※不穏、モブが死にます


 服に宝石、美味しいご飯。望めばなんだって手に入った。──ううん、望まなくたって、自分の手では一生掴めないであろうほどの"贅"を与えられた。
 何不自由ない生活。きっと誰もが羨む、おとぎ話のお姫様のような生活。
 だけど、私は不自由だった。
 彼のそばに居られることは私の幸せだったはずなのに、ふとした瞬間どうしようもない不安に襲われるようになって、終いには息ができなくなった。
だから、私は逃げ出した。
 は、は、と息を切らしてただ走る。行くあてなんてなかった。走った先に何があるのかさえわからない。だけど、足を止めるわけにはいかなかった。
 このドレスはこんなにも走りにくかったのか、道はこんなにもでこぼこしていたか、陽の光はこんなにも眩しかったか。外に出ていなかったわけでもないのに、何もかもが新鮮に感じられて恐ろしくもあった。けれど同時に高揚もしていて、この先にはきっと私の求めるものがあるはずだと、久しく味わっていない人混みを掻き分けて前へと進む。
 肺が押し潰されそうだった。足は今にも砕け散りそう。息ができない、苦しい。だけど、きっともう少しで息ができるはずなのだ。今足を止めれば、もう一歩たりとも動けないという確信があった。

「ば、ばか、おい、やめろ……」

 雑音が人の声として耳に入ってきたのは、ふらふらと後退る男の背中に行く手を阻まれたから。とっくに限界を超えていた足は、男の背中に軽くぶつかっただけでいとも容易く崩れた。呼吸が乱れる。ドッと体の奥底から湧き上がってくるような熱が全身に広がってじわりじわりと汗が噴き出してくる。尚も後退る男の影が体を這い上がり、早く立ち上がらないとと思うのに体は言うことを聞かなかった。強く打ったお尻よりも、砂利の食い込んだ手のひらの方が痛かった。

「ち、違うんだ……体が勝手にっ……!!」

──うぁああぁあああ゛あ゛!!

 耳を劈くような悲鳴に身を竦ませていると、目の前を赤が舞った。次いでぼとっと何かが落ちる音。ぐらりとこちらへ傾くかと思った男の体は運良く前へと倒れていく。そこかしこから上がる悲鳴に、バタバタと逃げ惑う人達。
 震えが止まらなかった。は、は、と自身の浅い呼吸音がやけに大きく響く。泣き喚きながら、今度は逃げ惑う人達に無差別に剣を振るう男は酷く不気味で、吐き気を催した。何度息を吸っても肺が満たされず、目が回る。砂利だらけの手で震える体を抱き込んでみても、指先は冷えるばかりでちっとも役に立たない。

「こんなところにいたのか」

 かつ、かつ、とこちらへ近付いてくる靴音と、ゆったりとした耳心地のいい声。パニックに陥る街に似合わないそれらは決して大きな音ではなかったけれど、耳を騒がす何よりも鮮明に聞こえたのは、きっと今私が一番求めていた音だからだろう。

「ど、ふぃ……っ」

 ぽろぽろと流れ落ちる涙を拭うこともしないで彼を見上げる。相変わらず止まることのない震えは彼の名を呼ぶことさえ拙くさせたけど、腰を落として待ってくれている彼には私の声は届いている。

「だき、しめてっ……」

 しゃくりあげながら彼に向かって両腕を伸ばせば、大きな手に涙を拭われる。冷え切った体に優しい温かい手だった。

「──あァ、もちろんだ」

 彼の唇が静かに歪んだかと思えば、ふわりと抱き上げられる。またぽろぽろ涙を流してぎゅうと広い胸元に顔を埋めてしがみつけば、ゆっくりと背中を撫でられる。

「悪い夢は終わりだ」

 何も心配することはない、ゆっくり息を吐け、と優しい声が体に直接響く。言われた通りに何度か息を吐くと「いい子だ」と頭を撫でられる。とくん、とくんと穏やかな彼の鼓動が聞こえる。

「ドフィ、ごめんなさい……」

 ぐす、と鼻を啜りながら謝れば、「何を謝ってる?」と彼が笑う。

「お前はただ散歩をしていただけ──そうだろう?」

 春の日差しのように柔らかく甘い声に、強烈に胸が締め付けられる。
 私は何を勘違いしていたんだろう。
 彼のそばは息ができない?──ちがう。私はもう彼のそばでしか息ができないのだ。

「ドフィ、帰りたいわ」
「ああ、帰ろう」

 街の混乱はまだ続いているようだったけれど、もう体が震えることはなかった。

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