キャットアイメイク

「旦那、お願いします。副長の最後の願いを聞いてやってくれませんか」



◆ ◇ ◆



 真選組副長土方十四郎のことは、正直あまり好きではない。
 理由は単純。彼に関わって碌な思い出がないからだ。それなのにうんざりするほど行動パターンが似ていて、どこかへ行けば高確率で鉢合わせてしまう。通い慣れた定食屋、サウナのある健康ランド。それから今夜のように、とことん飲むと決めて入った飲み屋。非番なんてなかなか無いんだと嘆いているのは嘘なんじゃないかと疑ってしまう。
「オメーの隣なんざ酒が不味くならァ」
 そう満席にならないような店でも、鉢合わせるときはいつも人で溢れ返っていて。座る席が土方の隣しかない、なんてよくあることである。
「それはこっちの台詞だ。嫌だったら帰ればいいだろうがクソ天パ」
「だからそうやって言われて帰るの嫌なんだっつってんだろうが! V字ハゲ!」
「ハゲてねぇ!!」
 浮かしかけた腰をドスンと下ろして、土方の酒を奪う。ついでにまだマヨネーズの被害に遭っていない唐揚げも指で摘まんで口の中へ。攻撃を仕掛けてきた土方の右手を躱して舌を出す。
「高給取りなら奢るくらいの甲斐性見せてみやがれ」
「金があろうとテメーに奢る金はねぇっつってんだよ! 返せ! 唐揚げ!」
「やぁだね。もう飲み込んじまった」
 空っぽの口の中を見せてやれば、不機嫌丸出しの顔と舌打ち。そんな土方の態度に慣れている銀時はまるっきり無視して親仁に酒とつまみを追加注文。勿論二人分である。それから椅子をほんの少しだけ土方に寄せて、手が当たらない程度にパーソナルスペースを縮める。これで二人だけの宴会のセッティングは完璧。酔い潰れるまでこの男を確保できる。
「……また勝手に注文しやがって」
 続々とやって来る料理を見て、じと、と銀時を睨み付ける。だから効かないと言っているのに、学習しない男だ。
 それに本当に嫌なら銀時の言葉や並び出した料理など気にせずにさっさと帰るはず。それをしないということはこの男も隣に来ることを許しているのだ。
やれやれまったく素直じゃない奴め。肩を竦める。


「――クッ、ははっ! またそんな馬鹿な事やってんのか」
「これでも銀さん達真剣よ? でさ、神楽が吐いちまったそれがなんと……」
 先も言った通り、真選組副長土方十四郎はあまり好きではない。
けれど。こうやって酒に酔った頬を緩めて間抜けな顔で笑うただの土方十四郎はそこまで言うほど嫌いじゃない。かもしれない。

 勿論そんなこと、誰にも言うつもりはないけれど。



◆ ◇ ◆



――真選組一番隊隊長の暴挙。全壊した定食屋の悲劇。
 山崎に渡された二日前に発売された週刊誌のコピーである。これがどうしたんだよと、大して内容も読まずに返す。
 こんな文字は真選組が発足してから何百回と見てきた。もっと面白おかしく書く出版社だってある。今すぐに局長並びに副長を更迭させろとか、切腹させろとか声を荒げる団体だっている。だから、こんなもん今更だろう? そう銀時は尋ねる。
「そうですね。今まではどうにか揉み消してきましたけど…今回は相手が悪かったんです」
 子ども達のいない静かな万事屋で、銀時が淹れたお茶も飲まずに山崎は俯いたまま。
「その全壊した定食屋には、真選組と懇意にしている幕臣様の御子息がいらっしゃったんです。その方は沖田隊長が放ったバズーカの爆風で飛ばされてしまいました。奇跡的に机やカウンターが盾になって命に係わるような大怪我にはならなかったんですが、まぁ重傷と区分される程度の怪我をしてしまって……」
「で、その責任を取れって?」
 アイツならそんなもん屁でもねぇだろと付け加える。
「今までの相手は脅してこようが怒鳴って殴って来ようが、副長がなんとかしてました。それに局長だって、警察庁長官だって動いてくれていました」
 しかし。
「今、局長も警察庁長官も長期出張で京の方へと出ているんです」
「不在なのを分かっていて今すぐに要求通りにしねぇと真選組に援助はしないとか言われちゃってんのか」
「………はい」
 幕臣が寄付してくれている額はかなりのものらしく、全く頭が上がらないそうだ。そして面倒なことにこれといった汚点もなく。この件を機に再び身辺捜査してみたが何も見つからず。
 つまり粛清と称して斬り伏せて黙らせることも、逮捕して牢獄にぶち込んでしまうことも出来ず、非があるのは真選組のみという状況。
「で、要求ってなに」
 銀時が知りたいのはそこだ。何故山崎は銀時以外がいない時間帯に万事屋にやって来て、頭を下げてきたのか。
 それに、土方の最後のお願いというのが気になる。最後とはなんだ。どういう意味だ。
 山崎は顔を上げ、ズボンを強く握りしめている。眉を寄せ、悔しそうに唇を噛み締めているその表情からは、あまり良くはない想像をしてしまう。銀時は空になった湯飲みを机に置く。
 カタ、と小さな音がしたと同時に、山崎の口が動いた。
「――…は?」
 意味が分からなくて、そう返せば、今度は大きな声ではっきりと、同じ言葉を繰り返した。
「要求は、副長自身です」



 最初は俺が何を言っても勘違いだろと突っ撥ねていたんです。そう山崎は語り出した。
 幕臣が土方に手を出すようになったのはもう一年も前だという。資金援助をしてくれている縁があるとはいえ、お互い忙しい身なので会えてもひと月に一回。行事や出張などが重なれば三ヶ月くらい間が空くこともあった。
だからこそ対処が遅れた。
 一回目は言葉。美しい顔をしていると言われただけ。二回目以降からは行為がエスカレートしていき、一番最近ではとうとう押し倒されて本格的に口説かれてしまったのだという。その日は幸運にも幹部クラスが二名同行していたから現場を取り抑えて未遂で終わったものの、土方一人の時だったらと思うと今でも肝が冷えるのだと項垂れている。
 勿論その日の件は酔っぱらいの戯言として、それ以上のものにはならなかった。
「あの人は自分に対する好意にまるで気付いとらんのです」
 鬼と呼ばれる所以のあの喧嘩っ早さと奥に秘めた禍々しい殺気さえ綺麗に隠してしまえば、万人受けする整った顔をしている、らしい。見た目だけに惹かれて手を出そうとしてきた幕臣は、真選組を発足させてから後を絶たない、らしい。
 山崎が土方の容姿を褒めて同意を求められても、銀時がいつも見ている土方は常に瞳孔が開いて、怒りマークを五個ほど携えている凶悪な顔。もしくは酒に酔っただらしない顔なので今一つピンとこない。言われてみれば、団子屋の親仁も、新八や神楽でさえも、男前だと褒めていたような、そうでないような。
 いや寧ろどんな顔していたっけかな、と土方の顔が頭の中でゲシュタルト崩壊。最終的に、黒髪で切れ長の瞳をしている高杉の顔が出てきて慌てて追い出した。動きを止めた銀時に、山崎が振り返って、旦那? と声を掛けてくる。
「いや、いい、なんでもねぇから」
「はぁ。…あ、気を付けてくださいね、そこちょっと木が脆いんで」
「お、おぉ…」
 言われた箇所には手を触れないように体をずらして進む。
「これって立派な不法侵入だよなぁ」
 隊服から密偵時用の忍び衣装に姿を変えた山崎とともに進んでいるのは、件の幕臣の屋敷――…の埃だらけの屋根裏である。
 木刀は紐で結んで背中に背負い、ずりずりと匍匐前進している様はただの泥棒か暴漢。目の前にいるのは一応警察官なのでなにかあっても助けてくれるとは思うが、一抹の不安は拭えない。
(……つうか、なんで俺も行くって言っちまったのかねぇ…)
 蜘蛛の巣を避けた筈なのに、顔に掛かった透明の糸が気持ち悪くて袂で拭う。
(放っておけばいいのに。どう考えたってバズーカぶっ放した沖田くんが悪いし、責任を問われんのは当然だし)
 定食屋で呑気に昼飯を食べていた幕臣の御子息とやらは間抜けだとは思うが非はない。怪我させられて可哀想にと同情してしまうだけの余地はある。
 でも何故だか、行くと答えていた。
 土方が言うお願いの内容を聞く前に、勝手に言葉が出てしまったのだ。山崎が驚いて目をまん丸にしていたが、それ以上に驚いたのは自分。死なれたら後味悪ィし、とかなんとか言ってみたが山崎はどう思っているのだろうか。怖くて聞けない。
「此処です」
 前を行く山崎の動きが止まり、天井の板をひょいと外した。
「で、俺はどうしたらいいわけ?」
「この縄を垂らしますのでそれを伝って副長の所へ。今件の幕臣様は外出していますが、いつ帰って来るか分かりませんので出来るだけ早めに撤収してください」
「帰りは?」
「軽く引いて合図してください」
「…行くのは俺だけってことか」
「副長の命ですので」
 すみません、と苦笑いを浮かべている。
「もし帰ってくるようなことがあればお呼びしますのでその時は」
「わかってる。何が何でも即撤収。テメーらにとっても俺にとっても見つかるっつうのは避けたいからな」
 不法侵入で逮捕されるなんて真っ平御免である。真選組としても得体も知れない――しかも元伝説の攘夷志士である――男を屋敷内へと手引きしたと責められるのもいただけない。警察庁長官並びに真選組局長不在時に、副長がそんなことをしてしまっては、比喩ではなく首が飛ぶ。
「理解して頂いてるので助かります」
 言って縄を下へと落とす。銀時はその縄を追うようにして体を滑らせた。縄を掴んで衝撃と音を緩和させ、畳の上へと着地。
「万事屋……?」
 ちょうど降り立った真正面からかかった声に銀時は顔を上げ――息を呑んだ。
「なっ……!」
 甘ったるい香の匂いが染み付いた、上等そうな褥の上に彼が座っていたからだ。
 銀時がよく目にしている着物とは違って目が覚めるような朱色に煌びやかな装飾が施されているそれを緩く肩に羽織るようにして袖を通している。帯を締めているにも関わらず大きくはだけた肩や太腿。当然のように襦袢はない。
 短かった筈の髪の毛はウィッグでも被っているのか長く伸びていて、土方が少しでも動けば何処からともなくチリチリと小さな鈴の音が鳴る。
 目を惹くのは衣装だけではない。女のように化粧が施されているその顔は、凶悪な顔をして人を斬る真選組鬼の副長だとは誰も信じないであろうほどに美しい。日を浴びてキラキラと輝く海水面を思い出させるような群青色で彩られた目元も、誘惑を色にしたような紅が引かれ艶やく唇も、寸分違わず心臓を鷲掴みにする。
更に、常日頃から堅苦しい制服を着込んでいるせいか肌はほどよく白く、着物の下から覗く刀傷にさえ目を瞑れば、そこら辺を歩く女よりも弾力があり滑らかそうだ。
 網膜に焼き付いた情報が電流となって脳や四肢を痺れさせていく。視覚と嗅覚は目の前の男によって狂わされる。
 先程まで山崎が散々容姿について褒めていた気持ちがようやく理解できた。そうか、この男はこんな風に整った顔をしていたのか。金と時間を持て余した幕臣が口説き手籠めにしたくなるのも頷ける。
 しかし彼の色香に浸っている時間的余裕などなく、目の前の状況をようやく脳が理解して処理する頃には、銀時は土方に詰め寄っていた。緩んだ着物を両手で掴み、座り込んでいた彼を引っ張り上げるようにして視線を合わせる。
「――何をやってんだ、テメーは…!!」
 怒鳴り散らさなかったのは、小指の爪ほどに残った理性の賜物である。その代り噛み締められた奥歯がギリギリと嫌な音を立てる。土方の、いつもよりも色深く思える濃墨色の瞳に反射されている顔は恐ろしいほどに怒りを反映していた。
 当然のことだろうと銀時は思う。
 武士として恥じぬようにと自分を律して生きていくこの男が、脅されているとはいえこんな遊女のような真似事をしているなんて。幕臣の機嫌を取るために開けた衣装に身を包み、紅を引いて、褥の上で帰りを待っているなんて。許せるはずがない。着物を握りしめる指は力を入れ過ぎて冷たくなっていく。それなのに脳内は沸騰しそうなほどに熱い。ドロドロと溶ける。
「………なに、か」
 紅が引かれた唇が、ぽろりと言葉を零す。
「そうだな、なんだろうな。俺にも分かんねぇ」
 銀時が怒れば、それにつられて声を荒げることが常なのに、土方の声はどこまでも平坦。
 瞼が伏せられたことにより、際に描かれたアイラインがくっきりと見えた。濃い黒のそれは、丁寧に曲線を描いている。再び瞼が持ち上がれば、目尻でアイラインが跳ねていることが分かった。
まるで猫のように切れ長で、そして色気がある。チリチリ、とまた鈴が鳴る。
「でもこうするしかねぇんだ。近藤さんが居ないからって真選組を潰すわけにもいかねぇ。かと言って総悟のことだって斬り捨てられねぇ。だから、……だったら俺がこうやって動いて」
「だからって! オメーのクソみたいに高ェプライドを全部捨てて汚ェクソ爺に股ァ開こうってのか!」
 違うと言ってほしかった。そんなわけないだろうと。これも全部作戦なのだと。この俺がなんの手もなくこんなことをするかと。いつものように、腹が立つほどに強気に笑ってほしかった。
 けれど。
「そうだ」
 現実というのはどこまでも上手くいかない。
 不安の色が隠せないながらも、しっかりと芯の通ったその声に、銀時は手の力を抜いた。必然的に土方は解放され、その場にへたり込んだ。あぁ本当にこんなところまで、らしくない。
 怒りで煮えくり返っていた脳も腸も、土方の肯定により、今度は一気に静まり返っていく。指先の冷気が血管を通って体中に広がる。
「なぁ」
 顔を上げない土方が、銀時の下衣を掴んだ。なんだよと返した声が掠れていて笑えた。
「俺の願いを叶えに来てくれたんだろう?」
 なんてったってお前は万事屋で、俺は依頼人だ。そうだろう?と続く。
「……内容を言え」
「聞いてないのか? 山崎から」
「あぁ」
「そうか……」
「早く言えよ」
 引っ張って来る力が強まったので、嫌々ながらも膝をついた。
 こうなったらさっさと終わらせて帰ってしまおう。それから浴びるほど酒を飲んで、飲まれて、吐いて、吐いて、全部全部忘れてしまおう。元より強く意地っ張りな男だ。きっと次かぶき町で会う頃にはいつもの憎たらしい鬼の副長に戻っているに違いない。これは悪い夢だったのだと、忘れてしまいたい。
 銀時の声色でそれが伝わったのだろう。土方の瞳が一瞬揺らいだ気がしたが、見ないふりをした。そして再び早くと促す。
 促された紅がふるりと震えて、
「キスがしたいんだ」
 と願い事を吐き出した。
 思ってもいなかった言葉に指がピクリと跳ねた。
「気持ちが悪いっつうのも、意味が分かんねぇっつうのも重々承知だ。お前がそんな商売してねぇのも知ってる。でもどうしても、あんな男にされる前に、どう、しても……ッ」
 カタカタと歯が震える音がする。土方のものだろうか。それとも自分のものだろうか。溶けた脳では上手く考え事が出来ない。グルグルと思考が回って結局溶けて落ちていく。情けない。
「なぁ…」
 どうしても、に続く言葉は語られなかった。その代わり、じわりと滲んだ濃墨色が銀時を捉えて離さない。一回でも瞬きをしてしまえば水滴が零れそうな程に潤んでいるくせに、お願いだからと珍しく下手に出て懇願してくるくせに、一欠けらだけの意地っ張りと負けん気を見え隠れさせて泣かないから。どんな衣装に身を包んでいても目の前の人間は土方なのだと思い知らされる。
「なぁ、万事屋…!」
 そんな馬鹿な依頼は受けて堪るか。自分で蒔いた種なのだから勝手にしろ。そう言ってこの手を振り払うことが出来ないのはどうしてだろうか。
「…ッあぁ、もう、クソ…!!」
 今の頭で何百回考えようとどうせ碌な回答は得られない。
 だからもういっそのこと何も考えず、縋りついてくる土方の肩を掴んで後ろへと倒した。同時に彼の上へと覆いかぶさり、遊女の真似事をするにはあまりにも薄くて苦い唇に噛み付いた。


 ――…目を閉じる一瞬手前。
 土方が嬉しそうに瞳を細めて体の力を抜いたのが分かった。最後の砦が崩れ落ちたのだろう。アイラインを辿るように大粒の涙が零れていった。
 見られたくないはずだと大人しく瞼を下ろし視界を黒で潰したけれど、忘れられる気はしなかった。



◆ ◇ ◆



 屋敷から脱出した後、裏庭で山崎と別れた。どうやら件の幕臣が帰ってきたようで、山崎は再び屋根裏に戻り最後まで見守るのだという。
「もし。副長を手にかけようとしてきたその時は、身代わりになってでもお守りするつもりです」
 まぁ俺は旦那や沖田隊長のように強くないんですがね、と笑う目元にはよく見れば濃い隈が刻まれていた。いつも、副長と呼んでは慕っていた彼のことだ。こういう事態を避けるべく色々と手を尽くしたのだろう。それでも逃げきれなかったから、銀時に頭を下げに来た。少しでも彼のためにと。
「………帰ろう」
 闇夜に消えた山崎の背中はもう目視することは出来ない。銀時もまた見張りに気付かれないように気配と足音を殺して進んでいく。やっと腰に戻ってきた木刀の柄を撫でる。
(これ以上は俺が首を突っ込む案件じゃねぇ)
 ここより先は真選組と政治のテリトリー。一般人兼元攘夷志士の自分が首を突っ込むべきではない。
 折角妥協案として土方が身を差し出しているのだ、邪魔をするわけにはいかない。分かっている。この国の政治などこんなものだ。どこまでいっても私利私欲しかなくて、どす黒くて、救いようのない幕臣ばかりだ。
 でも、思うように、足が動いてくれない。鉛のように重たくて苛々する。
 銀時は言うことを聞かない足を動かすのを諦めて、未だ土方の唇の感触が残るそこへ指を這わした。拭ったはずの紅がまだ指先に付く。
『こんな依頼をして悪かった。もう会うことはねぇから許してくれ』
 去ろうとする銀時の背中にそう言葉を投げかけてきた。よく聞きなれた声色に戻っていた。可愛げなんて微塵もない、クソ天パと暴言を吐きかける腹立たしい声。
『足やられちまったんだ。だから逃げられないし、刀も持てない。こんな使い物にならねぇ副長なんざ真選組に居場所はない。……それに、もう、いつもみてぇにお前を追いかける事も出来ねぇ。だから、だから………』
 ヒュッ、と木刀が風を斬る音が響いた。
 衝撃を受けた大木がメキメキと音を立てて呆気なく倒れる。地鳴りのような音と舞い上がる砂埃を切り裂くように警笛の音がして、一気に夜の裏庭は騒がしくなっていく。お陰であの男の声も掻き消された。
 腹の底から込み上げてくる何とも言いえない黒く歪んだ激情を吐き出すように荒い呼吸を繰り返す。吸っているのか吐いているのか、それすらも分からない。握りしめた木刀の柄も悲鳴を上げているが加減が出来ない。目の前が真っ赤に染まって、チカチカと視界が眩む。
 この感情を怒りと呼ぶにはあまりにも禍々し過ぎるが、しかし名を付けられそうにもない。だって知らないのだ。こんな感情は初めてだ。到底自分では扱いきれない感情を、腹の底から追い出すように吼え、再び大木を薙ぎ倒すことで霧散しようとしたが追いつかない。
「侵入者だ!!」
 見張りの声が近付く。銀時は沸き上がって来る感情に身を任せて木刀を振るう。こんな乱暴な太刀筋は一体いつ振りだろうか。一人、二人、三人と見張りを伸して、再び屋敷へと足を向けた。ついさっきまで言うことを聞いてくれなかったのが嘘のように軽い。
 外を警備していた見張りは全て片付けて真正面から屋敷へと入る。無害な女中には手を出さず、刀を抜いてくるものだけを倒して、二階へと上がる。屋根裏の地理と部屋の構造を照らし合わせて、角部屋まで走って襖をスパンと勢いよく開けた。
「なっ、何者だ――ッ!!」
 肩で息をしながら入ったそこは正解だったらしく、見張りの者とは比べ物にならないほど上等な着物に身を包んだ男が目に入った。四十路を超えたばかりのその男はあろうことか土方の剥き出しになった肩に手を置き、今にも襲いかかろうとしている。男の影になっている土方は驚いて目を丸くし、くしゃりと顔を歪めた。
 泣き出しそうな表情に、銀時の脳内の一番太い血管が切れた。次いで、心のどこかでカチリと何かが嵌った音がした。
「汚ねぇ手でソイツに触ってんじゃねェェェッ!!!!」
 屋敷中を、そして空気さえも震わせるほどの怒号。薄い硝子や障子がガタガタと震え、部屋の中で木霊する。銀時の怒気に圧されたのか、一瞬世界が沈黙。その沈黙を打ち破ったのは部屋へと足を一歩踏み入れた銀時自身である。そして気付いた時には件の幕臣は壁にめり込み気を失っていた。
 しかしどうやらまだ追手がいるらしく部屋のすぐそばまで騒がしくなってきた。大した腕を持った用心棒はいないが数だけは一丁前。動けない土方を抱えて正面突破するのは分が悪い。
 銀時は木刀を仕舞って、座り込んだまま呆然としている土方を肩へと抱える。追手から攻撃を食らう前に窓を開け、桟に足を掛けた。ここは二階。そして成人男性二人分の体重が足へとかかるけれど、降り立つそこはどうやら裏庭に繋がっているらしく木が生い茂っているのでまぁどうにか大丈夫だろうと腹を括る。
「お、おい万事屋、お前まさか…!」
「そのまさかだ! 口閉じて歯ァ食いしばっとけ!」
 土方が慌てて口を閉じて頷いたのを合図に、銀時はタンッと窓から身を投げた。襲ってくる浮遊感に、着物を握りしめる土方の指に力が入る。
「心配すんな。絶対ェ離さねぇから。だから」
 僅かながらに空に近付いた視界の先には眩むほどに大きく神々しい満月が浮かんでいる。明るく、空気も澄んでいて、星の一粒一粒が大きい。酒を飲むには持って来いの、とても、とても綺麗な夜空だった。
 そうか、自分はこの夜空を見逃すほどに余裕がなかったのか。今度は笑いが込み上げえてきた。今日はなんとも感情が忙しい一日だ。それでも小さくも圧倒的な存在感があるこの感情だけは悪くない。
 すり、と土方の腰に頭を摺り寄せた。彼の温度で視界が一気に開けていく。

 ――…どうやら彼に触れないあの距離で満足してなかったのは、自分の方だったらしい。


 だから。どうか。
「さよならなんて似合わねぇこと、二度と言うんじゃねぇよ」



◆ ◇ ◆



――お手柄真選組。疑惑だらけの○○氏の別邸に隠された裏の繋がりを暴く!

 既にボロボロの紙切れ同然になっている新聞をさらにぐしゃぐしゃと手の中で丸めて放った。今日の団子は今までの人生の中で一番不味い。はぁぁと溜め息を吐いて、うっかり抜けていきそうな魂だけはごっくんと飲み込んだ。
「…俺ァもう誰も信じねぇ………」
 何が不正がない幕臣だ。何が御子息に怪我をさせて脅されてるだ。何が長期出張だ。何が最後のお願いだ。全部全部嘘っぱちじゃねぇか!
この一週間心の中でも家の中でも叫び回ったこのフレーズを今日も吐き出しては頭を掻き毟る。

 あの夜。
 二階から飛び降りて痛む足を気にもせず、ただ土方を連れて逃避行劇を繰り広げていた銀時の歩を止めたのは真選組三番隊隊長である斉藤だった。彼は現れたと思ったらいとも簡単に土方を銀時から奪い、詳しいことはまた後日と書かれたスケッチブックだけを置いて闇へと紛れた。
 いきなり過ぎる展開についていけず、目を点にしていた銀時の意識を取り戻させたのは、夜の江戸にけたたましく響くパトカーのサイレンと、指揮を執るために拡声器を使って指示を出している、京へ長期出張に行っている筈の近藤の声。
「なァにが脅されてるんですぅだ! 脅されてねぇじゃねぇかよ! 足だってなんともねぇし、速攻で着替えて逮捕劇に混ざってるし、鬱憤を晴らすかの如く刀振り回してるし、テレビに映った顔とか鬼以外のなにものでもねぇし、もうマジでなんなんだよアイツはァァァァッ!!」
 喚き散らせば行きかう人々が驚いているが知ったこっちゃあない。こっちは喚いても怒ってもまだまだ足りないのだ。放っておいてくれ。
 それに、すぐ釈明にでも来るのかと思ったら、あの夜から早一週間も放置されている。当然依頼料だってまだ貰っていない。ふざけるなとしか言えない。万事屋の困窮具合をなめるな。
「銀さん、団子食べるのはいいんだけどいきなり叫ぶのはやめてくれないかい?」
「うっせぇ! 人にはなァ叫ばずにはいられない日だってあんだよコノヤロー!!」
「はいはい。なら叫んでもいいけど今日こそツケを払ってくれよ」
「俺だって払いたいよ? 払いたいけどチンピラ警察が依頼料踏んだくってんだもんよォ! あーもう思い出したらもっと腹立ってきた!!」
 だから文句は真選組に言ってくれ、と怒り散らす銀時に親仁は呆れたように肩を落とす。それからすごすごと作業場に戻っていく親仁を見送って、再び通行人の群れに視線をやる。こうやって目を凝らしたってあの男はいない。最後の団子を口に入れる。
 すると、少し離れたところに居る地味な顔をした移動式の花屋の主人と目が合った。深く被っている帽子で目元は影になって見えないが、人当たりの良さそうな笑顔を口元に張り付けている。特に意図せず会釈して視線を外そうとして、ふとした既視感に襲われた。花屋に知り合いなんていない筈だが、あの男は何処かで見たことがある。こういう時の勘は当たるのだ。
 銀時は団子の皿もそのままに立ち上がって大股で近付いた。案の定花屋は大粒の汗をかき始めた。目の前に立って下から覗き込む。影になっていた顔が見えて、ニヤァと笑う。
「ちょうど良かった、聞きたいことだらけなんだよ。ちぃと付き合えや」
 お巡りさん、と耳元で低く囁けば、聞き覚えがある情けない短い悲鳴が上がった。



「困りますよ旦那ぁ。俺今は別の捜査の真っ最中なんですから」
「変装が下手なお前さんが悪いんじゃねぇのぉ?」
「見破れるのなんて関係者以外旦那くらいしかいませんよ」
 もう、と不貞腐れて花屋――山崎はみたらし団子をもぐもぐと咀嚼する。
「文句があるならお宅の上司に言えってんだ。あの日から姿見せねぇんだぞ」
「えっ、副長旦那の所に来てないんですか? 俺次の日から今の仕事に入ったんで業務連絡以外取ってなくて…おかしいな、もう包帯は取れてると思うけど」
「包帯? なに、逮捕劇の時にで怪我でもした?」
「いえ、捻挫です」
「……あー、そういや足やられたって言ってたっけ。嘘じゃなかったのか」
「まぁやったのは沖田隊長ですけどね。いつものバズーカを避けるときにこう、グキッと」
「だっせぇ。マヨネーズばっか食ってるからんなことになるんだよ」
「言わんでやってください。その捻挫のせいで副長が女装することになったんで」
 ずずず、と熱い緑茶を啜って、山崎が咳払いした。どうやらきちんと話してくれるらしい。
「まず、件の幕臣ですが。半年ほど前から彼に関する黒い噂が流れ始めて、お上からの命もあり調査に当たりました。しかしなかなか尻尾を掴めず。旦那と一緒に忍び込んだあの屋敷が別邸になるんですけど、そこになにか証拠が隠されているということは分かったんですが、警備の人数が多すぎて一人で侵入して捜査するには時間が足りなくて。それで副長が作戦を練って実行したってわけです」
「それがあの夜か」
「そうです。女装した美男子を辱めるという大層素敵な趣味を持っていたので通っているお店に協力を仰ぎ副長が変装。趣味を嗜む日は警備や女中の人数が少ないので、斉藤隊長と俺の二人掛かりで証拠品を押収。その後合図をして待機していた隊士が突入、逮捕という流れです」
「殆ど博打みてぇなもんじゃねぇか」
「時間がなかったんですよ。上からもかなり急かされていたので」
 それほど悪行は看過出来ないものだったようだ。一本残っていたみたらし団子を奪う。ようやく美味しくなってきた。
「ちなみに聞くけどその合図って」
「旦那の暴動で、イタタタタ! 髪! 髪は引っ張らんでください! これカツラじゃなくて地毛ェェ!!」
「人の心弄ぶんじゃねェェ!!」
「だっ、だって! 副長が全部作戦考えたんですもん!! どんなに無茶で無謀で博打みたいな作戦だろうと逆らえるわけないでしょ!? 旦那も知ってるでしょ!?」
「知ってるけどしていい事と悪い事があんだろうが!!」
「いや俺だって旦那が乗ってこなかったらどうするんですかって何度も掛け合ったんですから! それなのに副長は絶対話に乗って来るって言い張るし、旦那を一旦帰した後もアイツは必ず怒り狂って戻ってくるから大人しく見てろって断言するし! 副長の勘だけで振り回されるこっちの身にもなってくださいよ!!」
「あっっの野郎…! えらくしおらしくしてると思ったら全部計算尽くでやってやがったのか!! マジで腹立つ!!!!」
「いっ、一応あの暴動が旦那だってことは超重要機密事項で、書類上知ってるのは俺と副長と斉藤隊長だけですから! ちょっと声が大きすぎて待機してた一番隊に聞こえてただけで…ッ!!」
「一番隊にはこの上なく厄介なドSの悪魔がいるじゃねぇか! 何の慰めにもなってねぇよ、ふっっっざけんじゃねェェェ!!」
 ブチブチと何本か髪の毛が抜けたところでようやく解放する。というよりも沖田に聞かれてしまったという事実に引っ張る力すら無くなったと言った方が正しい。はぁぁぁと再び深い深い溜め息を吐いて項垂れる。なんだかもう疲れた。一週間も思い悩んだ自分が心底馬鹿らしい。
「と、兎に角! 依頼料の振り込みも謝罪も言い訳も、ここから先は副長にしてもらってください!」
「だからアイツ居ねぇんだって」
「あ、それは心配せんでください。この時間に副長と落ち合って報告をすることになってます……から……え、旦那? なんで急に目を逸らすんですか? もしかしてあれですか、物凄く冷やっこい空気が横から流れ込んでくるんですが、えっ、これってもしかしてあれですか……? ちょっ旦那、旦那…! たすけ」
 刀の鳴き声が響いて、銀時は凶悪な鬼と死相が出ている花屋から目を逸らしたまま団子を完食した。



 仕事をサボっていたお仕置きと定期報告を路地裏で終わらせてきた土方は、仕事の後の一服だと言わんばかりに美味そうに煙草の煙を肺腑へと取り込んでいる。
「……あー…お花屋さんは?」
「帰ったぜ。なにやら花を届ける仕事が急に入ったらしくてな」
「あ、そう…」
 それから煙草一本きっちりと吸い終わるまで無言の時間が続き、なぁ、と土方に声を掛けられると返事をするのに思わず声が裏返る。それを可笑しそうに笑う顔は、酔った時に見る顔によく似ていた。
「悪かったな」
「…なに、お前さんに謝られるとなんか裏がありそうで怖いんですけど」
「もう裏はねぇよ。打ち止めだ。全部終わったから嘘も必要ねぇ」
「あぁそうかよ。そりゃあよう御座いましたね」
 人のことを弄んで、いいように使って、あの幕臣を逮捕出来て称賛を浴びたのだ。そりゃあもう裏も嘘も必要ないだろう。
 すっかり冷たくなってしまった緑茶で唇を湿らせる。土方は二本目の煙草に火を点けたが、先程のように黙るつもりはもうないらしい。銀時の方は見ずに、通行人を眺めて紫煙を吐き出す。
「悪ィとは思ったが、俺としてはこれ以上待ってるだけっつうのも面白くなかったんでな」
「……」
「退屈しのぎに発破かけさせてもらった。副長として公私混同するのはちぃと気が引けたが囮役も必要だったからな。それにあのクソ野郎に口説かれてたのも鬱陶しかったし。あれだ、一石二鳥ってやつだ」
「んん? ん? ちょっと待って土方くん、今ってどっちのお話……?」
 なんだか言葉が噛み合っていない気がする。もしかして待っているだけでは面白くないとは、仕事ではなくプライベートの方のことを言っていないか。嫌な汗が噴き出して、頬がヒクリと震える。
「さぁ、どっちの話だと思う?」
 唇に挟んだ煙草をぴょこぴょこと動かしてひどく楽しそうだ。やっとこちらを見たその目が交わる度に日光を乱反射させる濃墨色が嬉々として揺らめく。
「………ど、ど、どっち、かなぁ…?」 
 どうしていいか分からずに頬を掻いて、頭を掻いて、耳を穿ってみるけれど、土方は攻めの姿勢を崩さない。
「無自覚な嫉妬ほど怖ぇもんはねぇよな」
 あんな一太刀を素人にぶち込んだら下手したら死ぬぞ、と口角を上げる。
 一番思い出したくなかったシーンをいじられて、小指が鼓膜を突き破るところだった。
 この男は始めから自分と銀時の話しかしていない。ついでに言えば、そんな風にあれを弄ばないでくれ。あの時は一世一代の大逃走劇だと思っていたし、まさか全てが演技だなんて思う余裕もなかったのだ。
「汚ぇ手で触るな、だったか。アレ、声が大きすぎて待機してた奴らにも聞こえてたらしいぜ? 総悟なんか笑い過ぎて号令が出せなかったんだとよ。真剣勝負の突入時に号令が出せないなんざ士道不覚悟で切腹…と、言いたいが今回ばかりはテメーが悪ィ」
 銀時の焦りに比例して、土方の上機嫌は天井知らず。鼻歌でも歌いそうな勢いだ。短くなった煙草を再び携帯灰皿へと仕舞う。
「…や、えっと、いや、ほら、あれは、その…」
 良く回ると言われる舌は全く使い物にならずに乾ききっている。緑茶は飲み干してしまった。こんな時に限って親仁は来ないし、人通りは疎らになってきた。世界中の全てが土方に味方しているように、二人だけの空間が出来ていく。
「万事屋」
 土方は上体を少し倒して、俯いている銀時の顔を下から覗き込むようにして見上げてきた。自分のものとは違う、癖のない髪の毛が風で揺れる。目元に浮かんだ影は、あの夜のアイラインを思い出させた。
 意地っ張りで口の悪い、天邪鬼で我儘で、それでいて聡く美しい毛並みの黒い猫。
「俺、今夜から非番なんだけど一緒に飲まねぇ?」
 毛質の良い長い尻尾がしゅるりと右腕に絡みつく。離さないと言わんばかりに締め付けられて毛先が擽ったい。触発されて、まだ自覚したばかりの、初心者マーク付きの恋心がむくむくと沸き上がってくる。
「待ってるだけはもう飽きた」
 だから。
「だから、もっと違うことがしてぇ」
 偶然を装って鉢合わせる定食屋も健康ランドも、喧嘩ばかりの飲み屋だって悪くはない。悪くはないけれど、そろそろ違うことがしたい。約束をして、待ち合わせをして。色々考えなくたって隣に座って酒が飲みたい。それから触れられなかったその手に触れてみたい。あの日のように強引に攫ってくれても構わない。
 どうしようもない浅ましい欲望に従順な碌でもない夜を越えて、二人で一つの布団を分け合って朝を迎えてみたい。
「………」
 言葉はなくたって分かる。目は口ほどに物を言うから。考えていることが似ているから。
 だから銀時は慌てて両手で顔を覆い、逃げるように後ろへと倒れた。広い縁台に後頭部を打ち付けるが痛いなんて考える余力はない。情けないくらいに顔は熱いし、心臓は過剰労働ではち切れそうだ。 
 両手で顔を覆ったまま、お前は、とくぐもった声を漏らす。なんだよと返ってくる声が優しい。
「……お前は、それでも、いいの?」
 ここで一歩踏み出してしまったらもう元には戻れない。肌に触れてしまったら離してなどやれそうにない。きっと酷く恐ろしいほどに求めてしまう。だって自覚してまだ一週間なのに自分でも驚くほどに色濃い欲が渦巻いているのだ。
 今までこの想いに気付かずのうのうと生きてこられたのが不思議なくらいに。今ここで襲わないだけ褒めてほしいくらいに。
 だから腐れ縁のままで、この手に触れない距離で、と少しでも思っているならば、容易く手は伸ばさないでほしい。
「……まだそんなこと考えてんのか」
 銀時の躊躇など一蹴した土方に、唯一の防御を奪われた。真上にある顔は挑発的に眦を眇める。
「テメーだけが嫉妬して怒り狂ってると思うなよ」
 すぅっと声が低くなった。
「俺が今までどれくらいテメーを欲しがってたか、全部教えてやる」
 だから。なぁぎんとき。いい加減観念しろよ。
「――ッ!」
 初めて呼ばれた名前にとうとう心臓が壊れてしまった。本能的に手を伸ばして土方のスカーフを掴み、その唇に噛み付こうと顔を寄せる――と割り込んできた土方の掌に邪魔をされ、そのまま顔面を鷲掴みにされて再び後頭部を縁台で打ち付ける。容赦ないそれに目の前で星が飛ぶ。
「いっってェェェ!! 何しやがんだよこの暴力警官が!!」
 腹筋を使って飛び起きれば、土方は涼しい顔で離れて立ち上がる。先程までの黒猫は何処へやら。もうすっかり鬼の副長の顔に戻っていた。
「こんな所で手ェ出そうとするテメーが悪い」
「ハァァ!? 今の完全に誘ってたよね!? 誘惑してきたよね!? キスしてもいい流れだったんじゃねぇの!?」
「隊服姿でんなこと出来るか、阿呆。…だから」
 少し乱れた隊服を直し、本来ならば銀時が触れるはずだったその唇に指を這わせる。
「今夜、な?」
 つまりこの続きは夜になったらいくらでも、ということだろう。無意識の内にそれを想像して、ゴクリと生唾を飲み込んだ。その反応に土方は満足気だ。
「今夜無事に帰れると思うなよ」
「言われなくても帰る気ねぇ。テメーこそちゃんと覚悟決めてから来い。ヘタれるのもいい加減にしろ」
「上等だよコノヤロー。もう泣こうが喚こうが絶対ぇやめねぇからな!」
「誰がテメーに迫られたくらいで泣くか。テメーみてぇに軟弱な精神してねぇんだよクソニート」
「ニートじゃなくて社長様だっつってんだろこの税金泥棒!」
 結局いつもと何にも変わらない口喧嘩に可笑しくなって、顔を見合わせて吹き出す。
「何も心配いらねぇか」
「だから言ってんだろうが。ちょっとすることが増えるだけだ」
「例えば」
「約束とか、待ち合わせとか」
「仕事で会えない日の電話とか、手土産にケーキ買うとか?」
「デート代出すために今までになく必死で仕事するとか」
「割り勘、もしくは奢りでお願いします!」
「残念ながら俺ァヒモとは付き合う気はねぇ」
「えっ! うそ、土方くんお願い! せめて、せめて割り勘で…!!」
 縋り付く銀時の手は無慈悲にポイっと振り払われる。頭の片隅で何か割りのいい依頼はないだろうかと必死で考えたが、かまっ娘倶楽部でパー子をやるくらいしか思い浮かばなくて必死に縋る。銀時だって好きな人の前では格好をつけたいけれど、それとこれとは別問題である。あと稼いだところでどうせ九割は食費に消えるのだ。
「よし! 金のことはまず置いといてだな土方くん。取り敢えずあれか。約束だけはやっとく?」
「だから毎日真面目に働けば…あぁもういいか、面倒くせぇ。取り敢えず、まぁ、そうだな」
 約束、という響きに満更でもなさそうに口元を緩める土方を見て、今までこの男にどれくらいの我慢をさせてきたのだろうかとふっと思いついて胸が痛い。
「仕事は何時終わり?」
「十八時には終われる」
「じゃあ十九時に迎えに行く」
「別に現地集合でいい。前に飲んだ飲み屋でいいだろう?」
「だめ。ちゃんと迎えに行くから門の所で待ってて。それから歩いて一緒に行こう」
「……」
「な?」
 どうせ沖田にバレた時点で、真選組全員の耳に入っているも同然なのだ。こうなったら開き直ってやる。門番に、土方くんお迎えに来ましたって宣言して、お見送り兼野次馬に大手を振って幸せそうに笑ってやろう。あぁなんだ。考えるだけで凄く楽しいじゃないか。
土方もいろいろ考え込んで、少し笑って、分かったと頷いた。
「じゃあ決まり。はい」
 言いながら右手の小指を差し出す。子供じゃねぇと唇を尖らせつつも、素直に同じように差し出す土方の小指と絡めた。
「指切りげんまん。約束な」


 初めて交わされたちゃんとした約束に、嘘つきで策士な黒猫は頬を掻いて恥ずかしがる。それから、今までになくご機嫌にニャアと鳴いた。

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