瓦礫を枕に眠れる雑な私にも、こわいものがある。

「えええ、エースッ……!!」
「どうした!?」
「お、おばっ……! おばっ……!!」

 ──おばけだ。
 ゆらゆらと、窓に映る黒い影。
 細く枝分かれしたそれが近づいては離れ、近づいては離れ……を繰り返す。ゆったりとした奇妙な動き。それはまるで手招きされているよう。
 飛び跳ねた心臓に突き動かされるようにからまる足で夢中で駆け出し、シャワー室のドアを叩く。
 その間も窓から目を離すことはできない。
 
「……ただの木じゃねェか」
 慌てて出てきてくれた彼が言う。
 
 ここはとある島のとある宿。
 軽い気持ちで踏み入った森でエースとふたり道に迷い、うろうろしているうちに日は暮れて、いよいよ焦っていたところに猛烈な風雨に襲われた。
 右も左もわからない視界の中、突然現れた宿に悩む間もなく飛び込んだ。
 有り難い──そう思ったはずなのに、思ったよりも暗い室内に、ギィ……と嫌な感じで軋んだ床板の音に反射的に警戒してきゅっと心臓が縮む。そもそも、どうしてこんなところに宿があったんだろう。

「泊まりかい?」

 気配を感じなかった方向から声をかけられ目を向けると、ろうそくの火に不気味に顔を照らされたおばあさんがヒヒと笑う。
 失礼にも思わず声が出そうになったところで、廊下の先の窓が強く光った。すぐに響いた強烈な雷の音に結果的に救われながら、渡された鍵の番号の部屋へ向かい、今に至る。
 先にどうぞとエースにシャワーをすすめたものの、待ち切れず慌てて切り上げさせてしまった。
 ただの木に怯えるほど繊細な心は持ち合わせていないつもりだが、今日は少しわけが違う。
 この宿の第一印象が、出そう≠セったのだ。もちろん何の根拠もない。
 だけど、一度そう思ってしまえば何もかもが怖ろしく思えて、情けないことに著しく冷静さを欠いていた。
 
「エース、いる?」
 次はお前が入ってこいと押し込まれたシャワー室から外へと声をかける。
 本当は片時もエースと離れたくなかったが、絞れるほどびしょ濡れになった服や髪を思えば、さすがにシャワーを浴びないわけにはいかなかった。
 脱衣所すらない簡素な作りの部屋だったが、わがままを言って彼にはドアの前で待機してもらっている。

「おー。いるぞ」

 ちらりと後ろへ目をやれば、磨りガラス越しに彼の背中が見える。ドアの前で待っていてほしいと伝えたときは「はあ?」と呆れ返っていたというのに、律儀に付き合ってくれる彼は優しい。
 ほっと一瞬心臓の緊張がほぐれた隙にぐるりと周りを見回し、髪を濡らす。

「……エース、……いる?」
「いる」

 さっきと変わらない距離から彼の声。シャンプーをしながら振り返ると、やはりドアにもたれる彼の背中が見える。疑ったわけではない。ただ、シャンプーを流すには明確な安心がほしかった。頼れる背中にまたほっとして手早く泡を流す。

「エース」
「なんだ」

 さすがに続く言葉を口にするのは憚られた。正直今のやり取りで用件は終えているし、続ければ彼がどんな反応をするか想像はつく。

「いる……?」

 しかし呼びかけて「なんだ」と返された以上、何も言わないわけにはいかなかった。
「いるっつってんだろ」
 だよね、と心の中で返す。
 少し荒めに返ってきた彼の答えはもっともだ。しかし閉鎖された空間で、さらに目も耳も周りの情報を取りづらくなるシャワーを浴びるという行為は、ただでさえ緊張している心臓を一層縮こまらせた。

「そんなにこえーならそこ開けてりゃいいだろ」
「やだ、ヘンタイ」

 それができれば苦労しないよと半分いじけたようにお決まりの文句を返す。
 開けられるものなら開けている。だけどそれはさすがに私たちの関係では不適切だとわかっているし、いくら日常生活に支障をきたすほどおばけが怖くとも、人に素っ裸を見られる羞恥心がなくなるわけではない。
 彼の優しさに甘えておきながら、盛大に呆れられているだろうことにしゅんとして小さく唇を尖らせていると「うわっ!」と突然大きな声がして、大袈裟ではなく体が跳び上がった。

「な、なななななにっ!?」

 思わずドアを小さく開けて外の様子をうかがう。

「ビビりよりマシだろ」

 くくっと笑うエースは、さっきの大声が嘘のようにいたって落ち着いた様子であぐらをかいて膝に肘をついていた。
 はめられた。そう気づいたのは、わけもわからずたっぷり三、四十秒彼の後ろ姿を見つめたあとだった。

「〜〜もうっ!」

 ドアを閉めるとけらけら笑う彼の背中がまた近づいてきた。わざわざドアから背中を離していたあたり、行動が読まれていたようで悔しい。
 まだドキドキしている心臓を落ち着けるようにふぅと小さく息を吐いて辺りを見回し、石けんを泡立てる。

「エース……」
「なんだよ」

 ついついまた名前を呼んでしまって、反省する。

「……はさ、こわくないの? おばけ」

 慌てて考えた話題を放り投げながら急いで体を洗う。

「怖くねェっつったろ」
「どうして……?」
「あァー? おれのほうが強ェから」

 考えたこともない発想に、凝り固まっていた脳が衝撃を受けて一瞬ぽかんとする。それから、小さく笑ってしまった。
 遭遇したこともないおばけに異常なほど怯える私はおかしいかもしれないけど、同じく遭遇したこともないおばけより自分のほうが強いと絶対的な自信を持っている彼もたぶんちょっとおかしい。
 でもそんなエースの言葉がとても心強くて、少しだけ軽やかな気持ちでシャワーを浴びた。
 


 

 ベッドはひとつ。
 男ばかりの船で生活をしている身として、私自身は普段からあまり気にしないほうではあるけれど、今日はこのソファすらない簡素な作りの部屋に感謝すらした。
 エースは微妙な顔をしたけど、仕方ないでしょと押し切って一緒に横になる。
 念のため下を確認したベッドに背を預けて見慣れない天井を見つめる。シャワー室のときほどの恐怖心はなく、ベッドサイドの明かりだけで落ち着いていられるのは、隣に頼もしいぬくもりがあるから。エースと一緒に行動していてよかったと心の底からほっとして息を吐く。

「むかし話でもしてやろうか?」
「え?」
「ビビって寝れねェんじゃねェかと思ってよ」

 今はエースが隣にいるから大丈夫だよ。そう伝えようと思ったけど、その前に気になることがあった。

「……エース、昔話なんてできるの?」

 見くびられたもんだぜとでも言うように「はっ」と笑ったエースが「むかーしむかし、」と語り始める。結局できるかできないかの返事はないままだったが、きっととても貴重であろうそれにひそかに胸が高鳴った。

「おじーさんは山で熊を、おばーさんは川でワニをとりに行きました」
「ふふ、なにそれ。ふたりとも強すぎない?」
「そうか? おじーさんは──」

 彼の語ってくれたメチャクチャな昔話は、おばけに怯えてすり減った精神を癒してくれた。
 

「どこで聞いたの? その話」

「おしまい」なんて締めの言葉はなかったが、終始ハチャメチャで派手な終わりを迎えたそれにたのしかったと笑いながら小さな拍手を送る。

「さァな、おれが今考えた」

 聞いておいてやっぱり≠ニ納得していると、エースは小さく笑って「むかし話なんか知らねェからな」と続けた。

「そっか」

 何でもないようで、だけどどこか切ない響きにも思えたそれに勝手に胸が締め付けられたけど、気付かないふりをした。聞いたってたぶん教えてくれないし、私にできることなんて何もない。
 ちらり、と顔だけ少しエースのほうへ傾ける。

「じゃあ今度は私がしてあげる」

 みんなそれぞれいろいろあって。だけどそこに下手な同情なんていらない。それでも、昔話のひとつやふたつ披露するくらいなら許されるだろう。
 数えるほどのレパートリーの中から、エースが眠ってしまわない話はどれだろうと考える。
 何も言わない彼は、どうやら聞いてくれるようだ。
 未だ強い雨風は、私たちを寝かせまいと激しく窓を叩いている。しかし、そんなものは怖くない。
 ゆらゆら揺れる木の影に小さく笑って、口を開く。

「むかしむかし、」

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