秋真っ只中。
 放課後の教室はどこかひんやりしている。受験生が勉学に本格的に励むこの時期は、推薦組と受験組、また更に偏差値や模試の結果などで各々に様々な差を生じさせる。それはそのまま個人の精神的な余裕へと繋がり、学校生活のあらゆる面で軋轢を生み出していた。
 この高校は受験生向けに空き教室を学習部屋として放課後開放しており、殆どの生徒が夕方の時間をそこで過ごしている。元々所属している教室はたちまちもぬけの殻となり、ゆったりと暇を潰すのには適している空間にあった。
 自分以外誰もいない室内でぼんやりと窓の外を見る。何度も繰り返し解いた問題集しか持ってきていないのは俺のミスだ。こうなることが予測出来ていたなら、有意義な時間を過ごす為の物を自宅から持ってきたというのに。仕方ない、と何度も頭の中で反芻しつつ既に文章を見るだけで解答が浮かぶ問題集に視線を落とす。全くもって、時間の無駄だ。
「おや? なんだ、まだ残っていたのか」
 ガラリとドアの開く音。それに続き教師のような口振りで俺に話しかける声が一つ。だが実際に教師というわけではなく見知った同年代のクラスメイトが近寄り俺の顔を覗き込んできた。あまり普段の生活では話さない男だ。とはいえ声の大きさ、存在感の濃さという意味で決して目立たない人間ではないので、他のクラスメイトより存在を認識している。
「まあ」
「俺も今部活が終わったところでな。君は、うーむ、図書委員の仕事は今日は君の当番ではないはずだし……、ともすれば彼女でも待っているのか? んー?」
「まあ」
「ふむ。君はそればかりだな。無理に会話を広げろとは言わないが、俺たちの性格的な相性を加味しても、切なさを覚える返答だ。せめてバリエーションをもたせてほしい」
 発言量の圧倒的な差と共に呆れたような表情を向けられてしまう。さりとて相手も自覚があるように、俺は別にこの男に対して興味関心は抱いていない。無駄な時間を埋めてくれる人間やもしれないが、この上機嫌さは今の俺には、いや普段の俺でもついていけない。俗に言う相性が良くないタイプの人間だった。そんな俺の思い等全く知らないフリをして、男は自分の鞄を引っ掴んだと思うと俺の前の席に座り、再度顔を見つめ始める。
「で。何をしているんだ? 恋文でも認めているのか?」
「いや……、勉強していた」
「ふむ、それにしてはノートは白紙のままだが」
「何度も解いたからな、改めて解く必要もない」
「それは勉強になるのか?」
 確かこいつは既に受験を終えた、謂わば推薦入試を済ませている人間では無かったか。受験勉強というものが珍しいのだろうか、問題集を勝手にペラペラと捲っていた。
「なるほど、こんな問題集だから君はそんな浮かない顔をしているのか。もしくは、愛する彼女が訪れないから寂しいのだろう。わかるぞぉ、俺も愛する人間が目の前に居ないことには何もする気は起きない!」
「すまない、お前の言っている意味が全く分からない」
「なんだと? わからない? 何故だ。単純な話だろう? 彼女を待っている、謂わばいつ現れるかドキドキ胸を高鳴らせる期待と希望に満ちた時間のはずなのに、退屈そうな君の表情に矛盾を感じている、……ということだ」
 どうやらお互いに話が全く噛み合ってないらしい。日本語を話している筈なのに、その言葉の意味を理解出来ず首を傾げると相手も同様の反応を示していた。
「待ち時間も、愛しい相手であれば苦ではないだろう? 俺であれば会えた時、どんな表情でどんな言葉をどんな風にかけるか考えるだけで無限の時を消費してしまいそうだ。そしてそこに無駄などない。無駄こそが愛を育むとも言える」
「時間の無駄は無駄だろう」
 バッサリ言い捨ててやると男は目をパチクリとさせていた。そんなに驚くことだろうか。
「君は、想像通りではあるが随分冷たい男だな」
 価値観の相違について、こうも主観的に評されると言葉に迷う。恐らく、この男は俺の話している言葉の意味の数割も理解していないだろう、と自分なりに言葉を付け加えてみた。そもそも彼女を待ってると言った訳でもないのに何故察しているのか分からないが。
「無意味にここに拘束されているのと変わらないから今すぐにでも帰りたいが、その理由を考える労力が惜しい。後から精神的なフォローをすることも同じく面倒だ。ここで無駄な時間を過ごした方が、今後を思うと効率が良いからな」
「ふーむ、恋愛は効率なのか?」
 駄目だ話にならない。全てを一旦恋愛に置き換えないと理解出来ないのだろうか。会話を断ち切るべく敢えて返答しないでいたのだが、一瞬の沈黙の後奴は口を開いてみせた。
「話を変えよう。時に君は彼女とどこまで進んだんだ? なあに、ただの興味本位だ。確か……そうだな、君は……性行為はしたのだろう? 彼女が友人に話しているのを小耳に挟んだ。女性はそういう話題が好きだよなあ。足並みを揃えたいのか抜け駆けしたいのか」
 何を話すのかと思えば。人間の触れて欲しくない、回避してほしい所をこの男はどうやら理解していないらしい。俺が他者への関心が薄いという点は認めるが、それ以上に過干渉なこの男に対して若干の侮蔑を覚える。返す言葉は適当で良いだろう。
「そういう雰囲気だったからな。それ以外の理由がない。断る理由も特になかった」
「……ふむ。君の場合だと本心からその言葉を吐いているのだろう。なんと嘆かわしいことか。君は本当に人を愛したことがあるのか? 自分から相手が欲しいと求めたことは?」
「ない」
「即答だ、これ以上は何も言うまい」
 ようやく会話が終わったようだった。男から目線を逸らし少しも進んでいない問題集に目を通す。目の前のクラスメイトが興味を無くしたように俺から離れていくのを気配で察した。俺からかける言葉は特にないが、向こうはあるようで一言言い残される。
「愛のない人生は酷く無意味なものだ。生きる価値すらない。君も早く気づけると良いが」

***

「いやあ! 久しい友人がまさかこんな素敵なボォーイフレンドを連れているとは。あの頃の俺に教えたい。人生はかくも予想外の連続で、」
「篠崎、こいつの話は流して良いからな」
「……一応短期間でも先生だったし、やりにくい」
 時は過ぎ十年ほど。行きつけの居酒屋で、どうやら何かの行事の打ち上げをしていたらしい軍団と遭遇する。羽目を外していると言わんばかりの騒がしさの中から己の名前を呼ばれた時には正直驚いたが、声の主を見て不思議と納得してしまった。そのまま隣の席に座られ、傍から見れば三人組の集団が形成される。
「ああそうだ! 俺は君の教育者であり、先導者だ。正しい道を照らし、愛を育めるような情緒教育を骨の髄まで染み渡らせ、来るべき素晴らしい未来へ歩いていけるよう」
「篠崎、何か食べるか。豆とか」
「肉食べたい。俺食べれそうなのある?」
「ちーっとも話を聞いていないなぁ?」
 自分の話を蔑ろにされ不服そうに言葉を挟むも、顔には笑みを浮かべたままのそいつは、ぐい、と俺に顔を寄せてきた。大層ご機嫌らしい。
「俺は感動しているんだよ。君は、本当の意味で他人と向き合うことが出来ないと思っていたから。その点では、そうだな、俺は君が理解出来なかった」
 言い返す間も無く、そいつは己の世界に入っているようで言葉を続ける。
「愛は素晴らしい。もっと簡単に俗物らしい表現をするならば、胸が温かくなり、生きる希望になる。そんな相手を君が見つけられたことを、友人として誇らしく思う」
「俺はお前と友人関係だと大声で言えるほどの交流をしてきた覚えはないが」
「何をいう、人類皆友人だ」
 更に距離を詰められ、額同士が密着する。誰彼構わず接触を許すつもりはない、拒絶しようと距離を取るも肩に置かれた手の力が予想より強くて離れることは叶わなかった。そしてそれまでの声量とは一変し、吐息を多く含んだ声で耳元で囁かれる。
「十年もの月日を経て、ようやく君の元に待ち人が来たんだ。これは喜ぶべきことだぞ? どうだ、これまでの君の人生は無駄だったか?」
 言い終わると形容するならニヤリ、そんな笑みを浮かべ男は離れていった。向けられた言葉にいつかの夕暮れ時の記憶が蘇った気がした。この男との数少ない接点であったように思える。
「では俺は戻るとしよう。突然すまなかったな。……篠崎くん、また会おう! 心は離れていても、教師は生徒の成長を心から望む生き物だからな! そして今度は君たちの愛の物語を聞かせておくれ。多種多様な愛の形に触れ、慈しみ、理解したい」
置いていかれたグラスには度数の強い酒が入っているようでテーブルの脇に追いやる。先ほどの発言全てを酔っ払いの戯言だと言い捨てるのはどこか憚られた。
「……急にこっそり話し始めた。俺大人しく待ってた」
 面白くなさそうな表情で小皿に入ったつまみを食べる篠崎の顔を見やると、つんと唇を尖らせていた。その表情にどうしようもない愛しさを覚え、思わず笑ってしまった。
 こいつにしたいこと、してやりたいこと。両手の指じゃ足りないほどに沢山ある。これからの未来は一人の頃とは比べ物にならないくらい輝き、価値のあるように思えた。ここまでの人生色々あったが、終わりよければ全て良しだろう。
 とはいえ、まだまだ終わらせる気などないのだが。


はるのはこ