【イノリとフィム】
「おかあさん!」
パタパタと駆けてくるフィムの姿も随分と見慣れてしまった。
最初は母親の存在も知らない自分がお母さんと呼ばれることに対して複雑な気持ちもあったが人間の適応力の高さは侮れない。
「ユウゴにえほん、よんでもらってた!」
お母さんは知ってる?なんて言いながらフィムがニコニコと見せてきた絵本には「シンデレラ」とタイトルが書かれている。
確か継母とその連れ子にいじめられていた女の子の話だっただろうか。子供の頃に絵本を読んだことがないので詳しい内容はよく知らない。
ガラスの靴だとかかぼちゃの馬車だとか、そんな断片的な単語は聞いたことがあるような気もするがそれがどういう役割を持っているのかはあまり詳しくなかった。
「……どういうお話なの?」
「じゃあこんど、フィムがおかあさんにきかせてあげるね」
——それは、本来「お母さん」である自分の役目なのではないだろうか。
普通の家庭なんて知らないが母親が子供に読み聞かせをする映像作品があったような。
まさかこの歳になって自分より小さな子に絵本の読み聞かせをしてあげる、なんて言われる日が来るとは思っていなかったので苦笑してしまう。決して嫌ではない。
本当なら自分が読み聞かせをしてあげるべきなのかもしれないが、学校に通っているフィムとスラム街で必死に生きていた自分ではフィムのほうが上手く読めるのだろう、と思うと少し悲しくもなるが。
「フィムが絵本を読んでくれるのを、楽しみにしているわ」
子供の成長は早いな、なんて。自分がお腹を痛めて産んだ子ではないがフィムを見ながらそんなことを思った。
【サクリとクレア】
AGEの適合試験では個人の適性をきちんと調べることがない為、適合できずに命を落とす者も多いという。
また、適合できたとしても再起不能となるパターンもあるのだとか。
——その点、自分は幸運だった。
適合試験で命を落とすこともなく、再起不能となることもなかった。適合の過程で痛覚を犠牲にしたが、痛覚だけで済んだのだから恵まれていると思う。
「痛くないの?」
それはまだ出会って間もない頃のクレアの素朴な疑問だった。
アラガミの攻撃を避けきれず、腕を負傷したことがある。傷は深いように見えるし出血は止まらない。普通なら痛みに表情を歪ませるのだろう。……最近は痛覚がないことを知っているユウゴやジークとの出撃が多かったので痛がるふりを忘れていたな、なんて。
彼らもサクリが怪我をしていたら怒るのだが今更痛くないのか、そんなことを聞いてくることはない。正直、面倒くさいなという感情が先行した。
痛みなんて、もう何年も感じていない。それがどんなものであったのか思い出すことさえ出来ない。
「……適合試験の後遺症で痛覚を喪失したんだ」
なんでグレイプニルの人間にこんなことを話さなければならないのかと思う。
心配そうにこちらを見ているクレアだって本当にAGEである自分に心を砕くとは思えない。グレイプニルの神機使いがAGEを心配する理由がないのだ。
「アンタも僕に構う必要はない。この程度の傷で死ぬことはないからな」
尤も、死んでしまったとしても構わないのだが。
信用出来ないものは遠ざけておきたい、理解できないものは恐怖でしかないのだから。
【サクリとユウゴ】
「ユウゴ、そろそろ休憩にしたほうがいいんじゃないか?」
ユウゴが部屋で難しげな本を読み始めて数時間。
何でも自分たちのミナトを作る、というハウンドの夢を叶える為に必要な勉強らしい。サクリとしても幼馴染の力になれたら、という思いはあるが流石に難しい本を読むという行為は難易度が高い。
理解できないものを無理に頭の中に叩き込むよりも戦闘でユウゴの力になろう、と決め込んでユウゴの勉強の邪魔にならないよう部屋の隅でキースがまとめてくれた灰域種に関するデータを眺めていたのだが。
「もうそんな時間か」
「こういうのは適度に休憩を挟んだほうがいいだろうし。何ならコーヒーでも淹れてきてやろうか?」
——尤も、自分がそこまでする相手はユウゴだけなのだが。
「ああ、頼む」
「あんまり期待はしないでくれよ?」
クリサンセマムで生活するようになるまでコーヒーなんて淹れたことも飲んだこともなかったのだから味は期待しないでほしい。
とはいえ、知識の面で役に立てない自覚がある自分はせめてそれ以外の全てにおいて幼馴染を支えたいと思っているし、その為にコーヒーの淹れ方も学んだので決して泥水のような飲めないコーヒーになる、などということはない筈だけれど。
……全て、ユウゴの為なのだ。
自分のせいでユウゴが恥をかかないよう最低限の読み書きは覚えたし、ユウゴの隣に立って笑われることがないよう戦闘の腕も磨いてきた。
例えば自分が弱かったばかりに、ユウゴまで笑われてしまうことが耐えられなかった。自分がどうしようもない雑魚だと指差されるだけであれば何も感じることはないが。
「まあ、僕らはユウゴに見つけてもらったお陰でこうして生きてるわけだしな」
だからこそ、ユウゴの為に生きている。
【ルリジオンとヴェルナー】
アラガミに捕喰されることは我々にとって救いなのだ、と。
現世に救いなどないのだから救世主たるアラガミの供物となり来世で幸せになるのだと、誰かが言っていた。
——本当に、その死は救いなのだろうか。
ある日わたしの目の前で人間が一人、贄となった。
彼はアラガミを信仰する宗教の熱心な信者で、アラガミにたべられることで救われると信じていた。信じていたというのに、痛い、怖い、死にたくない——そう泣き叫んでいた顔が今も頭から離れない。
わたしもアラガミに捕喰されることは幸せなことだとずっと言い聞かされてきた。その考え方に疑問を抱くこともなかったのに。
(……こわい)
(わたしは、あんな風になりたくない……)
生まれて初めて抱いた感情だった。死にたくない、アラガミにたべられたくない。
でもどうすれば自分の運命を変えられるのか分からなくて。ただ死にたくないと漠然と思った。
*
「……アラガミ信仰なんて、馬鹿げてるって思われるかもしれないけど。わたしはフェンリルから見たら敵だし、ヴェルナーの言うAGEの国ってのも興味があるから」
AGEではなかったとしても、朱の女王に協力していたかもしれない、なんて。
朱の女王に保護されて数ヶ月。最初こそ衰弱していたのとこの組織を信用しきれなかったのとでヴェルナーとも殆ど会話していなかったのだけれど、今では彼らは信用出来るのだと理解した。
「そうか」
「戦いは……あんまり役に立てないけど、それ以外ならヴェルナーの役に立ってあげる」
アラガミを信仰してきたわたしには朱の女王にしか、居場所はないのだから。
【サクリとフィム】
嫌だ。怖い。助けて。
そんな言葉を絞り出すことすら出来ずに過ごした日々を思い出す。数日だったか、数ヶ月だったか。日付の感覚すらない。
幸いというべきか、痛覚を喪失していたサクリ・ペニーウォートは痛みこそ感じなかったがそれでも自分の身体を改造されるかのような感覚は堪え難いものだった。
——人間が、憎かった。
弱者を平気で甚振る人間も、そんな人間が守ろうとする世界も、彼らに依存しなければ生きることすら出来ない自分自身も。
「……失敗だな」
「チッ……利用価値すらないバケモノめ」
冷たい、心の底から忌々しく感じているであろう声と共に、地獄のような日々は終わりを告げた。
尤も、自分がいた場所が特に酷かっただけでペニーウォートが地獄であったことには変わらないのだが。
*
人であることを半強制的に辞めさせられ、普通のAGE以上に歪な存在であることを自覚しながらそれを完全には受け入れられずに生きていた。
だから、アラガミとして「発生」しながらもヒトとして扱われ、人間の子供のような生き方を選択したフィムの存在は眩しくて、憧れだった。
「がっこうであたらしいこと、ならったんだよ!」
「学校、か……」
知識としては知っている。人間の子供が学ぶ為の機関。捨て子である自分には縁のなかったもので、ヒトとして生きるフィムにとっては恐らく大事なもの。
今更、学校に通いたかったなどと思うことはないがヒトと変わらない生活を送るフィムを見ていると形容しがたい感情が湧き上がる。
「サクリはどんなばしょなのか、しってる?」
「勉強をする場所、だろ? 行ったことないから実際にどんなことをしているのかまでは知らないが」
「じゃあこんど、おしえてあげるね!」
ふひひ、と笑う少女は自分なんかよりよほど人間らしいと思う。
——思えば、初めて見たときから明らかに異形の存在であったフィムに嫌悪感を抱くようなことはなかった。
自分にとってこれはかなり珍しいことで、理由もフィムと自分の境遇から推測することしか出来ないが……。
「……でもまあ、学校に通うことでフィムが僕より楽に生きられるようになれば、僕も嬉しく思う」
自分はそんな生き方を手放してしまったから。