「だぁから、カニちゃんそれじゃあダメだって〜。もっと具体的に想像しないと」
監督生が座っているベンチから少し離れたところで魔法の練習をしているのは、エースとデュース、それからグリムである。
そして、特別講師はフロイド・リーチ。気分屋でムラっ気がある彼が無料で特別講師を引き受けてくれたのは、そういう気分だったから、という簡単な理由だ。これが明日なら引き受けてくれなかっただろうし、昨日だったら受講料を取られていたかもしれない。今日はエースとデュース、グリムにとってはとても幸運だった。
(……嬉しいなぁ)
勿論、監督生にとっても幸運だった。
放課後の、風が心地よい中庭で、フロイドと並んで座っていられるなんて思ってもみなかったシチュエーション。彼の恋人に昇格してからそれなりに時間を重ねてきたが、今でもやっぱり傍にいられるのは嬉しいものなのだ。
チラリと目だけでフロイドを見上げ、少し考えて、距離を詰めるように座り直した。先程よりも近くなった手を、当たり前のように上から包み込んでくれるのが擽ったくて仕方ない。
くふくふ、と頬が緩む。
「あはっ、アザラシちゃんは全然話になんねぇ」
「ふなっ⁉ デュースだって酷いんだゾ!」
「僕のほうがまだマシだ!」
どんぐりの背比べ状態の二人の言い合いにフロイドはケタケタ笑って、胸ポケットに挿していたマジカルペンに手を伸ばす。
「こうやってやんだって」
言って、対象物である林檎に向かって翳すだけであっという間にそれが大きくなった。
慌ててエースが計測すれば、トレインが指定した通りの寸法。一ミリだって誤差はない。これが試験なら文句なしの百点満点。
「すごい」
エースたちが「これ俺たちがやったってことにすればいいんじゃね?」なんて悪巧みをしているのを見守りながら、監督生は感嘆の息を漏らす。独り言のような賞賛を耳聡く拾ったフロイドは、得意気に瞳の色味を柔らかくして微笑んで、こちらを見た。
「でしょ。今はやる気があるからね」
「あっ、あと十分もすれば気が変わって帰ってしまうパターンですね?」
「んー、まぁそれでもいいけど」
なぁんだ、やっぱり帰ってしまうのか。
再びエースたちへと視線を戻したフロイドを追いかけるように見つめる。視線にはちゃんと気付いているよと言うように、監督生の手を包み込んでいるそこに力が入った。でも痛くはない。いつの間にか、力の加減も随分と上手くなったものだ。
(もう帰っちゃうのかぁ。まぁ三十分くらい教えてくれてるもんね)
残念に思っているこの気持ちを嘲笑うように強い風が吹く。フロイドの前髪や長い髪がふわりと揺れて、その奥で青いピアスがチリンと音を立てた。
(さみしいなぁ)
今度はいつゆっくり過ごせるだろう。
アズールがモストロ・ラウンジで新しい催しをするのだと先週言っていた。ならば、そろそろ忙しくなる頃合いだ。そうなるとなかなか顔を合わせて話すことが難しくなる。勿論、スマートフォンがあるのだから電話だって出来るし、メッセージのやり取りもできる。
でもそれでは物足りない。
(……キスとか、したいなぁ……)
今は無理なのだけれど。
こんな人目のある中庭でキスなんてしようものなら、恥ずかしさで明日から登校出来やしない。でもしたいなぁ、と思ってしまうほどには寂しい。
(フロイド先輩)
ねぇこっち向いて。それから名前を呼んで。
本名じゃない、あなたがつけた、あなただけの名前がいいなぁ。
(せんぱい)
心の中で何度かフロイドを呼べば、ずっとエースたちを見守っていたフロイドのオリーブ色の目が動いて、視線が絡まった。
――瞬間。
デュースが狙いを定めていたはずの林檎がボンッと音を立てて巨大化した。トレインから指定されている寸法よりもずっと大きい。直径三メートルは超えそうな巨大な林檎。デュースが驚いて悲鳴を上げ、グリムは「やっぱりデュースが一番酷いんだゾ!」と腹を抱えて笑う。
エースは「これどうすんの」と頭を抱えて巨大林檎に近寄って叩いている。
三人の視線は巨大林檎だけに注がれていて、その背後でフロイドのマジカルペンが光っていることにも、監督生がキスされていることにも気付いていない。
「っ、せんぱ」
「黙ってて」
ちゅう、と吸い付くようにキスされて、それから何度も唇が合わさる。
感触を楽しむように角度を変えて、舌先で下唇を舐められた時には声が出た。
「――……小エビちゃんさぁ、」
一頻り唇を堪能した後で、文字通り目と鼻の先のフロイドがニンマリと笑う。垂れた眦に意地悪な色を乗せて。
そして。
「ちゅーしたくなるとき唇尖らせるの、かぁわいいね」
ふに、とフロイドの指が下唇を摘まんだ。加減を覚えた指先は、優しく、愛でるように、何度だって摘まんで遊んでいる。
「……えっ?」
「あはっ! やっぱり無意識だったんだぁ、アレ」
遠くで三人の意識が巨大林檎から逸れ始めたことに気付いたのだろう。フロイドは何事もなかったように離れて、ベンチの背に身体を預けている。
マジカルペンも気付けば胸元に鎮座していた。
ただ、いつも通りなのはフロイドだけで、監督生は顔も首も真っ赤にして混乱し、無駄に手足をバタバタと動かしている。
「わ、わたし、いつから、そんなことを……ッ」
「えー? オレが気付いたのは、初めてちゅーした次の日?」
「言ってくださいよ、恥ずかしい!」
またやってよ、と言われてももう二度と出来ない。けれど、無意識下の行動だったのできっと自分が気付かぬ間にまたやってしまうのだろう。あぁこんなこと知りたくなかった、と頭を抱えて項垂れていれば、フロイドの唇が耳元に寄せられた。
「そろそろセンセーごっこも飽きたから、小エビちゃんのこと攫っていっていーい?」
今、すげー気分がいいから選択肢あげる。
「どうする? オレね、来週から休みねぇから今日はラウンジ休んでいいって言われてんの。ついでに、カニちゃんたちのセンセーはジェイドにお願いしてあげてもいいよ」
いつもより落ち着いた、低く囁くような声に「どうする?」とまで言われてしまったら答えはひとつしかない。監督生は赤い顔を更に赤くして、お願いします、と小さく小さく呟いた。
あは、とフロイドが上機嫌に笑ったと思ったら、瞬きひとつで肩に担がれる。
「飽きたからやーめた。小エビちゃんだけ貰っていこーっと」
彼の声を聞きながら、監督生はフロイドのジャケットをぎゅうと握り締めた。