冷たい朝はもう来ない

 好きだと気付いた時には、あの男の体温はすっかり消えていた。
 涙に濡れた朝が、こんなにも冷たいものだと初めて知った。



◆ ◇ ◆



「好きだよ、土方くん」
「――…は?」
「だから、好きだよ」
 ぼたりと海老の天麩羅が小皿に落ちてマヨネーズの海に沈む。土方は切れ長の目を大きく開き、落とした天麩羅はそっちのけで、膳を挟んで目の前にいる男――藤原を凝視した。四捨五入すれば六十路になる彼は、真選組発足時からの付き合いになる。出会った頃と比べたらすっかり年老いてしまった。江戸の町に住んでいる普通の老人と比べたら口も頭もよく回るし、背中もシャンと伸びている。しかし年齢と重力には勝てないようで、頬は垂れ始め、皺が深くなった。
「酷いなぁ。そんな顔しなくたっていいだろう」
 カラカラ笑い、土方の不躾な視線にも構うことなく食を進めている。箸遣いはいつ見ても綺麗だ。
「ただ君が好きだよと告白しただけなのに」
 信用出来ない? と小首を傾げる藤原に、土方は思わずはいと答えた。それが面白かったようで藤原は更に笑う。いい感じに酔いも回っているらしい。
「君はこういう時は本当に正直だね。…言うつもりはなかったんだよ? 私には、冷え切った関係とはいえ妻も子供もいるし。今更惚れた腫れたを言うような歳でもない。でもまぁ私も君もいつ誰に殺されたっておかしくない世界に足を突っ込んでいるからね。やっぱり言っておこうかなって思ったんだよ」
 ほら君怪我して入院してたでしょ。あれは結構肝が冷えたんだ。
 そう続けられる言葉に、はぁ、とか、えぇ、とか気の抜けた返事しか返せない。少々の非礼はもう気にもしていない。藤原は元々穏やかで気の長い人間でもある。
「あ、言っておくけど私の人生の中で男を好きになったのは君が初めてだからね。衆道は文化だとか言っている輩もいるけれど、私は処女だ」
「いや、そんなことは聞いておりません」
 ぐっと親指を立てて言い切る藤原に、思わずいつもの調子でぴしゃりと言い放つ。仕方ないじゃないか。六十路近い爺の垂れたお尻事情など知りたくない。
「それに君に衆道の気がないことくらい知っている。だからいい返事が聞けるとは思ってないよ。かと言って、振られたからって真選組を今更どうこうしようとかは一切考えていないからね。今度の稟議書だってちゃんと通すし。私だっていい大人だからね。物事の分別くらいはつけられる。聞き流してくれてもいい」
「でも、その、そういう訳には…」
「じゃあこうしよう」
 食い気味に言葉尻を奪われる。藤原が箸を置いたので、土方も箸と小皿を置いて姿勢を正す。マヨの海に溺れたままの海老の天麩羅はすっかり衣がふやけてしまった。持ち上げると衣が綺麗に剥がれてしまいそうだ。
「私のことどう思っているかじっくり考えてくれ。心が決まればまたともに食事をしよう。その時に君の気持を聞かせてくれないかい?」
「……わかりました」
 言って、頷く。
 楽しみにしているよ。だから今日は何も考えずゆっくり寝なさい。どこまでも優しく気遣ってくれる藤原に、土方は苦笑いを返すことしか出来なかった。



 藤原邸からの帰り道。
 どうしても真っ直ぐ屯所に帰る気になれなかった土方は、送迎用の車から途中下車してコンビニに寄った。そこで缶ビール一本と煙草を買って、フラフラと夜道を歩く。
 深夜と言われる時間帯の今。道行く人が居ないのを良いことに、適当な河川敷で腰を下ろして煙草を吸う。舌に馴染んだ苦みが、酷く怠い脳を刺激してくれる。
「…はぁ」
 出るのは溜め息ばかり。
 人に告白されてこんなに困ったのは生まれて初めてだ。どうしたらいいかさっぱりわからない。いっそあの場で頭が混乱しているうちに断ってしまえば良かった。律義に考えようとした自分を恨む。携帯灰皿に灰を落とした。
 藤原はとてもいい人だ。真選組を立ち上げる時、資金援助を他の誰より多く、そして快くしてくれたという恩もある。金銭面以外でも、事あるごとに親身になって相談に乗ってくれたり、真選組を立ててくれたりと随分と助けられている。お陰で随分と動きやすくなった。
それに、穏やかで角がない性格なので、自分と同じくらいか、それ以上に警戒心が強い沖田も懐いている。今日の自分と同じように二人きりでの会食も何度かしているようだ。土方の上司である松平や近藤に至っては、藤原とお忍びでキャバクラに行って楽しんでいる。まるで昔からの友人のよう。
「…はぁ」
 結婚はしないと決めているのだから、恩がある藤原に少しくらい捧げたって罰は当たらないだろう。土方を形作る全てのものは近藤に捧げると決めているから、捧げられるものはほんの少ししかないけれど、それでもきっと藤原は大いに喜んでくれる筈だ。そしてそれが真選組の今後にとっても、いい。
 ――頭では、そう、理解している。
 追いついてこないのは、土方の心の奥底。妖刀の魂よりも、武州の初恋よりも、もっともっと奥。頑丈な鎖でぐるぐる巻きにして大きな南京錠を付けたその部分。そこが今になってギィギィ音を立てて反抗するのだ。あまりに大きな音を立てるものだから、無視できない。サイレンのように頭に鳴り響くそれが、藤原に身を委ねるなと訴えかけてくる。
「……はぁぁぁ」
 煙草を携帯灰皿に仕舞って、頭を抱える。明日から思い悩まなければならないと考えただけで吐きそうだ。溜め息が止まらない。
その時、ジャリと足音が聞こえてハッと顔を上げた。
 視線を向けたその先に、今にも落っこちてきそうな大きな月を背負った万事屋の主人、坂田銀時がいた。反射的に顔を顰めた。
「ハァハァうっせーんだよ、発情期かコノヤロー」
 相変わらず死んだ目が潤み、不自然なくらいに赤らんだ頬は酔いの証拠。右手には飲みかけの缶ビール。銀時の姿を見て、土方の気分が更に沈む。出来ることならば、今晩は会いたくなかったのだ。
「発情期はテメーだろうが。全身猥褻物でしょっぴいてやろうか」
「誰が全身猥褻物だ! これは陰毛じゃなくてただの天パだわ! 寧ろおしゃれパーマだわ!」
 喚きながら、銀時が缶ビールを呷る。その缶に書かれた銘柄は、土方が地面に置きっぱなしにしている缶と同じもの。こんなとこまで似てんのか、俺たちは。そう嫌気がさしながらも、ほんの少しだけ喜んでいる自分がいる。
「……」
 駄目だ。やはり今晩は駄目だ。
 いつもは封じ込められている気持ちが簡単に揺らいでしまう。折角鎖で巻いて鍵までかけたのに、溢れてしまいそうになる。
――お前が好きだと、お前以外は嫌なんだと情けなく縋って叫んでしまいそうになる。
 今日は大人しく屯所に帰って寝てしまおう。もしくはこのまま夜通し書類と戦うのでもいい。兎に角、この男から離れるべきだ。そう決めて、立ち上がる。尻に付いた砂を払って、未開封の缶ビールを銀時に投げつけた。
「やる。ガキがいるんだからあんまフラフラしてねーでテメーも帰れ」
 じゃあな、と背中を向けて歩き出す。銀時に名前を呼ばれたが、それを無視して歩を進める。これ以上顔は見たくない。喧嘩なら明日以降にしてくれ。今晩だけは、心が揺らぐ今晩だけは、どうか放っておいてくれ。
 しかし、その土方の心情を知らず、銀時が左手を掴んだ。銀時の体温に思わず足が止まる。
「無視してんじゃねぇよ! 聞こえてんだろ」
「何の用だ」
「いや、別に、用っていうか、なんというか…」
「用がないなら離せ。俺ァ帰るんだよ。ニートのテメーと違ってこちとら明日も朝から仕事なんだよ」
 振り返らずにそう言っても銀時の右手は離れない。寧ろ力が強くなっている。
「お前なんかあった…?」
 右手と反比例して、やけに弱々しい言葉。それでも土方が息を詰めるには十分だった。
「溜め息吐いてたし。お前すぐ溜め込むタイプなんだから、ちゃんと発散しろよ」
「…やめろ」
「もし沖田くんやゴリラに言いにくいことなんだったら俺が聞いてやるし。ほらうち万事屋だし? 相談料は一分一万円くらいでどうよ」
「煩ぇ、喋るな、離せ」
「んなこと言ったって、顔だって真っ青だぞ。そんな状態で帰してなんかあったら目覚め悪ィだろうがよ」
「テメーに心配される程落ちぶれちゃいねぇよ! いいから離せ! 鬱陶しいんだよ!! 俺に何があろうとテメーには関係ねぇだろうがッ!!」
 力を込めて銀時の手を振り払い、振り返りざまに右の拳を突き出した。しかしそれは銀時に届く前に掴まれてしまった。決して小さくはない自分の拳を包み込むように握り締められる。背は変わらない筈なのに、こういう所で差が出るのがとても悔しい。チッと舌打ちをして腕を引けば、銀時の掌に力が籠る。手が外れない。
「ッ、んだよ…!!」
 銀時と目を合わせて、息を飲んだ。
「関係ねぇって、なんだよ」
 死んだ魚の目のようだ、と揶揄される石榴色の瞳が月明りを反射して鋭く煌いている。息を吹き返した鮮やかなその色に視線が奪われる。足は固まってしまって動かない。
 銀時が怒っている。冷ややかに、しかし沸点は突破している熱を孕んで。
それは土方にも理解ができた。が、何故怒っているかが分からない。どうしてこの男はこんなにも怒っているのだろう。だってそうじゃないか。自分に何があったって、大袈裟に言えば、この帰り道で誰かに襲われて死んだってこの男には何の関係もない。なんの支障もなく明日が来て、その日をのらりくらりと生きていく。
掴みどころがなく。傍に居るのかと思えば、振り返ったときにはもういない。
「…そ、のまんまの、意味だろうが」
 情けないことに、喉が張り付いて思ったように喋れない。銀時の空気に呑まれているのだ。真選組副長ともあろう自分が。最悪だ、と顔を歪める。
「関係ねぇとか言うんじゃねぇよ」
 絞り出すような声はいつもより低く、耳に響く。
「あん時に言っただろうが。いい加減俺を見ろって」
 低い声に誘われて、不意に脳裏に流れ出す映像は、いつかの、酷く酔っ払った夜のもの。
 ビールと焼酎の匂いが混じった酒臭い息の合間に触れる火傷しそうなほど熱い唇。糊の効いたシーツが乱されていく衣擦れの音。自分の名を何度も呼ぶ切なそうな低い声。戸惑いながらも伸ばした自分の手、指。肩の傷。耳に吹き込まれる男の吐息。耳を塞ぎたくなるような自分の嬌声。
 一瞬にして身体中の血液が沸騰したように熱くなる。
 だから嫌なのだ。この男といれば嫌でも思い出す。あの夜の熱も匂いもまだ自分の腹の底で燻っている。振り払っても消えることはない。それどころか日に日に強く増していく。厄介な感情。
「…なぁ。いつになったら俺を見てくれるんだよ」
 ぐ、と眉間に皺が寄る。
 この男が言う、俺を見ろとはどういうことなのだろうか。見ているじゃないか。それこそあの夜よりももっと前から。屋根の上で刀を折られたあの日からずっと。いつだって喧嘩をしながら、共闘しながら、救われながら近くで見てきた。この男を慕ってついていく子どもたちにするように、その腕で抱き締めてほしい思ってしまうくらいに。
 それでも自分に与えられたのは一夜の過ちのような肉欲だけ。見ろと執拗に言ってくるくせに、朝が来ればそっといなくなっていた。体温すら残してくれず、冷たいシーツだけが自分を包んでくれていた。何事もなかったかのように体液は拭き取られ、どう足掻いたって間違いで孕むことすらない。
 あの朝がどれ程辛く惨めで、空虚なものだったか。
 閉められた冷たい扉に向かって何度、お前の名前を呼んだか。
「……お前は何も知らないくせに」
「は? なに?」
 ふ、と力を抜けば存外容易く拘束は解けて、突き出した拳はだらりと下がる。そのまま腰を落として左手で鯉口を切り、自由になった右手で抜刀。振りかぶった白刃は銀時の頬に傷をつけた。一拍遅れて血が滲む。銀時は一歩後ろに引いただけで木刀に手にかけることは無かった。土方も此処で斬りあうつもりは毛頭ないので、その一太刀だけで納刀する。
「次、触ったら公務執行妨害で逮捕する。今回は見逃してやるからさっさと帰れ」
 言って、土方は背を向けて今度こそ帰路に着く。自分の名を呼ぶ声はもう聞こえなかった。聞こえても振り返るつもりもない。さっさと屯所へ、自分の居場所へ帰ろう。あそこには温もりがある。

 ――…あんな冷たい朝は、もう二度と御免だ。



 屯所に帰ってきても結局一睡もできなかった土方は、のそのそと起き上がって隊服に着替えた。自分の誇りでもある真っ黒な隊服に身を包めば、気持ちがシャキッとする。
 元々今日は一日書類整理にあててあったので、朝食と朝礼を済ませた後は自室に籠ることにした。ここぞとばかりに山崎が書類をせっせと運んでくるので時折殴り飛ばして気分転換をし、煙草を吸いながら、只管に筆を走らせた。報告書、始末書、抗議の手紙に対する謝罪の手紙、役所からくる碌でもない催し物の警備形態の詳細報告。いくら書いても終わりが見えないが、他の事を考えずに済むから今日だけは有難く思う。
 とは言え、いつまでも藤原を待たす訳にはいかない。現実逃避も程々に、きちんと考えなくては。
 どうしたものか思案すれば、脳内に映し出されるのは藤原ではなく銀髪の男。動揺した筆先が全然違う字を書く。しまった、初めからやり直しだ。すぐに紙を丸めて放った。
 新たな紙に文字を書こうとしても、銀色がチラついて筆先が揺れる。
「――ッ、クソ!」
 忌々しく吐き捨てる。筆を置いて、新たな煙草に火を点ける。真っ白な煙は、徐々に部屋の空気と混ざり合って薄れ、消えていく。こんな風に、この胸の奥底で眠る想いも消えて行けばいいのに。気恥ずかしい少女漫画のような、らしくない思考回路は鼻で笑い飛ばした。まだ長い煙草を灰皿に押し付け、畳の上に寝転がった。目を閉じれば居ない筈の銀時の声が聞こえる。
『…なぁ。いつになったら俺を見てくれるんだよ』
 銀時に抱かれたのは二か月ほど前の話だ。
 その日は、何か月も計画をしていた捕り物が上手くいって、後処理もそこそこに、出動した隊と近藤と土方で祝杯をあげた。土方は報告書に目を通す予定だったので酒は飲まずに、ある程度時間が経てばこっそり部屋を出た。そして副長室に戻る途中、煙草が切れたことに気付き、気分が良かったので散歩がてら自分で買いに行くことにした。
 それがいけなかった。
 体の芯まで冷えるような夜空の下、濃紺の上掛けに身を包めて歩く自分に声を掛けてきたのが銀時だった。すでに出来上がっていた銀時が絡んできて、飲みに行こうと執拗に絡んでくるから仕方なく一杯だけと居酒屋に入った。しかし当然一杯では許してくれず、挙句逃げるのかァ? なんて茶化してくるものだから飲み比べして、フラフラになったところで宿屋へと連れ込まれた。
酔って前後不覚となった自分と、酔っているくせに獰猛なあの男では力の差など歴然で、あっという間に組み敷かれて、好き勝手に身体を弄られ、朝には消えていた。
 普段髪の毛で隠れている頸を撫でる。今はもう消えているが、そこには確かに鬱血痕があった。銀時が自分を抱いた時につけた、所謂キスマークだ。風呂に入って洗髪している時、沖田に指摘されて気付き、お願いだから黙っていてくれと頼み込んだ。勿論、願い虚しく風呂を出る頃には屯所内に広まっていたが。暫くは誤解を解くのに苦労した。
 しかし、誰しもあの坂田銀時に抱かれてつけられたとは思ってもいないだろう。自分だって銀時に押し倒されるまでそうなるとは思ってもいなかったのだから。
 ころん、と寝返りを打つ。
 あの夜の事は、今でも夢に見る。何度も何度も夢の中で抱かれては、恋を自覚し、夢から醒める。お陰で眠るのも一苦労だ。さらに寝不足から派生した貧血に襲われているところを不逞浪士に腕を斬られてしまった。怪我の割に出血量が多く、一瞬気を失っていた自分をたまたま通りかかった沖田が助けてくれて事なきを得たが、あれは今思い出しても切腹ものだ。
普段ならば考えられないような怪我に、心配した近藤と藤原が結託して二日も強制入院させられて大いに困ったのを思い出す。ベッドから出たら僕たちが切腹しちゃう、と可愛くもないオッサン二人に詰め寄られて、突っ込む元気もなくて。二人を回収してくれた山崎には礼を込めてマヨネーズ入りのあんパンを後日奢ってやったものだ。
「……あぁそうだ、藤原様」
 一瞬忘れていた藤原の存在を思い出して思わず唸る。もう本当に勘弁してくれ。
「副長、今よろしいですか」
 障子の向こうから声がかかる。山崎だ。体を起こして入れと答える。
「藤原様から副長宛にお手紙が届いてます」
「藤原様から?」
「はい。速達で送ってきたみたいなので、急ぎの内容かもしれないので取り敢えず先に持ってきました。あとの郵便物は今確認中なので、またテツが持ってきてくれます」
「そうか。わかった」
「でも何ですかね。副長、昨日藤原様と会食だったのに」
「さあな。言い忘れでもあったんじゃないか。昨日稟議書も提出してきたからな」
 成程と頷き、納得した山崎は、
「ではまた後でお茶と昼食お持ちしますね」
 そう言って部屋を出て行った。
 気配が遠ざかったのを確認して封を開ける。稟議書に関しては嘘ではないが、それ以外の――主に告白の事などが書いてあれば見られるわけにはいかない。中身は便箋一枚。会食の礼、マヨネーズ過多の注意、そして最後は例の返事を楽しみにしていますという言葉で締めくくられていた稟議書の中身に関することなど欠片も書いていない。よかった、山崎が居ないときに開けて。ホッと息を吐く。
 便箋を封筒に戻し、押し入れの中の引き出しへと仕舞う。その引き出しには藤原からの手紙で溢れている。仕事関係の手紙は別の引き出しに仕舞っているので、あるのはプライベートなものばかり。元来マメな性格なのだろう。季節ごとは勿論、会食後や討ち入り後にも手紙をくれた。藤原用に購入した引き出しは三段ともすぐにいっぱいになってしまった。もう少し大きなものを買うべきか、同じタイプのものを買って並べるべきか、悩みどころである。
 そして、押し入れの上から三段目。その引き出しの中には、今はあまり見なくなった『教科書』が眠っている。
土方の人生で、最初で最後の教科書。ふと懐かしくなって、手に取った。
「……へったくそな字」
 土方十四郎、とデカデカと書かれた一枚目から始まるその教科書は、売られているものではない。
ただ半紙に穴をあけて紐で括っているだけの紙の束だ。表紙もないし、所々破れている。墨が乾いて捲る度にパリパリと音を立てる半紙は、もうそれほど長くはもたないだろう。それでも土方は大事に捲っては、字をなぞる。
 この教科書を作ってくれたのは、他でもない、藤原だった。
『君の字は怖い。今にも胴を真っ二つに斬られそうだ』
 記憶の中でそうお道化て見せる藤原は幾分か若い。
『私が一から教えてあげるから、きちんと勉強しなさい』
 そう言って、武州にいる間、碌に学問に触れてこなかった自分に、一から字の書き方や言葉遣い、上官からの嫌味の上手い躱し方、腰の重い役所を遠回しに脅して動かせる書類の作り方を教えてくれた。
 金になるわけでも、自分の得になるわけでもない縁遠い部下の教育など面倒なだけだったろう。それでも藤原は丁寧に、事細かに教えてくれた。それに応えるよう、土方は忙しい日々をどうにか遣り繰りしては藤原邸に通った。
『君は今まで学問に触れてこなかったから無知なだけであって、本当は賢いんだよ。これから先、君が身を置くのは薄汚れた政の世界だ。知りませんでした、では通らない世界だ。君が本当に近藤くんを守りたいのならば、近藤くんを引き摺り下ろそうとする輩より賢くなりなさい』
 藤原の言葉は全て御尤もなことばかり。刀を振り回すだけでは守れない。向かってくる敵をたたっ斬るだけでは負けてしまう。近藤を守るというのは、その地位も立場も真選組も、全てをひっくるめて守るということなのだから。
 ゆっくりと半紙を捲っていく。下手な自分の字の横に朱色の墨で助言が書かれている。その全てが流れるような美しい字で。いつかこんな風に字が書きたいと何度も何度もなぞった。
半紙の束の最後には再び、土方十四郎の文字。それは一枚目とはまるで見違えたものだ。同じ人間が書いたとは思えない。その名前の上から朱色で大きな花丸。端にはよくできました、の文字。
『よく頑張ったね』
 自分よりも歳を重ねた、ふくよかな手の平で頭を撫でながら言ってくれたのを覚えている。
 嬉しかった。昔、義兄に褒められた時のことを思い出して、柄にもなく泣きそうになるほど嬉しかった。
「――…あぁ、そうか」
 やはり自分は藤原のことを恋愛対象としては見えない。父親とか兄とか、そういった存在に近いだろう。でも、だからこそ。自分の爛れた恋愛など優先して傷つけるべきではない。
「悩むまでもなかったか」
 真選組の頭脳と呼ばれ、恐れられるまで自分に学と知恵を教えてくれた藤原。
 ただ自分が自覚するより前から密かに恋焦がれ、ようやく恋に気付いた時には目の前からいなくなった銀時。
 悩むまでもない。藤原の手を取るべきだ。今までの恩を返すためにも、藤原が望むのならば体だろうが心だろうが献上すべきだ。
「……でも」

 あと一回。
 あと一回だけ、我儘を言ってもいいだろうか。



◆ ◇ ◆



「あれ、副長お出掛けですか?」
 巡ってきた非番の日の夕方。雪が降る前兆のような底冷えがする。大寒波襲来と朝からずっとテレビが騒がしい。いつもより厚手の上掛けと足袋を履き、使い古した赤のマフラーを首に巻いた。それでも寒い。
「あぁ。明日の朝には戻る。何かあればメールしろ」
「はいよ」
 廊下で擦れ違った山崎は行ってらっしゃいと軽く頭を下げる。それに手を挙げて答え、屯所を後にした。
 ずうんと重たく鉛色の雲が空を覆っている。見れば余計に寒く思えるので、袂から煙草を取り出して火を点けた。赤々と燃える煙草の火だけを見つめながら歩く。
 向かうはかぶき町。その何処かに銀時はいるだろう。そして奇しくも土方は高確率で彼を見付けることが出来る。
「…今日はおでんだろうな」
 こんな底冷えする日は熱々のおでんが恋しい。確か土方が何度か顔を出したことがある居酒屋のおでんは絶品だった。特に大根と玉子が美味い。ここの大根は親仁が裏の畑で育てたやつらしいぜ、と教えてくれたのは銀時だ。そういえばあの日も偶然鉢合わせて店の中で胸倉を掴んで大喧嘩した。見かねた親仁に皿を投げつけられるまで続けたものだ。勿論皿は割ることなく二人でキャッチした。その後、拍手と野次に包まれて、気恥ずかしくなって二人でそそくさと店を後にし、公園のベンチでダラダラといつまでも喋った。それこそ朝が来るまで、酒が無くなっても、肩を寄せて、くだらないことを話した。じん、と心臓が震えた。この恋を自覚したのは抱かれた日なのだろうけれど、きっとそれよりもっとずっと前から好きだった。
 ――…そんな風に喧嘩できる日がまた来るだろうか。
 考えて、即座に無理だなと断定した。銀時ではなく、土方が無理なのだ。元より器用ではない。自覚してしまった気持ちを押し殺していつも通りなど出来るはずがない。
 だから今日が最後。
 あと一回だけあの男の隣で酒を飲み、喧嘩をして、別れる。これが最後の我儘。
 明日が来れば藤原の元へ向かう。連絡はもう取ってあり、了承も頂いた。だからこれが最後のチャンス。銀時以外、誰の手も触れていない体と心で、あの男と向き合う。
「邪魔するぜ、親仁」
 辿り着いた居酒屋の暖簾を潜る。寒さゆえ人が多い。
「げぇ」
 そんな中、ひと際目立つ銀色の髪が土方を見つけて唸った。机に置かれた小皿にはおでんの大根と玉子。
「最悪だな。何でテメーがここに居るんだよ。とっとと帰れクソ天パ」
 声は上擦ってないだろうか。不自然ではなかっただろうか。考えながらも土方はマフラーに隠れた唇を綻ばせた。



 ――さぁさぁもう閉店だよ、帰っとくれ!
 親仁に放り出される頃には二人とも立派な酔っ払いに出来上がっていた。特に土方は肩に力が入っていたせいか酒が回るのが遅く、がばがば遠慮なく飲み、一気に酔い潰れた。いつもの倍近くは飲んだ。来る前はあんなに寒かった体が、今ではぽかぽかと温かい。
「なぁひじかたー! ぎんさん、ビール飲みたいい!」
「おー」
「コンビニいくぞー!」
「おー」
 互いにフラフラする体を寄せ合ってなんとか歩き、近くのコンビニに向かう。店員が迷惑そうに見てきたが、帯刀していることに気付いて見て見ぬふりをしてくれた。銀時は菓子とビール、土方は煙草とビールを選んで会計へ。会計は当然のように土方が払った。
 コンビニを出ると、銀時が公園へ向かっていくのであとを付いていく。ベンチに並んで座り、缶ビールで乾杯をした。
「…前もさ、ここに来たっけ」
「おー」
「オメーさっきからそればっかじゃん。この酔っ払いが」
「おー」
 酔いはまだ残っているが、寒い中歩いて少しだけ醒めてきた。
 それでも土方は、銀時がいつかの夜のことを覚えていてくれたのが嬉しく、そう返すしか出来なかったのだ。だからまたマフラーの中で笑う。
「…今日は機嫌良いのな」
 よく笑ってる。
 そう言って、銀時にマフラーを下げられ、笑っているのがバレてしまった。慌てて口をキュっと結ぶがもう遅い。揶揄うわけではなく、見守る様に微笑まれて、酒とは別に顔が熱くなる。
「この前の時はすっげー機嫌悪かったから、まぁ良かった」
「っ、あ、あれは…!」
 思い出して、体に力が入る。土方が銀時につけた頬の傷はすっかり治っていて瘡蓋すらないから失念していた。
「す、すまなかった…」
 咄嗟に謝罪の言葉が口を突いて出た。すると銀時が目をまん丸にして驚き、すぐに悪さをするときのように、ニヤァと笑う。
「えーなになに。すっげー素直じゃん。気持ち悪ぃぃ!」
「うっせぇ! 俺だって謝ることくらいあるわっ」
「ははっ。まぁいいよ、菓子とビールで許してやらぁ!」
「さっきの居酒屋も俺の金だわ! もう奢ってやれねぇんだからしっかり働いて払えよ」
「………は? どういう意味?」
 ポロリと零した言葉を銀時が不機嫌に拾い上げる。しまったとマフラーで口を隠しても間に合うわけがない。酒が回っているときは何を喋るか分からないから気を付けておこうと思ったのに。失敗した。
土方が黙っても銀時はやり過ごしてくれないらしい。狭いベンチで距離を詰めてくる。トン、と肩がぶつかった。
「べ、別に大した意味はねぇよ。テメーで働いてテメーで払えってこった」
「だったら奢ってやらねぇって言うだろ、お前。奢ってやれねぇってなんか理由があるんじゃねぇの? それが理由でこの前機嫌悪かったのか? 仕事辞めんの? ニート?」
「誰が辞めるかよ! 言い間違いだ。気にする程のもんじゃねぇよ」
 酒臭ェから離れろ、と銀時を押し戻す。しかし逆にその手を取られてしまった。持っていたビールの缶を離してしまい、地面に落ちた。飲み切れなかったビールが乾いた砂に吸収されていく。缶に気を取られた隙に両手首を強く握りしめられた。振りほどけない。
「なァ土方。俺にまで隠し事すんなって。何かあったなら言えよ」
 顔が近くなる。咄嗟に顔を俯かせても覗き込んでくる。石榴色の瞳が逃してくれない。
 クソ、とマフラーの中で音もなく呟く。
「土方」
 風の音しかしない寒い夜に、銀時の声だけが響く。それはいつかベッドの中で聞いた声色によく似ていた。
 ――…そうだ、その声が好きだ。手首を掴んでいる節くれた大きな手が好きだ。悔しいけれど、自分より太い筋肉がついた腰回りや太腿が好きだ。自由奔放に跳ねた髪の毛が好きだ。いつまでも隣で見ていたいと願った、だらしのない笑顔が好きだ。
 あれだけ必死に心を固めてきたのに、こんな少し触れただけで崩れ落ちてしまいそうになる。そんな風に切なく名前を呼ばれては、大事にしてもらえているような気がしてしまう。
「……わかった」
 だから、心が崩れてしまう前に、先手を打つ。
「ちゃんと言うから離してくれ。痛ぇよ馬鹿力」
「わ、わりぃ」
 気取られないように穏やかに言えば、銀時の手が離れた。うっすらと赤くなっているそこを見て銀時が謝って来るが、構わないと首を振った。
「ちゃんと話す。でもこれは依頼だ。相談料は一分一万円だったか」
 袂から財布を取り出して適当な数の万札を銀時の手に握らせる。一瞬土方が何を言っているか分からなかっただろう銀時はぽかんと口を開け、思い出す、河川敷で言った自分の言葉を。
「何言ってんだよ! 俺ァ金が欲しいわけじゃなくて、ただオメーの話を…ッ!!」
「だから、依頼料だ」
「ッ、土方!!」
 言葉に怒気が孕む。毛が逆立ちそうな程、銀時のボルテージが上がっていく。このまま言えば今度はこっちが斬られそうだな、なんて他人事のように土方は考えた。
 そして、怒る銀時を宥める様に、その首に腕を伸ばして抱きついた。土方の行動に銀時は大袈裟に身体を揺らし、ピタリと口を閉じた。そりゃあ驚くだろう、無理もない。犬猿の仲の自分がこんなことをしてくるなんて、思ってもみなかっただろう。
「…すまない。少しだけ」
 囁くようにそう懇願すれば、銀時は大人しくなった。何も言わず、土方の言葉を待っている。手には紙幣が握られたまま、ベンチに落ちている。予想はしていたが抱き締め返してくれないのは、少し堪えた。しかし、突き飛ばされないだけ御の字だろう。まぁそうされないために、銀時の言葉の揚げ足を取って依頼という形にしたのだけれど。
「……」
 話すと言ったが口を割る気はない。今夜は我儘を突き通すと決めたのだ。振り回して申し訳ないと思うが、今夜ですべてが終わるので許してほしい。
 もう一緒に酒を飲み交わすことは無い。定食屋で互いの悪食を貶すことも、見廻りの最中に因縁をつけあうことも、ない。明日、藤原に返事をしたあと、近藤にかぶき町から見廻りを外してもらうよう頼むことにしている。そうやって銀時から離れると決めた。
 だからどうか最後の思い出として、銀時の匂いと体温を刻み付けておきたい。一秒でも長く覚えておけるように。藤原に触れられても、忘れないように。
(この時間だけで、一生、生きていけるように)
 再び鎖で巻き付け、南京錠をあしらえるけれど、辛いときに思い出してはまた生きていけるように。
「……おい、土方?」
 あぁもう時間切れだ。これ以上無言の時間が続けば怪しまれる。
 惜しみつつ、土方は右の掌に忍ばせていた細く短い針を銀時の項に刺した。プツリ、と皮膚を突いて体内へと侵入する。
「いてっ…!」
 銀時が叫んだのと同時に、すぐに針を回収して体を離す。
「ひ、じかた…?」
 一人立ち上がって距離を取る。訳の分かっていない銀時は眉を寄せて土方を見上げ、すぐに目を見開いた。わなわなと唇が動いているが声は出せないようだ。
「心配するな。即効性のある痺れ薬だ。副作用もない。普通の人間なら三十分は動かないだろうが、お前なら、まぁ、すぐに動けるようになるさ」
 掌の針を見せ、袂に仕舞う。
「依頼はこれで終了だ。依頼料は少々多いだろうが、まぁ慰謝料として取っといてくれ」
 言って、背中を向ける。そのタイミングで風が吹いて、雪が降ってきた。まだ粉雪だったが、大粒の雪にならなければいいのにと願った。自分のせいで風邪をひかせてしまうのは忍びない。
 悪かったなと再び謝って、離れる。
 公園を出るまではゆっくりと。出れば、徐々に足を早めて、気が付けば全力で走っていた。走って、走って、屯所へ帰る。追い掛けて来られるかもしれないという恐怖と、一刻も早く離れたいという焦燥感だけが背を押す。途中、酒のせいで気持ち悪くなったけれど、構わず足を進めた。冷たい空気と雪が眼球を刺激して涙が流れようと。息が切れて嗚咽のような声を出そうと。構ってなどいられない。
 そして裏口から忍び込むように屯所に入り、部屋に戻って、体中の水分が無くなるまで静かに泣いた。



 まだ少し腫れぼったい瞼を鬱陶しそうに触りながら、土方は車を降り、屋敷へと向かう。目の周りが重くて怠い。
 昨夜散々泣いて酷使した瞼は、朝日が昇るころにはぼってりと腫れ、朝の挨拶をしに来た山崎にひっくり返られた。何をどうしたらそうなるんですか、と怒られたので、酒を飲み過ぎたと返したが、多分泣いたことはバレている。それ以上は何も言われなかったのは有難かった。山崎が用意した冷えたタオルで一日中冷やし、時折リンパマッサージなるものをやってもらえば、夕方にはすっかり引いていた。が、まだ違和感はある。
「気になっても、あんまり触らんでくださいよ! アンタ今日会食もあるんでしょう!?」
 出掛けるギリギリまでそう口酸っぱく言われたが、気になるもんは気になる。山崎が居ないのをいいことに、ググ、と何度も瞼を押す。
「土方様ですね、お待ちしておりました。奥の座敷でお待ちです」
 目に必死になっていれば、いつの間にか玄関まで辿り着いていたらしく、女中が恭しく頭を下げてきた。軽く挨拶をして中へと入る。前を行くのは初めて見た女だ。長ったらしい廊下を歩いて、用意された座敷へと向かう。途中擦れ違う女中は、やはり見慣れない顔ばかり。
「ごゆっくりどうぞ」
 女中は頭を下げ、去っていく。土方は大きく深呼吸をして、襖を開けた。
「失礼します」
 中にはいつも通り優しく微笑む藤原。待っていたよと優しい口調。
 しかし土方の目線は藤原ではなく、部屋の奥で座っている男に奪われた。心臓が嫌な音を立て、次いで血の気が下がる。金縛りにでもあったかのように身体が動かなくなった。息がしにくい。肺が凍ったように痛い。
 男は世にも珍しい銀色の髪に、洋装と和装が混じった奇天烈な恰好。洞爺湖と書かれた木刀を抱えるように座って立膝をしている。
 そんな人間、江戸中、いや日本中探したって一人しかいない。
「…ッ、な、なんで…っ!」
「あぁ万事屋さんのこと、土方くんも知っているのかい? 有名なんだねぇ。坂田くんも土方くんを知ってるんじゃないか? 彼は真選組の副長さんなんだよ」
 戸惑う土方に気付いていないのか、藤原が振り返って銀時と話す。銀時は誰も見ることなく、そっぽを向いてさぁなと手短に答えた。そしてわざとか、昨夜土方が針を刺したあたりと掻くものだから、土方は卒倒しそうになった。
「藤原様、どうして、彼がここに…?」
「それが聞いておくれよ! うちの使用人たちが揃いも揃って食中毒になってしまってね。いつもの用心棒も全員お休みなんだよ」
 それで使用人が見たことない人ばかりだったのか、と合点がいく。
「使用人はすぐに代わりが用意できたんだけど、年末も近いせいか用心棒がなかなかいなくてね。今朝近藤くんに聞いてみたら腕の立つ万事屋さんがいるっていうから依頼してもらったんだよ」
「それでしたら俺が護衛に…っ!」
「それも思ったんだけど、床に臥せてるって聞いたから」
 そうだった。目がぼっこり腫れていたものだから午前休を貰ったのだ。他の隊士にこの無様な顔を見せなくていいように。ああぁと頭を抱えて崩れ落ちたくなるのをなんとか堪える。そろそろ入って来て座りなさい、と勧められて大人しく席につく。もう逃げられない。こうなったら何か理由をつけて銀時に退席してもらうしかない。
「調子は大丈夫かい?」
「え、えぇ…。少し気分が悪かっただけなので」
「そうか。でもお酒はやめておこうか。ぶり返したら私が近藤くんに怒られてしまうよ」
「すみません…」
 藤原は使用人を呼び、自分用の酒と土方用の烏龍茶を用意させて乾杯し、挨拶もそこそこに膳に箸をつけた。
 煌びやかな料理は十分魅力的なのに食べたいとは思わない。土方は困ったなと心の中で呟いて、誤魔化すように烏龍茶を何度も口に含む。食欲がないというのが第一要因だが、昨夜あんなことをしてしまった銀時の目の前で悠々と食事できるほど神経が図太くない。小鉢に盛られた胡瓜と凧の酢の物くらいは食べられるだろうか。
 そんな土方の心中を知る筈がない藤原が、そうだ、と声を上げて箸を一旦置いた。それに乗じて土方は膳から藤原へと視線を移す。
「この間の返事を聞かせてもらおうか」
 びくりと大袈裟に肩が跳ねた。
「君が来てくれるっていうことに随分浮かれてしまってね。今日一日ずっとそわそわしてたからこれ以上我慢が出来そうにないんだ。子どもじゃないんだから、なんて笑わないでくれよ?」
 目尻の皺が深くなって、眉が下がる。言葉や表情はいつものように柔らかいのに、今までに感じたことがない圧を感じた。目の奥が笑っていないような、底知れぬ冷たさが垣間見える。
違和感が、土方を襲う。
「その話はあとにしませんか、ここには部外者が…!」
 藤原の空気に飲み込まれる前に抗う。視界の隅の銀色は微動だにせずそこにいる。聞かれたくない。こんな話など。
 慌ててそう言う土方に、藤原は珍しく苛立ったように眉を寄せた。立ち上がって隣まで移動し、太腿の上に置いていた両手を掴む。
「聡い君のことだ。きっと見当はずれな返答はしないだろうが、これでも不安でね」
 掴んだ両手は藤原の口元に運ばれる。女性にするように、甲に口付け。口をつけたまま上目遣いで土方の目を一直線に見つめて離さない。
「私は君の事が好きだよ。その綺麗な顔にキスをして、組み敷いて、泣くまで抱いてやりたいと思うくらいに」
 ――ガツン、と鈍器で頭を殴打されたような衝撃が走った。
 そうだ。分かっていたじゃないか。この告白に了承するということは藤原に抱かれるということだ。体を差し出すとはそういうことだ。分かったような振りをしていたけれど、いざ口にされ、目の前に提示されると躊躇してしまう。
 というより、藤原はそんなことをしないんじゃないかと甘ったれた夢を見ていた。いつものように仕事の合間に食事を一緒に取って、藤原が好きだという異国の音楽を一緒に聞いて、時には松平や近藤と一緒に悪さをする藤原を叱って。出会った頃のように色んな知恵を教えてもらって、頭を撫でてもらえるような。
「どうしたんだい、土方くん。そんな顔をして」
 そうじゃない。藤原が望んでいるのはそんな甘ったるい蜜月のような関係ではない。冷え切った夫婦関係で積もった肉欲を土方にぶつけて発散し、表には出せないような関係を望んでいるのだ。
「さぁ答えなさい。私は君が好きだよ。君はどうなんだい?」
 ぎゅうと更に強く手を握られて痛みが走る。思わず顔を顰めると、藤原は楽しそうに笑う。刀を握る手なのだから大事にしないと駄目だよといつも優しく擦ってくれるのに、こんな仕打ちは初めてだ。
 ハ、ハ、と浅く吸い込む息が針のように痛い。
「土方くん、答えなさい」

 ――……あぁ、怖い。

 氷のように冷たい声で呼ばれることが。ギリギリ痛む両手が。先生のように慕っていた男に突きつけられた現実が。今になって、どうしようもなく、堪らなく、怖い。覚悟が足らない自分が、考えが甘い自分が、心の底から情けない。
「…ッ…ぁ…」
 偉そうに爛れた恋心に終止符を打ってここまで来たくせに、声が出ない。ガンガンと頭が痛み出して、吐き気が胸の中で渦巻く。意識が遠のくように、視界が滲みぼやけていく。
 それでも逃げられないのだから。真選組のためなのだから。返しきれない恩がある藤原の為なのだから。引き攣る喉を叱咤して声を出す。お慕いしておりますと。
 しかしそれは、後ろから伸びてきた掌の中に吸い込まれて、音になる前に、消えた。
「……何のつもりかね」
 そのまま後ろに倒されて後頭部が何かに当たる。暖かくて、甘い匂いの着物が擦れる音がする。
「二十時になったからな。依頼は終了だ。ここからは俺のプライベートだ」
「どうするつもいだい? その子を」
 藤原の手が土方から離れた。力を無くした両手は落ちて、銀時が掬い上げる。
 羽交い絞めのように抱き締められて土方の頭の中は混乱しているのに、不思議と恐怖は消えていた。頭の痛みも、吐き気も治まっていく。あれほど藤原に触れられるのは嫌だったのに、銀時相手だと安心してしまう。
思わず、縋るように銀時の指を握れば、頭上で銀時がフッと笑ったのが分かった。
「テメーにくれてやるくらいなら、掻っ攫うだけさ」
 藤原が権力者だろうと、土方が幕府の狗だろうと、この先真選組の立場が危なくなろうと関係ない、と。
「惚れた相手が泣いてんのに、助けねぇなんざ男じゃねぇよ」
 だから。
「だから、今すぐ攫う。……いいな」
 後半は土方へと宛てたもの。何かを考える前に、うん、と小さく頷いた。
 くるりと体の向きを変えられて肩に担がれる。
そしてそのまま座敷を飛び出して藤原邸を後にした。



 二人が居なくなった座敷で藤原は肩を震わせ、――声を上げて笑った。
「そうか、そうか。当て馬とはこういう気分なのだな。はははっ! こりゃあいい経験になった!」
 足を崩して腹を抱えて笑う。
 そして、
「ところで私の演技は一体何点だった?」
 と、天井を見上げて問うた。
 天井板が一枚外れて、黒い影が落ちてくる。栗色の髪の毛についた蜘蛛の巣を手で払い、藤原に負けないほどニヤニヤ笑う真選組一番隊隊長。
「五十八点って言うところですかねィ。俺としてはもっと強引に迫って欲しかったんで」
「ええぇ厳しいなぁ。結構頑張ったんだよ? 土方くんの手を握りしめるなんて本当に怖かったんだから! 本当にこれであの二人は上手くいくのかい?」
「いきますよ。珍しく旦那がブチ切れてましたからねィ。ありゃあ万事屋かどっかのホテルに連れ込んでしっぽりヤるでしょう。朝まで旦那のブツ突っ込まれてケツがガバガバになりゃあいい。土方ざまあみろ」
 悪態を吐く割に沖田の顔は優しい。それに気付いている藤原は、下品な言葉遣いを嗜めることなく立ち上がって頭を撫でてやる。慣れている沖田はおとなしい。
「土方くんの恋愛成就のお祝いに一杯飲むかい? 折角老舗料理屋に頼んでお祝い御膳を作ってもらったのに土方くんは一口も食べられなかったからね」
「じゃあお言葉に甘えて」
「そうだ、松平も呼ぼう。土方くんのことを報告しないとね。きっと彼奴のことだから酒飲んで泣いて大暴れするだろうね。面白いから写真を撮ってやろう」
「もしかしたら夜の営み中に鉛玉撃ち込みに行くかもしれやせんねィ」
「それはいけない。初夜というのは何をするにも大切な日だ。それは私たちが全力で止めなければ」
 ふん、と鼻息荒く初夜は大切にと掲げる藤原。俺以上に楽しそうですねィ、と沖田が呆れている。
「楽しいに決まっているじゃないか! 江戸に来た時、誰も信じてませんって顔面にデカデカと書いてあった君たちが心を開いてくれて、こうやって悪巧みに参加させてくれるようになって。頑なに恋愛しようとしなかった土方くんがあんな顔をして誰かを想えるようになって」
 そして、なにより。
「そんな土方くんの背中を、君が押してやっている」
 沖田の顔が、カッと赤くなる。その顔は年相応の子供もので、藤原は眩しそうに目を細める。
「べ、別に土方の野郎の為とか、そんなんじゃありやせん。ただ、ただ、腹が立ったから」
 見廻りの度に嬉しそうに喧嘩をしている土方も。土方の為ならすぐに事件に首を突っ込んでくる銀時も。
 二人が手を取り合ったところで誰も怒らないのに、頑なに自分の気持ちと向き合わずに遠慮して一線を引いているのが腹立つ。
 ようやく最近になってキスマークを見つけたので、土方に手を出したのかと銀時に聞けば、抱いたけど告白の返事は貰ってないとかもだもだと言い出す始末。その癖、銀時に手を出されたことを思い悩む土方が不逞浪士に斬られたら何処からともなく助けに入ってくるし。自分が来たことは内緒にしてくれとお願いされるし。全くやってられない。
「三十路近いオッサンがうだうだ思い悩んで躊躇してるのを、いつまでも見るのは嫌なんでさァ」
 だから、藤原に土方を口説いてもらい、その現場を銀時に見せつけるという荒治療を思いついた。土方が懐いている藤原から迫られれば性格上拒めないのも計算の内だし、銀時に護衛を頼んだのも計画の一環。勿論、銀時に護衛の依頼をした近藤も共犯。彼は今日、土方の為にストーカー業務をお休みし、今までになく真面目に屯所で仕事をしている。
「……でもこれで、やっと報告が出来ます」
 誰に、とは言わなかった。
それでも藤原には通じたようで、私も一緒に報告に行くよと言ってくれた。
「土方の野郎が死んで地獄に落ちたら、天国から激辛ソース垂らしてやってくださいってお願いしなきゃ」
「間違っても私にはかけないでおくれよともお願いしないとな」
 言って、二人で笑った。
「――…あぁ、とても、とてもいい夜だ」
 今日は雪も降らず、暖かい夜となるだろう。



◆ ◇ ◆



 藤原邸を飛び出してタクシーを拾い、二人がやって来たのは何の因果か初めて体を繋げたあの宿屋だった。どうやらここの主人は銀時の知り合いらしい。受付カウンターで親仁と何か話していた。そして鍵を受け取って、空いた手で土方を掴んで部屋へと向かう。
 ここに来るまでも銀時は一言も喋ってくれなかった。
銀時の肩から降りるときも、タクシーを拾うときも、喋ったのは土方のみ。土方も必要最低限以外は話す事は無かったが、普段よく喋る男が黙っていると落ち着かない。それにまだ銀時の空気は怒りを含んでいる。聞きたいことがあるのに聞けない。先程藤原に言った言葉、あれは何処までが本当なのだと聞きたいのに。もどかしい。
 部屋の前まで辿り着くと、即座に中へと放り込まれた。乱暴な行動に土方が足を絡ませて前のめりになったところで、再び腕を引かれ、ベッドの上に放られる。尻もちをつくようにベッドに沈んだ土方の上に、銀時が乗っかることで逃げ場が無くなった。
「……」
 眉間に皺を寄せ、眉尻を上げ、口を噤んだまま、ただジッと見つめられる。居心地が悪いその視線に思わず顔を逸らす。しかし銀時の手がそれを許さない。頬に右手が添えられ、また真正面に戻された。
 そして、鉄仮面のように表情が崩れなかった銀時の顔が、くしゃりと歪んだ。
今にも泣き出しそうな程に歪んで、押し倒すように抱き締められた。背中が柔らかなベッドに包まれる。
「…よ、ろずや…」
 ――…今の顔、何処かで、見たことがある。
 まるで親に置いて行かれた子どものように、不安と悲しみと絶望を一緒くたに抱きかかえた顔。大声で泣き喚きたいのに、必死に歯を食いしばって我慢する、そんな顔。
 以前にもそんな顔にさせたのだ、自分が。まだハッキリと思い出せないけれど、つい最近、そうだあの夜に。初めて抱かれたあの夜に。そんな顔をさせた気がする。
「――…ッ、んでだよ…!!」
 耳元で低く銀時が吼えた。怒りよりも、悲しみが勝っている声だ。
「なんで! テメーは俺を見てくれねぇんだよ! 何回言やァ伝わる!? あんな爺にはホイホイついて行って辛い思いも全部背負い込もうとするくせに、なんで俺の事は見てくれねぇんだよ!」
 なんで、なんで。
銀時は尚も吼えた。背を震わせて、逃がさぬよう土方を抱えて。
「これだけ好きだって言ってんのに、なんで見てくれねぇんだよ…ッ!」
 吼えた言葉に土方は一拍置いて、――叫んだ。
「はあァァァ!?」
 銀時の体ごと起き上がって、未だ泣きそうな顔をしている彼の両肩を掴んでぶんぶんと容赦なく前後に揺らす。
 一体この男は今何と言った! 誰が、誰を、なんだと言った!? 確かにさっき藤原に「惚れた奴」と言っていたが、あれは本気だったのか!?
 ぐるぐる頭の中で銀時の言葉が回っては混乱していく。混乱して、正常ではない思考回路に怒りが投入される。惚れた相手に好きだと言われても尚、沸点の低い自分が嫌になるが、今はそれどころではない。
「テメー一体どういうことだ!!」
「どういうことも何も俺ァとっくの昔に告白してるわッ!」
「知るかよ告白なんざ! 言われた覚えがねぇ!!」
「いやいやなに人の告白忘れてくれてんの!? 俺がどんだけ勇気を振り絞って告白したと思ってんの!? つーかその後抱かれたよね? 俺に抱かれたよね!? それすら忘れてんの!?」
「アホかっ! あんなもん忘れられるわけねぇだろうが! つーかテメーこそ俺に自覚させといてとっとと帰りやがって!! 仮にも俺のことが好きなら朝まで居やがれッ!」
 互いに胸倉を掴んでぎゃあぎゃあ叫ぶ。青筋の浮かぶ額をゴリゴリ擦り合わせて喧嘩をする二人は、宿屋のいかがわしい雰囲気とは似つかわしくない。
「なになに土方くぅーん、もしかして銀さん帰ったから寂しかったの? 一人ぼっちで泣いちゃったの?」
「テメーが勝手にいなくなるからだろうがこの遊び人がァァァ!!」
「遊び人じゃねぇし! 銀さんこう見えて一途だからね! ずっと土方くん一筋だからね! てゆうか泣いたことは否定しないのかよホント可愛いなァオイ! 言っとくけど帰るとき声かけたからなっ! オメー爆睡だったけど!」
 終わりが見えない口喧嘩に終止符を打ったのは、やはり同時だった。
 同じタイミングで溜め息を吐いて手を離し、ベッドに寝転がった。
疲れた、とボヤくのも同時で、その後吹き出すように笑った。
「……てゆうかさ、本当に覚えてない訳?」
「あぁ」
「だから俺ずっと一線引かれてたのかぁ。まぁそりゃそうだわな。ヤることヤッて朝居なくなってりゃ誰だって遊び人と思うわ」
「……悪ィ」
 大人しく謝る土方に、銀時が頭を撫でていいよと許す。
 銀時が言うには、告白したのは宿屋に連れ込む前の、居酒屋の席だったらしい。飲み比べで十分酔っぱらってから、勇気を出して手を握った。そして、好きだと叫ぶように伝えたと。
 しかし、土方の答えは、
『…なんだ、夢か……』
 だけだったそう。
 夢じゃねぇから現実だからと銀時が何度説得しても聞き入れてもらえず、あまりにも否定されるものだから堪忍袋の緒が切れ、居酒屋の会計もそこそこに宿屋へと連れ込み、証明するために抱いたと。
 それを聞いて土方は納得した。俺を見ろと銀時が執拗に言ってきていたのは、いい加減夢から覚めて現実を見てくれと言うことで。さっきの泣きそうな顔は告白された居酒屋で見たものだ。
何度も夢だと突っぱねる自分には、さぞ手を焼いただろうと他人事のように不憫に思う。
「好きだから相談にも乗って役に立ちたいって思ってんのに、関係ねぇって言われるわ、金渡されるわ。挙句痺れ薬盛られるわ。薬の効果が切れるまで何回俺死にたいって思ったか」
「あ、いや、その、あれはだな……」
「分かってる。俺の事すっぱり断ち切ってあの狸爺に自分を捧げようとか思ってたんだろ? ほんと、用心棒の話受けて良かったよ」
「あァ。居てくれて助かった」
 素直にそう言えば、銀時が頬を赤らめて照れている。その頬に触りたくなって手を伸ばす。先程まで大声で怒鳴りあっていたからか、温かく気持ちいい。何度か親指で撫でる。
 すると銀時に手首を取られ、上に乗っかられた。手首はベッドへと沈み、同時に銀時の顔が下りてくる。それを抵抗せずに受け入れてキスをした。今日は酒の味はしない。
「好きだよ土方」
「…俺もだ」
「夢じゃないからね」
「夢であって堪るかよ」
 ちゅう、と軽い音を立てて互いの唇を馴染ませていく。体温と唾液を幾度となく交換して、合間に好きだと何度も伝えた。緩んで仕事を放棄した帯も着物も、乱れていくシーツも、構うことなく熱を分け合った。
「土方、好きだ。ずっと、ずっとこうしたかったんだ」
 耳の輪郭を銀時の舌がなぞり、それが首筋まで下りてくれば、堪らなくなって声が漏れた。自分も同じように触れて、銀時と熱を分かち合いたくて、早急に彼のベルトに手を伸ばして外す。それから、羞恥心を押さえつけ勇気を振り絞り、初めて彼の名前を呼んだのだ。
 銀時は、木刀を握れば鋭く煌く石榴色の瞳を甘ったるい蜜のように蕩けさせ、一片の疑いもなく土方の愛情を受け止めてくれた。ありがとう、と。心底嬉しそうに頬を緩ませる銀時に、南京錠は仕事を終え、堰き止められていた愛しさが沸き出してきた。同じように名前を呼ばれてしまって、もうどうにも気持ちが押さえつけられなかった。
 有り余るほどの幸せが胸につっかえて、また瞼が赤くなるほど泣いてしまったが、土方には恐れるようなことなど何もない。
 だって、冷たい朝はもう来ないのだから。



◆ ◇ ◆



随分と汚してしまったシーツから抜け出して下着を履く。
 きっちりと締め切られたカーテンの向こう側はまだ暗そうだ。時間を確認するためにサイドテーブルに置かれていた携帯を開く。早朝五時を過ぎたところ。
くあ、と大きな欠伸。今日も腫れぼったい瞼を擦る。
 携帯をテーブルに戻して、その隣に手を伸ばす。最近支給されたばかりのスマートフォンだ。まだ使い慣れていないそれのロックをたどたどしく解除すれば、ピコンと鳴る電子音。山崎に設定してもらったトークルームにメッセージが来ているらしい。
アイコンをタップし、内容を見て土方は時間も場所も忘れて昨日同様叫んだ。酷使した喉が千切れそうだ。
「なんだッ!! どうしたッ!?」
 普段は寝汚い銀時をも叩き起こしたその声量を存分に吐き出して、土方は床に崩れ落ち、スマートフォンを銀時に投げつけた。
「……見ろ」
「え? これ? いいの?」
「いいから、はやく…」
「あ、その台詞またベッドの中で言ってね」
「………」
「悪かったって」
 一気に窶れて老け込んだ土方が睨む。銀時は軽く謝罪して画面を見た。こちらは、最近某携帯ショップの店頭販売のお手伝いに駆り出されたばかりなのでスマートフォンはお手の物だ。
 スマートフォンの画面には一番上に写真が表示されていた。送信者は沖田総悟。
「……あーなるほど。やられた」
 大音量で叫ぶ気持ちも、床に崩れ落ちる気持ちも、液化して今にも溶けそうになるものこりゃ分かる。取り敢えず土方の背中に向かって合掌。
「あんの狸爺…」
 写真に映っていたのは三人。沖田と藤原と松平だ。
 ファッションショーに出演しているモデルの如く格好をつけてポーズを決めている。大層酔っぱらっているのか、顔や体を真っ赤にした藤原と松平は上半身裸で腹に「ドッキリ」「大成功」と書いてある。沖田のキメ顔がここまで腹立つもの久しぶりだなと銀時は頭を掻いた。
 彼らの言うドッキリなど、昨夜の事しか思い浮かばない。
「…あれだな、オメーも色々…大変なんだな……」
 心の底から同情する。本気で不憫だ。何時ぞや近藤が「上にも下にも問題児を抱えている」なんて言っていたが、上とは自分だけではなく、もっと上の人たちの事も言っていたのだろうなと今更ながらに納得。
 写真は他にもある。沖田がニヤニヤと顔を崩して「ねぇねぇ今どんな気持ち?」と書かれた紙を持っているもの。松平が泣いて暴れながら土方の名前を叫んでいる動画もあった。まるで娘の結婚に泣き濡れる親父のようだった。それから昨夜用意されていたお膳の料理。実はお祝い御膳でしたと書かれている。よく見れば赤飯だし、鯛や数の子がある。
 これはどうやら、土方を揶揄って遊んだというより、土方の気持ちも銀時の気持ちも全部分かっていた上でくっつけるための茶番だったようだ。
「土方ぁ、いい加減諦めてこっち来いって」
 一旦スマートフォンを置いて、床と一体化しそうな土方の両脇を掴んでベッドに引き戻す。寒さのせいか、驚きすぎて血の気が引いたせいか、土方は冷たくなっていた。シーツでぐるぐる巻きにして一緒に寝転がって続きを見る。
 写真だけでなく沖田の実況中継のようなメッセージもあり、途中からは近藤も参加している。近藤によれば今日は有給扱いにしているので休んで良いそうだ。勲頑張っちゃう、と結構リアルなゴリラが投げキッスしているスタンプ付き。本当にこんな時だけ用意周到な奴らだと土方が不貞腐れている。
「なんでこれを仕事にいかせねぇんだよ」
「そりゃあれじゃね? 土方くんの為だから用意周到になれるんじゃねぇの?」
 愛されてんのね、妬けちゃう。なんて銀時が茶目っ気たっぷりにウインクすれば、馬鹿野郎と土方が頭を叩く。しかしどうやら満更ではないらしく、口元が少し緩んでいる。
「つーか、総悟だけじゃなくて近藤さんまでグルだったなんてなぁ」
「オメーが俺のこと好きってバレバレだったんだな」
「…人の事言えんのかよ」
「確かにそうだな」
 トークルームを二人で眺めながらポツポツ喋る。最初は驚きやら怒りやら恥ずかしいやらで頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していた土方も次第に落ち着きを取り戻し、最初のドッキリ大成功の写真を見ては笑っている。
 そしてトークルームの最後は、藤原の写真だった。
まだ酔っ払う前なのか、割と真剣な顔で「ちゃんと彼氏をパパに紹介しなさい」と書かれた紙を持っている。それを見て土方は安堵の息を吐いた。
 昨夜のような怖さはもうない。いつもの、昔からよく知る藤原だ。父のような、兄のような、それでいて自分の唯一の先生である、藤原だ。
 隣の銀時が、あっと声を上げた。どうした、と視線を遣れば銀時の指が藤原の字を指差す。
「この人の字、オメーの字によく似てんな」
 すっげぇ綺麗な字、と。人差し指で字をなぞる。
 銀時の言葉に土方は目を大きく開き、そして穏やかに微笑んだ。
「…逆だ、馬鹿。この人は俺の先生なんだよ」
 いつかこんな風に美しい字が書きたいと思ってがむしゃらに練習してた自分に、銀時の言葉を聞かせてやりたい。きっと不器用ながらに喜ぶのだろうと想像がつく。
「そっか。オメーにも先生いたんだな」
 そう言う銀時も嬉しそうだ。お前にもいるのかと聞きたかったが、ちゅうと可愛らしいキスが幾つも降って来たので聞けなかった。キスに応戦して一頻り堪能した後、二人でシーツの中に潜り込んだ。秘密基地のように外部を遮断する。
「今度パパに挨拶に行こうぜ」
「俺の彼氏ですって紹介する?」
「するする。やっぱり紋付き袴かなぁ」
「あの人礼儀作法には厳しいから気を付けろよ」
「まじか。まぁいつの時代もパパは強敵だからな。なんとかすらァ」
 秘密基地の中には互いの温もりだけが積もっていく。こしょこしょと小声で話すのは甘い甘い角砂糖のような平和な未来。
 会話の合間に唇を寄せ、足先を絡めて、互いの肌に触れて、熱を分ける。
 シーツに閉じ込められた空間はすぐに熱くなったけど外に出る気はない。擦れ違った分だけ気が済むまで笑って触って何度もキスをした。
「朝ご飯、うちに食べに来るか?」
「いいのか?」
「いいに決まってる。神楽に俺の彼氏ですって紹介してやんよ」
「……いやそれはちょっと恥ずかしいからいいわ」
「なんだと!」

 そして、幸せに包まれた温かい朝がやって来る。

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