「あのハイネが家庭を持つようになるとはなぁ」
「……一体私のことを何だと思っていたんだい?」
——シャトラの酒場にて。
昼間から酒を煽るように呑んでいた漁師の男にそう声をかけられ、ハイネは思わず苦笑する。
確かについ先日までアトリエで発明に没頭する日々だったし、浜辺や酒場で女性を口説いては振られる姿を見られたこともあった。ハイネとの付き合いが浅い人や最近シャトラに移住してきた人にはナンパばかりしているあいつが家庭を持つなんて、と驚かれても仕方ない部分はあるのかもしれないが。
「でもお前、今までそういう素振りすら見せなかっただろ? 誰かと一緒になりたいとか考えてるようには見えなかった」
「まあ、発明が楽しかったからね。あまりそういうことを考えたことなかったのは事実かもしれない」
思いついたアイデアをすぐにでも形にしたくて、寝る間も惜しんで作業をしたり。気になること調べていたら夜が明けていたり。そんな生活を繰り返していたからどうしても大切な人とパートナーになって一緒に暮らすというのは想像出来なかった。
いずれそのような相手に巡り会えたら楽しいのだろう、とは思っていたけれども。
彼女——アインはお人好しな性質故に困っている人を放っておけず様々な問題に首を突っ込みがちだ。たった一人の特別な相手を、というよりは自分と関わる全ての人を平等に大切に思っているようにも見えた。
そんな彼女が誰か特定のパートナーを選ぶだなんて。恐らくハイネだけでなく、かつて世界を救う為に共に戦った仲間たちも予想していなかっただろう。
大事な話があるから自分と二人きりで会う時間を作ってほしい。そのような内容の手紙がアイン……正確にはアインがよく連れている妖精から届けられたときには驚いたものだ。これまで彼女から手紙が来たことなど殆どなかったのだから。
アインには用があればアトリエに自由に出入りして構わないと伝えていたし、アトリエは自分以外の人間の姿も滅多にない。
手紙なんて寄越さずとも直接来て話したほうが手間も少ないだろう。仮に留守にしていたとしても発明家であるハイネが何時間も仕事場であるアトリエを離れることは稀だ。
アインが敢えて手紙を送ってくるということは彼女が何か大きな悩みを抱えているか、或いは人生が一変するような重大な決断をしたか。ある程度予想し、何を言われてもいいよう覚悟していたつもりなのだけど。
「私たちは親しい間柄ではあったと思うけれど、彼女は誰に対しても優しい人だからね。まさか自分が彼女の特別な人になるなんて思っていなかったよ」
「相手はよくシャトラに来てる旅人の姉さんだろ? 俺も前に探し物を手伝ってもらったことがあるんだが、今時あんなお人好しは珍しい。探し物は大したものじゃなかったし長時間付き合ってもらうのも悪いと思ったんだが結局日が暮れるまで付き合ってくれた」
「それは何というか……」
とても彼女らしいエピソードだと思う。
決して珍しいことではない。シャトラだけでなく他の街にも「アインに助けてもらったことがある」という人はいるだろう。それも一人や二人ではなく、恐らく両手では数えきれないほど。
ハイネも、他の仲間たちも。アインと共に世界を救う戦いに身を投じることになった者は当然ながら全員が何らかの形でアインに助けられた経験がある。彼女がいなければ今の自分は存在しなかったと言っても過言ではない。
「お前は人生のパートナーだとか伴侶だとか、そんな相手がいなくても一人で問題なく生きていけるだろうと思ってたが」
「人と関わるのも嫌いではないけれど、一人が苦になるタイプでもないのは否定しないよ」
「でも、そんなお前が一緒に生きたいと思えるような相手と巡り会えたんだろ? そういうの、なんか良いなって思ったんだ」
——改めて、面と向かってそのように言われるのは気恥ずかしさもあるのだけれど。
アインがパートナーになりたいと言い出さなければきっと自分たちは人生を支え合って生きる決断をしなかった。
では、彼女以外の相手であればそのような関係になっただろうか。答えは否だ。アインだったからこそ彼女とパートナーになりたいと願ったし、どれだけ心を許せる相手だとしてもアイン以外からの申し出であれば断っていただろう。
ハイネ、といつもと変わらない声でその名を呼ばれて。まっすぐに気持ちを伝えられたときの彼女の表情も仕草も今でも思い出せる。まさに人生が一変するような出来事だった。
◇
「ハイネが楽しそうに研究に没頭する姿、好きだな」
「……どうしたんだい、突然」
「いや、ハイネっていつも仕事を楽しむタイプだと思うんだけど、好きなことに全力になれる人っていいなあって。まあ自分にはハイネがやってることの半分も理解できないと思うけど」
以前、シャトラのアトリエで発明の設計図を見たことがある。
少なくともアインの記憶の中には存在しないような機械のデザインや必要な部品が細かく記されたそれの内容は一切理解できないものだった。アリアやディアンサスであれば内容を理解できたのかもしれないけれど。
「君だっていつも自分の仕事を楽しんでいるじゃないか」
「記憶を失って右も左も分からない頃にクレスから教わって何となくやってるうちにね。もしかしたら昔は農家だったのかもしれない、と思ったこともあるけど……」
「私は君のそんな姿を尊敬しているし、好ましく思っているんだよ」
「ハイネにそういう風に思ってもらえるのは嬉しいな」
記憶がなく、自分が何者なのかさえ分からないまま目を覚まして不安がなかったわけではない。
これから何をすればいいのか、記憶は戻るのか、そもそも記憶がないまま生きていけるのか。そういう不安は多少なりともあったように思う。周囲の人々に助けられながら生活をしているうちに記憶がないことに対する不安は感じなくなっていたのだが。
「ハイネに人生のパートナーになってほしいって伝えたあの日のこと、覚えてる?」
「忘れるわけがないだろう。あの日は私にとっても君にとっても特別な日だったのだから」
日付もはっきりと覚えている、とハイネは続ける。
普段から意識して生活しているわけでもないし特別な日だからと言って特別なことをするわけでもないけれど、その日が近づくだけで何となく浮ついた気持ちになる、そんな日だ。
慣れないことをしたものだからあの時は柄にもなく緊張していたのだとアインが語ったのはパートナーになってそれなりに月日が経過してからだった。世界の命運をかけた戦いに何の迷いもなく身を投じた彼女でもプロポーズにも等しい言葉を告げることは緊張するのかと少しだけ驚いた。
「あのとき、人生を共にするならハイネがいいって思ったことを今でも覚えてるんだけど」
「アインにそう思ってもらえるのは光栄だけど、どうしてそう思ったんだい?」
「ハイネと一緒に深海を目指したとき、楽しかったから」
フィアソラ号を改良する為に素材を集めたことも。誰も到達することが出来ないような深い海の底を目指したことも。もちろんそこで見つけた、見たことのない景色も。その全てが楽しくて。
「この人ともっといろんな景色を見たいって思ったんだ」
「……アイン」
「ハイネがいつか空を飛べる発明品を完成させたとき、隣でその景色を見届けたいと思ってる。……連れて行ってくれるんでしょう?」
「それは、もちろん。君を真っ先に招待するつもりさ」
明日なのか、それとも十年後なのか。
完成した夢のような発明品に乗って、広い世界を二人で見てみたいと、知らない景色に触れたいと、そう思っている。