トイレの帰り、窓から外を見ると雪が降っていた。
 もう二月か──と、朝にリビングで流れていたテレビから耳が拾った情報を思い出す。そういえばにわか雪が降るとか降らないとか言っていた気もする。
 たしかに今日は朝から寒かったと小さく息を吐いて教室までの道を急いでいると「おい」と後ろから声をかけられた。

「落としたぞ」

 振り返った先にいたのは──

「あ、エース。ありがとう」

 落としたと見せられたのは、今塗り終えてポケットに入れたつもりだったリップだった。

「ほらよ」
「ありがとー」

 差し出されたリップを受け取った瞬間、「はぁっ?」とエースが何かに驚いた。その声に驚いて「な、なにっ?」と肩を跳ねさせると、なぜかぎゅっと手を握られた。

「つめてっ……バカじゃねェのかお前」

 ……いや、こんなにひどいことってあるだろうか?
 突然手を握られて、まさかのバカ呼ばわり。たぶんエースが驚いたのは私の手の冷たさで、リップを受け取るときにどこか一瞬触れたんだろう。そして確認のためにしっかり握ったものの、やっぱり冷たくてさらに驚いた、と。
 たしかに手は冷えているし、自覚はあった。そして、『そう言いたくなるくらいの冷たさだ』という彼なりの表現だということもわかる。
 だけど──……ひどくない?
 腹が立ったので、握られているほうではないほうの手をエースの頬にくっつける。

「つっ、めッ」
「そうでしょう、そうでしょう」

 ただでさえ冷えていた手を、トイレに行ってキンキンの水で洗ってさらに冷やしてきたのだ。冷たくないわけがない。
 思っていた通りの反応が得られて満足だとうんうん頷いていると、そっちの手も捕まった。でももうしっかり仕返しを果たしたので今さら捕まっても何の問題もない。
 エースの手は、とても温かかった。それが一瞬わからないほど冷えていた手も、徐々に彼の熱を奪って感覚が戻ってくる。

「そういや、サボ見なかったか?」
「サボ? 見てないなー」
「そうか」
「どうしたの?」
「いや、たいした用じゃねェんだが──」

 本当にたいした用ではない用を語ったエースが窓を見る。

「うおっ、雪すげェ降ってる」

 その言葉に同じように窓に目を向けると、ついさっき見たときとは比べものにならない勢いで大粒の雪がぼたぼたと降っていた。

「わ、ほんとだ」
「こりゃ積もるんじゃねェか?」
「どうだろう。積もるかなぁ」

 嬉しいような、困るような。
 複雑な思いでじぃっと窓の外を見つめていると、ふとあることに気付いてしまった。
 手が、握られたままだ。

「さっき授業中によ、──」

 気付いてしまえば気になるもので、耳では拾っているはずのエースの話がまったく頭に入ってこない。

「朝ルフィのやつが──」

 逆にさっきまでどうして気付かなかったのか。そもそもエースはどうしてこんなにも平然と話しているのか。もしかするとさっきまでの私と同じで失念しているんだろうか。いや、失念するか……? 握っている側なのに。

「それで昨日は──」

 言うべきだろうか。でもそれはそれでこちらだけ意識しすぎているようで恥ずかしい。
 でも、周りの目は──
 意外にも、寒いからなのか目立って人はいない、けど……。

「聞いてんのか?」
「えっ」

 ずいっと顔を覗き込まれて心臓が跳ねる。「あ、ご、ごめんっ」と慌てて反応を返すと、「ぼけっとしてんなよ」とわざとらしく不満げな顔を作ったエースが、すぐに冗談だとでも言うように表情を緩めてくくっと笑った。……何がおかしいのか。こっちはあんたのせいで気が気じゃなくてぼけっとしてしまっているというのに。

「あのさ」

 もう言ってやろうと口を開く。私だけ落ち着かない気持ちにさせられているのは不公平だ。
 強気に切り出したわりには、こちらの言葉の続きを待つエースの視線に一瞬怯みながらも、「……手」と主張する。
 しかし、なぜかエースからの反応はない。きっと慌てて離すだろうと思っていただけに、わけのわからない数秒の間がつらい。
 はっきり指摘するのが嫌で少ない言葉で伝えたというのに、窺い見たエースの表情は「それがどうした?」とでも言いたげで、まるでこちらが何か間違ったことでも言ってしまったのかとじんわりと手に汗をかく。

「……が、握られたまま、……なんですケド」

 目が泳ぐ。言いづらいことを言葉にさせられるのはとても居心地が悪い。

「あー」

 未だ手を掴んだままのエースが驚いたふうもなく口を開く。

「バカみてェに冷たかったからあっためてやろうと思ったんだが──……嫌だったか?」

 ぎゅっとたぶん無意識だろうけどこちらの手を包む手に小さく力が込められる。一層今の状況を意識させられるそれにさらに落ち着かない気持ちになったけど、一体何と答えるべきなのか、正解がわからない。誰かに見られるのは困るし、そもそも私とエースはこんなふうにそわそわするような形で触れ合うような間柄ではない。だからといって、嫌かと聞かれると──

「いや別に嫌とかじゃなくて……でも誰かに見られたらややこしいし」

 じっと見てくるエースの視線が痛くて居たたまれない。話しながら正解を探しているつもりが、何だか言い訳でもしているような気分になってくる。

「だからー……そのー……」

 これ以上どう言えばいいかわからなくて悩んでいると、突然ふっとエースがふき出した。

「なに焦ってんだよ」
「あせっ……てはないけど! ていうかエースがはなしてくれないからでしょ!」

 こちらの気も知らないでけらけらと笑う姿に腹が立つ。かあと顔に集まった熱は、からかわれたことに対する怒りからきているのか、焦りを見抜かれた羞恥心からきているのかわからない。

「……まァそうだな。お前がモジモジしてんのが面白くてよ」

 ひとしきり笑ったエースがまたからかいの目を向けてくる。

「……むかつく」
「怒んなよ。でも、あったまっただろ?」

 得意げに解放された手は、たしかにあたたまっている。
 むぅと唇を尖らせると「エース」と誰かがエースを呼んだ。
 まだ文句を言ってやりたかったというのに「じゃあな」とあっけなく去っていく背中を見つめる。
 不完全燃焼に終えた気持ちを少しでも燃焼させるために、こっそり下瞼を引き下げて舌でも突き出してやろうかと考えたとき、

なんだエース、顔赤ェぞ?
うるせェ

 そんな会話がぼんやり聞こえてきて、なんとなく急ぎ足で教室に戻った。

/top