恋の始まりは誰も知らない

 目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる光景がある。
 フライアの庭園。まるで外の世界とは隔絶された楽園のようなその場所で運命とも呼べる出会いを果たした。心臓が熱く燃えるような、或いは雷に打たれるような、そんな感覚を味わったのは生まれて初めてだ。
 それが恋と呼ばれる感情であることを自覚してからは自らの中に芽生えた未知の感情に振り回されてばかりだった。

「わたくしにだって誰かに恋をして、その人の為に何でもしたいと思うことはありますのよ」

 世界よりも大切だと思えるその人の為なら神機を振り、どんなアラガミだって薙ぎ払える。少しでも助けになりたくて、強くなろうと思えた。
 その人のいない世界は無機質で何も感じられない。自分の心が壊れてしまったのかと思うほど。ただ愛した人が隣にいない日常をそれでも生きてゆくしかない。
 ——ジュリウスという人柱の上に成り立つ仮初の平和なんて、欲しくはなかった。たった一人を贄に終末を逃れたいびつなこの世界を、守らなければならない自分の立場に絶望したこともある。

「お前がそういう話をするのは珍しいな」
「…………ジュリウスにするような話ではありませんもの」

 クッキーを口へと運びながらノルン・エーデルワイスは苦笑する。
 ジュリウスに自らの恋の話なんて日常的に語って聞かせるわけがない。まさに自分が恋を知るきっかけなのだから。ジュリウスに知られたら失望されてしまうのではないかと思うようなどす黒い感情も渦巻く恋だった。生憎、綺麗なばかりの恋は経験していない。

「ジュリウスが興味を持てるような話題ではないでしょう?」
「それは……まあ、否定はしない」

 他人の恋の話も、自身の恋の話も。
 恐らくはジュリウスにとって遠い異世界の物語のようなものなのだろうとノルンは漠然と思う。そも、ジュリウスに好きな人がいるなどという噂は聞いたことがないし彼の育った環境を思えば過去にそのような相手が存在した可能性も低い。
 ……もしもジュリウスにそのような相手がいたのなら、あのラケル博士がジュリウスを特異点に仕立て上げる為に利用しない筈がないという嫌な予感もある。

「今も手の届かない星に憧れて……辛くなることもありますけれど、どれだけ辛い思いをしても知らなければ良かったとは思えませんの」

 死ぬよりも苦しい思いをして、何もかも投げ出して逃げたくなることもある。
 それでも恋をしなければ良かった、出会わなければ良かったとは思わない。ジュリウスのことを綺麗さっぱり忘れたとしてもまた必ずジュリウスに恋をするだろうと確信している。

「お前は時々難しい顔をする」
「そうかしら。わたくしからすればあなたのほうが余程……というより、わたくしからそんな表情を引き出しているのはあなたでしてよ」

 世界でたった一人、あなただけが引き出せる表情だなんて本人は知らないのでしょうけれど。今はまだ、それでいい。いつか知ってもらえれば大きな喜びではある。

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