しとしとと船を濡らす柔らかな雨音と、彼の穏やかな寝息を耳に、今日も大好きな読書の時間──といくはずだった。
 しかし私は今、彼に抱き締められ、髪を優しく梳かれ、さらには背中をとんとんとリズミカルに叩かれてまさに寝かしつけられそうになっている。

「やだ……」
「いいだろ、たまには」

 耳を撫でる声は悪戯っぽい響きがあるのに穏やかで、ゆるやかに、けれど着実にとろんと思考を溶かしていく。
 何故こんなことになったのか。
 一緒に布団に入り、軽く触れるだけのキスをして、「おやすみ」と告げる。そこまではいつも通りだった。さて、とうつぶせの状態で肘をついて身を起こし、ランプの灯りのもとで本を開く。いつもならすぐに彼の寝息が聞こえてくるけれど、今日は何故かそれが聞こえなかった。それどころか、じっとりとした視線を感じたのだ。

「……ごめん、まぶしい?」
「いや」
「眠れない?」
「いや……」

 じゃあどうしたの、と首を傾げれば、「お前はいつも何時くらいまで起きてるんだ?」と彼の黒い瞳が私を映す。

「んー……日によるけど、多分あと二時間くらいは起きてるかなぁ?」

 深く考えないまま答えたけれど、果たして二時間できくだろうか……と、手元の本に視線を落として、一度読み出したら止められない自身の性質思い苦笑いすると、「そうか」と彼がどこか残念そうに呟く。

「どうしたの?」
「……いや、おれはあんまりお前の寝顔を見たことがねェなと思ってな」
「……寝顔?」

 何だか彼から聞くのが意外に思えた言葉に思わず目を丸くして聞き返すと、「そうだ、寝顔だ」と彼が頷く。

「いつもおれのほうが早く寝るし、起きるのだってお前のほうが早ェ」
「うん?」

 まぁ確かに?と普段の私たちを思い浮かべて相槌を打つ。エースはわりと布団に入ればすぐに寝るタイプだし、私は寝る前の読書が日課だ。朝は別段強いというわけではないけれど、やはり彼より私の方が早く起きることのほうが多いかもしれない。だからといって、寝顔を見せたことがないかと言われれば当然そんなはずはないのだけれど。

「だから、今日はお前が寝るまで待ってようかと思ったんだ」
「えぇ、何で……!?」

 あまりにぶっ飛んだ話に驚いてとりあえずパタリと本を閉じる。彼は相変わらず枕に顔を沈めたままこちらを見ている。
 聞けば、『恋人の寝顔を見ながら眠りにつく瞬間が何よりも幸せだ』と酔った誰かがこぼしたらしい。気持ちはわからなくもないけれど、誰だ、そんなこっ恥ずかしいことを言ったのは。間接的とはいえ、身内の惚気話を聞かされてもぞもぞとむず痒くなる胸を僅かな口元の緩みで何とか抑えて彼の話を聞いていると、「だから今日は本を読むのをやめて一緒に寝ねェか」と提案された。

「えぇ……!?この流れで……!?」
「いいだろ」
「嫌だよ……!!」

 化粧を落とした顔を見られたくない、なんて初々しい時期はとうに過ぎたし、今さら彼に寝顔を見られること自体には何の抵抗もない。しかし、それはあくまで"自然に寝てしまった場合"の話だ。寝顔を見ると宣言されてからのそれはもちろん別だ。全くもって抵抗がある。
 何を言い出すんだとベッドから逃げ出そうとすれば、起き上がる前にがしっと肩に熱い腕が回された。

「まって、寝ないよ……!?」
「まァ、そう言うなよ」

 ほとんど反射的に本をサイドテーブルへ避難させて重い腕を退かそうと奮闘していると、灯りを消すために一瞬だけ身を起こした彼にそのままふわっと抱き締められ、ずりずりと簡単に引き寄せられる。
 瞳が開く暗闇の中、ぴとりとくっついた彼の身体はあたたかくて一瞬身体の緊張が解れてしまったけれど、そうではないと小さく身動ぐ。

「……本が読みたい」
「明日にしろ」
「今日読みたい」
「却下」
「なんて勝手な……」

 ぐりぐりと頭を押し付けてやれば、ふわりと彼の手が髪を撫でる。

「絶対寝ないよ」
「どうだかな」

 ハ、と笑った彼に、今度は髪を梳くようにしてゆっくりゆっくりと頭を撫でられる。軽く髪を引っ張られる感覚と、細胞一つ一つを溶かしていくような心地よい温もり。瞬きの速度がほんの少しだけ遅くなったような気がするのはきっと気のせい。

「私だってエースの寝顔が見たい」
「いつも見てんだろ」

 眠そうな彼の声。この分だと放っておいても彼のほうが先に寝てしまうのでは?なんてふふ、と笑って密着した身体をさらにすり寄せる。とくんとくんと落ち着いた彼の鼓動に、嗅ぎ慣れた彼の匂い。じんわりじんわりとお互いの体温が混ざってただ心地よくて呼吸が段々ゆっくりになる。ぱたぱたと強まった雨脚すらも今の耳には心地いい。

「エース……」
「ん?」

 何でもいいから話して意識を繋ぎ止めようと思うのに、うまく言葉が出てこない。まずいな……と思っていると、とどめを刺すようにとん、とん、と背中を叩かれて嘘みたいに瞼が重くなってくる。

「やだ……」
「いいだろ、たまには」

 ふっと笑う彼も今にも寝てしまいそうで、ひっついている身体がとにかくあたたかい。とろとろと落ちてくる瞼を懸命に持ち上げて脳を働かせる。ゆったりとした彼の呼吸が心地いい。ベッドに吸い付けられるように重い身体が、ふわふわと浮いているようにも感じられる。──ああ、ダメだ、眠い。もう何も考えられない。瞼を持ち上げておくことも辛くて、指先一つ動かせない。とろとろと沈みゆく意識の中、愛しい人に向けた「おやすみ」はちゃんと音になって彼に届いただろうか。

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