外は、雨。
両開きの窓を開けて空を覗き込んでみても、延々と続く分厚い雲は夜になろうとも退散してくれそうにない。
はあ、と空にも負けない重たいため息を吐いて窓を閉める。
今日は来てくれないかもしれない。
私には、ある決まった日にだけ会えるひとがいる。
「哀れな姫がいるっていうから来てみりゃ──ずいぶんいい目をしてるじゃねェか」
それは満月の夜だった。
幼い頃に何かの"実"を食べてしまった私は、何故か両親や周りの大人たちから恐れられ、城の最上階の角部屋へと押し込まれてしまった。ガチャリと鍵のかけられる音に不安にはなったけれど、ほんの数時間で出られるものだと思っていた。しかし泣こうが喚こうがドアが開けられることはなく、二日ほど経ってようやくドアの足元のほうに小さな穴があけられた。子どもであった私の両手を広げたくらいのそれは、食事ののったトレイを通すとすぐに何か重たい物で塞がれた。こんなところに閉じ込めるくらい恐ろしいのに、殺すこともまた恐ろしいのだと、両親の意図を理解したのはそれから何年後だったか。
ドアの前には常に人の気配がするものの、話しかけても返事をもらえることはない。もしかするとドアや壁が厚すぎて聞こえないのだろうかと、蹴ったり叩いたり椅子を投げつけてみたりしたこともあったけれど、そんな日はきっちり食事を抜かれたのでどうやら私は話すことも許されないらしいと悟った。
突然の事態に封鎖が追いついていなかった窓からの脱出を考えたことももちろんあったけれど、ろくに足場のない状況で遮るもののない風を受ける勇気はなかった。落ちて死ぬか、見つかって今よりもひどい目にあわされるか。そのどちらも恐ろしくてたまらなかったし、たとえ脱出できたとしても食事の配膳ひとつしたことのない子どもの私にひとりで生きていく術などないことくらいはさすがにわかっていた。それに何より、いい子にしていればいつかは出してもらえるかもしれないという下心も捨てきれなかった。
それから数年経って体も大きくなり、知恵も力もついてきた頃には、もはや脱出したいとさえ考えなくなった。
幸運なことにこの部屋にはベッドもトイレもシャワー室もあるし、服やら本やらたまになら欲しいものを持ってきてもらうコツも覚えた。
死にたいと思う日もあったけれど、いつしかそんな気力も失い、ただずるずると日常を生きていた。
災いが起きる?
起こせるものなら起こしている。
そんなとき、彼──ドフラミンゴは現れた。
「あなたは誰?」
満月を背に派手なコートをはためかせた男は静かに笑みを深め、私のひとりきりの世界へと降り立った。
「どうしてこんなところにいる?まさかこんな狭いカゴが気に入ってるわけじゃねェだろう?」
お前には力がある──と何度目かの満月の夜、彼は私にそう言った。
あれから──初めて会った夜から、彼は満月のたびにこの部屋を訪れては色々な話を聞かせてくれた。
両親の顔すら思い出せなくなって久しい私にとって、彼は唯一の存在であり光だった。
上手く回らなくなっていた舌は急かすことなく聞いてくれる彼と話すことで徐々に動きを取り戻し、失くしたと思っていた心さえ彼に会えばぐらぐらと揺さぶられた。久しぶりに笑った日には、凝り固まった頬の筋肉がつりそうなほど痛くて涙が出た。
しかし、私は彼の言う"力"のことを知らなかった。あの日食べた"実"によって私には何かの能力がそなわっているらしいけれど、今までにそれを実感したことはない。
もしかして火でも出せるのだろうか。
ふいに思い立って、もう何度も読んでいる読みかけの本を閉じてドアの前に立つ。
両手を前へ突き出して目を閉じそれっぽく念じていると、突然雨音が大きくクリアに聞こえた。
「っド──」
窓のほうを見て開いた口からは、上手く言葉が出ていかなかった。
「来ないと思ったか?今日は満月だろう」
固まる私を見て首を傾げおかしそうに肩を揺らした彼は、いつもよりも重そうなコートを引きずって窓を閉める。小さくなった雨音を聞いて、はっとして慌ててきれいなタオルを取って彼のもとへ。
「た、大変……!服がっ……!」
「気にするな」
しおしおと元気のなくなったコートと彼の体にびっちりと張り付くシャツの替えなんてこの部屋にあるはずもなく、何かかわりになりそうなものはないかとおろおろと部屋を見回しているとぽん、と大きくて優しい重みが頭に乗る。弾かれたように目を見開いてそれに手を伸ばすと、きゅっと胸が苦しくなった。初めて触れた指先は、まるで氷のように冷たかった。
「だったらせめて髪だけでもっ……!」
胸の前に引き寄せた手を両手で握り締めれば、身長差とさっき渡したタオルのせいではっきりとは見えない目元がやわらかく歪められたような気がした。
ベッドに向かうように椅子に腰掛けてもらって、その前に立つ。それでようやく釣り合う高さに改めて彼の大きさを実感しながら、拭きやすいように下を向いてさらに低くしてもらった頭にタオルをかける。いつもよりもずっと近くで感じる甘い香りに少しだけ胸を高鳴らせ、ぽたぽたとしずくを垂らす髪から水気を拭き取っていく。
「さっき、何をしてた?」
「あ、えっと──……」
『さっき』というのはきっと彼が来たときのことだろう。彼に会えたよろこびで忘れかけていたけれど、あのときの私はもしかするととても滑稽なことをしていたんじゃないだろうか。ぽ、と少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、一瞬だけ止まってしまった手を動かす。
「火でも出ないかと……」
恥ずかしくて情けなく笑って言えば「火──?」と彼も笑う。
「出してどうする?」
「それは……考えていなかったわ」
思えば火を出せたところで、椅子を投げつけても破れないような頑丈で分厚いドアが一瞬で燃え尽きるとは思えないし、仮に上手くいったとしても外にはひとがいる。煙を吸って勝手に死ぬか、捕まっていよいよ殺されるか、どちらにしろいい方向へは進まなかったはずだ。我ながらあまりに浅はかで愚かしい行動にくすりと笑ってしまう。
「ただ、あなたに会いたくて」
「おれに?」
「そう。今日はずっと雨雲が恨めしかったわ」
私の楽しみはあなたとお話しすることだけだもの。そう続けると、「光栄だな」と唇だけで笑った彼が顔を上げる。ぱさりと彼の肩に落ちたタオルは、水を吸って色が濃くなっていた。
「お前が望むなら、今すぐにでもここから出してやれる」
「──え?」
ざあざあと雨音が目立って聞こえた。ゆったりと歪められた彼の唇から目が離せない。
「全てを捨てておれのところへ来い」
差し出された手を見つめながら彼の言葉を脳内でなぞる。
血の気が引いたように体が重怠いのに、全身熱くてたまらない。じわりと歪んだ視界はぱたぱたと涙を落としてもまたすぐに歪んだけれど、瞬きをするたびに世界の色が違って見えた。
「捨てるものなんて何もないわ」
差し出された手に手を重ねる。「そうか」と笑みを深めた彼に引かれるまま片方の腕で抱き上げられて、ベッドに置いてあったブランケットをかけられる。
「お前は何も見なくていい」
すぐ終わる──と優しく笑んだ彼は、数え切れないほど恨みをぶつけ涙を染み込ませたドアを開け、私に生きる意味をくれたのだ。
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