「あまり心配をかけないでください」

 ミステルの溜息混じりの言葉に「ごめんなさい」とだけ返すミノリの髪はまだしっとりと濡れている。
 ——畑仕事を終えて町まで買い物に行く途中。ふと川のほとりにキラキラと光る何かが落ちていることに気付いて拾おうとしたところ、足を滑らせて川に落ちた。それはもう盛大に。今時小説の中でだって見ないのではないかという勢いで。
 流石に濡れたまま町に繰り出すわけにもいかずに家まで引き返せば当然のように伴侶であるミステルに怒られた。

「出来るだけ心配かけないようにする」
「次からは、絶対、とは言わないんですね」
「約束したいのは山々だけど、きっと誰かが困っていたら迷わず川に飛び込んでしまうこともあるだろうから」

 ミノリがどうしようもないお人好しであることはミステルも理解しているつもりだ。
 もしも観光客から「大事なものを川に落としてしまった。あれは母親の形見でとても大切なものだ」などと言われたら彼女は川に飛び込み自分の体力が続く限りその形見を探すだろう。
 そういう性格だからこそミノリに恋をしてしまった部分もあるので強く否定は出来ないけれどその結果ミノリが怪我をしたり風邪をひいたりしては意味がない。
 今日だって彼女が拾おうとしていたものの正体は誰のものかも分からない指輪だったという。町の誰かのものなのか、それとも観光客のものなのかさえ分からないそれを「落とした人にとっては大切なものだと思うから見つけられて良かった」なんて笑うのだ。

「目の届く範囲にいてくれればそんな無茶はさせませんよ。……と言っても、あなたは大人しくしていてはくれないでしょうけど」

 酷い台風の日でさえ躊躇うことなく外に出るような人がじっとしていてくれる筈がない。
 もうすぐ収穫の時期を迎える作物が心配、とか。動物たちが雨風の音に驚いてパニックを起こしているかもしれない、とか。自分の身を顧みず飛び出していく。
 牧場主にとっては作物や動物に被害が出てしまうと死活問題である、というのは理解しているけれども伴侶としては自分の命を最優先に考えてほしい、と思うことも多々ある。

「でも、私が無茶をしたら心配してくれるでしょう?」
「何を当たり前のことを、」
「そういうところが好きだなぁって思っただけ」
「ミノリか、或いは姉さんが相手じゃなければきっと他人の心配なんて積極的にはしません」

 他人を心配するのは面倒で嫌なことである、と。そういえば昔ミノリにそのようなことを言ったことがあるような。まだ付き合っていない頃。自分たちが結婚するどころか恋仲になることさえ想像もしていなかった頃の話だ。
 足を挫いただけなのに大袈裟に伝わってしまいこの世の終わりみたいな顔をして駆け込んできたミノリの姿は今でも思い出せる。怪我をした自分を心配そうに見つめるミノリに嫌な思いをさせてしまったと詫びた。
 他人の心配するのは苦ではないと語っていたミノリのことが当時はよく分からなかったけれど——今はほんの少しだけ理解出来るようになった気がする。とはいえ、最愛の妻であるミノリと、ずっと家族として共に生きてきた姉イリス以外に対してはここまで気を揉むことはないだろう。

「そうやって心配してくれるのが特別扱いされてるみたいで嬉しい」
「……みたい、ではなく特別扱いしてますが。ボクが他人と深い仲になること自体滅多にないことだと、しっかりと理解してくださいね、ミノリ」

 ミノリ以外はどうでもいい、とまでは言わないけれどミノリだからこそ他の誰よりも特別に扱っていることをもっとはっきり認識していてほしい。
 そんな思いを込めて笑みを向ければミノリは耳の先まで赤く染め上げる。自分にしか見せないその愛らしい顔が見られるのなら心配をかけられるのもたまには悪くない、なんて思ってしまうのだから自分は大概ミノリに弱い。