今年の江戸の桜は、去年に負けないくらいの満開である。
「いい天気だ」
藤原は元より大きくはないその瞳を一層細めて、春というには少々強い日差しを見上げる。
視界の両側から主張してくる桜の花びら。桜色を際立たせるような青空。ふわふわと可愛らしく飾り付けられた雲は真っ白。今日は天候にまで恵まれている。お陰で、花見のために開放されている公園は、人で溢れ返っていて窮屈なくらいだ。
「藤原様、今日は雨の心配はなさそうですね」
「あぁ。私も今同じことを考えていたよ」
隣を歩くのは、江戸の治安を守る真選組鬼の副長、土方十四郎。但し今日は非番なので、着物姿。隊服を脱いでも黒を好むこの男は、今日も上から下まで真っ黒である。
二人で他愛のない話をゆったりとしながら、先を行く面々に置いて行かれないよう歩く速さは落とさない。今日のメンバーでは藤原が一番の年長者だが、そこら辺の同世代の老人より足腰はしっかりしていると自負している。時折、視界の端で咲き乱れている桜を見遣る余裕も見せる。
「…あ、またアイツら!」
暫くして土方が、コラ、と怒り始めた。
「何でィ土方コノヤロー! 真剣勝負に水差すんじゃねぇやい!」
「そうアル! 女にはやらねばならぬときがあるのヨ、トシィ!」
土方と藤原の前を行く、沖田と神楽が喧嘩をし始めたからである。最大の武器である刀と番傘に手を掛けた瞬間に鬼の怒号に止められ、二人は大層不服そうだ。
「今日は堪えてくれ、神楽。総悟もだ。藤原様がいらっしゃるんだから大人しく花見に集中しろ」
「いいよいいよ、土方くん。私の我儘に付き合わせてしまって退屈なんだろう。怪我しない程度に好きなようにやりなさい」
「いやしかし藤原様…!」
「ヒャッフー! お許しが出たところで再開アル!」
「あ、こら、神楽!」
嬉々として武器を構え、戦闘モードに入ってしまった二人はあっという間に脇道に逸れ、姿は見えなくなってしまった。止めるために伸ばした土方の右手は所在無さげに下げられ、はぁと溜め息を吐いた。
「元気なのはいいことだ」
「……元気過ぎるんですよ、あいつらは」
「いいじゃないか。年を取ったら元気過ぎるなんて夢のまた夢だからね。あれくらいの子どもは元気が有り余っているくらいで調度いいんだよ。それにお腹が空いたらきちんと帰って来るさ」
心配ないよ、と土方の方を向いて言えば、渋々ではあるが納得してくれたので、二人はまた歩を進めた。
「休みの日なのに花見がしたいなど、すまなかったね。また我儘を言ってしまった」
「いえ。藤原様ほどの方となれば自由に花見も出来ないのは知っていますので。寧ろ謝らなければいけないのは、きっと、こっちの方で……」
「何か問題でも?」
「これから現在進行形で問題が発生していくかと」
例えば、と言葉も足も止め。頭を抱えた土方が真っ直ぐ前を指差す。桜に目を取られていた藤原は素直に視線をそちらへと遣って、あぁ、と笑った。
寒い冬の間に土方がようやっと実らせた恋のお相手が、大きな桜の下で胡坐を掻いて眠っていた。それはもう気持ち良さそうに鼾まで響かせて幸せそうである。この花見会場は朝早くから場所取りをしていないとすぐに人で溢れ返ってしまうからと言って、寝こけている本人が場所取りを買って出てくれたのだ。
しかし。
「あンの、クソ天パアァァ!!」
彼が、――坂田銀時が本格的に眠っているせいで折角場所を取ったはずのその桜は他の花見客に奪われてしまっている。銀時が敷いていたであろうレジャーシートはご丁寧に畳まれ、胡坐の中。ギャアギャアと騒いでいる、既に出来上がっている酔っ払いの中心でよくもまぁ眠れるものだと感心出来るほど。
「藤原様はここを動かず、待っていてください!」
造形の整った顔に「ぶっ殺す」とデカデカと書いて、殺気も隠さずに土方は銀時の元へと大股で向かう。一般客がいるせいか、刀は抜いていないが、きっととんでもなく痛い拳骨を落とすつもりだろう。腕捲りをしている。
相変わらず仲が良いことだ。藤原は口元を綻ばせる。
「はてさて」
護衛を頼んでいた真選組の面々も、花見の場所取りを依頼していた万事屋の面々も。すっかり仕事を放棄して傍から居なくなってしまった。しかし、鬼の副長に動くなと言われてしまったので大人しくしているしかない。そろそろお腹も空いてきた。
サアァァ…と心地よい風に揺れる桜と、私邸や城に居ては滅多と聞けない酔っ払いのスラング。それから土方の拳骨が落ちる音と、銀時の叫び声。もう少し遠くでは何か楽器の音も聞こえる。桜の下の演奏会とは、何とも乙である。
「これはこれは、困ったねぇ」
少しも困っていない陽気な声でそう呟く藤原の声は、誰の耳にも届かずひっそりと風に乗って消えた。
藤原一行の花見が開始したのは、土方の拳骨が落ちてからちょうど三十分経った頃。
喧嘩をしながら花見会場の奥の奥まで進んでいってしまった沖田と神楽が、誰も寄り付かない桜の木を偶然見つけたのだ。それを聞いた銀時は結果オーライと言わんばかりにレジャーシートを持って逃げるように走った。
途中、買い出しに言っていてくれた志村姉弟と、何故か顔面ボコボコにされている近藤も回収して、件の桜の木へと辿り着いた。
「凄い綺麗な桜ですね。こんなに立派なものは僕初めて見ましたよ」
「私も初めてだよ。あ、新八くん、椎茸は遠慮しておくよ。みんなで食べなさい」
「藤原様まだ椎茸食べられないんですか。仕方ないですね、マヨネーズお貸ししますよ、これどうぞ」
「いや土方さん、マヨネーズがどうとか言う問題じゃないと思うんですが……」
「んなわけねぇだろ。マヨは神羅万象どんな食材にでも合う! きっと藤原様の椎茸嫌いも治ります!」
「それはとうの昔に試したけど治らなかったじゃないか、土方くん。もう諦めてくれ。老い先短いんだから好きなものだけ食べたいんだよ、私は」
銀時と新八が作ったのだという恐ろしいほどの量と種類の料理の中から、何品か紙皿に見繕ってもらい受け取る。結局椎茸は新八の気遣いにより撤収され、土方の好意も遠慮した。
自慢の一品だと言う肉じゃがを口に運んで、美味しいねと言えば新八も、遠くで酒を飲んでいた銀時も当たり前だと胸を張る。
「銀ちゃんの料理はなんでも美味しいアル! 高い食材使えばいいってもんじゃないアルヨ!」
「確かにそうだ。一理あるよ」
口いっぱい、紙皿いっぱいに料理を詰め込んで、恐ろしい速度で胃へと送り込んでいる神楽は、手伝ってもいないのに一番自慢げで可愛くて仕方がない。時折、お妙が口を拭いてあげているのを見れば本当の姉妹のように微笑ましい。無論、それは自分の口も拭いてもらおうと飛んできた近藤を投げ飛ばすまでの話だが。
年のせいか、ゆっくりとしか食べられない藤原は、食事よりもこの場の空気を堪能する。
きっとどの花見客よりも喧しく騒ぎ立てる目の前の男女を、一線引いて後ろから見守るのだ。
食の趣味が原因で喧嘩しながら、それでもくっ付いていく土方を。それを満更でもなさそうに受け入れる銀時を。
二人を見守りながらもお妙にまた殴られている近藤も。料理以外見ていない神楽も。それを少し寂しく思ってちょっかいを出す沖田も。甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれつつ、的確にツッコミをいれる新八も。
全部見渡して、あぁ楽しいねぇと零した。自然と口から零れていた。小さな声には誰も気づかない。
楽しい。楽しい。胸が躍るというのはこういうことなのだろう。
こんなに騒がしくも楽しい花見はいつ振りだろうか。まだ家族が家族として成立していた時振りだろうか。それとも松平と一緒にキャバ嬢を見繕って敢行した花見以来だろうか。あれはあれで楽しかったけれど、少し種類が違う。この花見は、心臓が痛くなるほど愛おしい。終わりなど来なければいいと思えるほどに、心が浮かれて仕方ない。
だから。
「――まだ死ぬのは御免被りたい」
言って、紙皿と箸を置いた。
舞っていた花弁は空中で止まり、あれだけ騒がしかった空間が無音になる。
その内ノイズが混ざって、映像が乱れ始めた。比喩ではなく痛み始めた心臓を上掛けの上から握り締めて奥歯を噛んだ。気道が焼けるほど熱い息を歯の隙間から捻り出して、倒れ込まないように腹に力を入れる。今度は腹まで痛み出した。
おかしな話だが、最初からこれは夢の世界なのだと分かっていた。
だって、こんなに人がごった返しているような花見の季節に、警備もせず近藤や土方、それから沖田が揃いも揃って休めるわけがない。これでも他の官僚よりも真選組のことは理解しているのだ。こんな小さな違和感くらい汲み取れる。
ただあまりにもいい夢だったので、少し浸っていたくなった。もう見られないかもしれない風景を老いた脳に刻み込みたかった。
痛みに耐えきれず前のめりになる。手が当たって紙皿から零れた肉じゃがを目で追い、勿体ないことをしたなと、夢の中の銀時に詫びた。また今度作ってもらおうとひっそりと画策する。
写真のように動かなくなってしまった大切な人たちを、これでもかと網膜に焼き付ける。
それから、死んでなるものかと再び言葉を吐き出した。
◆ ◇ ◆
目が覚めた時、真っ先に飛び込んできたのは土方の顔だった。
次に真っ白で無機質な病院の内装。傍に置かれた仰々しい医療機器。長い管と、点滴の袋。
――よかった。どうやら生きているみたいだね。
そう口を動かしたつもりだったけれど、まったく音にならず、酸素マスクを少し曇らせて終わった。
「藤原様…!」
ずっと手を握ってくれていたのだろうか、他の部位よりも右の手が熱い。何度も名前を呼ぶ土方に答えるように小さく頷き、体力を振り絞って左手を動かした。邪魔な酸素マスクをずらす。マスクが無くなれば一気に病院独特の、薬の匂いが鼻へと侵入してくる。この匂いはあまり好きではない。
「ひ、じかた、くん」
自分の声は思ったより掠れていて、小さい。
「…とても、いいゆめを、みていたよ」
一語も逃さないと言わんばかりに土方が耳を寄せてくれる。
綺麗な桜だったんだ。満開で、人も溢れ返っていて。笑い声が絶えなくて。これぞ江戸、と言った騒ぎようでね。遠くで聞こえた演奏も素晴らしかった。
坂田くんもいたし、君もいたよ。沖田くんも近藤くんも。新八くんもお姉さんも神楽ちゃんも。みんな居て。幸せで。ご飯が美味しくて。
だから。ついうっかり。
「まだ、しにたくないと、願ってしまった」
老い先短く、誰よりも先にこの世を去ってしまうだろう分際で。それはもう情けなく、格好悪く、生にしがみ付いてしまった。
まだやることは沢山あるのだ。自分が居なくなっても真選組の後ろ盾となってくれる後継者を探さないといけないし、土方の恋の行方も見守らなければならない。近藤とまたキャバクラに行くと約束したし、沖田と落語も見に行く。死んでいる暇などない。
「藤原様…」
土方の顔が歪んで、右手を握る力が強くなった。
随分心配をかけてしまった。綺麗な顔に隈が出来、少し見ない間に頬の肉が落ちただろうか。でももう大丈夫、心配いらないよと、手を握り返した。こんな優しい手を振りほどいて地獄に落ちるなんて真似、出来るわけがない。
すると土方は、意を決するように息を吸い、
「藤原様、聞いてください」
そう言った。
――余命宣告だろうか。
まだ覚悟は出来ていないけれど、実直で、実は嘘が上手ではない彼に告げられるのならば、それもいい。藤原は腹を括り、それでもいつものように、土方が安心するのだと言ってくれた微笑みを張り付けて、なんだいと聞いた。
すると、
「いいですか。藤原様はただの虫垂炎で手術も無事に成功しているので死にません」
思いもよらない回答が帰ってきて、藤原がピシリと固まる。
「…………おや?」
「局所麻酔ですぐに終わるような手術だったのに、これ以上痛いのが嫌だとか、先負だから手術は午後からじゃないと嫌だとか、駄々を捏ねて真選組に電話を掛けてきて、医者と俺を散々困らせて、もう面倒臭くなったので全身麻酔に変更してもらっただけです」
「………おやおや?」
「結局手間取ったので手術はお昼から。無事成功して術後の経過は良好。血液検査も異常なし。ということで」
甲斐甲斐しく握ってくれていた手は、ポイッと乱雑に放られて固いベッドに落ちる。体温が消えていく感覚が寂しい。
「俺は帰ります」
「えぇっ」
「は?」
「もう帰っちゃうの、土方くん」
あまりにも素っ気のない態度に悲しくなってそう言えば、絶対零度の微笑みが返ってきたので、藤原はしまったと口を覆った。が、遅い。
「帰ります。帰るに決まってるでしょう? 俺ァまだ仕事抱えてるんですよ。これでも三徹目なんですよ。なのに近藤さんは今日も今日とてストーカーしてて帰って来ねぇし、総悟はまたサボってて連絡つかねぇし、山崎はこんな時に限って仕事してやがるから屯所にいねぇし、書類は書いても書いても減らねぇし、寧ろ増えてるし、今夜も寝れねぇんですよ。分かります?」
「あ、はい、すみません」
「ちょっと休憩できると思ったら痛いの嫌だって駄々捏ねてる電話ですよ? わかります? 俺、帰りますね?」
「…き、気を付けて帰るんだよ…?」
隈が濃いのも、頬の肉が落ちたのも、どうやら心配してのことではなかったようだ。これ以上引き留めると本当に後が怖いので大人しくベッドの上で手を振った。理解を示した藤原にわざとらしく感謝して、さっさと病室を出て行こうとする。
しかし、扉を開けたところで土方が足を止めた。
「――…でも、まぁ。その、あなたが」
ほんの僅かにこちらへと振り返る。目は合わないが、幾分か表情が穏やか。唇が動く。
あなたが、死にたくないと。今が幸せだと。
「そう思ってくれているなら、よかった、です」
言って、さっと耳に赤が差す。
藤原が何を言うよりも前に、土方はバタバタと出て行ってしまい、何も言葉はかけられなかったけれど。藤原は僅かに体温が上がった顔を両手で覆って、そういうところだよ土方くん、と唸った。
そうやって怒っているくせに、人を甘やかすから付け込まれるのだ。そんな風に言われてしまったら、また調子に乗って我儘を言ってしまうじゃないか。今すぐにでも花見に行きたい。叱られたって退院したい。
「あの子にはもう少し警戒心を持つように教育した方が良かったかな…」
これから先が心配だ。聡い子ではあるけれど、あと一歩が甘っちょろい。そこに付け込むような輩に引っかからなければいいのだけど。
「やはり、まだまだ死ねないな」
感傷に浸っていれば、土方が呼んでくれたのだろう、医者と看護師が病室にやって来る。触診と問診と、これからのことを聞き、迷惑を掛けてしまった事をきちんと詫びた。それから看護師と他愛もない話をしていれば、気分転換に外の空気でも吸いますか、と聞かれたので窓を開けてもらった。
ベッドのリクライニングを動かせば、窓の向こうが見えて視界が一気に開けた。
なんとも天晴な、抜けるような青天。どこまでも続いている空は果てしなく遠く感じて、夢で見た桜が恋しくなった。さぞ映えて、美しいことだろう。
「いいお天気ですね」
看護師が微笑むと、白いカーテンを揺らして病室の中で風が躍る。新鮮な空気が美味しい。思わず深呼吸をしたら、手術した腹が痛んで可笑しかった。
「あぁ、そうだね。いい天気だ」
ふと、晴れた空の下で、銀色の髪の毛が揺れているのが見えた。
坂田くんも来てくれたのか、と見下ろしていれば、土方が隣に居た。楽しそうに何かを話していると思えば、土方の頭を銀時が撫でて怒られている。そうかと思ったら今度は土方が傍によって、凭れ掛かって遊んでいる。仲のいいことだ。
ふふふ、と覗き見していれば、二人が気付いてこちらに手を振ってきた。
「お知り合いですか?」
「あぁ」
同じように看護師も窓の外を覗いて、会釈している。
未だ手を振りながら藤原は、
「可愛い可愛い。私の息子たちだよ」
そう言って、優しく目尻の皺を深くした。