今日は好きな人にチョコレートを渡す日。
 別にチョコレートでなくたって花や他のお菓子だっていいんだけど、ウチでは基本的に毎度チョコレートを使ったお菓子を渡すことにしている。花を渡したって仕方ないし、他のお菓子だったらコックが作ってくれたもののほうが絶対に美味しいし。それなら、と材料に縛りをつけることで、何か特別なイベントっぽさが出せているような気がする。

「んじゃあとよろしく」

 楽しみにしてる、と語尾にハートマークでもつきそうなほど締まりのない顔をして出ていった四番隊の面々を見るに、その考えは間違っていないようだ。
 甘い匂いの立ち込めるキッチンに入ると、ああいよいよこの時期が来たと気合いが入る。きゅっとエプロンの紐を縛って髪を束ねる。ふぅと一つ息を吐いて目の前の大量のチョコを見据える。今日も激しい闘いになりそうだ。何せ量が多い。そう、私たち女性陣から渡す分には"好きな人"とはこの船に乗る"全員"を指す。
 みんなが来るまでもう少し。先にチョコでも割っておくかと手を洗って、山積みのチョコへと手を伸ばす。
 ペキペキと適当な大きさに割って、当分満杯にはならないであろうボウルに入れていく。今回は確か、ブラウニーにクッキーに生チョコに──と作る物をぽんぽんと頭に思い浮かべていると、ガチャッとドアの開く音がした。

「うおっ、またすげェ量だな……!」

 誰が来たのか確認する前に聞こえてきた声にドキィッと胸が激しく跳ねる。あまりに驚きすぎてピリピリと全身を軽い痺れが走っていく。

「でしょ。終わらない気がしてる」
「だろうな。他のやつらは?」
「まだ。もう少ししたら来るよ。私だけ早く手が空いたから」

 へェ、と同情のような笑いを浮かべる彼──エースは、私の想い人である。

「何しにきたの?お水?」
「ん?あー……まァそんなとこだ」

 ふぅん、とお水を飲む彼の気配を背中に感じながら、パキパキとチョコを割っていく。みんなで作るお菓子はみんなのもの。『いつもありがとう、だいすきだよ』そんな気持ちを込めて作る。だけど、このイベントにはもう一つ重要な役割があって、それは"本命"と呼ばれる恋人や好きな人に特別なチョコを渡すというもの。意気地なしの私には、無縁のもの。

「エースは誰かからもらうの?」
「……さあ」

 あ。今間があった。
 そんなことでツキンと胸が痛むなら聞かなきゃいいのに。……なんて数秒前の自分を責めてみたところで何も変わらないけど。
 パキパキ、パキパキとチョコの割れる音だけに集中する。

「……お前は?誰かに渡すのか?」
「ううん」

 ふーん、と興味があるんだかないんだかわからない反応に、もやもやとしたものがひっそりと胸に溜まっていく。

「うまそうだな」

 ぬっと突然後ろから手元を覗き込まれて、またどきりと大きく胸が跳ねる。近い近い……!と慌てる心臓に気付かれやしないかとひやひやしながら、ぱきりと少し大きめにチョコを割る。

「はい」

 味見、みんなには内緒だよなんて言いながら彼の口元へチョコを持っていく。にひと笑った彼が、屈んであ、と口を開ける。実は、前にも同じようなことがあった。──ううん、いつも同じ。暗黙の男子禁制のお菓子作り中に彼がここに来るのは初めてじゃないし、私はその度に彼に味見のチョコを渡していた。ただの味見のチョコ。それでも意気地なしの私なりの、せめてもの本命のチョコ。

「ん、うめェ」
「よかった」

 ただのチョコだけどね、と笑って作業を再開させればガチャッとまたドアの開く音。

「あらやだ、お邪魔だったかしら」

 私たちを見るなりそう言ったナースに「なんで」とすかさずつっこむ。こういうとき、好きな人を周りに知られてしまうことはあまりよくないことなのかもしれないと思う。だって彼女はとてもにやにやしているし、私の心臓もなんてことはない軽いジョークをうまく受け流せずに少し焦っている。
 隣に立つエースはお愛想程度に笑って「んじゃ、頑張れよ。楽しみにしてる」と出口へ向かって歩いていく。

「どう?エース隊長?また本命からは貰えそうかしら?」
「バッカ、お前っ……!」

 勝手に耳に入ってきた二人の会話にツキリと胸が痛む。にやにやと冷やかされたエースは瞬時にナースの口を片手で塞いでこちらを振り返っている。大丈夫、聞いてない。私は聞いてない。大丈夫、大丈夫と彼らに視線を向けないまま黙々とチョコを割っていく。
 しばらくして「来い!」とエースがナースを連れて出て行くと、はぁぁと大きなため息が漏れた。張り詰めた空気から解放された安堵感と、好きな人にお相手がいるという事実を知ってしまったショックが同時に襲ってきて急激に身体がだるくなった。ぺきぺきとチョコを割るスピードも落ちていく。はぁぁともう一度大きなため息。
 そうか。好きな人がいるのか。……いや、ずっといたのか。
 ずーんと落ちていく気分に、ついにチョコを割る手が止まってしまった。何も行動を起こせないくせに一丁前にショックだけはしっかり受けるんだから嫌になる。もう一度ため息を吐いてうなだれていると、ガチャッとドアが開いて思わず背筋が伸びる。

「あ……」

 入ってきたのはエースひとりで、さっきの聞こえてなかったふりは何だったんだと言われそうなほど『気まずい』と顔に書いて迎えてしまった。しかしそれは彼も同じようで、私の顔を見るなりばつが悪そうに口元を引き締めて視線を逸らしてしまった。

「あー……あのよ」

 ぽりぽりと頬を掻く彼を息を呑んで見つめる。

「こんな形で言うつもりはなかったんだが……」

 逸らされていた視線がこちらへ向けられて、ぱちりと目が合う。

「好きなんだ、お前のことが」

 少しだけ垂れ下がった眉。吸い込まれそうなほど真剣な黒い瞳。茶化すことのない口元。

「え……?」
「聞こえただろ。好きなんだよ、お前のことが」

 なんだ、何があった。理解が追い付かない。
 彼の声ははっきりと耳に届いているし、頭は懸命に働こうとしているのに、わからない。ごちゃごちゃと散らかった情報を整理したいけど、もう一度「え……?」とでも聞き返そうもんなら怒られてしまいそうな雰囲気で迂闊に口を開けない。

「……何か言えよ」
「え……っと、どうして……?」
「はあ?『どうして』?」
「だってさっきまた本命の子からもらうって……」

 ごめん、聞こえちゃったともごもごと説明しながら心を落ち着けるためにチョコ割りを再開させれば、「あー……」とため息にも似た声をあげた彼が「だからそれはお前から貰いてェって話だろ」と続ける。

「うそ!だって『また』って言った!私あげてないもん」
「だァから!それは……!」

 意地になる私につられて声を荒らげた彼は、一度ぐっと言葉を呑み込んで今度こそ本当にハァとため息を吐きながらがしがしと頭を掻く。

「……くれただろ、さっき。味見だっつって」
「味見?……って、ええっ味見!?さっきの!?」

 そうだ、と頷く彼を見て、ぼんっと顔が熱くなって体中に嫌な汗が噴き出す。だってあれは、私なりの精一杯の──けれども、あくまで秘密の本命チョコだったのだ。それを意味は違えど特別なものだと認識されてしまっていたのだとしたら、たまらない。恥ずかしすぎてどうにかなりそうだ。

「お前からすりゃ何てことねェことなのかもしれねェが、おれはお前のくれる味見のチョコを楽しみにしてた」

 うろたえる私をよそに彼は話し続ける。助けがくる気配はない。みんなきっと気を利かせて二人きりにしてくれているんだ。対処しかねる事態に救いを求める私は、数分前の私には贅沢だと怒られてしまうだろうか。

「……笑うか?」
「笑わないよ!」

 だってあれは、私にとっても特別なチョコだったから。なんて言えたらかっこいいけど、やっぱり意気地なしの私にはハードルが高い。でも、ここで勇気を出さないときっと後悔する。パキッと手元のチョコをまた大きめに割ってごくりと息を呑む。

「じゃあさ、今日──」
「ん?」
「今日、気合い入れてちゃんとしたチョコ作るから、もらってくれる?」

 割ったチョコをまだ入り口の近くにいる彼へ向かって突き出す。しばらく固まっていた彼が、へへっと笑って近づいてくる。

「──あァ、もちろんだ」

 熱い吐息が指先に触れる。伏せられた睫毛から目が離せない。
 かじ、と歯で持っていったチョコをぱくりと食べた彼は「うめェ」と唇を舐めた。その顔はどこか得意気で、もしかすると私は今とても恥ずかしいことをしたんじゃないかと逃げ出したくなった。

「そりゃつまりそういうことでいいんだよな?」
「そ、れは……あとで言う」
「あとと今とで何が違うんだよ」
「いろいろ!」

 ふーん?と眉を顰めた彼の視線が痛い。しかしこちらにも心の準備というものがある。そそくさと彼の視線から逃げて、バシャバシャと手を洗って、「……おまたせしました」ときっとドアの前で聞き耳を立てていたであろう人たちを迎えに行った。

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