瞼を開けるのですら億劫だったが、それでもアズールに叱られるように急かされるまま制服に腕を通してどうにか教室に辿り着く。
だが、授業を寝て過ごしていればクルーウェルにお説教され、中庭でサボって眠っていれば通りかかったバルガスに大声で起され。時間が経つ毎に機嫌は悪くなる一方。
そのあとも、昼食に選んだお気に入りのパンは味が変わっていたし、飛行術では箒と喧嘩するし、ラウンジでの給仕はサボろうとしたら団体の予約が入ったとアズールが喜んでいるし。厄日、という言葉以外が思い付かない一日だった。
「フロイド、大丈夫ですか?」
「どこをどう見たら大丈夫かとか聞けるわけ? これ、三番テーブル」
「……はい」
ジェイドが気に掛けてくれても、それを受け止めるだけの余裕がない。
体はいつもの十倍重く、頭が痛くて気怠いと言うのに鎮痛剤は効いてくれない。
それでもどこか冷静な自分が、あとでジェイドに謝らなくてはと考えて。しかし、ジェイドなら分かってくれるだろうと甘えている。
(…………だる)
さっさと仕事を終わらせて、今日は風呂も入らずに寝てしまおう。それがいい。
五分だけスタッフルームで休憩を貰って、それから閉店作業が終わるまでフロイドは無表情のままで淡々と仕事を消化した。
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ようやっと自室に帰ってきて一番に目に飛び込んできたのは、ベッドの上の塊である。
靴を脱ぎ捨ててベッドにダイブしようと思っていたフロイドは、その塊を視界に入れて、足ではなくズキズキと痛む頭を必死に動かした。
(……今日、金曜日か)
スマートフォンで曜日を確認して、合点がいく。
今日は金曜日。明日からは嬉しい嬉しい休日。だから、団体客の予約が入ったし、お泊りの約束していた監督生が此処にいるのだ。
(忘れてた)
というより、曜日というものが頭からすっぽりと抜け落ちていた。
(つうか、小エビちゃんなに握ってんの? ……あ、オレの服だ)
監督生を起こすでもなく、声を掛けるでもなく。体力も気力もゼロに近いフロイドはぼーっと上から覗き込むだけ。
(は? なにオレの服掴んで寝てんの。それオレが今日着てたやつじゃん)
緩くデフォルメされたエビが描かれたTシャツは、最近お気に入りのルームウェア。昨日それを着たまま眠って、洗濯に出すのも忘れていたからきっと綺麗ではないだろうに。
(なんで、握って寝てんの)
それでも監督生はフロイドがいない寂しさを紛らわすように大事に抱えて顔を埋めている。
(……くそ、かわいい)
機嫌も体調も悪いこっちの気も知りやしないで、人のベッドで呑気に眠るなんて。しかも、食ってくださいと言わんばかりにフロイドのTシャツを握りしめて隙を見せて。
(イライラする、けどかわいい、でもイラつく)
真反対の感情が疲れた体の中でせめぎ合って、いっそう体力が削れていく。
フロイドは考えを整理する前に手を伸ばす。布団と一緒に監督生が握っているTシャツを掴んでベッドの外へと放った。その拍子に監督生の体が仰向けになり、両手を左右に軽く開くものだからいっそう無防備になる。海の中だと、監督生の命はあと一秒もないだろう。
「……」
静かにベッドに膝をつく。寝顔の両脇に手をついて上から眺めた。なんとも健やかな寝顔だ。
「…………」
今度は穏やかに上下する胸を覆う、薄っぺらなシャツを遠慮なく両手で左右に開く。
ブチッ、と音がしてボタンが弾け飛んだ。乱暴にしたものだから生地は痛み、フロイドの手の形に皺になった。
(……こんなことされて、まだ寝てんの)
――あぁ、本当に苛々する。
オスばかりの学園で、ちょっとは危機感を持てと言っているのにこの有様。
これでは誰かに乱暴されたって文句の言いようがない。ちょっとくらい痛い目に遭わせて泣かしてやろうかと、凶悪な牙をギラつかせた。
心許無い下着ごと食ってやろうと柔らかな肌へと顔を落として、――……止めた。
「こえびちゃあん」
なんとも情けない声である。
「起きてんならちゃんと嫌がれって」
言葉を溜息とともに吐き出して、フロイドは監督生の横に倒れ込んだ。
ついでに取り出したマジカルペンをひとつ振る。たったそれだけで弾け飛んだボタンが浮きあげって元の位置に戻り、傷んだ生地も修復されていく。
同時に、ゆっくりと監督生の瞼が持ち上がった。
「……バレましたか」
「手が動いた。息が詰まった。唇が震えた」
「うーん。気を付けていたんですけど」
「ハァ……。小エビのくせにオレを騙そうとか五億年早ぇから。生意気」
すっかり元通りになったシャツに監督生は呑気に感嘆を上げ、それからフロイドと真正面から向き合うように横向きになった。
「先輩、お仕事お疲れ様でした。おかえりなさい」
つい一分前までの乱暴を忘れているかのように笑う顔がこれまた能天気なもので。あんなに苛々していたのが馬鹿馬鹿しく思えた。肩の力が抜けて、ふうと息を吐けば頭痛が和らいだ気がした。
「ただいまぁ。オレ今日すっげー頑張った」
「えらいです」
「あと、意味分かんねぇくらい無防備な小エビ襲うのもガマンしたぁ」
「……」
「なに黙ってんの。褒めて、早く」
「……えーっと、それなんですけど」
あの、……あのですね、フロイド先輩。
「私、フロイド先輩になら、乱暴されたっていいですよ。怒らないですし、大好きなままです」
フロイドの顔にかかった髪の毛を優しく払いながら、そして恥ずかしそうにはにかみながらそんなことを言うものだから、フロイドは瞬間的に体中の血液が沸騰したような感覚に陥った。
カッと目を見開いて、瞳孔が収縮して、心臓がドッと音を立てる。血管が切れてしまいそうなほど全力で奥歯を噛み締めないと、一瞬で監督生を食らうところだった。
「――ッ、……っ、この、……クソッ、マジで、ふざけんなよ、この小エビ……ッ!」
今すぐに小さな体を押さえ付けて、泣いて謝るまでひどく愛してやりたい。
「ぜってー、しないけど!」
異世界からたった一人で来た少女を、好きだからこそ守ってあげたくて手を取ったのだ。
それなのにこちらを試すような誘惑はやめてほしい。いい加減、歯を食いしばって、性に合わない我慢をするほど好かれているのだと、愛されているのだと理解してほしい。
「残念です」
「……、……マジで、黙ってろ」
「先輩がそうやって我慢してくれるのは嬉しいし、大好きだなぁって思うんですけど、でも、」
「なに」
「私だって、同じくらい先輩が好きだから、好きにしてほしいって思うんですよ」
小さな手が頬を撫でてきて、ゆっくりと額同士がくっついた。
「――……今日、先輩の機嫌が悪いって、ジェイド先輩から聞いてました。来ないほうがいいですよって、言われました」
でも、来ました。
「来たかったんです、私が。先輩のためになにか出来るかなって」
先輩みたいに上手じゃないけどお腹が空いたならご飯を作るし、いつもは断ってるけどお風呂に一緒に入ってもいい。本能のままに私を食らい尽くしてスッキリするなら、それでもいい。
「だから、我慢しなくていいんですよ。だって、先輩に我慢ばっかさせてたら、ツガイ失格じゃないですか」
「そんなこと、」
「思いますし、考えます。これからずっとずっと一緒に過ごすんですから」
「……」
「私にも、先輩を愛させてくださいね」
大好き、と可愛らしいキスがひとつ。不思議なことに頭痛が完全に治まった。体は怠いままだけれど、それでも随分と軽くなった。
(小エビちゃんが、オレのこと、愛してくれたから?)
恋とは、愛とは。なんて力を持ったものなのだろうと面白くなった。
幾分か軽くなった体で飛び起きて、驚いている監督生を押し倒す。先輩、と呼び掛けてきた言葉ごと食らい尽くすように、気が済むまで深く深くキスをする。
途中、息苦しそうにしていたが、首に回された腕がフロイドを拒否することはない。
「小エビちゃん、もっと口開けて」
「ん、んー」
従順な大口に舌を滑り込ませて、歯列をなぞり、奥に引っ込んでいる舌を絡み取る。自由な左手で監督生の頬を撫で、耳を擽って体の感触を楽しんだ。
「ふろいど、せんぱい」
真っ赤な顔をしてこちらを見上げてくる監督生が可愛くて、あっと言う間に上機嫌が不機嫌を上回った。
「小エビちゃん、オンボロ寮行こ。一緒にお風呂入ってくれるんでしょ」
ちゅう、ちゅっと色んな所に唇を落としながら強請れば、監督生はすんなりと頷いてくれた。
「一緒に入るだけじゃなくて、オレのこと洗ってくれる?」
「う、…………わかり、ました」
「やったー」
バスタブの中で勝手に人魚に戻ってやろうと考えて、体を起こして監督生の手を取った。
するとその手を引っ張られ、なぁにと首を傾げると、監督生からのキス。
「あの、えっと、大好きですからね?」
「うん。ありがと、小エビちゃん」
自分がどれだけ愛されているか、よく理解していなかったのはお互い様。
監督生の愛を知り、これまで以上に優しくしたいなぁとフロイドは眦を落としてキスをした。