仕事に行く前というのはどうしてこんなにも憂鬱なものなんだろう。ハァ、とせっかく華やかにしているというのにいつもながら浮かない顔をする鏡の中の自分にうんざりしてため息を吐く。仕事自体は好きだし、行ってしまえば楽しいとさえ思う。それなりにやりがいだって感じているし、職場に大きな不満はない。なのに、朝起きてから家を出るまでのこのダルさ……どうにかならないものか。加えて今日の天気は雨。最悪だ。ああ嫌だ、行きたくない。
何とか気分を上げようと明るい色の口紅を塗って、今日はどんな髪型にしようかと考えているところでふと思い出した昨日読んだ雑誌の記事。なるほど、その手があったかと髪を梳かしてパタパタと彼のいる洗面室へ向かう。
「アイスバーグさん」
「ん?」
髪をセットしている彼に後ろから声を掛けると、鏡越しに目が合う。
「今日アイスバーグさんの香水借りてもいいですか?」
「ンマー、構わねェが……男物だぞ?」
「はい」
鏡越しに合った目が、どうしたと聞いてくる。恥ずかしいから気付かないフリをして出ていこうかと思ったけど、どう考えても不自然だよなぁと足元に視線を落として袖を弄る。
「仕事に行くのに気分を上げたいなーと思いまして……。いつもアレなんですけど、ほら今日は雨なのでさらに憂鬱だなーって、思って……」
目を逸らしてぽつりぽつりと話せば、しばらく黙って聞いていた彼が「何を言いづらそうにしてるんだ?」と怪訝そうに聞いてくる。話すと決めたくせにまだ何とか逃げられないかと考えていたらしい私は絵に描いたようにギクリしてしまって、慌てて鏡に目を向けるとまたばっちりと目が合ってしまった。……見られた、かな。今度こそ腹を括るしかない、と視線を逸らして小さく息を吐く。
「昨日、雑誌で見たんです……好きな人の香水をつけると幸せな気分になれるって。『抱き締められてるような気がしてつらいことも乗り越えられる!』って今流行ってるみたいです。だから、その、試してみたくて……」
微かな雨音は私の声を掻き消してはくれない。言うと決めたとはいえ、少し正直に言い過ぎただろうか。恥ずかしすぎて泣きそうだ。きっと真っ赤であろう顔を見られたくなくて両手で覆ってしまいたいけど、それはそれで恥ずかしくてできない。ドッドッと張り切って血を送り出す心臓がうるさくて仕方がない。永遠にも思える沈黙のあと、いつの間にか髪のセットを終えたらしい彼が手を洗いながら「なるほどな、どうりで言いづらそうだったわけだ」と笑う。
「香水ならいつもの棚にある。好きに使え」
柔らかい表情をしながらタオルで手を拭く彼と、今度は鏡越しではなく直接目が合う。
「ンマー、しかし流行りってのはよくわからねェもんだな。言いたいことはわからなくもないが……こうした方が早ェんじゃねェか?」
難しそうに眉を歪めた彼が近付いてきたかと思えば、ふわりと彼の匂いに包まれる。何事かと固まる私をよそに、心臓は痛いほどに跳ねる。
「も、もうっ……それ、反則です……!」
「そうなのか?」
優しい体温がじわじわと沁みてきて、あたたかくて、幸せで、ドキドキする。何だか今度は違う涙が出そうで「う〜……」と唸りながら彼の胸に顔を埋める。
「これ以上好きにさせないでください……」
「そう言うな」
おれはこう見えて欲張りなんでな、と笑う彼に、耳まで赤くなるのを感じながらそろそろと彼の背中に腕を回す。さっきは助けてくれと願った雨音も、今は私の耳にはこれっぽっちも入ってこない。
いつの間にか憂鬱な気分はすっかり晴れ、頭の中はアイスバーグさんのことでいっぱいになっていた。
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