「あーさわりてェー」

 無駄のないスラッとした筋肉。細すぎずゴツすぎない絶妙な肉付きに、近付かなくてもわかるハリのあるみずみずしい肌。程よく焼けた肌はまさか常に丸出しだとは思えないレベルだけど、健康的だ。
 
 欲にまみれた思いが音として世界にこぼれ落ちてしまったことに気付いたのは、こちらを振り返ったエース隊長がきょろきょろと辺りを見回したあと、もう一度こちらを振り返って「なにを?」と首を傾げたから。

「えと……私、今なにか……?」

 まさか。そんなことはあるはずがないと思いたかった。きっとエース隊長が聞いたのは私とは関係のない音で、しかし周りを見回してみてもそれらしいものが見当たらなかったので念のため「今音を発したのはお前か?」というような意味合いで確認されただけだと。そう、思いたかった。

「さわりてェって」

 全身から噴き出してはいけない何かが噴き出した気がした。

「ちっ、ちがっ! ちがうんですすみませんんっ……! その、へっ、変な意味じゃなくて……! ぜんぜんっ……! ていうかっ、なんかくちのヤローが勝手にッ……!」
「……なに焦ってんだ?」

 ぎくっと肩が跳ねる。たしかに、身ぶり手ぶりをつけて早口で言い訳をし、罪をかぶせた口に制裁を加えようとべちんっと頬を叩く姿は『焦っている』とも言えたかもしれない。

「ちがうんです……その……」

 なんとかうやむやにできないだろうかと目を泳がせて必死に頭を働かせる。けれどじっとこちらの言葉を待ってくれているエース隊長に対して、下手なごまかしで逃げるのはとても不誠実な気もする。

「……エース隊長の腰を見ていたらなんかこう、つい……」

 無駄な潔さなんて出さなければよかったと声にしているそばから後悔した。腰≠さわりてェー≠ヘどう考えたってまずい。完全にセクハラだ。まだ本人に直接「わあ! すごい筋肉ですね! 触ってもいいですか?♡」なんて軽い調子でお願いしたなら救いはあったかもしれないが、無意識に心の底から滲み出てしまった「さわりてェー」はダメだ。危なすぎる。何でも正直であることが正しいわけではない。相手に不快感を与えないためには、ときにはうそをつくことも必要だったのだ──とたちまち後悔の渦にのみ込まれてうなだれていると、「……腰?」とエース隊長からいかにも怪訝そうな反応が返ってきた。

「……さわりてェのか?」
「う、えっ、あ、ハイ……まあ……。さわりたい……というか、さわりたかった、というか……?」

 この期に及んでたった数分前のことを過去形にしてなんとか傷を浅くして逃げようとする自分が情けない。だけど、憧れのエース隊長にはどうしても嫌われたくなかった。そして広いようで狭い海の上での生活、エース隊長がまさかこんなくだらないことを言いふらすとは思えないけど、万が一を考えるとみんなに変態の危険人物だと思われて生きていくことも避けたかった。

「ん」

 こちらに背を向けたエース隊長が腕を広げる。

「え?」

 何かを求められていることは、ちらとこちらを見るエース隊長の顔と場の雰囲気でわかったが、一体何を求められているのか、考えることを脳が拒否する。

「さわりてェんだろ? いいぞ」
「えっいいんですか……?」
「どーぞ?」

 反射的に聞き返したものの、えっ……? いいんですか……? と心の中で何度も問いかける。どうしてそうなったと首をひねりたくなるとんでもない展開に頭がついていかない。変わったやつだなと明らかに呆れた目を向けられたことも気になる。
 しかし、あまり間をあけるのもヘンだ。ここはひとつ、お言葉に甘えてさらりと軽く触れさせてもらうべきだ。
 両手をエース隊長の腰へ伸ばす。
 大事なのは、下心を感じさせないこと。

「で、では失礼して……」
「おう」

 ……なんだこの状況は。やっぱりどう考えてもおかしい。
 害のなさそうな「さわらせてください♡」が聞き入れてもらえるのはわかるが、どうして私の最低な形で吐露した願望が聞き入れられたのか。
 もちろん私だって敬愛するエース隊長に害を与えるつもりは毛頭ないが、そもそも欲にまみれた私がエース隊長に触れるということ自体がもはや立派な害なのでは……?
 下心を感じさせてはいけないと思えば思うほど、緊張しておかしな動きをしてしまいそうだ。
 鼻息は荒くないか……? 間違ってもこんな絶望的なタイミングで鼻血なんて出てくれるなよと予防のために鼻をすする。
 両手を伸ばしたままなかなかエース隊長の腰にさわれずにいると、きっと不審がられているであろう視線が刺さる。

「さ、さわりますよ……?」
「おう」

 気まずい空気を和らげたくていったん口を開いてみたものの、やはり手は動かず、ただエース隊長の腰回りの空気を撫でる。
 居た堪れない。ひとの体にさわることにこんなに緊張したことはない。
 おかしな間をあけてしまったので、今さら下心を感じさせない≠ヘ不可能な気がする。でも今さら「やめておきます」もなんだか恥ずかしくて言えない。

「……おい」
「……ハイ」
「……なにしてんだ?」
「えっとォ……」

 ピキピキとエース隊長の怒りを感じる。
 エース隊長は優しいし、時にこんなどうしようもない願望に付き合ってくれる果てしない心の広さがあるけれど、気はあまり長いほうではない。
 迫るタイムリミットに笑えない気持ちでへらりと笑うと、「だぁーーーッ」とエース隊長の優しさが限界を迎えた。

「さわるならさっさとさわれよ! なんかゾワゾワすんだろっ!」
「だだだだって……! 緊張してっ……! それにっ、この一線を越えてしまったらなんだか大切なものをいろいろ失いそうで……!」
「はあっ? なにワケのわかんねェこと言ってんだ、いいから早く──ッ!?」

 乱暴に掴まれた手に声にならない声を上げ身を固くしつつも、半分観念した。どうせ動けずにいたのだ。被害者であるエース隊長の手でこの空気を終わらせてもらうのは非常に申し訳ないけど、正直とても有り難い。
 しかし、掴まれた手はエース隊長の腰へたどり着くことはなく、なぜだかエース隊長はそのまま固まってしまった。

「つめてェな、お前……なんだこれ」

 心底驚いたような声を出したエース隊長が、握ったままの私の手を凝視する。
 思わぬ反応に「へ……?」と間抜けな声が出た。

「冷たい、ですか……?」

 状況からしてエース隊長の言う「冷たい」は私の手のことだろう。たしかに今日は朝から少し肌寒い。冬物の上着を引っ張り出すほどではないが、それでも上半身に何も纏っていないエース隊長の服装は考えられない。そうなれば、ただでさえ冷えやすい手や足が冷えるのは当然で、言われてみれば冷たいかもしれない。が、自分ではあまり気に留めていなかった。一定の気温以下のときには常に冷えていると言っても過言ではない手足は、ひどいときには痛みすら感じるが今日の寒さではそこまでは至らない。だから特別冷えているという意識はなかった。
 驚かれたことに驚いてぽかんとしていると、「つめてェだろ」とこちらへ向き直ったエース隊長に左右の手を握り直された。

「エース隊長の手はあたたかいですね」
「だろ」

 火だからな、と得意げにしたエース隊長は握った手にぎゅっと力を込めるなり「お前が冷たすぎんだよ」と表情を変えた。ふふと笑って、離れていくであろう手のぬくもりを束の間噛み締める。

「そういや、夜中に雪が降ったらしいぜ」
「そうなんですか?」
「おう。見張りのヤツが言ってた」

 どうりで今日は冷えるはずだと納得する。どうせ冷えるなら朝に少しくらい名残を残してくれてもよかったのに。うっすら雪化粧をしたモビー・ディック号を思い浮かべる。でも甲板がどろどろになるからやっぱり積もらなくてよかったのかもしれない。いつかの雪かき後の掃除のことを思い出してそんなことを思う。

「んで、サッチのやつが──」

 エース隊長の話をふんふんと聞きながら、ふと疑問に思う。

「マルコも──」

 手が、握られたままだ。

「そしたらイゾウが──」

 どうしてだ。互いの手の温度の違いを確認しあったら離されるはずだった。「つめたいな」「あたたかいですね」そう言い合ったら自然と離れていく手。よくあるやり取り。人生の中で何度も経験した、特別何の感情もこもっていないある程度の距離感の人とならいつでも起こり得るいたってなんでもないやり取り──考えるまでもなくそういった類の流れだと思っていた。
 離してほしいわけではない。断じて。
 だけど、憧れの人と向かい合いながら両手を握られ談笑するこの状況はどう考えてもおかしい。
 じわじわとうつってくるエース隊長の熱が、顔の熱を何倍にも引き上げ、きっと心臓から出ていく血をも熱くさせている。

「そんでそこでオヤジが──」
「あっ、あのあのっ! あのっ?」

 思わずエース隊長の話を遮った。

「ええ、エース隊長……! こ、これは……!?」

 これ≠ニ握られたままの手を上下に振ってアピールする。

「なんだよ。あっためてやってんだろ?」

 まるでこちらがおかしなことを言ったみたいに不思議そうな顔をしたエース隊長が、さもなんでもないことのように言う。

「んでそこでオヤジが──」

 こちらの話をあっさり終わらせて元の話へ引き戻そうとするエース隊長を「いやちょっと待ってください……!」と制する。

「しし、死んじゃいます……っ」
「あ? ……死ぬだァ? んなヘマしねェよ。火は出さねェ」
「そそそそういう問題ではなくて……! き、緊張で……!」

 あまりに私の言いたかった死因とエース隊長の受け取った死因がかけ離れすぎていて一瞬何を言われたのかわからなかったけど、心外だとでも言いたげなエース隊長の顔を見て慌てて訂正する。

「緊張? 何に」

 まったく理解できないといったふうに眉を顰めるエース隊長に「今の! この! 状況にっ……!」とまた掴まれたままの手をアピールするように上下に小さく振る。「ふーん」と、聞いておいてまったく興味がなさそうなエース隊長は、「じゃあ必要ねェ。落ち着け」なんて適当に笑うけれど、落ち着けと言われて落ち着ける人は最初からある程度は落ち着いているはずだ。

「む、むりです……しぬ……」
「死なねェ」

 焦りで目は回るし、心臓は聞いたことのない音を出している。エース隊長の手から火は出なくても、私の顔からは出るかもしれない。
 きっととんでもないことになっているであろう顔を隠したいのに、思い通りにならない手がもどかしい。だからといって、エース隊長の手を振りほどくなんてバチ当たりなこともとてもじゃないけどできない。

「こんな冷てェ手してるほうが死にそうだろ」
「ダ、ダイジョブデス……はなしてください……」

 ついに言ってしまったと、自分の発した言葉でチクリと胸が痛む。離してほしいわけではない。本当に。こんなに幸せな状況はないと思っている。だけど、もう限界だった。とにかく心臓が危ない。行き過ぎたトキメキは、きっと本当に人を死に至らせるんだろう。
 もはや手が冷たいのかどうかも、わからなかった。

「いやだね」

 吐き捨てるように鼻で笑うエース隊長に、ドッと一度大きく心臓が跳ねた。そしてそのあとぎゅううっと強烈に胸を絞られるような感覚。

「そんなんでよく腰が触りてェなんて言ったもんだな」

 呆れたように笑うエース隊長に処理しきれない感情が襲ってきて、なすすべもなく口の中の肉を噛んだ。

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