バレンタインデーとは、かつて極東地域においては恋人たちの日であったという。尤も、生きていくだけで精一杯な今の時代ではそのような甘いイベントに縁がないことも決して珍しくはないだろう。
ブラッドの隊長を務める少女も——極東地域の出身ではないのでバレンタインデーの文化に違いはあるけれど——少なくとも神機使いになるまでは一度だってそんな甘く幸せに浸れるようなイベントは経験していなかった。
◇
「ふ、深い意味はありませんのよ? 疲労回復には甘いものがいいと聞きますし……」
「深い意味はないっていうか、深い意味しかないっていうか……」
バレンタイン数日前。ノルンの挙動不審な態度にロミオは呆れたように呟いた。
自分でジュリウスにチョコレートを贈りたい、と言っておきながら深い意味はないというのは無理がある。もうすぐバレンタインデーであることはロミオだって知っている。
——彼女が新人の神機使いとしてブラッドに入隊してきたあの日から彼女のことを見てきたが、ノルンがジュリウスに恋焦がれているというのは誰の目にも明らかだ。
ジュリウスのこととなれば頬を朱に染め、声も上擦ってそわそわとどこか落ち着かない様子になる。これで彼女の想いに気付かないジュリウスはある意味すごいのでは、とも思うが自分に向けられる好意には案外気付けないものなのかもしれない。
ブラッド隊長として戦場に立つときの、未だ入隊して一年も経っていないとは思えない凛々しく頼もしい姿と同一人物には見えないが彼女も平時はどこにでもいる普通の、恋する少女だった。
「そもそもこういう相談って普通同性にするもんじゃないの? シエル……は向いてなさそうだけどさ、ナナ辺りなら喜んで相談に乗ってくれそうじゃん」
「そ、それは……そう、なのですけれど……ナナに相談すると個性的なお菓子を渡すことになりそうですし……リヴィはシエルとギルと任務に出ていますし……」
「でも極東には他にもいるだろ? お前からの相談なら親身になってくれる人も多そうだし……まあ俺も頼られて悪い気はしないけどさ」
ブラッド隊長である彼女のことを仲間として頼りにしている人、尊敬している人は極東支部にもそれなりにいる。
どんな些細な相談であれ喜んで乗ってくれる人は多いだろう。例えばノルンを先輩と呼び慕っているエリナや教官先生と呼んで頼りにしているカノンは彼女の相談を邪険に扱うことはない筈だ。それが恋の相談であっても。
「ロミオに相談するのだって勇気が必要でしたのよ? そ、それを他の部隊の方にだなんて……」
「…………今からこの調子だと、本人に渡すのはもっと勇気が必要なんじゃないか?」
◇
ロミオに相談したのは単純明快。
彼の性格なら極東地域のバレンタインデーを経験したことがなくても一般的にどのようなものなのか、どんなチョコレートが喜ばれるのか知っているのではと思ったからだ。
ジュリウスが「家族」からの贈り物を蔑ろにするようなタイプでないことは理解している。自分に向けられる好意を——それが恋情であったとしても迷惑に思う人ではないであろう、ということも。
——単に自分が、今の関係を壊してしまいたくないだけだ。この想いをジュリウスが受け取ってくれたとしても、報われることがなかったとしても、きっと自分は今まで通りに振る舞えないから。それなら現状維持でいい。そんな臆病者の思考だ。
第一、日頃世話になっているブラッドのメンバーには全員にチョコレートを配るつもりだった。何もジュリウスだけが特別なわけではない。極東地域のバレンタインは意中の相手にチョコレートを贈るイベントとされてはいるが、家族や友人、仕事仲間に贈ることもそう珍しいことではなく寧ろそのような意図で贈られることも多いと聞いて……。
「どうかしたのか?」
「ひゃっ!?」
ふと、背後から降ってきた声に心臓は大きく跳ねた。
声の主など振り返らずとも分かる。今まさに夢想していた相手なのだから。
(どうしてジュリウスがここに……ため息をつきながら考え事をしている姿を見れば声をかける気持ちは分かりますけれど……!)
そも、今の時間ジュリウスは任務で出かけているものと思っていた。
ブラッドは通常の任務に加えて聖域で行われている農業も引き受けているからいつも割と忙しい。当然ながらノルンも昨日は朝から任務に出ていたし、聖域での作業も済ませて極東支部に戻ってきたら夜になっていた。今日は「たまにはゆっくり休んだほうがいい」と半ば強引に休暇を取らされたが農業は休めるものでもないし聖域には顔を出す予定だった。
「……ジュリウスは任務ではありませんの?」
「任務が終わったところだ」
「確かにそこまで難度の高いものではありませんでしたけれど……あなたのことですから、そのまま聖域へ向かうものと思っていましたわ」
「俺もそのつもりだったが、ロミオに一旦戻って休むよう言われてな」
ロミオの名前にぴくりと反応する。
何となく、状況は察した。要するにロミオが先輩として気を利かせて二人でゆっくり話せる状況を作ろうとしてくれたのだろう。
バレンタインのチョコレートは聖域で、或いは夜になってから渡すつもりであったけれど夜だとあまり落ち着いて話す時間はないかもしれないし、聖域だとまず間違いなく二人きりで、という状況にはならない。
ジュリウスは今日が何の日であるかなんて意識していないだろうし、聖域で作業をしている他のメンバーは何かあれば真っ先にジュリウスに声をかけに来るだろうし。
……気を利かせてくれるのはありがたいが、それなら事前に自分にも声をかけてくれていれば動揺せずに済んだかもしれないのに、なんて小さな不満はあるけれど。
「あなたは働きすぎですもの、少しくらい休んだってバチは当たりませんわ」
「お前も人に言える立場ではないだろう、隊長」
「…………やっぱりジュリウスに隊長と呼ばれるのは慣れませんわね」
ブラッドに入隊したとき、隊長だったのは他でもないジュリウスだ。
彼が一度はブラッドを去り、その役職を引き継いだ今でもジュリウスから隊長と呼ばれるのは落ち着かない気持ちになる。いつか慣れる日が来るのだろうか……なんて考えたこともあるが、今のところ一生慣れそうにない。
「そ、それよりも! わたくし、あなたに差し入れを持っていくつもりでしたのよ」
「差し入れ?」
「任務も聖域での活動も体力を消耗するものですし……疲れたときには甘いものがいいとも聞きますし……大したものではないのですけれど、その、今日はバレンタインですし……」
本命のチョコレートだとは口が裂けても言えそうにない。かといって義理チョコ、と言い切るのも距離を感じてしまうような。
差し入れだと言ってしまえば受け取る側もあまり気を遣わずに済むし、此方としても軽い気持ちで渡せるのではないかと思ったが心臓は壊れそうなほど脈を打っているし、声は緊張で震えそうになる。
我ながらみっともないとは思うけれど、恐らくジュリウスの前では平静を装うことなど不可能だ。
「手作り……は流石にまだ難しいのですけれど、美味しいと聞いたチョコレートを取り寄せてみましたの」
「そういえば前に何か作っていたな」
「あ、あれはムツミから料理を教わろうと思って……以前と比べるとこれでもまだ口に入れられるものを作れるように……って、わたくしの料理の話は今は関係ありませんわ」
実をいうと手作りのクッキー、というのも一度は考えたのだ。
まだ料理が得意とまでは言わないが昔よりはましなものが作れるようになったのも事実。だがやはりバレンタインに不慣れなことをしたところで失敗してしまいそうだし、辛うじて人に振る舞えるような味のものが完成したとしても見た目が不恰好になってしまったら恥ずかしい。
何より、ジュリウスに贈るものだと思うと理想が高くなって、間に合わない気がした。
「せっかくなら美味しいものを贈りたいと思うものでしょう? わたくしの料理の腕は……まだその域に達しておりませんの。もっと上達したら誰かに食べていただきたいとは思いますけれど」
「では、その時を楽しみにしている」
「ま、まだジュリウスに振る舞うだなんて言っていませんわよ!?」
「駄目なのか?」
「べ、別に駄目ではありませんけれど」
いつかのバレンタインデーで手作りのチョコレート菓子をジュリウスに贈る。それは最終目標ではある。
今はまだ手が届かない場所にあるけれど、何年か先の未来でその場所に近付けることを少しくらい夢見たっていいのかもしれない。