抱き締めてトレモロ

常に心の奥底で恐れていたものが、何の前触れもなく現れた。
「――……やっぱ、飽きたかも」
手洗いしていたグラスが零れ落ちて、ゴトンと音を立てた。監督生は慌てて拾い上げて泡を流した。割れてはいないが、よく見れば小さなヒビが入っている。
(……フロイド先輩が買ってくれたグラス)
可愛らしさの欠片もなかったオンボロ寮の食器棚に、色を吹き込んでくれたのはフロイドだった。今では食器棚を覗くのが好きになって、簡単な料理だってするようになった。折角だからお揃いにしよう、とグラスを二つ選んで笑ってくれたのはいつだったか。
ヒビが入ってしまったグラスを端に避け、まだ洗っていないお皿に手を伸ばした。
フロイドの言葉に返事をすることなく、ただただ目の前の作業に没頭する。どうせ返事をしてもしなくても未来が変わることはない。彼が「飽きた」と言うならそれが全てだ。
(意外と続いたほうなのかな。……分かんないや)
好きになったのも、付き合ったのもフロイドが初めてだから。
最後のお皿を洗い終わり、簡単に手を洗ってタオルで拭った。エプロンを外して、皿洗いが終わるまで待ってくれていたフロイドに向き直る。
「終わった? じゃあオレ、アズールのとこ行ってくるね」
「はい。気を付けて」
「んー」
振られたことが嘘のように普段通りの言葉の応酬。フロイドはポケットから取り出したスマートフォンを弄りながらオンボロ寮をあとにする。未練など微塵も感じさせない足取りだ。
(これで最後なら、)
強引にキスくらいしておけば良かった、と苦く笑いながら後悔を零して、深く息を吐いた。
こうして、別れ話なんてものをする暇もないほどあっさりと、人生初めての恋人とさよならをした。





恋が始まろうと終わろうと、時間というのは誰にでも平等に進んでいく。フロイドがいなくなっても朝は来るし、騒がしい学園生活は今日も続く。

布団から出ればグリムがいて、ゴーストとは軽い世間話。教室に行けばエースとデュースがいる。トレインの授業は眠くなって、飛行術の授業になれば今日はジャックとエペルのクラスと合同だった。食堂で食べるご飯は美味しくて、錬金術は上手くいって。空は青くて、風は心地よくて。すれ違う先輩たちは優しくて、クルーウェルの号令で今日が終わる。
なんてことない一日だ。
――……ただ、今日あった出来事を、面白かった話を、授業で分からなかった問題を、フロイドに話すことはもうないというだけ。
今日だけじゃない。明日も明後日もずっと続いていく。
小エビちゃんの周りってなんでそんな厄介ごとばっか起きんの、おもしろくていいけどさぁ、なんて笑いながらも心配してくれる彼の手に頭を撫でられることももうない。
(今日くらいエース達に来てもらえばよかったなぁ)
人気がなく、静かで暗いオンボロ寮にひとりで帰ってくるんじゃなかった。
(グリムもどっか行っちゃうし)
見つかるまで探せば良かった。そのうち帰ってくるだろうけれど、今は一秒だってひとりになりたくなかったのだとやっと気付いた。
ひとりになったら、心臓がしくしくと痛む。
誤魔化すように何かを胃に流し込みたくて冷蔵庫を開ければ、昨日フロイドが作ってくれたスープが残っていて思わず手に取った。けれど、美味しい匂いに昨日のことを思い出してしまって、これからのことを考えてしまって、切なくて悲しくてどうしようもなくて、スープはシンクに流して捨てた。
(もったいない)
そのまま床にへたり込み、痛む心臓を制服の上から強く握り締める。
それでも痛くて、痛くて。ぎゅうっと目を瞑ったら涙が滲む。
「……フロイド、先輩」
飽きた、と言った声が頭の中で響く。
いつか言われるのだろうとは思っていた。異世界から来ただけで、中身は何の変哲もないただの人間に彼がいつまでも興味を持ってくれるとは思っていなかったから。
好きになってくれただけ奇跡だ。束縛を嫌う彼が一瞬でも恋人になってくれただけ感謝しなくてはいけないくらい。――分かっていても、心が追いつかない。
飽きたなんて言わないで。もっと一緒にいて。たくさんお話がしたい。
手を繋いで、寝転がって、おでこを擦り合わせて。至近距離で見る二色の瞳が大好きだった。遠くから、小エビちゃんと大きな声で呼んで走ってきてくれるのが大好きだった。笑った時に見える尖った歯は、一緒にいることで怖くなくなった。アズールやジェイドと悪巧みをしている笑顔ですら可愛いと思っていた。バスケをしているときの声はいつ聞いても楽しそうで、退屈なんかしなかった。
は、と短い呼吸を繰り返して、熱くなった眼窩もそのままに涙を床に落としていく。
(……っ、やだ、やだ……!)
別れたくない。さよならなんてしたくない。
飽きたなんて言わないで。もう一度好きだと言ってほしい。
(やだ、やだよ、せんぱい、やだ、なんで)
あっさりと終わりに出来るわけないじゃないか。
ヒビが入ったグラスだって、使えないと分かっていても今日も捨てられない。きっといつか誰かに捨てられるまで、どこかに置いておく。
でも。
(これ以上、嫌われなくない……)
別れなくないと縋って、鬱陶しいなどと冷たい目で見られたら一生立ち直れない。だから、なんでもない顔をしていたけれど、ひとりになると思い出に負けてしまう。
「せんぱい、……ふろいど、せんぱい」
すき、すき、だいすき。
ぐずぐずとみっともなく鼻を啜って、喉を引き攣らせて泣いた。
「ふろいど、せんぱい」
こんな声などもう届かないというのに、暗いキッチンで小さくなって行き場のない愛を吐き出していく。
すると。
「なぁに、小エビちゃん」
都合の良い夢でも見ているのかと思うほどに優しい声が降ってきて、そうかと思えば後ろから包み込むように抱き締められて監督生は慌てて振り向いた。
「――……え、」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すことなく、更に驚きすぎて口も開いている。
それを見て、あはっとフロイドは吹き出すように笑い、細く尖った舌先で目尻を舐めた。
「またなんか嫌なことでもあった? つうか、いつも泣く前に相談しろっつってんじゃん」
反対の目尻も舐めて、そのまま滑るように頬へと移動する。
「小エビちゃんがお願いしてくれたら誰だって絞めてやるのに」
だから教えてよ、なんで泣いてんの?
「教えて、小エビちゃん。――ねぇ、オレの小エビちゃん」
慈愛のこもった瞳は優しく細まって、しかし吐き出される声色はどこまでも恐ろしい。静かに、とても静かに怒っているのだと本能で察した。
監督生は思わず固まって、しかしフロイドの顔が近付いてきていることに気付いて急いでその口を手のひらで封じる。
「っ、な、なに、を」
「なにって、ちゅーしようとしてんだけど」
「なんで……」
「ハァ? なんでって、小エビちゃんが泣いてるから」
それ以外になにがあるのだ、と訴える顔は未だ笑いながら怒っている。
「泣いてたら、誰にでもキス、するんですか」
「や、するわけねーし。小エビちゃんだからすんだけど。なに? なんか喧嘩腰じゃん」
「喧嘩腰って、……正直、フロイド先輩の行動についていけなくて」
「あ? なに、どういう意味? ちゃんとハッキリ、」
まさか、とフロイドの眉間に皺が寄る。
同時に、グルル、と喉が凶暴に鳴った。
「ついていけないって、小エビちゃんオレと別れたいとか言うつもり……?」
だめ、だめ、そんなの絶対だめ、とフロイドの口がわっと大きく開く。
怒りは焦燥感へとシフトチェンジしたようで、瞳孔が開き気味になった瞳の色がぐっと濃いものになる。絡みついてくる腕の力が強くなって、抜け出すどころか一ミリだって動けない。
「わ、別れたいっていうか、別れてますよね……?」
「ハァ⁉ 誰が!」
「私と、先輩が……」
「ンなわけねーじゃん! なに言って……!」
いっそうフロイドの声が大きくなって、しかし監督生が反射的にビクリと体を震わせるとピタリと口を閉じる。それから随分と小さくなった声で「なんでそんなこと言うの」と吐き出しては擦り寄ってくる。今度はフロイドが泣き出してしまいそうなほど萎れてしまって、何を考えるよりも先に丸い背中を擦った。
「ほんとうに、別れてないんですか……?」
「だから別れてないって言ってんじゃん」
勇気を出して頬を擦り寄せてみた。フロイドは逃げない。寧ろ、あちらからも擦り寄って来てくれて、じわじわと涙が込み上げてきた。
「……ほんとうに?」
「っ、だから!」
どうしても確信が欲しくてもう一度尋ねれば、噛み付くようなキスがひとつ、ふたつ。
ぐずぐずになっている鼻ではうまく呼吸が出来なくて、苦しくなって離れようとしても何度だって食べられる。ぬるり、と侵入してきた舌で口腔内を余すとこなく舐められて、とどめだと言わんばかりに上顎を舌で撫でられると腰が震えた。
ようやっと離してくれた頃にはフロイドに寄りかかることしか出来なくて、あっと言う間に腕の中に仕舞いこまれた。
「小エビちゃん好き、だいすき。こんなこと小エビちゃんにしか言わねぇのに」
信じてよ、と震える声で言われてしまうと、うんと頷いてしまいそうになる。監督生はそれをぐっと堪え、顔を上げずに「でも、だって、先輩が飽きたって」と呟いた。
「飽きた? なにに?」
「私、じゃないですか……?」
「それはねーから。ちょっと黙って」
「先輩が聞いたのに」
「いいから黙って、…………あ、あー、思い出した」
昨日オレが言った? と聞かれて素直に頷く。
「違う、ごめん、小エビちゃん。あれはそういう意味じゃなくて」
オレが作った料理の味に飽きたなって。
「小エビちゃんが好きそうな味とか料理に偏り過ぎて似たようなもんばっか作ってたから、そろそろ他のものも試してみたいって話。本当は学園の外で二人で食べ歩きとか出来ればいいんだけど、ほら小エビちゃんって特殊だからなかなか許可下りねぇじゃん?」
だから。
「今度モストロ・ラウンジで使う食材の調達に行くとき、一緒に行こ」
「食材の調達……?」
「そ。まぁフツーの買い出しの重労働バージョンって感じ。買い出しだけじゃなくて、馴染みの業者にアイサツとかもして、市場調査も兼ねて学園外の飲食店とか回ってんの。話の流れでいい業者が見つかれば会いに行ったり、試験的に契約したりして。結構疲れるし、下手すりゃ丸々一日潰れんだけどさぁ」
言いながら取り出したスマートフォンで地図アプリを起動させ、次の日曜日に回る予定の店を指で示していく。
「こんなにたくさん」
「今回はここからもう少し絞る。歩くだけでも疲れんだけど、でもすげー面白いよ」
ひとつひとつの店をタップして、ウェブ上に公開されている情報に監督生は目を輝かせた。元の世界でも見たことがない料理や飲み物に興味が湧いた。
わあ、と口元を緩ませて前のめりになった監督生にフロイドが擦り寄る。
「イシダイせんせぇに相談したら、寮長と副寮長が一緒で、尚且つ短時間ならまぁまず問題はないだろうって。あとは小エビちゃんが書類書いて、申請したら大丈夫」
申請をして、きちんと許可が下りたらその時は。
「小エビちゃん。外で、オレとデートしよ」
色んな物を見て、色んな物を食べて。この世界で好きになったものを教えて。
毎秒目移りしてしまいそうな色とりどりの景色の中で、もしも同じものを好きになったなら、それはきっと嬉しくて。違うものを好きになったなら、それはきっと面白い。
「まぁジェイドもアズールもいるから、完璧な二人っきりじゃねぇけど」
「……あの、先輩」
「なぁに? ヤだった?」
「嫌じゃないです、うれしいです、すごく」
「そっかぁ」
画面が真っ暗になったスマートフォンは乱雑に床に置いて、フロイドは監督生を抱え直した。
「デートのとき、グラス選んでもらってもいいですか?」
「グラス?」
「はい。昨日割っちゃって……」
「怪我してない?」
「してないです。あの、割っちゃってごめんなさい」
「割るのは別にいいって。オレだってしょっちゅうアズールが気に入ってる皿割ってるし」
だから本当に気にしなくていいよ、今度は何色のグラスにしよっかぁ。
笑ってくれるフロイドにきゅうと心臓が柔く締め付けられて、監督生は滑らかな頬に手を伸ばした。昨日したくて堪らなかったキスをひとつ、唇に。
「だいすき」
珍しい、監督生からのキスにフロイドはパチリと大きく瞬きをして。それから嬉しそうに口を開けて小さな唇に噛み付くようにキスをした。

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