──ドゴォン!!!

 激しく打ち付けられた体に大した痛みはないが、おれが今廊下にいること、そして巨大な穴をあけパラパラパラと木片を散らす壁が如何なる衝撃だったのかを物語っている。今夜もまた、失敗したようだ。

「っエース!ごめん!本当にごめんね……!!」
「いいんだ、気にすんな」

 パンパンッと体についた木屑を払って、慌てて駆け寄ってきた彼女にいつものように笑顔を見せる。壁をぶち破る音を聞いて駆け付けてきたヤツらは皆揃って呆れたように笑い、「片付けとけよー」と言い残してそれぞれ部屋に戻って行った。未だ泣きそうな顔をするなまえの頭をぽんっと叩いてほうきとちり取りを取りに行く。

「なァ、気にすんなよなまえ。そんな顔をさせたいわけじゃないんだ」

 ちり取りを持ってしゃがむなまえはまだ暗い顔をしていて、自己嫌悪の波が押し寄せる。でもここでおれが謝ったらきっとなまえはもっと辛そうな顔をするだろう。それなら──と、グッとほうきを握る手に力を込める。

「おれは諦めねェから」

 気まずい空気をかき消すようにバカな決意表明をしてニッと笑えば、ようやく上を向いたなまえも照れくさそうに笑った。


◇◇◇


「懲りねェな、お前も」
「うるせェ」

 顔を見るなり、朝の挨拶よりも先にそう言ったサッチはそれはもう楽しそうな顔をしていた。

「そろそろオヤジとの"勝負"の回数超えるぞ?」

 そんなことはないと否定したかったが、壊した船の回数を思えば言葉に詰まった。もちろん大袈裟ではあるが。サッチ以外にも会うヤツ皆に哀れみの目を向けられた。パタンと机に突っ伏して考える。何かいい策はないか、と。

 なまえに思いを打ち明けたとき、最初に聞かされたのは男に触れられることが苦手だということだった。仲間としてのスキンシップやじゃれ合いは問題ないが、恋人としての触れ合いは極端に苦手であると。ただそれは問題ではなかった。なまえもおれのことが好きだと言ってくれたことに心の底から満足していたし、焦る必要もねェと思ってた。なまえが嫌ならいつまででも我慢するつもりだったし、もしも許してくれるなら全力で愛そうと決めていた。

 ──そしてある日の夜。
 その日はなんだかなまえの様子がおかしくて、どうしたんだと聞いても「何にもないの」とふるふると首を横に振るばかり。まぁ本人が何もないって言ってんだからこれ以上聞くのもな、とどこか上の空のなまえと何でもない話をしていた。
 初めはベッドと少し離れたところに置いてあるイスだったおれ達の距離も、今じゃ同じベッドに座れるようになった。なまえがあんまり緊張するもんで、おれも何となく落ち着かなくてそれを隠すのに必死だったなとまるで遠い昔のことのように思い出していた。そんなとき、なまえが小さくおれの名を呼んだ。

「ん?なんだ?」

 改まって名前を呼ばれ、なるべく見ないようにしていたなまえへ視線を向ける。目が合うと、なまえは初めておれの部屋に来たときみたいに硬い顔をして、おれに向かうように正座した。

「……き、キスが、したい」
「は、」

 ビリ、とまるで電流でも走ったかのように全身が痺れてただ固まることしかできなかった。真っ赤な顔をして拳を握るなまえは、おれがつくり出した幻なんじゃねェかとすら思った。

「お、前……キスって、わかってんのか……?」

 同じベッドに座るといっても、手を伸ばしてようやく届く距離。最後にまともに彼女の肩を抱いたのは、"恋人"になる前、宴の席でだ。"抱く"というよりは"組む"だったそれは特に抵抗されることなく受け入れられたが、今はそれが許されねェ。道で「危ねェぞ」と肩を抱き寄せただけで突き飛ばされたことだって記憶に新しい。

「わかってる……今の私じゃまだ難しいかもしれない……。でもっ、どうしてもエースとキスがしてみたいの。エースともっと近づきたいの……!」

 ダメ……?と今にも泣きそうな声でそう言ってぎゅっと目を瞑るなまえはさらに顔を赤くして、小さく震えているようにすら見えた。ゴク、と無意識に喉が鳴る。

「ダメなわけねェだろ」

 頭を撫でようと伸ばした手は、ホッとしたように目を開けたなまえが身を固くしたのを見て何もせずにおろした。

「……本当に、いいんだな?」

 正座するなまえに向かい、じっと目を見る。こくりと頷いたのを見てそっと頬に触れる。

──ドゴォン!!!

 予想外の衝撃にただただ呆然とした。それが始まりだった。


◇◇◇


 それからというもの、毎晩あれこれパターンを変えて何度も何度も挑戦したが、まだキスには至っていない。ただ進歩はあって、徐々に触れるようにはなってきた。
 初めはただ見つめ合うことから始めて、指先に触れ、手を握った。飛んでくる拳は受け止めて、肩に触れ、掬った髪にキスをした。頭を撫で、頬に触れ──抱き寄せられるようになるまでに何日かかったかなんてわからねェ。初めは3秒くらいで限界だったなまえも、随分おれの腕の中に慣れたようだった。控えめに背中に腕が回ってきた日には、力を込めすぎて強烈な頭突きを食らった。

「……よし、やるか!」
「うん……!」

 今日こそは、と意気込んでベッドに向かい合って座る。正直無理にしちまおうと思えばいくらでもできた。でもそれじゃあなまえの求めるものとは違う。

「触るぞ」
「うん……!」

 指先に触れ、手を握ってなまえの目を見る。じっくりと時間をかけて、なまえの手におれの熱が移ったところで片方の髪を耳にかけてやる。ビクリとして強張る手を親指で撫で、「大丈夫だ」と言えばこくりと頷いたなまえから力が抜ける。
 頬に触れ上向かせればまた手に力が入り、ぎゅうっと音でもしそうなほど固く瞼が閉じられる。ここで無理にしようとすれば、空いてる左手か頭突きが飛んでくる。もう何度も経験した。

「なァ、まだしねェから目開けろよ」

 頬にも手にも触れたままじっと待っていれば、ゆっくりと開いた目がおれを映す。不安そうに揺れる瞳に大丈夫だとニッと笑ってやれば、安心したようになまえの手から力が抜ける。

「これだけ触れるようになったんだ。大丈夫だ、今日はできる。気楽にいこうぜ」

 なっ?と握った手に力を込めれば、「うん……!」となまえは笑った。

「よし、じゃあやるか」
「うん!お願いします……!」

 さっきよりも力を抜いて目を瞑ったなまえを見て、ふぅと静かに息を吐く。なまえの頬に添えたままの手はいつもよりも熱い気がする。まさかただのキスがここまで特別に感じるなんてな、と苦笑いして柔らかい頬を撫で顔を近づける。
 今日まで長い道のりだったが、ようやくここまで漕ぎ着けた。何度失敗しても諦めねェなまえの気持ちが嬉しくて、毎晩"好きだ"と思った。キスなんてできなくても大した問題じゃないってのに、きゅっと握ってくる手も、震える睫毛も愛おしくて仕方がない。
 この熱が少しでもなまえに移ればいいと、今までの思いをぶつけるように軽く触れるだけのキスをした。
 さァ今日はどんな反応がくる? と構えていたが、思っていたような反応がくることはなく、さっきよりもずっと赤い顔をしたなまえはあろうことかおれの胸にぽすんと力なく倒れ込んできた。

「ごめんね、エース……ありがとう。とっても幸せ」

 謝ることじゃないとか、礼を言われることでもないとか、こんなことをして大丈夫なのかとか、言いたいことはいくつかあるのにうまく言葉が出てこねェ。ぶわりと全身が熱くなるのを感じた。

「あァ、おれもだ」

 ゆっくりなまえの背中に腕を回す。ただ唇を合わせただけでこんなにも満たされるものなのか。
 じわじわとむず痒いものが上がってくる中、しばらくただ抱き合ってお互いの鼓動だけを聴いていた。

 翌日、察しのいい兄弟達から贈られたのはからかいの言葉ではなく涙ながらの祝いの言葉だった。──が、その夜開かれた宴では、やけに豪華なメシを前にきっちり吊し上げられたことは言うまでもない。

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