屋内から聞く雨音は嫌いではなかったし、窓を飾る灰色のせいで部屋が少しばかり暗く感じるのも嫌いではなかった。日々湿気対策に追われるなんてのは絶対に御免だけど、たまの雨なら無駄に気張らずに済んで、むしろ集中力が上がるとさえ思っていた。
 しかし私は今、目の前の本に一切集中できずにいた。

 社長に呼びつけられて部屋に来たはいいが、何か仕事を言い渡されるでもなく、「そこで本でも読んでいろ」と目が点になるような指示を受け、温かいコーヒーまで用意されてソファに通されたのだから驚いた。
 先の仕事に関わる資料でも読んでおけということだろうかと社長の前で首を捻っていると、「好きなものを選ぶといい」と書類から目を離さない社長に言われ、本棚の前でまるで人生の岐路にでも立たされたかのような気分で立ち尽くしてしまった。
 何か試されているのか、そうではないのか。
 どれだけ頭を絞っても社長の意図はわからず、とりあえず当たり障りのない難しそうな本を数冊抱えて落ち着かない気持ちでソファに腰掛けた。
 ちらちらとデスクにいる社長の方を窺いながら、用意されていたコーヒーをちびりと飲んで本を開く。思わず笑ってしまいそうになるほど目が滑った。
 いけない、集中しろと一度目を閉じてゆっくり目を開け文字の世界へ。
 本来ならつまらないであろう本も、つまらないのかどうかさえわからない。どれだけ目で追っても上っ面をなぞるばかりで、これっぽっちも頭に入ってこない。いい加減同じ行を何度も読むことにも疲れた。
 どうして私はここに呼ばれたのか。私は一体何をどうすべきなのか。わからない。何もわからない。

「どうしておれがお前をここへ呼んだかわかるか?」

 久しぶりに鼓膜を震わせた雨音でも自身の立てる音でもないそれに、心臓がドキリと大きく跳ねる。
 何か答えないとと思うのに、正解を導き出せていない頭は焦るばかりでうまく言葉が出てこない。

「ろくに仕事も与えずに部屋に置いている意味、だ」
「えっと……それ、は……」

 何だ、何と答えればいい?
 グルグルグルグルとバカみたいに脳を働かせているというのに、『わからない』以外の答えが出てこない。
 しかし、『わからない』では考えたうえで出した答えなのかそうでないのかが伝わらない気がする。
どうしよう。吐き気がするほどの動悸。手にはじわりと汗が滲む。
 社長の声色は決して厳しいものではない。でももし間違えればどうなるかわからない。

「……わからねェか?」

 時間切れだと静かに落とされた社長の声で全身が一気に脱力する。止めていたわけでもないのにはっ、と息を吐き出したくなった。そうだ、もうどう足掻いても無駄なのだ。

「……すみません」
「お前のその鈍さは理解していても腹が立つぜ」

 はー……と深いため息を吐く社長に「す……っ!」と慌ててもう一度謝ろうとすれば、「いい加減頭を使ったらどうだ」と呆れたような、イラついたような社長の声と重なってしまった。

「すみません……」

 きちんと言い直して脳内で一人反省会を開く。
 あーあ、やってしまった。的外れなことを言ってしまうよりは、正直に『わからない』と言ったほうが幾らかマシな状況になるだろうかと少しでも明るい未来に期待した私は甘かった。そんなはずはない。死に物狂いで正解を導き出さなければならなかったのだ。
 ズンと重い空気。今は、外界から遮断されたようにさえ感じさせる雨がひどく恨めしい。苦しい、呼吸ができない。
 何か急ぎの用で呼ばれないだろうかとドアが開くことばかりを期待してしまうけれど、残念ながら望みは薄い。本を読んでいろと指示を受けた際に「仕事は……」と確認してみたところ、「手配済みだ」とのことだった。そう、私の代わりなんていくらでもいるのだ。これを機に掃いて捨てられてしまうかもしれない。
 救いがないことに絶望し、さらには勝手に卑屈にもなって悲しくなってきた。
 さて、どうこの窮地を逃れようかと考えていると、「まァいい……」とやはりため息交じりの社長の声。また何もせずにタイムリミットを迎えてしまったと本を持つ手に力が入る。

「つまらねェなら、お前の好きな本でも持ってくるといい」

 耳に入ってきたのは、思いのほかやわらかい社長の声。ふわふわと宙を漂う煙のようなそれは、圧し潰されそうだった私の心臓を少しだけ楽にしてくれた。
 結局、何故私がここへ呼ばれたのかはわからずじまい。だけどどうやら私はまだここにいてもいいらしい。

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