恋にはまだほど遠い

どうにも眠気が我慢出来ず、ふらふら揺れながらこっそりと欠伸をしていれば、やけに切羽詰まった声でバルガスに名前を呼ばれた。

「──危ない!」

加えて、リドルの声も飛ぶ。
一体何をそんなに慌てて、とジェイドが振り返ると、暴走した箒が一直線にこちらに飛んできていた。

(あ、)

避けなければ、と思う頃には顔面に痛みが走って後ろに倒れ、あっと言う間にブラックアウトした。




***




ここ最近、あまりいい気分にはなれない夢ばかりを見ている。


口に出すのも憚れるほどの悪夢は、ジェイドの睡眠時間を容赦なく削っていく。
とうとう眠るのも嫌になってしまって、しかし眠らないと日中の活動に支障が出る。仕方ないので細々と仮眠を摂るようにしているのだが、それでも悪夢は足元に絡みついてきて離れない。

──こういうことは小さい頃からよくあった。
睡眠は記憶の整理を兼ねている、と言われているが、ジェイドは良くも悪くも記憶力が良過ぎるのだ。
脳のキャパシティは限られているのに、日々増えていく記憶は一向に消えてくれない。整理しようにも仕舞う場所がなくなって、それでも記憶が詰め込まれ、一定の容量を超えると暴発する。暴発した結果、悪夢へと姿を変えてジェイド自身を襲ってくる。
凡そ同じ体質と顔を持っている双子の片割れも同じように記憶力はいいのだが、あれは如何せん興味のふり幅が大きすぎる。興味がないことはあっさりと斬り捨てていくので、時折頭が痛くなることがあれど、ジェイドのように眠れなくなるほどに悪夢を見るなんてことはなかった。
この点に関して、自分はかなり不器用なのだろうと自負している。
捨ててもいいことも捨てられず、興味がなくても覚えていてしまう。
勿論役に立つときの方が多いのだが、この悪夢だけは、どうにも好きにはなれないまま十七になった。

あぁ眠いなぁ、と眉を顰める。
寝ているはずなのに、眠い。現実と夢の狭間で、宙に放り出した四肢が重くて仕方ない。
このまま眠ってしまえば楽なのだろうけれど、既に足元の悪夢が嬉々として体を侵食し始めている。底知れない、どこまでも落ちていくような悪夢はすぐそこだ。
眠らせてくれ。眠いんだ。
鋭い歯を鳴らしてみたって実体がない悪夢は鼻で笑うだけ。
とうとう腹や胸のあたりまで侵されて、鋭い歯を恐れることなく口腔内へと入り込んでくる。体内にタールを流し込まれているような嫌悪感に吐き気がした。
駄目だ。眠いけれど起きてしまおう。
これに耐えられるほど、今は精神衛生が良いわけではない。ジェイドは観念して強制的に意識を覚醒させようと、不愉快なタールごと舌を噛もうとした。
しかし。

(────……?)

不意に鼻腔を擽った柔らかな花の香り。お世辞にも上手いとは言えない歌声まで聞こえる。
持ち上げようとした瞼は、温かいものにそっと塞がれてしまった。なんだろうか、これは。

(心地いい)

悪夢に侵されながらそんなことを感じたのは初めてだ。

(ねむい)

今なら眠れる。
そう直感したジェイドは、放り出した四肢もそのままに深い眠りの中へと落ちていく。

いつの間にか、悪夢の不快感はなくなっていた。




***




「おはようございます、ジェイド先輩」

パチと目を開けると、上から声が降ってきた。

「──……え」

確か自分は一限目の飛行術を受けていて、今日も今日とて上手くいかない飛行に嫌気が差していて。それから、それから──……。
混濁する記憶から、暴走した箒を思い出して勢いよく飛び起きた。
そうだ、自分は箒が顔面に当たって無様にも後ろに倒れたのだ。固い地面で頭を打って、痛いと思う前に気を失った。

「あ、駄目ですよ。急に動いちゃあ」

最後の記憶に行きついたと同時に、肩を掴まれてまた倒れ込んでしまった。
寝転がった状態で、真上を見上げれば、そこにいたのはオンボロ寮の監督生。二人の体に影を落としている大木の隙間から木漏れ日が落ちて、ジェイドは僅かに目を細めた。

「監督生さん……? 何故あなたがここに、というより、僕は、」

──今、どこに寝転がって……?
聞かなくたって体勢と、後頭部に当たる柔らかさで察している。膝枕をされているのだ。自分よりも遥かに小さく、軽い監督生に。

「最初は芝生の上に寝転がっていたんですけど、何だか寝苦しそうに唸っていたので枕があったほうがいいかなって」
「そうでしたか。すみません。頭だけとは言え、重かったでしょう?」
「そうでもないですよ。ところで気分はどうですか? おでこは箒が当たって腫れているので痛いと思いますけど」
「あぁ確かに。でもそれ以外は特に問題ありません。寧ろ、なんだか頭がスッキリしているくらいです」
「じゃあ良かったです。これ、指が何本か分かります?」
「三本ですね」
「はい、正解です」

簡単な意識レベルの調査にはきっちりと答えれば、監督生が近くに置いていたスマートフォンを手に取って電話をし始めた。電話の向こうには養護教諭がいるらしい。用件だけを言って、すぐに電話は終わった。

「もうすぐしたら授業が終わるので、それが終わるまではじっとしてろ、だそうです」
「はい」
「お昼休みに一度保健室に寄るように、とも言ってました」
「わかりました。……ところで」
「何ですか?」
「何故このような状況になっているかお聞きしてもよろしいでしょうか」

養護教諭と監督生に言われるがまま、大人しく膝枕に収まりながら、ジェイドは聞いた。
箒が当たって意識を飛ばした時、監督生はいなかったはずだ。それに、此処はグラウンドの外れ。背で潰している人口芝は納得できても、二人に影を落とす立派な大木はなかった。

「ジェイド先輩が倒れた時、偶々保健室の先生が他のクラスでも怪我人が出たからと近くを歩いていたそうなんです。なので、その場で診察してもらって、軽い脳震盪だから動かさずにこのまま転がしておけってなったらしくて。あと、涼めるようにと、木は先生が魔法で移動させてくれました」
「そうですか。気を失っているにも関わらず転がしておけとは、随分と雑に扱ってくださったようですね」
「私じゃないですよ!? 私は先輩たちの次にグラウンドを使う予定でやって来ただけなので……!」
「えぇ、分かっていますよ。では監督生さんが僕のお世話係になった理由は?」
「飛行術の授業は基本的に見学か筋トレなので、私が一番適任でした」
「つまり手が空いているからと押し付けられてしまったんですね。申し訳ありません」
「押し付けだなんて……! 先輩の綺麗な寝顔が見られたんで役得ってやつです」
「おや、では見物料をいただかなくては。一分百マドルで如何でしょう?」
「ひえ」
「冗談です」

クス、といつものように笑えば、監督生の困ったように眉が下がる。思っていた反応と違ったので、監督生さん?と声を掛けた。
すると。

「あまり、無理をしないでくださいね」
「……」

あぁそうか、と思わず目を逸らした。
フロイドにも何度か言われたことがある。悪夢を見ている時のジェイドは見てられない、と。
短時間とは言えその様子を見せてしまったのだ。現に、監督生も寝難そうに唸っていたと言っていた。絵にかいたお人好しである監督生に見られてしまったのは、少々面倒だと、純粋にそう感じてしまった。

「……無理などしていません、と言いたいところですが、少々風邪気味だったようです。監督生さんが気にすることではありませんよ」

だから適当に嘘を吐いて躱すことにした。言いながらゆっくりと体を起こしていく。固まった筋肉がギシリと音を立てる。
人の姿にも人魚の姿にもなれる分、どちらにも対応できるようにと筋肉をつけ、ストレッチだって欠かしていないというのに、やはり硬い地面で寝るのは体に良くないらしい。

「えっ、風邪気味だったら無理にでも保健室に運んでもらえばよかったですね、すみません」
「それこそ監督生さんが謝ることじゃないですよ」
「いやでも、風邪気味だったのにこんな外で二時間も寝かせちゃって」
「大丈夫です。ここは眠るのにちょうどよく、…………今、何と仰いました?」

ジェイドが勢いよく振り返れば、監督生は目を丸くしていた。

「ちょっと待ってください。二時間も寝ていたんですか? 僕が? ここで?」
「はい。もうすぐ午前の授業が終わるので、もう少し寝ていたとは思いますけど」

魘されなくなってからちょうど二時間くらいです、と言われて、ジェイドは頭を抱えた。

(あれだけ眠れなかったのに? ……にわかに信じられません)

悪夢の周期が始まると、ジェイドが細々と取っている仮眠で最大三十分。短ければ五分。それ以上はどうやったって眠れない。悪夢に耐え切れず起きてしまう。
なのに。

(二時間も……)

正直、飲み込み切れない事実だ。だが、長時間地面の上で眠っていた体は軋み、最後の記憶よりも日が高い。更に、睡眠不足が一時的に解消されて、頭の中がスッキリしているおかげで、監督生がこんな嘘を吐いたって何の得にもならないことくらい理解出来る。

「ジェイド先輩? やっぱり頭痛いですか?」

頭を抱えたままで動かなくなったジェイドを心配して、監督生が正面に回り込んでくる。俯いた顔を覗き込むようにして、目が合った。

「いえ、大丈夫です。本当に。ただちょっと驚いただけで」
「驚いた?」
「こちらの話です。……それより、二時間以上も引き留めてしまって申し訳ありませんでした。今度何かお礼をしますので、お暇な時にモストロ・ラウンジにいらっしゃってください」
「いやいや、いいですよ。話を聞いて来てくれたアズール先輩とフロイド先輩にも割引券とかキャンディとか貰っちゃったので」
「……二人が来たんですか?」
「はい。物凄く心配してましたよ。でもジェイド先輩がぐっすり眠ってるのを見て安心していました」
「…………そう、ですか……」

フロイドは勿論、アズールも悪夢の周期を理解してくれている。だからあの二人が安心したのは、怪我のことではないだろう。
というよりも、二人が来て話をしていたことにすら気付けなかった。
そうこうしているうちに午前最後の授業が終わり、チャイムが鳴った。監督生はスマートフォンやタオルといった私物を抱えて立ち上がる。
それから空いている右手をジェイドに差し出した。

「私もこのスマートフォンをバルガス先生にお返ししたいので、一緒に行きましょう」
「この木はどうするのですか?」
「あとで先生が片付けてくれるそうです」
「じゃあ、このままにしておきましょうか」

本調子ではないときに魔法を使えば予期せぬことが起こる。こういう時は甘えた方が良い。
ジェイドは監督生の手を取りつつも、負担をかけないよう自らの力で立ち上がった。




監督生と別れ、保健室で再び診察をしてもらった結果、特に異常は見られないということですぐに解放された。腫れていた額も、保健医の一撫でですっかり元通りだ。

「お世話になりました」

静かに戸を閉めて、更衣室で運動着から制服に着替える。
昼休みで賑わっている大食堂へと足を向ければ遠くから名前を呼ばれ、振り返れば双子の片割れが走ってきた。

「ジェイド! さっき小エビちゃんから起きたって聞いたぁ。もういーの?」
「えぇ。ご心配をおかけしました。ただ今日一日は安静にと言われているので」
「ん、わかった。今日はオレがホール出る。ジェイドは休みね」
「助かります」

あっちにアズールいるから行こう、と腕を引っ張られて、強制的に人混みの中を進んでいく。安静に、と言ったばかりなのに困ったものだと、ジェイドは全く困っていなさそうな顔で笑ってついて行く。
辿り着いたテーブルにはアズールがいて、自分の分の昼食まで用意されていた。腹が減っていたので有り難い、と席に着く。

「随分と顔色が良くなりましたね、ジェイド」
「ご心配おかけしました。アズールとフロイドが来てくれていたと、監督生さんからお聞きしましたよ」
「アズールがさぁ、すっげー心配してたから一緒に行こうってオレが連れてった」
「そうでしたか」
「違います。フロイドがソワソワしてたので僕が付き添ってさしあげたんです」
「おやおや」
「つうかさ、普通に焦るよね。だってジェイド寝れない日じゃん。寝れないのに頭打って倒れたとか、落ち着いてらんねぇし」

素直に心配を表に出すフロイドにつられて、アズールも確かに肝が冷えたのだと小さく吐露した。想像以上に心配をしてくれていた二人に、ジェイドはこっそりと口元を緩ませる。

「次からは気を付けます」
「うん、そーして」

言って、フロイドが自分の蛸の唐揚げをジェイドの口へと突っ込んだ。

「──そう言えば、寝られない日にも関わらず随分と長い時間寝ていましたね。もう終わったんですか?」
「いえ、それが」

蛸の唐揚げを飲み込んで、まだ悪夢の周期が終わっていないことを説明した。次いで、確かに悪夢を見ているはずだったのに、いつの間にか消えていたことも。

「途中から不思議な感覚がしたんです」
「不思議な感覚とは?」
「甘い香りがして、歌が聞こえて、温かくて。心地いいなと思っていたらぐっすりと眠ってしまっていたようです。自分では分からなかったのですが」
「ほう」
「へぇ〜」
「……なんですか」

聞かれたから素直に答えたと言うのに、途端に二人が悪い顔をするものだから居心地が悪くなる。誤魔化すようにシーフードピラフを大きく一口。

「べっつにぃ? ま、寝られたなら良かったじゃん」
「そうですよ。奇跡的に、このタイミングで悪夢の周期が終わったのかもしれません」
「そーそー。今夜からぐっすり眠れるかもね」
「なんだか引っ掛かる言い方をしますね」

何か知っているのですか、と聞いたところで二人は答えてなどくれない。真っ直ぐに優しい人たちではないのだ。
ジェイドは詮索することを諦めて、本当に今夜から眠れたらいいのにとだけ考えた。



──結果から言えば、やはり悪夢の周期は終わってなどいなかった。
午後の授業は滞りなく受け、いつもよりも早めにベッドに入ったのに、せせら笑うように悪夢が足元を掠めてきて眠れなくなってしまった。
最悪だ、と何度寝返りを打ったところで眠れそうにない。というよりも眠ることを脳が拒否しているのだ。
あぁまた寝不足の日々が始まる。

いつものように終わりが見えない悪夢の周期に、ジェイドの溜め息はいっそう重くなっていく。




***




あの甘い香りと拙い歌声に監督生が関係しているのではとジェイドが気付いたのは、あれから二日後のことだ。

「ジェイドって寝てないとポンコツ過ぎてウケる。おもしれ」
「フロイド……、こんな時くらい教えてくれたっていいでしょう」
「僕たち、というよりも主に僕に借りを作るのは死んでも嫌かと思いまして」
「確かに死んでも嫌ですね。お気遣いありがとうございます。慈悲深いあなたの優しさに涙が出ますよ、アズール」

モストロ・ラウンジで開店準備をしながら、ジェイドは、タイミングよく監督生さんが来てくれればいいのですが、と呟いた。
それに反応したのはフロイドだ。

「あ、それムリ〜」
「? 何故です?」
「だって、小エビちゃんまだ補講で忙しいし」
「補講? 確かに成績がいいとはお世辞にも言えませんが、赤点を取るほどではないでしょう?」
「え、ジェイドそれマジで言ってる?」
「……どういう意味ですか?」
「あぁ、お前のポンコツ具合は今が最高潮なんですね。新作メニューの考案を頼まなくて正解でした。仕事が増えるところでしたよ」

話が見えないと眉を潜めれば、背の高いスツールに軽く腰をかけたフロイドが、綺麗に磨いたカウンターに肘をつく。

「小エビちゃん、ジェイドの枕係やってたから授業出られてなくて、その補講を放課後にやってんの」
「は?」
「なんかぁ、あの時小エビちゃんのクラス、小テストがあったんだって。理由が理由だから再テスト受けさせてくれるって話だったらしいんだけど、いつの間にかその話が無くなって赤点扱いになって補講と課題の山だって〜」
「……それは教師側に問題があるのでは?」
「それはそーなんだけどぉ」
「タイミングの問題ですよ。ちょうどクルーウェル先生が出張で不在の時に臨時で雇われていた教師が錬金術の小テストを担当したんです。なかなか学園側に本採用してもらえない、熱血漢で、プライドの高さだけは一丁前で、魔法を使えない人間が大嫌いな臨時の教師が、ね」
「成る程。しかしそれならばクルーウェル先生が黙っていないでしょう? 彼の出張は昨日までのはずです」
「本当に……。お前がこの学校内のことをここまで把握していないとは。こっちがぶっ倒れそうですよ、ジェイド」
「イシダイせんせー、出張先でトラブってまだ帰って来られないんだって」

アズールに仰々しく溜め息を吐かれるだけでなく、フロイドにみんな知ってるよと小首を傾げられて、手に持っていた、磨いたばかりのグラスをうっかり握り潰してしまいそうだった。
商売をしている身として、情報というのは時に命よりも大事になる。アズールのそばで経営学を身につけて以降頭に刻み込んでいるはずなのに、どうやら聞き逃し、見逃してしまっていたらしい。
二人に悟られぬよう、静かに奥歯を噛み締める。

(……僕が、)

自分があの時呑気に眠っていたせいで、監督生がそんな状況になっているとは考えもしなかった。アズールが言うように最高潮にポンコツになっているようだ。

(いえ、ポンコツなどと理由をつけて許されるべきではありませんね)

ぎし、と音を立てたグラスをそっと戻す。

「アズール。申し訳ありませんが今日はお休みをいただいても宜しいでしょうか」
「当日欠勤のペナルティを受ける覚悟はあるんですね? お前と言えど特別扱いはしませんよ」
「勿論です。帰ってきたら必ず」

ならば仕方ありませんね、とアズールが僅かに肩を落とした。
ジェイドは即座に礼を言って、寮服のままでラウンジを飛び出した。


「──……僕としたことが。契約期間をもう少し考慮すべきでしたね」
そう呟いたアズールの後悔の声を、フロイドだけが聞いていた。




教室、実験室、職員室と中を覗いても、監督生は見つからなかった。その代り、職員室では件の教師が得意気に、魔力がない人間に対する扱いというものを論じていたのでジェイドはそっとドアを閉めた。
そのまま廊下を早足で進んでいく。
無駄に広い校舎の中を闇雲に走り回るのは得策ではないが、人も疎らな放課後では監督生の知り合いすら見つけられない。この足を動かし続けるしかなかった。
さてどうしたものか、と思案しながら歩いていれば、図書室に行き当たって迷わず中に入る。補講だけではなく課題も山のようにあるとフロイドが言っていたからだ。
もうそろそろ施錠されてしまうこの時間帯まで残っている生徒は少ない。
熱心に勉強に励んでいる生徒も、好きな本を読み耽っている生徒も、寮服のまま歩き回っているジェイドに驚き顔を上げたが、関わるべきではないと誰もが目を逸らした。当の本人は気付いていないが、いつの間にか随分と切羽詰まった顔をしていたのだ。

(……僕に関わったせいで補講を受けることになってしまったのであれば、文句のひとつくらい言いにくればいいものを)

眉を寄せ、思わず舌打ちをしそうになって、それは堪えた。
監督生が文句など言いに来るわけがない。だって普段からこれといって交流があるわけではない。彼女がスカラビア寮の厄介ごとに巻き込まれたときに、それなりに自分たちも首を突っ込んだが、所詮そこまで。
一緒に登下校をするわけでも、昼食を並んで食べるわけでも、ましてや困ったときにすぐに相談してもらえるわけでもない。
いつも周りで騒いでいる同学年のお友達とは、自分は同じにはなれない。

(睡眠不足のせいでしょうか。理由はよく分かりませんが、イライラしますね)

それに、勢いでモストロ・ラウンジを飛び出したものの、監督生に会って何を言えばいいかも分からない。
カツカツ、と革靴が立てる音はいつもより大きく聞こえる。それすらも耳障りでいっそう足を早めた。


テーブルひとつひとつを見て回って、それでもいない。もしかしたら今日はもうオンボロ寮に帰ったのだろうか。
最後の希望を籠めて図書室の隅に設置されている個室へと向かった。そこは、極力音がない場所で本を読みたい人間か、映像を楽しむ人間しか使わない。ガラス製の厚みのあるドア越しに、順番に中を覗けば、ようやっとお目当ての人間を見つけ、ホッと息を吐いた。
ジェイドは迷うことなくノックをし、監督生が振り返ったと同時にドアノブに手をかけた。

「ジェイド先輩……?」

なぜここに、と大きな目がパチパチと音を立てて瞬きをしている。

「やっと見つけましたよ」
「やっと?」
「はい」

ドアを閉めて、狭い空間に置かれたテーブルの向かい側へと回る。一脚だけ空いていた椅子に座った。

「随分と多い課題を出されたようですね」
「あー、あはは、テストの点数が良くなかったので」

テーブル自体が小さいとは言え、積み上げられた魔法書も歴史の本も、あの教師が作ったであろう問題集も、どれも一教科だけのものとは思えない。教育的指導というには幼稚で、嫌がらせという言葉で済ますには腹立たしい。

「テストの点数? おかしいですね。僕はあなたがテスト自体受けさせてくれなかったと聞きましたが」
「……えーっと、いやぁ、その」

ジェイドには少し低めのテーブルに肘を付き、頬杖をつく。怒りを隠すように極力にこやかにお話をすれば、面白いほどに監督生の目が泳ぐ。今なら一発でユニーク魔法がかけられるなと頭の隅で考えた。

「あの日、僕の面倒を見ていたからでしょう?」
「ち、違います!」
「違う? 違わないでしょう? 二時間以上僕が引き留めてしまったから授業もテストも受けられなかった。だからこんな量の課題をする羽目になっている」

コツリ、と手袋をしたままの指で魔法書を小突いた。
文句のひとつくらい言ってもいいんですよ、と続ければ、監督生が眉を寄せて、きゅっと口を結んだ。それから大きく首を横に振る。

「……嘘を吐いたのは、ごめんなさい。確かにテストが受けられなかったから課題を出されました。でも、だからってジェイド先輩を怒るなんてお門違いなんです」

だって。

「私があの場にいたくて、眠ってる先輩を見ていたくて、アズール先輩とフロイド先輩のご好意をお断りしたんです」

ぎゅっとペンを握っている手が震えたように見えた。
予想外の監督生の言葉に、今度はジェイドが目を丸くする番だった。

「本当は、フロイド先輩がジェイド先輩を運ぶって言ってくださったんです。どうせすぐ起きるからって。現に先輩も寝苦しそうで、今にも起きそうで。アズール先輩もそれがいいって言って、ちゃんと授業に出なさいって。……でも、」

──ジェイド先輩、最近よく眠れてないんですよね?
あの二人から聞いたのだろう。他人に知られたくないことを、とつい目を細めて力が籠った。
それが怖かったのか、監督生は俯いてしまった。顔が見えず、見えるのは小さな旋毛だけ。そんなところまで小さいのかと、何故か物凄く興味が湧いた。

「寝られない先輩が、このまま眠ってくれれば嬉しいなって、思ったんです」
「……僕に貸しでも作りたかったんですか? 残念ながらあなたに望みがあったとして、それを叶えられるのはアズールですよ」

言えば、監督生の顔が持ち上がる。

「違います!」
「ならどうして。この学園を放り出されれば行く場所もないあなたが、授業より僕を優先したのですか?」
「……それは」

しかし、すぐにまた俯いてしまった。ユニーク魔法を警戒されているのだろうか。

「ただ、ジェイド先輩を優先したかったんです」
「答えになっていませんよ」
「本当にそれだけです」
「困りましたね。なぜ優先したかと聞いているのですが」
「……い、今はまだ言いたくないです」
「その割には、フロイドとアズールには喋ったのでしょう?」
「えっ」

騙すように言葉を返せば、どうやら当たりだったらしい。
随分と間抜けな顔をした監督生がゆうっくりと顔を上げて、ひくりと頬を震わせた。あの二人もしかしてジェイド先輩に言ったんですか、と顔に書いてある。ジェイドはそれに答えず、いつも通りに笑うだけ。あとは勝手に話してくれるのを待てばいい。
しかし。

「…………先輩、今、適当に言ったでしょう」

残念ながら話してはくれなかった。
自分よりもあの二人を信頼していると言われているようで、心臓が嫌な音を立てて軋む。それすらも強引に笑顔の奥に押し込める。

「バレてしまいましたか」
「やっぱり」
「監督生さんが素直にお話してくださらないからですよ」
「今はまだ心の準備が出来ていないだけであって、──いつか、いつかきっと、ちゃんとお話します」
「では今すぐに心の準備とやらをしてください」
「あれっ、話聞いてくれてます!? いつか、ですよ! 今は言いません。私だって色々と思うことがあるんです!」
「そうですか。つまり僕だけ仲間外れなんですね、しくしく」
「ちっ、ちが、ちょっと、そういう顔するのやめてください、反則です……!」

慌てたように言いながらも、話が逸れたことにどこか声がホッとしている。本当に今は言うつもりがないのかと、悲しいような、物足りないような、不服のような、なんとも言えない気持ちになった。
けれど、いつか言ってくれるつもりならば、少しくらい待ってもいいかとも思えた。何事も予定通り、自分が思った通りに事が進んでいくのは好きではない。
仕方がありませんね、と下手な泣き真似を止めて諦めたようにふっと笑えば、目の前の監督生が変な顔をして頬を赤らめた。

「なにか?」
「イイエ、ナンデモ……」

ジェイドはそれ以上の詮索を止め、先程小突いた魔法書をひとつ取って、パラパラと捲り始めた。

「さて、出された課題というのはどのようなものですか?」
「えっと、指定された箇所に書かれている錬金術者の経歴や功績を纏めて、……って、先輩、まさか」
「八割方は僕の睡眠不足と不注意が原因です。貸しは作りたくない主義ですので、お手伝いします」
「でもモストロ・ラウンジが」
「アズールにも許可は取ってあります。こんなやり終えた所で何の価値も効果もないようなくだらない課題なんてさっさと片付けて帰りましょう」

二人ですれば早いでしょう、と言って、邪魔なハットを取った。
監督生は感激して、今にも泣きそうな顔をしている。到底自分一人では終わらせられないと自覚していたのだろう。

「ありがとうございます……!」

──ふと、彼女の膝枕で眠っていた日のことを思い出した。
立ち上がる時に差し出された小さい手。それはジェイドが知っている人魚のメスの手よりもずっと荒れていた。派手なマニュキュアも装飾品もない。あるのは色気のない絆創膏と、ささくれと傷。
今だって、ペンを握るときに当たっている中指は、痛々しいほどに赤い。余白が見当たらないほどにびっしりと文字が書かれたレポート用紙が原因だろう。ささくれや傷は、あのオンボロ寮を自力で手入れしている証拠。

この子には、ほんの一撫でで怪我を直せる魔法を持ち合わせていないのだと、改めて気付かされた。
女だから。魔力がないから。この世界の住人じゃないから。だから贔屓をしろというわけではない。
ただ、この子の努力も苦労も何も知らない人間が、自己満足のために無茶な課題を出し、小馬鹿にしたように笑うのは到底許すことが出来ないなと、手を動かしながら考えた。




図書室の施錠時間ギリギリになって出来上がった課題を提出しようと職員室に行ったが、あの教師は既に帰った後だった。
課題を出すだけ出しておいて、さっさと帰ってしまっている教師を持ちうる語彙の全てを使って罵倒したかったが、当事者である監督生が「先輩のおかげで助かりました」と無邪気に笑うものだから、ジェイドは嘆息する以外なかった。

「課題に付き合わせてしまった上に送ってもらってすみません」
「構いませんよ。夜道であなたに何かあったほうが大変なので」

灯りも碌にないような道を進んでいけば、急に天候が変わって雨が降ってきた。ふたりとも少しばかり濡れながらもオンボロ寮に辿り着く。

「よかったらこれ、使ってください」

そう言って渡されたのはタオルと、傘だ。

「僕は人魚なので、少しくらい濡れていても問題ありませんよ」
「駄目です。風邪気味だって言ってたじゃないですか」

監督生は一切引かず、無理矢理に二つをジェイドに押し付けた。仕方がないので受け取り、見送られるまま帰路に着く。
そのうち雨が止んで、あっと言う間に雨雲が去っていく。シンプルな黒一色の傘は、水気を飛ばして綺麗に畳んだ。雲に隠れていた今夜の月は、随分と大きかった。
ジェイドは頬に垂れてきた雫を、借りていたタオルで拭う。途端に、ふわりと香るのは花の匂い。

(……あぁやっぱりこの匂いは監督生さんのものだったんですね。課題に集中し過ぎて本題をすっかり忘れていました)

そうとなれば、あの拙い歌も彼女のものだろうか。これは早急に聞き出さなければ。
しかし。

(今夜は忙しくなりますから。また次の機会にしましょう)

足早に辿り着いた鏡舎。鏡に告げる行き先は、モストロ・ラウンジでもオクタヴィネル寮でもない。

「どうせ眠れないので、時間潰しに付き合っていただきましょうか」

──腐っても彼は教師ですから。可愛い生徒に付き合ってくれるでしょう。

ニタリと、笑ってしまう口角を抑える術などジェイドは持ち合わせていなかった。
汚してしまわないようにと花の香りがするタオルは魔法で小さく形を変え、そっとポケットへと仕舞う。



鏡の向こうで何が起こったのか、知るものは誰もいない。

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