解して、誰かのお菓子を奪って口に放り込んでくれるのだけれど、今日も今日とて盛大に騒ぎを起こしてしまってクルーウェルのお説教を受けている。監督生はトレインに頼まれた用があるからと先に解放されたのだ。今から思えば、授業中からお腹が鳴っている状態で、ひとりになるべきじゃなかった。
(やっぱりランチは大盛りにしないとダメかなぁ。……注文するの恥ずかしいんだよなぁ)
エースもデュースも部活に行ってしまった。セベクはすやすやと眠っているシルバーを見つけて走って行った。こっそり焼肉ランチを食べたエペルはヴィルに捕まりそうなところを逃げて、ジャックはラギーに頼まれごとをされて手伝いに行った。
つまり、放課後で閑散としている廊下に、助けてくれそうな人は一人もいない。
助けてくれなさそうな、悪い顔でニヤニヤと笑っている上級生ならいるが、――あれはきっと目を合わせると負けだ。
(……うーん、目を合わせなくても、やばいかも)
ぐうぐうと可愛らしく鳴らす余裕もなく、しくしくと痛み始めた腹を抱えるようにして蹲っている自分のもとへと下品な笑いが近付いてくる。何か言っているのだけれど、声が遠くて聞き取れない。
クラクラして、フラフラして。ガス欠の背中を丸くするだけ。
すると。
「――……あれぇ? そこで小さくなってんの、小エビちゃんじゃね?」
チリン、と。
やけにハッキリと聞こえた涼やかな音と、間延びした低い声。
「いつも以上にちっちぇーの。なぁに? 丸くなってひとりで遊んでんの? 楽しい?」
低い声が耳に届く度に、下品な笑いがいっそう遠くなっていく。どうにか顔を上げれば、視界いっぱいにフロイドがいた。
「…………、ふろ……」
「あ、マジで調子悪ィの? だいじょーぶ? アイツらがなにかやったかと思って吹き飛ばしたんだけど、……まぁいっか」
死んではねぇだろうし、なんて物騒な言葉は聞こえなかったふり。
それから慌ただしく顔に手の平を当てて熱を測ってきたり、お腹が痛いのかと聞いてきたりするフロイドに首を振る。次いで、空気を読んだ腹が気力を振り絞って、ぐう、と鳴いた。
「……あー」
その音で、どうやらフロイドは察したらしい。
すぐにジャケットのポケットに手を突っ込んで乱雑に取り出したのは小袋に入ったチョコレートだ。切り口がどうなろうと関係なく力任せに袋を破って口の中に突っ込んでくれた。それは口の中ですぐに溶けて広がって、弱った喉に詰まらさないように細かく飲み込んでいく。
「食った? んじゃあもう一個」
喉が上下したのを見逃さず、フロイドが二個目のチョコレートを放り込む。
優しい甘さが口の中から胃、そして体の末端へと広がっていって、ガス欠の体が淡く満たされていく。そのタイミングで腹がもう一度ぐううと鳴って、三個目のチョコレートを放り込まれた。
(おいしい……)
飢えていた腹に、泣いてしまうくらいに美味しい甘味が広がっていく。このままもう少し大人しくしていれば、オンボロ寮に帰るエネルギーくらいは復活するだろう。
持つべきものは、燃費の悪い双子の兄弟がいる先輩である。これがフロイドではなかったら、ハンガーノックの説明をするところから始めないといけなかったのだから。
(おれい、しなきゃ)
ただ、カロリーの高いチョコレートを摂取しても脳の働きが活発になるには一拍遅れている。まだ本調子ではないくせに、頭は何故か目の前の男に早くお礼をしなければと急かしてくる。きっとヒラヒラと揺れるオクタヴィネル寮の腕章の効果だろう。
「小エビちゃん、大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる顔に、急かされるがままに手を伸ばして。
「あり、がと」
言いながら、いつもグリムにするように、滑らかな頬にキスをした。
「………………あれ?」
ちゅう、という軽い音。それから、ビクリとフロイドの肩が跳ねた感覚。
その二つの刺激でようやっと脳が正常に作動するようになって、監督生は自らの行動に自らで首を傾げた。
「あ……あれ……?」
もしかして。
いや、もしかしなくても、何かとんでもない事をしてしまったのでは?
「〜〜〜〜っ!」
エネルギー切れだったことも忘れ、全身の血液が沸騰して熱くなって、顔から湯気が出そうなくらいに恥ずかしい。
「ごっ、ごご、ごめんなさい!」
だから、監督生は僅かに元気になった体で跳ねるようにして立ち上がり、走り去りながら謝ることしか出来なかった。
後に残されたのは、――……好きな女の子を助けたらお礼として頬にキスされたのに気が利いたことひとつも言えないくらいに混乱して固まってしまっている男子高校生だけなのだが、そんな事実はカケラも監督生には届かなかった。
▼
どうやら、ああ見えて監督生は大食いらしい。
観察を続けていたフロイドがそう結論づけたのは、あの日から三日後のことだった。
あの日、というのは勿論監督生が廊下で倒れていた日である。
決して、いつか小エビを番にしてやると意気込んでいるくせに頬にキスされただけで固まってしまって、何も言えず、何も出来ずにすごすごと肩を落としてモストロ・ラウンジに出勤した日ではない。
更に言えば監督生の唇の感触が忘れられずに、バイト初日のようなミスを連発して、顔を真っ赤にして怒っているアズールに給料を減らされ、休みだったジェイドが出勤する羽目になって貸しを作ってしまった日でもない、――ということにしておいてほしい。
キュッ、とバッシュが体育館の床と擦れて小気味のいい音を立てたと同時に、フロイドはエースにパスを出した。
「ねーねー、カニちゃん。小エビちゃんの食の好みって知ってる〜?」
「その話今じゃなきゃダメなやつ⁉」
走っているエースのちょうど斜め前を狙ったパスは見事通って、エースのジャンプシュートが決まった。シュート練習は流れるように次のペアへと移って、エースとフロイドは邪魔にならないように避けて、後ろに並び直す。
「……で? 監督生っスか? 別に甘いのでもしょっぱいのでもなんでも食べてるような……」
「この前スカラビアにきた時はスパイスを効かせたスープも飲み干してたぞ」
悩んでいるエースの代わりに答えたのは、ひとつ前に並んでいたジャミルだ。
「ハァ? なんで小エビちゃんがスカラビアに行ってんの」
「図書室で課題をしていたところをカリムが拾ってきたんだ」
「ジャミル先輩、そんな監督生を犬や猫みたいに」
「グリムも一緒だったからな、つい」
「ふうぅん」
「安心しろ。外泊なんてさせていないし、ちゃんとオンボロ寮まで送っていった」
「へえぇえ?」
悪意と敵意と少しばかりのヤキモチをバスケットボールに込めて投げたと言うのに、至近距離でもジャミルはあっさりと受け取ってしまっていっそう面白くなかった。
ふんっと鼻を鳴らす。
「フロイド先輩、監督生を餌付けする方向にしたんすか?」
「んー? まぁそんなとこ」
長い腕を伸ばしてジャミルからボールを奪う。そのタイミングでコーチがホイッスルを吹き、次の練習へ。一年は準備があるんで、とエースが先に走り出す。
「もういっそハッキリ告ったらいいんじゃないっすか?」
「まだダメ。もうちょっと様子見てぇの」
だから早く行けと、シッシッ、と手で追い払って黙り込む。残ったジャミルにはまだ敵意を持っているので特に話したいとは思わない。
一番近くの空いているゴールにシュートでも打とうかと構える。近いとは言ってもスリーポイント判定が出るくらいには遠いのだが、まぁ大丈夫だろう。
しかし。
「……意外だな。お前は相手の気持ちなんざ微塵も考えることもなくさっさと捕まえて、飽きたら呆気なく捨てるタイプだと思ってたよ」
案外純粋で、一途で、臆病なんだな。
なんて、計ったようなタイミングでジャミルが言うものだから。
変に力が入ってしまった腕ではシュートを決めることは出来ず、更に誰かが開けっぱなしにしていた扉の向こうへとボールが転がっていってしまって、フロイドは不機嫌に息を吐いた。
「……ウミヘビくん、わざと?」
「まさか」
心外だ、とわざとらしく目を丸くしているジャミルに舌を出して、フロイドは体育館の外へとボールを拾いに行った。
▼
「こっちがスライスしたアーモンド入りのマドレーヌで、こっちはガトーショコラ、隣はレアチーズケーキ。こっちの鍋に入ってんのは、魚貝たっぷりのスープ。後味がピリッとくるくらいは辛くしてる。日持ちはあんましねーから、今晩食べんのがベスト。んで、ピザが二種類と、小袋に入れてんのはデニッシュパン。食う前に焼いて。中に何入ってんのかはお楽しみ〜」
「…………先輩?」
「ン? なぁに? あ、もしかしてアーモンドアレルギーとかあんの?」
「あ、いえ、ないです。アーモンド大好き」
「よかったぁ」
「そうではなくて! やっぱり私のこと、稚魚かなんかだと思ってます⁉」
監督生がわっと叫んだ言葉にフロイドは首を傾げて、
「小エビちゃんは小エビちゃんじゃん」
としか言えなかった。
今、自分が抱えている感情が、稚魚を可愛がるような気持ちの延長かもしれないと考えたこともあったが、――そうではないととっくに答えが出てしまっている。だからフロイドにとっては「なにを今更」というニュアンスを含んだ返事だったのだが、どうやら監督生には伝わっていないようだ。
「じゃあウツボって海老を養うみたいな習性があるんです? ほら、共生関係? とかいうのがあるんですよね?」
「へえ、小エビちゃん難しい言葉知ってんね。本でも読んだ?」
「えぇまぁ。何度もタダで料理を提供してくれるフロイド先輩の意図が計り知れなくて……」
「やい、フロイド! これも全部食っていいのか⁉」
「こらグリム!」
「アザラシちゃんも食っていいよ〜。そこのゴーストも食べんの?」
「わしらのことは気にせんでいいぞ」
「子分! 子分っ! このケーキ今までで一番美味いんだゾ!」
「あはっ! 苺のシフォンケーキのときもそう言ってたじゃん」
「わー! そのまま齧らないで! せめて取り分けてよ、グリム!」
折角可愛らしくハート型に粉糖を振るったガトーショコラは、グリムがど真ん中にフォークを指して台無しになった。
「せっ、先輩、すみません……!」
「いーよぉ」
本当は少し、肩を落としたい気分だけれど。
でも。
「子分も食ってみるんだゾ!」
「え、むぐっ!」
グリムが監督生の口に、一口大のガトーショコラを乱暴に突っ込む。すると、怒っていたのが嘘のようにパアッと顔が明るくなる。それだけで充分だった。
「すっごく美味しい!」
一気に顔色を良くして、目をキラキラさせて、頬を膨らませて。
(……うまそーに食うなぁ)
グリムに取り分けてよと怒っていたのをすっかり忘れたように二口目も食べている。気を利かせたゴーストたちが彼女の分の取り皿とフォークを持ってきてくれるとハッとして、それからこちらを見て恥ずかしそうに笑う。
(かぁわいい)
きゅう、と心臓が淡く締め付けられて、堪らず口元を緩めた。
すっかり騒がしくなったオンボロ寮の談話室は、甘い匂いと、香ばしくスパイシーな香りと、賑やかな声でいっぱいだ。
時々、年の功だけ察しのいいゴーストが意味ありげな視線をこちらに向けるが、フロイドは今日も口元に指を当て「シー」とだけしか答えない。返ってきた微笑みを見るに、どうやら差し出がましい真似はされずに済みそうだ。
しばらくフロイドはソファに座ったままで監督生とグリムが食べている様子を眺め、二人の腹が満たされたところで「美味しかったぁ?」と声を掛けた。
「はい、すごく!」
「そ。残りはまたあとで食べてよ」
「助かります」
「いいって、オレが勝手にやってるだけだし」
隣に座って深々と頭を下げる監督生にへらりと笑い、それから持ち上がった顔に手を伸ばす。
「口元についてる。あはっ、こういうとこは稚魚ちゃんみてえじゃん」
「えっ」
親指で口の端を拭って、うっすらとついたチョコレートは自分で舐めた。
「えっ、えっ、ちょっと先輩!」
想定外の行動だったらしく、監督生はすぐに顔を真っ赤にし、ポケットから取り出したハンカチでフロイドの親指を拭う。別に拭いてくれなくてもいいのだけれど、ここからでも分かるぐらいに耳や首が真っ赤になっていて、フロイドはそこばかり見てしまう。
「――さぁグリ坊、残ったものは冷蔵庫に入れておくんじゃ」
「ヒーヒッヒ! 傷んでしまっては食べられないよ〜」
「それもそうなんだゾ。よし、子分! これ持って、」
「ほれほれ、いいから運ぶぞぉ」
「ふな〜〜〜っ⁉」
監督生の意識が逸れた瞬間にゴーストたちは気を利かせて、テーブルの上の食料もグリムも強制的に連れ去っていっていく。最後に残されたウインクは、常ならば気持ち悪いと投げ捨てるのだが、今日だけは避けるだけに留めておく。
何も知らない監督生は呑気に「仲良いなぁ」と微笑ましく眺めて、
「あの、先輩? さっきの話の続きなんですけど、」
そう切り出した。
「さっき? あぁ、ウツボとエビの共生関係?」
「それもあるんですけど、どっちかと言えば先輩の行動の意図が計り知れないってほうですね」
「行動の意図ねぇ」
意図なんて、驚くほどに下心しかないのだけれど。
「この前私が倒れちゃったから、それを見ちゃったから心配して何度もご飯を作ってくれているのなら、申し訳ないなって」
「いつも言ってるけど、オレが勝手にやってるだけだし。それに小エビちゃんも最初はなんも言わずに食ってたじゃん」
「だっ、だって! 最初はクッキー数枚とか、モストロ・ラウンジで余らせたパンとかだったじゃないですか! それがいつの間にかこんなに、……しかも先輩の手作りばっかりで……」
「今日は作りたい気分だっただけだって」
「それに……!」
「それに?」
監督生は一瞬言葉に詰まって、気まずそうに目を逸らした。
それから。
「……オクタヴィネルの方に、対価もなくやってもらうのは」
「あー、そういう」
貰うだけ貰って、そのあとで何を求められるのかが怖いのだ。そういう警戒心は大事である。
(でも小エビちゃんだから作ってんのになぁ)
これに関しては日頃の行いの結果だ。さてどうしたものか。対価云々の話をするなら、あの美味しそうに食べている顔だけで充分。
しかし。
(そうだ。いいこと考えたぁ)
監督生がそう言ってくれているなら、乗っからない手はない。
「じゃあさ、小エビちゃんがどうしても気にするっつうなら」
俯き気味だった顔に再び手を伸ばし、半強制的に上を向かせて視線を絡ませる。
「またアレやってよ、ここにちゅーって」
反対の空いた手は自分の頬へ。傷一つないそこを、トントン、と指先で叩く。
すると監督生はピシリと音を立てて固まって、倒れたあの日のことを思い出したらしく、一気に茹で上がってしまった。
「ゃ、あ、そっ、それは……!」
「いーじゃん。オレあれがいい」
「ほ、ほかのことならっ! あれはグリムにいつもしてるから、つい、しちゃっただけで……!」
「アザラシちゃんに出来んなら、オレにだって出来るでしょ」
「そこ同列にします⁉」
「つうか、小エビちゃんに決める権利あると思ってんの?」
「うっ……」
対価はいらないと言っているフロイドに、対価を支払う姿勢を見せたのは監督生のほうだ。舌の根が乾かないうちにこうも簡単に撤回するのは、あまりにも不義理な話である。
どうする? とニンマリ笑って尋ねれば、しばらく監督生は唸って、それから腹を括ったようだった。
「……目、閉じててくださいね?」
「えー。しょーがねぇなぁ。今日は閉じててあげる」
「…………毎回するの決定なのかな……」
「なんか言った?」
「いえ!」
目を閉じて、少しだけ横を向いて。
「じっとしててくださいね」
そうすれば、恥ずかしそうにしている監督生の細い声と古いソファが鳴く音だけが談話室に響く。フロイドは意識せずとも頬に神経を集中させて、今か今かと落ち着きのない指で無意味にスラックスやシャツを掴んでは離す。
「……」
「……」
そのうち監督生の顔が近づいてくる気配がして、――ちゅ、と可愛らしい音がした。
「……っ、」
柔らかい唇の感触に思わずパチリと目を開けた。
大声で笑いたいような、叫びたいような。ムズムズする口は慌てて奥歯を噛み締めて黙らせる。
すると。
「――……やっぱり、全然違うじゃないですか……っ」
まだ距離は近いままで、うう、と弱々しく唸っている監督生が言葉を押し出すように言う。
その顔はさっきよりも赤く染まっていて、瞳もじんわりと水分量が多かった。普段とは別の、所謂「女の子の顔」をしている監督生に、フロイドの心臓はドッと深く重く大きな音を立てて、何を考えるより先に抱き締めていた。
「えっ、せ、せんぱい……⁉」
遊び半分、脅し半分で絞めているのとは違う。柔らかさや小ささを堪能するようなハグ。
ちょっと息を吸い込んだだけで彼女の匂いでいっぱいになる。回した腕が余ってしまうくらい小さな存在なのに、どうしてこんなにも振り回されてしまうのか。どうしてこんなにも頭の大半を占めてしまうのか。
(……かわいい、こえびちゃん、すき、すき)
想いが溢れて、今にでも口から零れていきそう。
でも。
(――……まだ、今じゃない)
記憶の中のジャミルが、臆病だなと、随分と楽しそうに意地悪そうに眦を眇めて言ってくるけれど、焦る必要はない。
確実に番にするために、今はまだ告白するタイミングではないというだけだ。
「先輩……?」
現に、顔を赤くして動揺していた監督生は、冷静さを取り戻したようにこちらの様子を伺ってきている。もっともっと、余裕なんてなくなるくらい自分のことだけでいっぱいになってほしい。
「あはっ」
フロイドは、いつものようにひとつ笑って、それからパッと手を離した。
「ほっぺにちゅーくらいで照れてる小エビちゃん可愛かったから、ぎゅーってしちゃった〜」
「なっ、照れるに決まってるじゃないですか!」
「まだ真っ赤になってんの?」
「先輩だって心なしか顔が赤いですよ⁉ 照れてるんじゃないですか⁉」
「残念でした〜。オレは照れてねぇもん」
一言一句違わず嘘である。もう少し監督生に近づかれたら心臓の音が聞こえるんじゃないかと言うくらいには照れている。
しかし監督生からすれば、一瞥しただけでは照れているのだと分からないらしく、悔しそうに唇を尖らせていた。このまま勝ち逃げさせてもらおうと、フロイドは「そろそろラウンジの時間だから帰るねぇ」とさっさと立ち上がった。
あとを追いかけてくる監督生とともに談話室を出れば、グリムの情けない声が廊下に響いていた。どうやらゴーストたちがあの手この手でグリムを捕獲しては時間を稼いでくれているらしい。
「アザラシちゃんたち〜、オレ帰んね」
理由がわかっているフロイドは声をかけて、立て付けの悪い扉を開く。
「小エビちゃんもまたね。明日、学校で」
言って、いつものように大きな手で頭を撫でる。
「っ、はい」
しかし、監督生は先程のキスを気にしているのか、ハグを引き摺っているのか、ピクリと肩を跳ねさせて、わずかに声を裏返らせる。
さっと頬を赤らめ、こちらを見上げてくる瞳に恐怖の色は混ざっていないように見えた。
――……少しくらい前進したと思ってもいいのだろうか。
フロイドは薄い唇で綺麗に弧を描き、じゃあね、と名残惜しくも手を離して扉を閉めた。
重い音がした扉の向こうで、監督生がグリムを呼びながら遠くなっていくのを確認して、ふうと息を吐きながらしゃがみ込む。
同時に、するりと扉をすり抜けた痩せ型のゴーストが意地悪な顔で笑う。
「わしらが料理に支払う対価はあれで十分かい?」
「うん、ジューブン」
「そうか、なら良かった。……それにしても、まだまだ道のりは長そうじゃ」
色恋沙汰には鈍感そうな子じゃから、と遠くを見るゴーストに、フロイドは緩んだ口元もそのままに首を横に振った。
「思ったよりは、好感触かなぁ」
グリムにキスをするのとは違うのだと監督生は言った。
それはつまり、それなりに異性として見てくれているということだろう。
「ほう」
スタートラインに立てているならなにより。
「いつでもおいで。十代の淡い青春は見ていて楽しい」
「遊んでられんのも今だけだからな。小エビちゃんとくっついたら追い出してやる」
「おぉ、こわいこわい」
ケタケタと楽しそうに体を揺らすゴーストに中指を立てて、それからフロイドは大きく一歩踏み出した。
さぁ、ここからまた始めよう。