眼を覚ますと、見慣れない天井だった。
 身体を動かそうとして僅かに指先が動く程度であることに気付く。拘束でもされているのだろうかと視線を下に動かそうとして、何故かそれすらも叶わなかった。現状を理解しようとしたところで、口に何かが咥えられている事に気付く。喉元奥深くまで入っているそれは無理矢理肺に空気を送り込み、その反動で強制的に空気が身体から吐き出され、それを何度も何度も等間隔で繰り返していた。呼吸を自分で管理出来ないこの状況なのに、それでも身体は素直に規則的な空気の出入りを許しているようだ。本来ならば苦しさに藻掻いてもおかしくはないはずなのに、ぼんやりとする頭と身体は苦痛すらも感じないらしい。
 徐々にはっきりする意識の中、複数人の会話が聞こえてきた。時折混ざる聞き慣れない単語は何かの専門用語だろうか。まるで暗号か何かのように感じる。辛うじて目を開けることができ、少しの間天井を見てみた。やはり、この天井は全く記憶にない。
 どれほどの時間をそうして過ごしたか分からないが、突然自分の視界に見知らぬ女性の顔が飛び込んできた。白衣を着ている女性を見て、あの夢の中で見た映像がぼんやりと思い起こされる。現状をそれに結びつけるとすると、看護師か医者だろうか。その顔をじっと見つめていると、目が合った瞬間驚いたようにドタバタと視界の奥へと引っ込んでしまった。
「先生、坂下さんが、」
 その言葉を皮切りに場が混乱するのを肌と空気で感じる。
 とりあえず自分が覚醒していることに気付いてはくれたようだが、そんなに焦らなくてもいいんじゃないか。意識がない患者でも、状態によっては目くらい開けるだろう。もしくはそれほどの長い時間、覚醒すらもしない状況であったのか。
 次に男性が視界に入ってきた。先程の女性よりも年齢は相当上そうだ、医者であろうか。
「坂下さん、わかりますか?わかるなら二度瞬きをしてください」
 指示に従うと、妙に感心したような表情を見せ直ぐに奥に引っ込んでしまった。一体なんだったんだ。
 はてさて、自分は一体どんな状況で、これからどうなってしまうのだろうか。自らの身体であるというのに動くことも、呼吸すらもままならない状況である。それでも生きているということは一応は首の皮が繋がったということか。
(あれだけ死にたかったのにな)
 人生とはうまくいかない。しかし今は人の世を儚む前に現状から脱しなくては。そんな事を考えられる程少しずつであるが思考はクリアになっていっているらしい。
 まずは衰えたであろう筋力の改善、その前にこの呼吸をどうにかする必要がある。こればかりは気力で出来るわけではないから、少しずつ。どうせ時間は腐る程あるのだから。

***

 目覚めた後は流れるように時が過ぎた。看護師達に囲まれ、親を呼ばれ、直ぐには外せないと数日つけられていた人工呼吸器も外され、集中治療室を出て。そこでどうやら、今の季節は冬らしいということに気付いた。
 長期間の臥床生活に伴う筋力の低下らしく、一人で食事も排泄すらもままならず誰かの手を常時借りて生活を送っていた。排泄も人の手を借りなければならない状況は流石に少し堪えたものだが。車椅子での移動にようやく慣れたのは目覚めてから2ヶ月ほどの時間が経過した頃だった。
 入院中、一人で外の空気を吸いに中庭に出ようにも、自殺企図があった患者というレッテルは重いようで許可の出ない日が続いた。対応に慎重になるのは分からないでもないし、全ては自分の責任なのだが。とはいえ冬に窓を開けるのは同室患者の迷惑になるからと、外の空気すらも満足に吸えない日々が過ぎていった。看護師と患者の話声、一人事を言う患者、そんな言葉たちと共に過去の記憶を思い返し、ぼんやりと日々を過ごす。

***

 死のうと考えた。何か決定的な出来事があったわけではなく、ただぼんやりと。
 実家近くの高校を出て、文学に興味があるからと名の知れた大学に進んだ。その後、他人からの勧めで決めた職業を志し、アナウンサーの道に進んで四年程。
 カメラを通し他人に見られるのは苦にならない。芸人やタレントと異なり、言葉で他者のリアクションを求めることも、俳優のように自らを偽り演技をすることもない。与えられた原稿を読み、情報を相手に伝える。詳しく言えばそれだけでもないが、俺が行う範囲の仕事は大抵そんな内容だった。大して負担になるようなことはないはずなのだが。
 太陽の光を浴びながら帰宅する生活にも慣れてきた頃、何故か寝付けない日が続いていた。そう思えば、帰宅した瞬間自制出来ない睡魔と疲労感に襲われることもある。異常をきたしていたのは睡眠だけではなく、不規則な生活に連動してかご飯を食べる量が徐々に減っていった。水や汁物を飲めばある程度腹は膨れるし、そうすれば何かを食べたいと思うこともなくなる。寝付けない、食欲がない。そんな生活が進むと少しずつ体に不調は現れる。それから逃れるために休日はひたすら眠っているはずなのにどうも疲れが取れない。仕事を休み番組に穴をあげるわけにはいかないから、仕事の時間には活動できるだけの体力を温存しておく。そうなると仕事外で体力を使うことを回避するようになり、必要最低限の物資の買い出しと仕事場、家の往復を繰り返し同じ場所で過ごしていた。
 倦怠感と食欲不振、若干の不眠。いつ買ったのかすら覚えていない本たちは部屋の隅に積まれているし、いつか行こうと思い調べていた旅行サイトはもう数か月は開いていない。スマートフォンに触れるのはアラームをセットする時、時間を確認する時くらいであろうか。
 世間の情報は仕事を通して嫌でも自分に入ってきた。最近は陰惨な事件や事故の話題が多い気がする。渡された原稿を読み進めるだけ、そこに自分の感情は不必要であるがそれでも気が滅入るのというのが本音だ。
 疲労が溜まっているのだろうか。休日なのに布団から出られなくなりそう考える。出る意思がないだけだ、出られないわけではない。そう自分に言い聞かせ、隙間風で冷える室内から逃げるように布団に潜るも気休め程度にしかならなかった。

 それでもカメラの前で口は勝手に回る。何を考えているか分からないと他者評価を受ける程、表情に感情が伴わない人間であることに生まれて初めて感謝した。今日も無事に乗り越えることが出来た。後は家に帰るだけだ。
「あ、あの、坂下さん」
 突然声をかけられ早朝の職場で足を止め振り向く。それなりに身長のある女性が背後に立っていた。確かアシスタントだったか。その女性は何故か心配そうな不安げな表情を浮かべていた。
「えっと、……最近痩せました?」
「体重図ってないから、……そうかもしれないですね」
 確かに自覚はあった。例えばシャツのサイズに違和感を抱くとか、ベルトを締める位置だとか。手首を自分の指で囲む。自分はこんなに細かっただろうか。
「大丈夫ですか?その、」
「その内太るでしょう」
 会話を打ち切るようそれだけ返し背を向ける。もう俺に声をかける気はないようだった。
 こんな生活が後何年続くのだろう。十年、二十年。眠たい頭でぼんやりとそんなことを思う。帰宅する為に乗った電車は珍しく座れない程乗客がいて、結局数駅分車内で立っていた。暇つぶしに車内の広告を適当に眺める。週刊誌であろうか、普段報道するニュースよりもゴシップに近い内容が特集を組まれていた。死亡事故、殺人、詐欺や人間の悪意が起こした悲劇。文章を読んでいるだけでは理解しえない現実が今もどこかで起こっている。それと比較すれば自分の置かれている境遇は大したことはない。そもそもこれは疲労であり、上手な誤魔化し方が分からないだけなんだ。
「…………疲れたな」
 声に出せば、尚、自覚した。

***

 我に返る。随分長い時間過去の記憶に浸っていた。とにかく今の俺には時間がある。リハビリ目的となっている入院はまだ先が長そうだ。退院後は一旦実家へ、という話もあったがそれは拒んだ。精神科への通院という条件を飲み、自宅退院に向け日々時間の限りを尽くし過ごしている。
 規則正しい生活、栄養面の考えられた食事、適度な運動。健康というものを肌で感じる。かつての自分の生活について、院内のメンタルセラピストに話したところ、形容しがたい顔をされた。入院中テレビは見ないようにと助言を受けたが、試しに見てみるとたまのたまに自分のことがニュースで取り上げられていることを知った。他人事のようにそれを見ていると、巡視に来た自分より若い看護師の顔が固まる。「何か悩みはありますか?」と訊かれたが、昔も今も悩みなんて特に無かったと言って信じる人間は何人いるだろうか?
 世界は流れていく。昨日と変わらない今日であるが、どこか心が清々しい。

 しかし入院生活というものは暇な時間が多い。普段は触れない分野に触れることも良い刺激になるかもしれない。手始めに適当に最近更新された楽器の演奏やダンス動画でも見てみよう。普段は使用しない、素人でも配信可能な動画サイトで目に付いた動画を再生する。
 そこには自分よりも若い男が写っていた。きらきらとしたその表情に妙に惹きつけられる。曲によっては笑顔だったり、はたまた大人びていたり。今までの俺であれば気にならない他人の表情の変化がやけに頭に残った。結構な数の動画を投稿しているようで、当分暇な時間を潰すのに役に立ちそうだと、次なる動画の再生ボタンを押してみた。

***

「お前、今の聞いてた?」
 ぱち、と目を開けると篠崎の顔が視界いっぱいに飛び込んできた。引っ越したばかりの自分の部屋。ベッドを背凭れに床に座る俺の太腿に手を置き、見上げる篠崎の顔はむっとしている。
「いや、……全く聞いてなかった」
「はあ⁉ お前が見たいって言ったんじゃん。お前そういうとこある!」
 どうやら怒らせてしまったらしい。そういえば昔投稿していた編集前の動画ファイルを見せてほしいと頼んだ気もする。随分長い時間過去に思いを馳せていたらしい。
「編集前のなんてそんなに面白くないと思うけど。振り間違えてんのとか普通にあるし」
「そういう映像でもファンからすればお宝映像とかメイキング動画とか喜ばれるだろ」
「そうだけどさぁ……」
 自分の感情変化には疎いが、目の前のこいつは表情がよく変わりとても分かりやすい。怒っているよりも拗ねているといった方が表現は適切だろう。頭を撫でてやるも、振り払われない辺り本気で拗ねてはいないようだ。
「……懐かしい気分に浸っていた」
 素直に沈黙の理由を告げれば、じとりと意味ありげな視線を向けられる。これも拗ねている時の行動としてよく見られるものだ。言いたいことがあるならば構わず言えばいいと思わないでもないが、あまり追及して藪蛇にもしたくない。
「なんだ?」
 とはいえ、その視線が続くとやりにくい。問いかけてみれば、顔を背けられた。
「別に? ほら見るんじゃないの? 見ないの?」
「見る」
 ほんとかよ、と悪態をつかれ再生ボタンが押される。黙って画面に映し出される今よりも幼い顔立ちの篠崎を見ているも、横目に映る隣にいる篠崎の唇はつんっと尖ったままだ。
「拗ねてる」
「拗ねてない!」
「いや、お前そう言う時はいつも拗ねてるだろ。あと顔がもう拗ねてる」
 体育座りでクッションを膝の上に置き、それに顎を埋める篠崎は忌々しげに俺を見る。非難されている、間違いなく。
「……会ってる俺より動画の俺を取るくせに、考え事して動画さえ見てないとか……流石に傷付く」
「悪かった。今のは俺が悪い。百あれば百俺が悪い」
「…………許すの今日だけだからな。あ、この動画は飛ばすから。あんま見たくない」
「こら、早送りするな」
「やだ! 無理! 変態! むっつり!」
「何故そうなる?」
 理由は分からないが耳まで真っ赤にし羞恥に震える篠崎を見る。ころころ変わる表情はやはり見ていて楽しいものだ。他人を見て、こんな感情を抱く人間になれると思わなかった。
 変われる、こいつと一緒にいたら。そんな希望が湧いてくる。明るい太陽に照らされて、周囲を見回すことが出来るようになった。暗く冷たい部屋で、一人でふさぎ込んでいた自分はもういない。死を願った自分はあの夏の日に死んだ。俺はこの世界で生きていける。死を願うことはもうないだろう。置いていけない、大切なものが今の俺にはある。
「大丈夫だ、もうしないから」
 きっと大丈夫だって、今なら言える。


はるのはこ