魔法が解けたらオレの番

お疲れ様でした、とくたくたになった体を引き摺りながら鏡を抜けて、いつもの帰路に着く。
今日のモストロ・ラウンジも大盛況だった。だからこそ疲れた。眠い。

(賄い食べたし、帰ったらお風呂入ってすぐに寝よう)

ようやっとオンボロ寮が見えてきて、ふうと息を吐けば、前方に何かを見つけた。なんだろうと気になって近寄っていく。地面に無防備に転がっているもの。それは、獣でも妖精でも、人でもない。
これは。

(……犬、のぬいぐるみ?)

デフォルメされた、監督生の世界で言うシベリアンハスキーのような犬のぬいぐるみだった。足や腹の部分は白で、それ以外は毛並みの良いターコイズブルー。尻尾や目は月明かりの下では黒に見える。右耳には青い宝石がひとつ。

「誰のだろう」

周りを見渡しても誰もいない。それどころかもう二十三時を過ぎていてどこの寮も消灯時間だろう。

さて、どうしたものか。
学校に行くにももう遅い。周りには誰もいない。かと言って、再び冷たい地面の上に置いていくことは出来ない。
しばらく考えた結果。抱えたぬいぐるみは所々汚れているし、洗うという理由をつけて持ち帰ることにした。



「おや? 珍しいお客様だね」
「帰り道に拾ったんです。汚れちゃってるから一緒にお風呂入ろうと思って」
「そうかい」

出迎えてくれたゴーストに挨拶をして、監督生はそのままお風呂へと向かう。
最近少しずつ改装しているおかげで、古いながらも充実しはじめているオンボロ寮は、ようやっと浴槽が新しいものになった。これを機に洗い場も隅々まで磨き上げ、疲れた夜はのんびりと寛ぐことが出来るのだ。
住んでいた世界と比べて、まだまだ快適とは言えないが、最初の埃が舞っていた時から比べると大きな進歩である。

しかも今夜は、急遽モストロ・ラウンジのバイトが長引くことが決まり、すぐにグリムをエースに引き取ってもらったため一人である。静かな夜は純粋に嬉しい。特に今日のような日には。
抱えていたぬいぐるみは、一旦床に置いた。空いた両手で、監督生はポイポイと制服を脱いでいく。
すると。

「ちょっとぬいぐるみ借りるよ」

床から白い手が生えたと思ったら、ゴーストがぬいぐるみを奪っていった。

「あ、こら、ちょっと」

追いかけようにも監督生は床をすり抜けられない。

「誰のか分からないんだから返してください」
「そうそう。誰のかわからないから用心したほうがいい」
今度は天井から逆さまになった別のゴーストが現れた。
いつものようにふっくらとした頬を更に丸くして、にんまりと笑っている。

「はい、どうぞ」

監督生の手の中に戻ってきたぬいぐるみは、目の上に真っ黒の布が巻き付けられていた。見たことない模様が中央にひとつ。

「ちょっとした封印の魔法じゃよ。なぁに心配しなくていい。それは危害を加えるようなことはない。ただ、時々あるんじゃよ。ぬいぐるみと持ち主の目が繋がっている場合が」

年頃の女の子なんだから、裸は見られたくないだろ?
そう言って意地悪に口角を上げるのは痩せたゴースト。

「も、もちろん!」

監督生は慌てて大きく何度も頷く。
そうだった。ここは魔法が使える世界。動物がただの動物じゃないように、ぬいぐるみだってただのぬいぐるみじゃないかもしれない。何も考えずに服を脱ごうとしていたことに、冷や汗が出た。

「もう覗かないからゆっくりするんだよ」
「はぁい。ありがとうございました」
「ああ、そうだ。もうひとつだけ。誰のものか分からないから、それは優しく丁寧に洗ってあげるんじゃよ」

クスクス、と再び揶揄うように笑って、今度こそゴーストたちは消えた。
言われるまでもなく優しく扱う予定だった監督生は、納得がいっていないような声で返事をして、薄い布切れを脱いでいく。
浴室に入ったら一番にぬいぐるみを洗う。ぬいぐるみについた汚れは、存外簡単に落ちてくれたので安心した。どうやら地面に転がった拍子にちょっとついただけのようだ。シミにならなかった汚れにホッと息を吐く。
大きめの桶に湯を張り、洗濯用の洗剤を溶かして、ぬいぐるみの全身を揉むようにして優しく洗う。

「痒いところはないですかー?」

行きつけだった美容室の担当の真似をして、ひとりで笑う。
そういえばこちらの世界に来て、ずっと髪の毛の手入れなどしていない。
あのおっとりとした口調の担当さんにもう一度ケアしてほしいな、なんて考えたら、ちょっとだけ寂しくなった。それを振り払うように、ぬいぐるみを洗うことに集中した。

元々、ぬいぐるみは大好きだ。部屋にいろんな種類のぬいぐるみを飾っていたし、小さい頃から寝る時はぎゅうっと抱きしめて寝ることが多かった。こうやって洗うのだってお手の物。
こっちに来てからは専らグリムがぬいぐるみ代わり。寂しい時は今でもよく一緒に眠ってもらっている。お金に余裕ができれば大きめのぬいぐるみが欲しいのだけれど、まだ当分買えそうにない。

「……よし、そろそろいいかな」

汚れが落ちたら、桶の中の湯を新しくして濯いでいく。手や足、尻尾をぎゅっと優しく握って脱水。桶の中の湯に泡が混ざらなくなったら、一旦浴槽の隅に置いて、自分の体や髪の毛を洗った。
そして、たっぷりの湯を張った湯船に浸かる。勿論、ぬいぐるみも一緒に。
ゴーストの封印もあるからと、安心して癒しを求めるように抱きしめて擦り寄る。ぬいぐるみの毛の質感といい、中の綿の硬さといい最高だった。濡れている状態でこれなのだ。綺麗に乾かしたあとが楽しみで仕方ない。

「はぁー……癒されるなぁ」

久しぶりのぬいぐるみの感触に、今日の疲れを癒していく。

「今日はね、ちょっと疲れちゃったんだよ。お客さんは暴れちゃうし、お皿割っちゃうし、新人さんのフォローお願いされてたのに結局上手くいかなったし、ジェイド先輩に代わってもらっちゃったし、アズール先輩も怒っちゃうし、それに、」

それに。

「……フロイド先輩、いなくなっちゃうし」

不服そうに呟いて、抱きしめている腕に力を込めた。

「フロイド先輩も途中まではいたんだよ? でも気分が乗らないから散歩してくるって言って、そのまま帰ってこなくて」

ただでさえ忙しかったのに、働き慣れているメインのメンバーが一人いなくなってしまうと余計に忙しくなる。
だからこそアズールは怒っていたし、バイトが長引いてしまった。

「今日は一緒に賄い食べようって約束してたのになぁ」

二人で食べるはずの賄いを一人で食べるのは寂しかった。美味しいのに味気なくて、気を遣ってジェイドがデザートを用意してくれたけれど、お腹がいっぱいだからと断ってしまった。

「自信作だから感想教えてね、なんて言ってたくせにフロイド先輩がいないんだもん。……さみしいよ」

忙しかったのも、時間が遅くなったのも、そんなに問題じゃない。
ただ、ふらりといなくなって、約束まであっさりと破られてしまったのが悲しかった。
こんなことは今日が初めてだ。
気分屋だけど、その日の行動は全然読めないけれど、でも何も言わずに約束を破られたことはなかった。

「明日は会えるかな」

昨日はごめんね、なんて全く悪気がない顔で笑って。

「明日は一緒にご飯食べられるかな」

今日のも自信作だから一緒に食べよっか、って誘ってくれるだろうか。小エビちゃんって、また呼んでくれるだろうか。
──……なにか怒らせてしまっていないのなら、それでいいのだけれど。
何とも言い得ぬ不安が、大きな渦となって胸の中心で暴れ回る。これでもかと凶悪な顔をして笑う人魚がそばにいてくれれば、きっとこんな渦などどうってことないだろう。あぁ会いたいな、と肩を落とした。

「ごめんね、こんな話聞かせて」

濡れた手で何度もぬいぐるみを撫でて、もう一度ごめんねと謝った。
最後に甘えるように頬を擦り寄せて、しかしそのせいで目隠しがズレ上がってしまったから慌てて直した。
一瞬だけ灯りに照らされて見えた右目は、フロイドのそれによく似ている気がして、ここまでくると末期だなぁと自分の恋心に苦笑いするしかなかった。



「今日は随分と長風呂じゃったな」

と、言いながらゴーストたちがぬいぐるみを拭いてくれた。浴室の扉越しなので声がくぐもって聞こえる。

「小さい頃からぬいぐるみが好きで、つい甘えちゃいました」
「どういう理由があれ、女の子を一人にしてしまう男は紳士じゃないからお勧めしないよ」

ふっくらとしたゴーストが、ヒヒヒと笑う。

「あ、勝手に聞いてましたね? 覗かないって言ったのに」
「覗いてはないよ。たまたま通りすがりに聞こえたんだよ」
「本当にぃ?」

代わる代わる話をしながら、監督生はルームウェアのトップスだけを着て、ドライヤーで自分の髪の毛を乾かしていく。短い髪の毛はあっという間に乾いて、ゴーストたちとぬいぐるみのもとに向かう。
どういう魔法か、戻ってきたぬいぐるみは芯まで乾いていて、毛並みがよく、感動するくらいにもふもふとしていた。

「うわぁ、最高!」

力いっぱい抱きしめて、目隠しされたままの顔に、何度だって頬擦りをする。そのままぎゅうっとしていれば、ぬいぐるみの暖かさも相まって眠くなってきた。

「立ったまま寝てしまう前にベッドに行くんじゃよ」

監督生は、うんと頷いて、乾いた喉を潤すためにキッチンに向かう。コップ二杯分の水を一気に飲み干して、重い足で寝室へと向かった。

「ぬいぐるみは預かろうか?」
「だいじょーぶです」

グリムがいないからか、今日はゴーストたちがよく絡んでくる。
けれど、元々約束をしているので寝室には入ってこない。おやすみなさい、と言えば大人しく消えていく。
ふあふあと欠伸をしながらベッドまで辿り着いて、倒れ込む。むぎゅうと胸のあたりでぬいぐるみを潰してしまっていたので、それだけ救出して、改めて強く抱きしめた。
思っていた以上に疲れていた体は、寝転がってしまうと起き上がるのが億劫で、そのまま布団もかぶらずに眠ってしまった。


──よっぽどフロイドに会えなかったのが寂しかったのか、夢の中で小エビちゃんと呼ばれた気がした。自分の欲に素直過ぎる夢の内容に自分でちょっと笑ってしまった。

「なぁに、ふろいどせんぱい」

そう言えば、このぬいぐるみの毛色はフロイドのものとよく似ているなと、夢に浸った頭でぼんやりと思い出す。

「ふろいど、せんぱい」

なんだか綿が堅くなっている気がしたけれど、関係なくぎゅうぎゅうと抱き締めた。洗いたての毛が柔らかくて擽ったい。いい匂いがする。気分が良くて、くふくふと笑えば、誰かに抱き締められている感覚がして心地良かった。

「すき」

明日も逢えるかな。話せるかな。
小エビちゃん。とまた呼ばれた気がした。
垂れた眦をそのままに、へらりと笑っている彼が夢の向こう側に見えた。そうやって、遠くにいても見つけてくれて、彼だけの名前を呼んで、なにしてんのと聞いてくれる瞬間がどうしようもなく好きだった。
青い髪が風に揺れて、その拍子にチリチリと音を鳴らすピアスが綺麗で。気が付いたらもうずっと目で追っている。

(すき、すき、せんぱい)

夢の中でもあの気分屋な人魚の尾びれに捕らえられてしまっていて、あぁもう一生逃げられないんだなぁと他人事のように考えた。



いつも通りの時間に起きた監督生の腕の中からぬいぐるみが消えていた。
かぶった覚えのない布団を蹴飛ばすように飛び起きて、慌ててゴーストたちを掴まえて、いなくなったことを説明すると、魔法が解けたんだよとだけ言われてしまった。

結局何の魔法だったのか、それだけは教えてはくれなかった。




***




「──フロイド! 昨日はどこに行ってたんですか!」

早朝のモストロ・ラウンジにアズールの怒鳴り声が響く。
しかし、怒鳴られている張本人は何処吹く風。というよりも、手元に必死で見てもいないし聞いてもいない。

「アズール。今のフロイドに話しかけても無駄ですよ。今年一番の集中力です」
「〜〜〜っ、だとしても怒らずにいられるか!」

昨日どれだけ大変だったと思ってるんだ、と目くじらを立てて再びアズールが怒鳴る。
だが、やはりフロイドの耳には届いていない。この様子だと、アズールとジェイドが厨房に入ってきているのにも気付いていないだろう。それほど必死な顔で、真剣に料理を作り続けている。

これが錬金術の授業中ならば、きっとアズールが昨日の一件を即座になかったことにした上で「よくやった」と褒めるくらい高価な石を生み出していたことだろう。気分にムラがあるとはいえ天才肌なのだ。その天才が本気を出せば、どの分野でも、誰にも負けることはない。

「何があったのでしょう?」
「知るか!」

フロイドの両手から生み出されていくのは、どれも今までモストロ・ラウンジで提供したことがないものばかりをきっちり一人前。
ジェイドの脳裏で、申し訳なさそうな顔をしてデザートを辞退した少女の顔が蘇る。

「……本当に、何があったんでしょうね」

ジェイドの思案を知りもせず、着々と料理が出来上がっていく。淀みない動きを見て、陸にやって来てまだ二年目だと誰が信じよう。

「デリバリーでもするつもりでしょうか?」
「はぁ? こんな時間にですか? どこに?」
「さぁ、そこまでは」

開店時間でもないこの時間帯に誰かが来るとは思えないので、運ぶつもりなのだろうかとジェイドは考えただけだ。それ以上のことは知らない。例え双子であってもフロイドの考え全ては読み取れない。読み取れないくらいが面白い。

「よし」

眺めているうちに料理が完成した。
グリーンリーフと、カリカリの厚切りベーコン、クルトンがたっぷりと入ったシーザーサラダ。ブリオッシュパンを卵や牛乳、生クリームなどにつけ込んで焼いたフレンチトースト。ハートや薔薇の形に飾り切りされた苺やラズベリーソースもそれぞれ保存容器に入れていく。
店で出すよりも丁寧に盛り付けられていて、アズールが「今度、期間限定でモーニングでもやりますか」と呟いた。
しかしやっぱりフロイドから返事はなく、料理が入った容器を紙袋に入れている。そして、とうとうフロイドは二人に一言も構うことなく、走るようにして厨房を出て行ってしまう。
追いかけるように外に出たジェイドが、すう、と大きく息を吸ったと思ったら、よく通る声でフロイドを呼んだ。

「フロイド!」

ビリ、と空気が震えるほどの声量にアズールは耳を塞ぐのが一瞬間に合わずにクラリと揺れた。朝から勘弁してください、と頭を抱えた。

そこでようやっとフロイドは二人に気付いた。

「あれ、なにやってんの、二人とも」

それでも足は止まらない。あっという間にモストロ・ラウンジの出入り口が見えてきた。本当に、これっぽっちも気付くことなく集中していたフロイドにジェイドは声を出して笑い、アズールは三度目の怒鳴り声を上げた。

「なにやってんの、じゃないでしょう!? フロイド、お前どこに行く気ですか!」
「小エビちゃんのとこ! じゃあねぇ」
「はい、行ってらっしゃい」
「ジェイド!」
「止めたって無駄ですよ。双子なので分かります」
「……それくらいは双子じゃなくても分かる」
「おや、そうでしたか」

あっと言う間に鏡の向こうへと消えていったフロイドを見送った二人は、足を止めて新人スタッフを呼び出すことにした。
営業時間外だが、フロイドが残していった厨房の後片付けをお願いするのだ。嫌な顔をするだろうが飲み込んでもらうしかない。
だって君が全ての元凶なのだから。
分かりやすく監督生に近付いて、浅ましい欲を孕んだ目で見ているのが悪い。
あれはフロイドでなくても気分が良いものではない。

「貸しひとつですよ、フロイド」

ヤキモチを妬く度に機嫌が悪くなるのはやめて欲しいものだ、と嘆息。

「自覚していないのが一番厄介ですね」
「まったくだ」

心底呆れたようにいうアズールに、ジェイドは申し訳なさそうな顔をせずに心の篭っていない謝罪をした。




鏡から飛び出したフロイドは、オンボロ寮までひた走る。料理が冷めないように最高速度で、昨夜自分が失態を犯した路地を強く踏みつける。

──最初はちょっとイラッとしただけだった。

眉を寄せる程度に苛ついた気持ちは、監督生と新人が仲良く喋っているたびに増幅していった。同時にやる気がなくなって、気が付いたらラウンジを飛び出して散歩に出てきていた。
ちょっと頭を冷やそうと思っていただけなのに、足は勝手に誰もいないオンボロ寮に向かっていて。いつも以上に奔放過ぎる自分の行動に、自分で首を傾げたほどだ。
苛ついた理由も分からず、足が向かう方角も納得がいかず、分からないから余計に嫌になって、全部が悪循環になっていく。そういう時ほど、嫌なことが重なるもので。背後からの明確な悪意に気付いた時には、複数人の下品な笑い声と全く面白くもないユニーク魔法が目の前まで迫っていた。

(ほんっと、今思い出しただけでもサイアク。失態とかいうレベルじゃねぇんだけど。あー、思い出したからアイツらあとで絞めよ)

雑魚のユニーク魔法はそれなりに厄介で、ぬいぐるみになってしまった自分は何時間も動くことも出来ずに放置されてしまった。相手が、フロイドに魔法をかけられたことに満足して去っていった阿呆な雑魚だったことが、不幸中の幸いだ。

(小エビちゃん、俺と一緒にお風呂入ったとか、怒るかな。なんも見てねぇけど)

自分で動くことが出来ないフロイドからすれば、あれは完全に不可抗力なのだけれど。
ただ。

(すっげーきもちよかった)

柔らかな体の感触と、優しい手つき。頭を撫でられて、頬擦りされて骨抜きになってしまった。
自分がぬいぐるみになっていることがゴーストたちには一瞬でバレてしまっていたので、封印という名の目隠しで何も見えなかったが、いっそそれで良かったと思う。
感触だけでも骨抜きだったのに、視覚情報まであってしまっては命がいくらあっても足りなかった。
しかも、監督生はフロイドを抱き締めているとも知らずに延々とフロイドの話をしていたのだ。いなくなって寂しいだの。一緒に賄いが食べたかっただの。
挙句。

(……オレのこと、すきっていった)

ユニーク魔法が解けた夜中。人間の姿で「小エビちゃん」と堪らず呼んだ。
薄っぺらなルームウェア越しに、温かく甘い匂いがする胸の感触を頬で感じながら。
すると、芯のないふにゃふにゃとした声でフロイドの名前を呼んだのだ。名前を呼んで、好きだと笑った。だからフロイドも、何の迷いもなく「オレも好き」と答えた。

口に出したら全部に納得がいった。
苛ついた理由も、オンボロ寮に向かっていた理由も。

好きだと気付いたら、もうどうしようもなく気持ちが昂ってしまって堪らず抱き締めた。痛いですよ、と夢うつつに訴えてくるのですら可愛く思えた。
自分が襲って噛み付いたりしないように、天井越しに見張っていたゴーストの存在があんなに有難く思ったことはない。いなかったらきっと即座に襲って、泣いても噛んで、全身ぺろっと食べてしまっていた。
フロイドからすればそれでも問題ないのだけれど、監督生の望みはそうじゃない。昨日一緒に食べられなかった賄いを一緒に食べて、寂しさを忘れるくらいに話をすることだ。

だから、フロイドは監督生が起きるより前にオンボロ寮を出て、モストロ・ラウンジの厨房へと向かった。
昨日の賄いがなんだったかも思い出せないくらいに頭の中が監督生でいっぱいだったので、彼女を思い浮かべて料理を作った。
きっと同じものは二度と作れないだろう。
これは最上で極上で唯一のモーニングメニュー。番になる特別な一日を彩るための、あの子専用のもの。

(小エビちゃん、喜んでくれるかな)

いつものように顔を綻ばせて、美味しいです、と笑ってくれるだろうか。
長い足で舗装もされていないガタガタ道を駆け抜けて、オンボロ寮の扉を魔法で吹っ飛ばした。元々古かった鍵が弾け飛んで、壊れた蝶番がギィと嫌な音を立てる。でも、関係がない。

「小エビちゃん!」

大きな音に驚いて二階から慌てて下りてきた監督生が、フロイドを見て目を丸くする。
寮服はヨレヨレで、髪の毛は走ったせいでぴょんぴょんと跳ねている。帽子はどこに置いたかすら覚えてない。
それでも料理は無事だった。今のフロイドにはそれだけで十分だった。

「え、フ、フロイド、せんぱい、これ、えっ、なに」
「小エビちゃん!」
「は、はい!」

ゼェゼェと荒い息を繰り返して、左手の料理を紙袋ごと差し出してフロイドは監督生に近寄る。
そして。

「オレも! オレも好きだから、とりあえずこれ一緒に食って!」

息を整える暇もなくフロイドは包み隠さず告白をした。
昨日は隠されていた双眸でジッと監督生を捉え、絶対に逃がすつもりはないと態度で示す。
兎にも角にも、気持ちを曝け出すのは今度はこっちの番なのだ。

「食ったらオレの番になって! 食わなくてもなって! もう二度と約束破ったりしないから」
「は、ぇ、あ……えっ…………?」

ただ、監督生だけは現状を飲み込めずに混乱して固まっている。
とにかく好きだともう一度告白してしまえと、大きく口を開けた瞬間に、二人の間を一体のゴーストがすり抜けていった。
そして。

「おやぁ? 昨日の小汚い子犬がまた来たのか。どうした、こんな朝早くからお風呂にでも入りたいのかい?」

目隠しならお安い御用だよ。イーヒッヒッヒッ。
監督生に耳元に吹き込むように、ふっくらとしたゴーストが揺らめく体を絡みつかせて意地悪に言った。

「…………お、ふろ……?」

その言葉に全てを察した監督生は、一拍置いてから真っ赤になって、オンボロ寮を揺らすほどの声量で叫んだ。

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