市長にして、ガレーラカンパニー社長。今や彼を知らない者はこの島にはいないだろう。新聞に雑誌、町の人との噂話……毎日ありとあらゆるものから得る彼の情報に初めこそじくじくと痛んだ胸も、今や何も感じなくなった。──当然だ、あれからもう八年。
町を変えると出ていった彼は、本当に町を変えてみせた。きっと彼の目標に終わりなんてないのだろうけど、それでも今の生活があるのは全部彼のおかげだ。
心から応援していた。けれど、淋しくなかったわけではない。あの頃はまだ若かったし、たとえ苦労したとしても一緒にいたかった。
だけど、私では彼を支えるのにきっと不十分だったんだろう。彼の"痛み"を本当の意味では理解できないと思われてしまったんだろう。
トムさんも、フランキーも、私にとっても大切な人だった。それでも、
彼らとは"過ごした時間"が違う。今思えば、いくら私が悲しんでも彼らの苦しみのほんの一欠片だってわからなかったのかもしれない。
──アクア・ラグナから二ヶ月。裏町の修復も終わり、たくましいものですっかり町には日常が戻ってきていた。
私も例外ではなく、午後のための仕込みをしていると、カランカランと来客を知らせるベルの音。
しまった、準備中の札をかけ忘れていただろうかと振り返って、持っていたスポンジを落とす。とくん、と一度大きく跳ねた胸は息をすることさえも忘れさせる。
「ンマー……久しぶり、だな」
じくじくと、蓋をしたはずの思いが膿のように溢れ出す。血の気が引き、訳もなく目頭が熱くなる。どうして。どうして彼が。
「……何、しにきたの」
泡だらけの手を洗って、もう一度彼に向き直り腹の底から絞り出した声は、自分のものとは思えないほど低く、冷たいものだった。久しぶりに会った旧友に向けたとは思えないそれを聞いても彼は、目を逸らさなかった。
「今まで連絡も寄越さずに……悪かった。お前が怒るのも当然だ。お前はもうおれの顔なんて見たくねェのかもしれないが、おれは……ずっとお前に会いたかった。……帰ってきた、とは言わせちゃくれねェか?」
「は、」
いつからだろうか。彼が私の中で"アイスバーグ"から"アイスバーグさん"に変わったのは。本当にあれから連絡の一つも寄越さないで遠くへ行ってしまった彼。元気でさえいてくれればそれでいいと思えたのは、最初の一年だけだった。風の便りでしか知ることのできない彼の安否に段々苛立ち始め、三年も経てば、もし次に会うことがあれば積もりに積もった文句を思いの限りぶちまけてやると、写真を見ながら鼻息を荒くした。
「……元気だったの?」
言いたいことは沢山あった。どうして顔を見せてくれなかったの。どうして連絡をくれなかったの。どうしてココロさんとは会うのに私とは会ってくれなかったの。どうして──。フランキーは、会いに来てくれたわ。ヨコヅナは海へ出ていると聞いたけど、ココロさんとだって定期的に会っていた。それなのに、どうして──。
本当に、沢山あったのだ。なのに、口をついて出た言葉はそのどれでもなかった。いくら強がってはみても、先の暗殺未遂報道には流石に指先が冷えたのだ。
「──ああ。見ての通りだ」
ほんの二ヶ月程前に見たときには頭にグルグルと包帯を巻いていたというのに、弾かれたように目を見開いた彼は、あろうことかほっとしたように表情を和らげて言う。
「どこからどう見ても重症だったじゃない!ばか……!」
じわ、と込み上げてきた涙が視界を歪ませる。それなのに彼は、ふ、と小さく息を漏らすと、「お前に怒られるのも久しぶりだな」とどこか嬉しそうに呟いた。
「……変わらねェな、お前は昔から心配性だった」
「心配かけるようなことするからでしょ。それに、あんなことがあったら誰だって心配するわよ!」
ぐす、と鼻を啜りながら、すでに手遅れであろうメイクに気遣って擦らないように目元を拭く。
「言いたいことも聞きたいことも沢山あったの。『綺麗になったな』って言わせてやりたかったし、『アイスバーグさん』って呼んでやろうと思ってたの。なのに……なのに……ッ!どうして突然来るかなぁ……!」
言いたいことは纏まらないし、顔だってぐしょぐしょで最低な気分なのに、彼が帰ってきたことが嬉しくてたまらない。拭いたそばから溢れてくる涙が鬱陶しくてうっかり目を擦りそうになると、いつの間にカウンターを越えてきたのか、彼の手にそれを阻まれた。ふわり、と懐かしい匂いに包まれる。
「おれも、お前に話したいことが山ほどあったんだ。だが実際こうして会うと、言葉ってのはうまく出てこねェもんだな。ンマー……ただこれだけは言える。……お前は今も昔も、綺麗だ」
彼の発する一音一音が胸に沁みる。アイスバーグさん、ではなく、私のよく知る、大好きだった彼の声。噛み締めるようにきゅっと目を閉じるとまたぼろぼろと涙が溢れた。散々泣いているというのに改めて鼻がツーンとした。
「……会わない間にずいぶん口がうまくなったのね。でもそんなんじゃ許さないんだから」
とす、と彼の胸に額をくっつけると「お世辞だと思うか?」と彼は静かに笑った。
「ンマー、何も許してもらえるとは思っちゃいないさ。やることは尽きねェが……気がかりだった仕事が一段落したんでな、これから時間はたっぷりある。ゆっくり機嫌を取らせてくれ」
ぼろぼろと溢れた涙が彼のジャケットを濡らす。もしかすると私は夢でも見ているのかもしれない。それでも──期待してもいいのだろうか。待っていても、いいのだろうか。
「……そう簡単には直らないわよ」
「望むところだ」
──八年、あまりに長かった。けれど、顔を見て、声を聞いて、触れ合えば重ねた年月すらなかったかのようにあの頃のままで。
「おかえり、アイスバーグ」
鼻を啜りながら背中に腕を回してそう言えば、ピクリと小さく彼の体が跳ねる。
「……ああ、ただいま」
さっきまでより少しだけ強く抱き締められたかと思えば、体に響いたその声は微かに震えていた。
←/top