成績は、優勝とはいかなかったものの、去年と比べて素晴らしい成績が残せたので、部員のテンションは最高潮。更に都合が合う部員は全員参加して馬鹿騒ぎをしていたので、モストロ・ラウンジはあっという間に実質貸し切り状態となった。
元々こうなるだろうと見込んでいたアズールは意気揚々と「本日貸し切り」の看板を店の扉に引っ掛け、
「貸し切りにしたんですから、しっかりとオーダーしてくださいよ」
と、煽るように手を叩いていた。
アズールに言われるまでもなく、気が大きくなっている面々は次から次へと注文し、料理を腹の中へと収めていく。
あとから聞いた話によれば、通常営業よりもかなりの利益があり、閉店後、アズールは満足気にマドルを数えていたらしい。
フロイドも、バスケ部の貸し切りとなれば他の客にサーブせず、飲み食いに集中出来るからと上機嫌だった。
モストロ・ラウンジの制服であるオクタヴィネル寮の寮服に着替えていたが、ケタケタと笑いながらボウタイやストールを適当にソファの縁に引っ掛け、ハットは何かの拍子で投げて飛んで行った。誰かに踏まれる前に、ジェイドがそっと回収していた。
「小エビちゃん。まだ飲み食い出来そうなら、こっちのデザートセット頼んでよ。これオレが考えたんだー」
「えっ、先輩デザートまで考案してるんですか? 天才では?」
「うん。もっと褒めて」
「えらい! 天才! 食べます! すみませーん、本日のデザートセットひとつ! セットドリンクはアイスカフェラテで!」
「小エビちゃんの素直なところ好きぃ」
打ち上げには、応援に来ていた監督生やグリム、デュースにジャックも参加していた。
紆余曲折ありながらも、付き合い始めたばかりのフロイドの隣に監督生が座る。フロイドが監督生に触れる度に周りからブーイングが飛び、しかし当の本人はへらりと笑って中指立てていた。
監督生は、最初こそ野次のひとつひとつにビクビクとしていたが、あまりにもフロイドの心に罵声が響いていないというのと、エースに男子校なんてこういうノリだと教えてもらってからはちゃんと笑えるようになった。
それに、もしも距離感を間違えて誰かが絡んできたとしても、それがきっかけで痛い目に遭おうとも、フロイドの長くしなやかな足が蹴り飛ばしてくれると信じている。
暫くフロイドと楽しく話をしていたが、厨房が回らなくなってきたからとアズールが回収に来てしまった。
試合を終えた後の男子高校生の胃袋は、少々の料理では賄いきれないらしい。確かにどのテーブルも、所狭しと大皿が並んでいるのに、それでもオーダーは止まらない。厨房のスタッフがヒィヒィと悲鳴を上げているのが今にも聞こえてきそうだ。
「えー、オレ、今小エビちゃんと話してんの」
「元々仕事中の身でしょう。いいから早くこちらへ来なさい」
「打ち上げなのにぃ。オレ試合頑張ったのにぃ」
「いいから早く来なさい!」
「ちぇっ」
がっしりと首根っこを掴まれてしまって、フロイドはそのままズルズルと引き摺られていく。アズールの怒りように観念したのだろう、また後でねと手を振られて、監督生も大人しく手を振り返した。
一気に静かになってしまったテーブルが寂しいからデュースたちのほうへと行こうかなと思いつつ休憩し、自分が頼んだデザートセットのドリンクに手を伸ばした。何の疑いもなく、くいっと飲む。
「…………ん?」
アイスカフェラテを頼んでいたのだが、甘さの奥に珈琲豆とはまた違うほろ苦さを見つけて、首を傾げた。もう一度飲む。
途端に喉が熱くて、ドリンクが流れ込んだ胃も熱い。あれ、と思った時には魔法で体が浮かされているような感覚に襲われる。驚いて周りを見ても、誰もそんな魔法を使っているようには見えない。しかし熱は消えてくれない。
(な、なんだろ、これ……)
不安になって俯き、口元を抑えていたら、
「どうかしましたか、監督生さん」
と、料理を運んでいる最中のジェイドの足が止まり、声を掛けてくれた。
「フロイドならアズールに言われて厨房に、……おや?」
いなくなったフロイドを心配していると見えたのだろう。ジェイドが厨房を指差しながら説明してくれて、けれど、監督生が顔を上げたと同時に口を止めた。
驚いたように目を丸くし、次いで、困ったような顔で笑う。半分ほど空になったグラスを手に取って、鼻を寄せる。
「これはこれは。失礼しました。ドリンクの中身が間違っているようですね」
「まちがい?」
「えぇ。あなたが今飲んだのはビター・カルーアミルクというお酒です」
「おさけ」
高校生の打ち上げになんでそんなものが、と言いたいのに顔や頭が熱くて口が回らない。
「ここでジッとしていてくださいね」
通りかかったホールスタッフに自分の仕事を割り振ったジェイドは、長い足でさっさと離れて行ってしまう。そうかと思えば慌てた顔をしたフロイドがやって来て、あぁ呼びに行ってくれたのかと納得した。
「小エビちゃん大丈夫? 間違えた奴はちゃんとあとで締めてあげる」
「いえ、すみません、おしごと、してたのに」
「あっちはどうにかなるから余計なこと考えなくていいよ」
再び隣に座ったフロイドは、ジェイドから酒を飲んでしまったことも聞いているのだろう。背中を擦りながら、顔を覗き込んできた。
左右で色の違う目と視線が絡めば、いつも以上に忙しない心臓がいっそう煩くなる。
「……あ、」
「どうかした?」
心配そうに眉を寄せて、こちらを見てくるフロイドの顔が。
シャワーを浴びただけでは消えない彼自身の匂いが。
さらりと落ちた、色違いの髪の毛が。チリ、と軽い音を立てるピアスが。
フロイドを形成する全てが、自分が知らなかった欲を駆り立てて仕方ない。
壊れてしまうんじゃないかと思うくらいのペースで鼓動を刻む心臓が痛い。呼応するように熱い。熱くて熱くて、逆上せてしまう。
(ほしい)
熱に浮かされた頭で、そう思ってしまった。
既に付き合っているのだから、フロイドは間違いなく監督生のものなのだけれど、今はそれを言っているんじゃない。
ほしいのは、——紛れもなく彼自身だ。
「小エビちゃん? 吐きそう? ……トイレいこっか」
口を閉ざした監督生を気分が悪いと判断したフロイドが肩を抱くように腕を回せば、匂いと体温がぐっと近くなって我慢ができなくなった。欲に素直な指が露わになっている喉元へと伸びる。
「せんぱい」
周りの喧騒は聞こえない。
ここが何処かももう忘れた。
今、目の前にフロイドがいる。たったそれだけの事実で良かった。あとはどうだっていい。
「小エビちゃん?」
ただ、フロイドが驚いた顔をしたのだけは分かった。息を呑んだ拍子に動く喉に、じわりと口腔内に唾液が溢れた。触れたい。食べたい。痕をつけたい。
近付いて来たその体にくっつき、そうかと思ったらあっという間にフロイドの太腿の上へ跨る。ソファに膝立ちになってやっと、彼を見下ろすことができた。
ぱちり、と大きく瞬きをするフロイドが堪らなく可愛く思えて、ふふ、と小さく微笑んだ。
そして、体温の低い両頬を掌で包んだまま、顔を寄せた。
「こえび、」
監督生がフロイドにキスをした瞬間、水を打ったようにモストロ・ラウンジが静まりかえった。
「──おや、随分と情熱的ですね、監督生さん」
ジェイドの一言で、ハッと息を吹き返した野次馬どもからブーイングが飛ぶ。
「男子校で、キ、キスするなんざ万死に値するぞ! フロイド・リーチ!!」
「てめぇこの野郎! 末代まで呪ってやる!」
「誰か動画撮れ、動画ァ!」
「キーッ!! 俺もちゅーがしてェよォ!!」
ラウンジ内にこれでもかと響き渡るブーイングの嵐の中、それでも何も聞こえない監督生は存分にフロイドの唇を堪能した。ちゅぷ、ちゅう、と音を立てて、何度も離れてはくっつける。
息がうまく出来なくて一旦口を離せば、フロイドの下唇に唾液が付いていて、勿体無いとべろりと舐めた。
「こ、こえ、こえび、ちゃ……っ」
名前を呼ばれてようやっと目を開ければ、固まっていたフロイドが辛うじて復活して、顔を赤くさせていた。いや、顔だけじゃない。耳も赤い。首筋も赤く見えた。
いつも恐ろしい笑顔を浮かべて、容赦なく人間を締め落とす美しい雄の人魚が、ちゃんと十七歳の男の子の顔をしていた。
「あはっ」
監督生はフロイドの真似をするように笑う。
そして。
「フロイド先輩、かぁわいい」
存外柔らかなターコイズブルーの前髪をかき上げて、剥き出しになった白い額にもキスをする。触れるだけの子どものキス。
「かわいい」
念を押すようにもう一度言って、ぱたりと監督生は眠ってしまった。
監督生がこの出来事を知ったのは、飲酒による二日酔いの頭痛が治まった後のこと。
酔った年下の女の子にキスをされ、スマートに対応出来ず、剰え可愛いと言われてしまったフロイドが、その場にいた全員から揶揄われたと知って魂が抜けた。
***
「そんなに怒るほどのことでもありませんよ、フロイド。折角の可愛い顔が台無しです」
アズールが言い切ると同時に、隣にいたジェイドが、ぶはっと噴き出すものだから、フロイドは包み隠さず嫌な顔をした。
件の打ち上げから三日経っても、二人はこのノリがお気に召しているようだ。
「ほんっとーにいい性格してる」
「フロイドだって逆の立場なら飽きるまで遊ぶでしょう?」
「当たり前じゃん」
「それと同じです」
つまりまだ飽きてないし、暫く飽きないですという表明だろう。理解して舌打ち。
このノリが気に入っているのは二人だけじゃない。
あの場にいたバスケ部のメンバー、並びに動画が流出したことによりバスケ部以外のクラスメイトや顔見知りまでと幅広い。
動画に関してはアズールに協力してもらって——当然それ相応の対価を払った——追跡出来るところまでは全て消し去り、撮った本人も文字通り締め上げて、元の動画も綺麗さっぱり抹消した。
それでも余波は消えない。気分が乗らずに授業をサボっていても、錬金術の授業がうまくいっても、飛行術の授業で箒から落ちても「大丈夫、かわいいよ」と揶揄される。
とうとうこの一連の流れを、クルーウェルにせせら笑われた。ちくしょう、くそったれ。
面倒くさいし、そろそろ自分が飽きてきたのは事実なのだけれど、──……実はそこまで困り果てているわけではない。
容姿に関しては、それこそ自我が確立した稚魚の頃から褒められ慣れている。
大人しく黙っていれば最高に綺麗な顔。ミステリアスで底知れない恐怖すら感じるのに垂れた目尻のアンバランスさが堪らない。獲物を狙っている表情がエキゾチック。水を蹴るときの尾びれがセクシー、その他諸々。これ以上は何を言われたかさっぱり忘れた。
同じ顔をしているジェイドだって、外見に対する賞賛は嫌というほど聞いてきただろう。
そしてこの男もとうに忘れている。興味のない魚に褒められたところで、嬉しくない。
つまり、周りの人間は「フロイドが可愛いと称される側の人間ではない」と分かっている上で、可愛いと揶揄ってきているだけ。だから、面倒ではあるものの、困るほどのものではない。
──問題は「異世界から来た、考え方や生き方が全く違う小エビちゃんがオレのことを心底可愛いと思っているのか」である。
人魚がいないどころか、魔法すらない世界で生きてきた監督生は、フロイドが知らない常識と感性を持っている。
そんな彼女からすれば自分は可愛いのか。格好いいとは思われていないのか。これを考え始めるとフロイドは夜も眠れない。
しかも、あの打ち上げからこちら、タイミングが合わずに監督生とちゃんと話が出来ていない。
(いい加減掴まえて話さないとなぁ)
そう思って匂いを辿っても、あとちょっとのところで擦れ違う。誰かに邪魔をされる。恋の神様はきっと性悪に違いない。
監督生はフロイドに迷惑を掛けてしまったと大層落ち込んでいるらしいが、そんなことは毛ほども気にしなくていい。
ただ、ちゃんと、格好いいと訂正さえしてくれれば。
(……でもオレが言わせたんじゃ意味ねぇし)
自発的に、監督生から格好いいと言わせないと意味がない。
さて、どう出るか。考えながらふと窓の外を見れば、中庭を歩く監督生の姿を見つけた。フロイドは、あっと声を上げて、それから、選択授業である魔法史の教科書をジェイドに向かって放り投げた。
「オレ、やっぱり次の授業サボる!」
じゃあね、と言って教室の窓枠に足を引っ掛けた。階段を使って下りていくよりも、これの方が圧倒的に早い。
「フロイド!」
アズールの怒った声が聞こえたけれど、宙に踊り出すのが早かった。遠くなっていくアズールの声には返事もせず、フロイドは監督生の元へと一目散に走った。
監督生の元へとやって来たフロイドを見て、気を利かせたエースとデュース、それからグリムは「オレらはあっちでするわ」と手を振って離れていった。
フロイドは久しぶりに捕まえた監督生を逃がさないように手を掴んで、強制的に近くのベンチに座らせた。
「小エビちゃんはなんの授業?」
「本当は飛行術だったんですけど、先生が急用で取り止めになっちゃいまして。自習というか、課題を消化するように言われました」
「課題? これ?」
「そうです。スケッチブックに魔法で風景画を描くことです。私は魔法が使えないので絵具をお借りして」
「……もしかして、手で描く?」
「もちろん。寧ろ魔法で念写したり、炙り出しのように描いたりするほうが驚きというか、」
「オレ、手で描いてるところ見たい」
「上手じゃないですよ?」
「いーよ。小エビちゃんのカンセーってやつが見たい」
「感性? 感性ならフロイド先輩のほうが凄そうです」
「オレのは適当にやってるだけ〜」
ベンチに二人で並んで座って、そのうち監督生は目の前の景色を画用紙に描き始めた。
色とりどりの花も、青々としている木々も、呑気な雲が漂っている空も。全部がその小さな紙の中に収まっていく。魔法で描くのと違って、一枚終わらせるのに随分と時間がかかる。
「小エビちゃん絵描くの好き?」
「好きですね。上手くは出来ないんですけど」
「好きと、上手く出来るか出来ないかは別じゃねぇの?」
オレは空飛ぶの下手だけど空は好き、とだだっ広い空を見上げる。
「たぶん空飛ぶのが上手くても空は好きだし、上手く出来ることでもキライなものはキライ」
好き嫌いと、上手い下手はまるきり別の話だと続けて言えば監督生がこちらを見て口元を緩ませた。そうですね、と頷く声はさっきまでより柔らかい。
「羨ましいくらいに素直なのがフロイド先輩の感性の骨格なんでしょうね」
話ながらも監督生の手は止まらない。迷いなく動く筆が面白い。複雑に重なっていく色が予想外で面白い。
あぁやっぱりこの子が持っているものと、自分が持っているものは違うのだと思い知らされる。そういうところが面白くて堪らなくて、いっそう好きになる。
「この色好き」
「群青色ですね。珊瑚の海にもこの色がありますか?」
「んん、わかんね。でも好き。小エビちゃん、これは何色?」
「朱色です。私はもう少し濃い、臙脂色が好きです」
「薄くなっても色の名前変わんの?」
「はい。桃色とか、あと珊瑚色って名前もあります」
「じゃあさ、あれは?」
聞いたことがない色の名前は好奇心を掻き立てる。すっかりスケッチブックから目を離して、フロイドはあれこれと指を指す。
そのひとつひとつの色の名前を監督生が答えていく。
正解かどうか、フロイドに確かめる手段はない。だが、正解かどうかなんてどうでもよかった。監督生の口から出る色の名前の響きが綺麗で、聞いていたかっただけなのだ。
「今度色の名前が載った図鑑とか探しておきますね」
「そこまでしなくていーよ」
話しているうちに風景画は完成した。だが、絵具を乾かすからと監督生がさっさといなくなってしまうことはなかった。
「……あのさ、小エビちゃん」
だから、これはチャンスだと思った。
「この前の、打ち上げの時のこと覚えてる?」
ピクリと跳ねた左手を咄嗟に掴んだ。逃げられるのは嫌だった。
「先に言っとくけどオレは全然怒ってねぇの。寧ろ、今小エビちゃんがここから逃げていくほうが怒る。あは、逃げたら全力ダッシュするから追いかけっこしようねぇ」
「ひえ」
逃げ場がないと言いたげな顔に、逃げ場があると思っていたのかと苦く笑った。
自分と付き合っている時点で、逃げ場という概念は忘れてしまったほうがいい。海であろうと、陸であろうと、この小さな番を取りこぼすことはあり得ない。今後、一生だ。
「小エビちゃんは、あの日の話聞いて、なんでオレから逃げてんの?」
「そ、れは、その、お酒飲んで酔っ払ってしまって、先輩に迷惑かけちゃって」
「お酒飲んじゃったのは完全に[[rb:提供者> オレら]]が悪いじゃん」
「いやでも、気付かず飲んでしまって」
「アルコール初めてだったんでしょ? 馴染みがなかったら気付かなくても、疑わなくても当然だって。人魚とか獣人みたいに鼻がすっげーいいわけでもないし」
「そ、それ以外にも私、あの、先輩に、キ、キス、……しちゃったし……」
「うん、しちゃったし?」
「…………か、かわいいとか、言ってしまって」
「うんうん」
ごめんなさい、と小さくなっていく監督生の肩を抱く。俯いた顔に反対の手を添えて、親指でするりと頬を撫でた。
たったこれだけでいっそう顔を赤くして、ピクピクと震えるのだから、酒の力というのは恐ろしい。こんな初心な少女を、あんな艶やかな女性へと変貌させたのだから。
フロイドはあの日の監督生の色めいた表情を思い出して、無意識に尖った奥歯をカチリと鳴らした。
「フロイド先輩、あれから、揶揄われてるって聞きました」
「あー、うん、もうさ、皆すっげー楽しそう」
特にアズールとジェイドね、と付け加える。
「オレが何してても可愛い可愛いって言ってくるけど、まぁいっかってそのままにしてる」
「本当にご迷惑おかけして、すみません……」
「そんなに迷惑でもないし、いーよ」
ただ、と言葉を続ければ、俯いていた監督生がおずおずと顔をあげる。申し訳なさと、恥ずかしさからきているのか、ほんのりと瞳が潤んで美味そうだ。
「オレね、あのキスが初めてだったんだよね。ファーストキスってやつ。……なぁんか、折角の小エビちゃんとのキス、皆に見られたのはちょっとヤだったかも」
煌く星が輝く夜空に花火を打ち上げて、それをバックに豪華なお城でキスを、──なんて夢を見ているわけじゃない。そんなこと似合わないのくらい分かっている。きっと監督生だって趣味じゃないだろう。そこまで大袈裟じゃなくていい。
でも、少しくらい雰囲気を大事にして、ゆっくりと、慈しむように初めてのキスをしてみたかった。勿論、あれも悪くなかったのだが。
「──……二人だけの秘密にしたかったなぁ」
ただ、誰にも知られない、二人の秘密の思い出にしたかったのも事実だ。
フロイドはわざと声のトーンを落として、囁くように耳に吹き込んだ。肩を抱いて頬に触れる手はそのままに、顔を近づけて行く。このままキスしてしまえと囃し立てる心の声に従っていれば、監督生が小さく声を溢した。
「ふふ」
恥ずかしそうに結んでいた唇が弧を描く。
キスしようとしていた途中に笑われたことで、すっかりいつものトーンに戻ってしまったフロイドがなんだと聞けば、監督生は微笑みながらも謝る。
そして。
「そうやって拗ねてくれてるのが可愛いなって思ってしまって」
監督生の言葉に、フロイドはピシリと音を立てて固まった。
──いま、監督生は、なんと言った?
「先輩って私より大人で格好良くて、自分が好きなこと以外知らないって顔してるのにいつもちゃんと見てくれてて。ひとつしか歳が変わらないなんて嘘みたいで。海しか知らないなんて嘘みたいで。……だから、ファーストキスだったっていうのも嬉しかったし、大事にしたかったって思ってくれてるのが凄く幸せで」
うっとりと目を細めて浸ってくれているのはフロイドとしても嬉しいのだが、今は、今だけはそれどころじゃない。
「あと先輩の可愛い一面も見られて、私、その、」
「ス、ストップ! ストップ、小エビちゃん!」
「え?」
もうダメだ。追撃が来てしまった。
可愛い一面と言われてしまった。聞き間違いじゃない。
こんなにも格好つけてキスしようとしているのに、可愛いと、言われてしまった。
監督生の悪意のないその言葉だけで、HPは一気に削られて、後はもう残りかすほどしか残っていない。監督生の口の動きを止めていないと、予期していなかった言葉に打ちのめされてしまいそうだ。
フロイドは慌てて監督生にストップと言い渡して、抱いたままだった肩から手を離した。
「あ、あー……えっと、その、ごめん、すっげー中途半端だけどオレちょっと用事思い出した。アズールのとこ行かなきゃ」
「そうなんですね。……わっ! もうこんな時間。私もそろそろ課題完成させないと」
もう少し色に深みを出したいので、という監督生に適当に相槌を打って、フロイドは立ち上がる。
じゃあまた、と手を振られて、それはどうにか同じように振り返すことができた。
監督生から離れて校舎に入ればチャイムが鳴る。授業が終わったのだ。
ぞろぞろと教室から出てくる邪魔な人間の隙間を縫うようにして足を進める。ほとんど走っているのと同じくらいの速度で歩いて、アズールとジェイドがいる教室へと向かった。
そして。
「アズール! ジェイド! やっぱりオレって可愛い!?」
教室に着いた途端に叫ぶように訴えれば、
「二メートル近くある男を可愛いだなんて本気で思うわけないでしょう。寝言は寝てから言うものですよ、フロイド」
と、アズールに冷たくあしらわれてフロイドは心底安心した。
一拍置いて、教室中がどっと笑いに包まれた。
***
先日のバスケットボールの公式戦、フロイドも少しではあるがちゃんと出場していた。
フロイドは、圧倒的に実力はあるのだが、気分屋が故にレギュラープレイヤーではない。ただ、あの日は監督生が来るからとやる気があったのだ。それを良しとした顧問が、一試合でも勝つためにフロイドを出場させた。その結果が好成績に繋がった。
きっと途中でやる気を無くさず、その後の試合も出場し続けてくれていれば優勝の二文字はすぐそこだっただろう。
「実はあの日、ケイト先輩も応援に来てくれてたんすよ」
そう言って人懐っこい顔で笑っているのは、同じバスケ部のエース・トラッポラである。
部活動が始まる前の体育館は既に活気づいていて、今日はバスケがしたい気分ではないフロイドは制服に靴下のままで冷たい床に転がっている。
「カニちゃんが誘ったの?」
「はい。そしたら試合中動画を撮ってくれていたみたいで、今日の昼休みにその動画をオレが貰って」
「ふーん」
「そしたら、そしたら、なんとこそっと監督生が来て、フロイド先輩のところがどうしても見たい、欲しいって言って」
転がっていたフロイドは慌てて飛び起きた。
「マジで」
「マジです」
だから、ケイト先輩に手伝ってもらって作りました。
ふふふ、と得意気に笑ってエースがスマートフォンを取り出してフロイドにディスプレイを見せる。動画が三本並んでいる。合計十五分弱の超大作。
「名付けて、フロイド先輩の格好いいテク&シュートwithちょっとしたお茶目特集なんてどうすか」
「あは、カニちゃんのネーミングセンス、ダサすぎて見る気なくす」
「あー! 編集大変だったんですよ!?」
「わかってるって。今度オレがいるときにモストロ・ラウンジに来てくれたら奢るから」
「ちゃんとポイントカードも押してくれます?」
「押す押す。なんだったら手が滑って三つくらい余分に押しちゃうかも。あ、流石にこれアズールには内緒ね〜」
「毎度あり!」
エースは喜んでフロイドに動画を送り、ジャミルに呼ばれたために練習へと合流した。
思わぬ武器を手に入れたフロイドは、やっぱりバスケをする気分にはなれず、そのまま体育館を後にした。
モストロ・ラウンジの営業終了後。フロイドはそそくさとお泊りセットを携えてオンボロ寮へと向かう。今夜こそは自発的に格好いいと言わせてやる。頭の中はそればかりである。
オンボロ寮に着いたフロイドは、ノックもそこそこに中に入り、いつものように「小エビちゃーん」と呼んだ。そうすれば、自室から監督生が下りてきて、二人きりの夜が始まるのだ。
「これ、ずっと楽しみにしてたんです! 絶対に騒いじゃって怒らせちゃうからグリムにもエースのところに行ってもらってて」
「だから今日アザラシちゃんいないんだ」
「はい」
はやく見せて、とはしゃぐ監督生を抱えて一番大きなソファに座る。
「小エビちゃん、飲み物も食べ物もいらねぇの?」
「今はいいです! あの、はやく、はやく見たいです!」
座ってもぴょんぴょん跳ねる監督生の頭を撫でて宥める。何だかいつもと逆だなぁとフロイドは笑う。こう言うもの嫌いじゃない。
ギシリ、と嫌な音がするソファに凭れ掛かり、足の間に監督生を置いた。こういうことをすればまだ恥ずかしがるのだが、今は小さな画面に必死だ。
スマートフォンを横にして、一つ目の動画を再生する。
「これ一試合目ですね」
「うん。このセンターがすっげーウザかったからあんまり思い出したくなーい」
フロイドが試合に出るときは、基本的にポジションはセンターである。自分と同じか、それ以上の体格のプレイヤーを相手に、主にゴール下を守ったり攻めたりする役目。
動画の中でフロイドがマークしている相手は、審判から見えないようにユニフォームを引っ張ってくるし、足を踏まれるしで、それはもう鬱陶しかった。キレて殴らなかったのは完全に「小エビちゃん効果」である。つまり、いいところを見せたかったのだ。
そうこうしているうちに、ガードからフロイドにパスが通り、敵のセンターを躱してまずはワンゴール。
「わ、ぁ、あ、あっ、ジャミル先輩も、すごい」
監督生は、一度見た試合だと言うのに手に汗握って楽しそうだ。
フロイドの活躍シーンを詰め込んでいるとは言え、シュートだけを見るのでは楽しくない。
自分をマークしてきている敵を躱し、ドリブルでゴール下まで切り込んできたジャミルに合わせて外に出て、ノールックパスを受け取ってジャンプシュートを決める、というこの一連の流れを見るのが楽しいのだ。
それ以外にも、相手のロングパスを読んでカットして速攻を仕掛けたり、ランニングシュートを決めようと飛んだフォワードに追いついて後ろからボールを掬い取ったり。碌に練習に出ていない筈なのに、仲間とアイコンタクトだけでマークを入れ替わって、華麗にボールを奪うシーンまで入っていた。
「わー! すごい、すごいです、先輩!」
「小エビちゃんこれ一回見たじゃん」
「何回見ても凄いんです! うわ、フロイド先輩腕が長い! 最高! 締めてください!」
「すっげーテンション高いじゃん」
ウケる、と言いながらも満更でもないフロイドはご機嫌だ。お望み通りスマートフォンを左手で持って、右手を監督生の体に絡ませた。すると甘えるように擦り寄ってくるものだから、こっちがドキドキしてしまった。
「あ、これ、これも凄いです。試合の時もすっごい興奮しちゃって」
二本目の動画が始まって早々に、フロイドが絡ませている右腕に監督生が前のめりにしがみ付いてくる。
さっきとは違うユニフォームを着た相手チーム。どうやら二試合目のようだ。
この時は、センターポジションに飽きていたフロイドは、ガードポジションにいた。ガードは頭の中でゲームメイクをしながらボールを回していく、言わば司令塔。勿論、いけると思えば自ら攻撃を仕掛けたっていい。
マークしてきている敵のプレイヤーは身長が高くないので、フロイドはフェイントを挟みながら容赦なくスリーポイントシュートを狙っていく。
しかし、フリーになれたのは一本目だけで、二本目からは身長がさほど変わらない他のポジションのプレイヤーが時間差で援護にきてしまう。
だが、フロイドのジャンプシュートは高いだけじゃなく、滞空時間が長い。ギリギリまで敵を二人引き付けて、シュートではなくフリーになった味方にパスを出す。そうして通ったパスが仲間の手によって得点となっていく。
但し、フロイドはガードポジションにいられるのは短時間だけだ。基本的に誰かに合わせるのが嫌いな男に務まるものじゃない。
この時も早々に自分から交代を願い出て、あっと言う間にベンチに戻った。同時に、フロイドのトリッキーな動きに合わせるのはかなり疲れるということで、コートに残った仲間はホッと息を吐いていた。
「先輩ってバスケ初めて二年目だなんて信じられないですよね」
「理解したら誰でも出来ることじゃん、バスケとか」
「理解したら、っていう前提が難しいんだと思うんですけど」
「アズールには難しいかも〜」
「あっ、アズール先輩に流れ弾が……!」
動画を二本見終わって、その時点で監督生はお腹いっぱいだと言って浸っている。背後のフロイドに体を預けて、ほうと息を吐いた。
「どう、小エビちゃん。気に入ってくれた? また応援来てくれる?」
「勿論行きます!」
凭れたままで、監督生の顔が真上を向く。覗き込むようにすれば、正面から目が合った。
なぁに、と聞いても監督生はジッとこちらを見てくるばかり。数秒、照れるほどに見つめ合って、へらりと監督生の頬が緩んだ。
そして。
「せんぱい、かっこいいです」
誰よりも、何よりも。一番格好いい。
「だいすきです」
監督生の言葉に、フロイドは間抜けな顔をして、はくはくと口だけを動かした。
「……か、かっこ、いい? オレ? オレのこと?」
「勿論です。フロイド先輩が一番格好いいです」
目を細めて、頬を赤らめて。
それでいて随分と嬉しそうに何度も格好いいと言ってくれるものだから、フロイドは「小エビちゃん!!」とわっと叫んで二人でソファに雪崩れ込んだ。
持っていたスマートフォンは床に落ちた。ガンっと重い音がして、ギィギィとソファが甲高い悲鳴を上げる。そんなもの知ったことかとフロイドは、監督生をこれでもかと抱き締めて、柔らかな耳を甘噛みした。
「わ、なに、先輩、どうしたんですかっ」
「どうしたもなにも、だって、小エビちゃんが」
「わた、わたし、なにか変なこと言いました……っ!?」
さっきまで自分から擦り寄ってきていたくせに、フロイドがしがみ付いて距離を詰めると顔を真っ赤にして逃げようとする。陽にあまり焼けていない白い肌が、どこも色付いていくのが見ていて楽しい。
唐突に、今日見た朱色を思い出した。でもあれよりも色が薄いので、きっと桃色とか珊瑚色とかいう色なのだろう。どっちなのか知りたいけれど、それよりも今はキスがしたい。
「小エビちゃん」
逸る鼓動もそのままに、押し潰してしまいそうなほどに密着して、初めてフロイドからキスをした。
「ん、んんっ」
「くち、あけて」
驚いた監督生が口を閉じるから、一旦唇を僅かに離し、けれど薄く目を閉じたままでお願いすれば、おずおずと開く。
「食べてあげる」
自分から開いたのだから許可を得たも同然だと、柔い唇に噛み付くようにキスをして、ぬるりと舌を差し込んだ。
人間の舌とは、少しばかり形状が違うそれで容赦なく口腔内を舐っていく。歯ですらも小さい。可愛い、可愛いと湧き上がってきた感情が爆発しそうだ。
「んっ、せんぱ、いき、くるし」
「やだ、がまんして」
はふはふ、と短い呼吸を繰り返していても、止めてあげられない。それどころかもっと、と頬に手を添え、口付けを深いものへとしていく。自分のキスで溺れている監督生が見たくて目を開ければ、必死に息をしていて、いっそう可愛いという気持ちが大きくなっていく。
(かわいい、小エビちゃん。オレの。オレの小エビちゃん)
これからも格好良くいられるようにしなくては、と考えながら、そろそろ一度解放しようかと、体勢を立て直すために足を動かせば、落としたスマートフォンを蹴ってしまった。その拍子にディスプレイに触れたのだろう。三本目の動画が再生された。
『あー! 小エビちゃーん!!』
流れた大音量の自分の声に、二人してビクリと体を揺らした。
「ビッ、……ックリしたぁ……」
「わ、わたしもです」
一瞬で、艶やかな雰囲気はどこかに消え去ってしまった。顔を見合わせて、照れたように苦笑い。
フロイドは体を起こして、蹴飛ばしたスマートフォンを拾う。監督生はそのうちにソファに座り直していた。仕方なく隣に大人しく座る。
動画を見直せば、どうやらもう試合は終わっているようだった。
整列や礼が終わり、ベンチから撤収というタイミングで二階席にいた監督生にフロイドが大きく手を振っている。負けたと言うのにお構いなく、満面の笑みで、小エビちゃんと何度も呼んでいる。
その顔は、自分で見るのも初めてなくらい、幼く見えた。
(……オレって、小エビちゃん見てるときこんな顔してんの?)
うーわ、最悪。確かにこれは格好良くない。
なんならエキゾチックでも、セクシーでもない。だらしの無い、締まりのない顔だ。
「へへ、可愛いです、先輩」
動画から目を逸らせば、隣の監督生が嬉しそうに口元を緩め、ディスプレイ越しにフロイドを指先で撫でた。
「あっ!」
堪らずフロイドが叫ぶ。
「わ、な、なんですか!」
驚いた監督生は、しかし何故か肩を落として落ち込んでいる風のフロイドを見て目を丸くしている。
だから。
「……小エビちゃん、お願いだから可愛いって言わないで」
そう懇願した。
もう自発的に格好いいとは言ってもらえたし、これ以上男としてのプライドを傷つけられないためにもハッキリ言おうと思ったのだ。
「えっと、駄目ですか? 可愛いって」
「ダメダメ! オレは小エビちゃんの前では格好いい男でいたいの!」
「やっぱりこの前酔って可愛いって言っちゃったから揶揄われるのが嫌で、」
「それは関係ない! 誰に言われたってどうでもいいけど、小エビちゃんだけはダメ」
「えええ」
そんな、と今度は監督生が肩を落とした。
「……オレ、そんな可愛い? アズールは、寝言は寝て言えって言ってたけど」
「可愛いです」
「ウーン」
やっぱり格好いいと言われるほうが嬉しい。
だが、ここまでくれば何故監督生が可愛いと言いたがるのかが気になってきた。だから素直に聞いてみる。
すると。
「私の中で、フロイド先輩を可愛いなぁって思ってるときって、すごくすごくキュンとして、大好きだなぁって実感してるときなんです」
そう返ってきて、フロイドは首を傾げた。
「じゃあ可愛いじゃなくて、好きって言えばいいんじゃん」
「そうなんですけど、私の故郷ではあまり表立って好き好き言わない、ちょっとシャイな人が多くて。だから私も言い慣れてないと言うか」
実はさっき「だいすき」と言った時も、物凄く恥ずかしかったのだと言う。思ったことは直ぐに口に出してしまうフロイドからすれば、なんとも不思議な話だった。
「可愛いなら言えるんだ」
「ハードルが低いって感じですね」
好きで好きで仕方ないけれど、直接言うには恥ずかしい。だから別の言葉に想いを込めて手渡している。
格好いいって思っている時だって好きだけど、可愛いのほうがもっと好きの色が濃い。
そう監督生が赤い頬を手のひらで隠しながら説明する。
(じゃあ、つまり)
それはまるで。
「オレが小エビちゃんって呼んでるのと一緒じゃん」
「──……ぇ、」
最初は小さくて、ビクビクしてたから小エビちゃん。
でも段々と自分だけが小エビちゃんと呼べることに優越感を感じていた。だから最近は、自分だけの名前があることを大事にしたくて、こっそりと気持ちを分け与えている。
他の誰かが呼ぶのは、冗談だって許せない。
「小エビちゃんのこと呼ぶとき、オレだけの小エビちゃんなんだなぁって、いつも考えてるから」
それと同じかぁと思えば、可愛いと言う言葉も許せた。すとんと、胸の真ん中に収まったのだ。
なんだか二人だけの暗号のようだ。可愛いと、小エビちゃん。他の誰も知らない。二人だけの愛の言葉。なんて気分がいいんだろうと、心が晴れやかになる。
「じゃあオレのこと可愛いって言ってもい、…………小エビちゃん?」
ふと気付けば、喋っているのは自分ひとりだった。何の反応も示さない監督生のことが気になって、俯いている顔を覗き込んだ。
すると。
「…………う、うう……」
唇を噛み締めて、それでも嬉しそうに口角が持ち上がっていて、顔は真っ赤で。
やたらと力が入っている両肩はプルプルと震えていた。
「フ、フロイド先輩、それは、だめです」
「だめ? なにが? っていうか小エビちゃん、なにひとりで茹ってんの?」
「だっ、だって、先輩が……ッ」
弾かれたように勢いよく監督生の顔が持ち上がって、そうかと思ったら狭いソファの上に座り込む。フロイドのほうへと体を向けて、正座している。
「こんなこと聞いちゃったら、名前呼ばれる度に、す、すきって、言われてると、思っちゃうじゃないですか……っ!」
恥ずかしがっているわりには、真っ直ぐと。夜のような色をした大きな瞳を潤ませたまま、訴えてくる。
その目を見ていたら、なんだか照れが移ってしまった。
別に人前で距離を詰めることも、触れ合うことも、好きって言うことだって、フロイドの中では簡単なことなのに。そんなに実直に受け止められてしまうと、なんだか物凄く恥ずかしくなってきた。心臓がくすぐったくて、掻き毟りたくなって、薄いシャツの上から握り締めた。
「別にそう思ってくれてもいい、ケド」
「だめ、だめです」
「なんで」
「私の心臓がもたないです」
「死んじゃうのはヤダ。死なないで、小エビちゃん」
名前を呼んだくらいで死にはしないのに、賢い頭は恋で馬鹿になっている。
思わずフロイドも監督生の真似をしてソファの上で正座をした。正座なんて産まれて初めて。足の長さが違うから、隙間が埋まってお互いの膝がちょんと当たる。
「じゃあ小エビちゃんも可愛いって言わないで」
「わかりました」
「でもオレは小エビちゃんって呼びたい」
「名前ですもんね」
「好きって思いながら呼ぶのは二人だけのときにする」
「はい、助かります」
フロイドは、そっと手を伸ばして、自身の太腿の上に置かれている監督生の手を握った。大きな背中を丸めて、正座したまま顔だけを寄せていく。
監督生も、頬を赤らめたままで近付いてきてくれた。ちゅ、と可愛い音がした。
「小エビちゃん」
「はい」
気持ちを込めて名前を呼ぶ。もう一度キスをした。
おいで、と手を引っ張れば、大人しく崩した足の上に乗っかってくれる。小さな番を腕の中に囲い込む。
「暗号みたいで楽しいね、小エビちゃん」
「ふふ、はい」
「やっと二人の秘密が出来たー」
交際し始めたこともすぐに公になり、ファーストキスは思いがけず見られてしまった。けれど、好きの暗号は二人だけのもの。ずっと欲しかった秘密を手に入れたフロイドは、やっぱり締まりのない顔で小エビちゃんと呼んで笑うのだ。
そして。
「可愛いです、先輩」
同じように暗号で返して、監督生はフロイドの背中に手を回した。