見慣れない番号からの着信が一日に十数度、ここのところ続いている。かけ直すべきか数日様子を見ていたが、日を跨いでも続く着信についに根を上げ応答した時、聞き覚えのある声が電話越しに聞こえてきた。
「やあ! 坂下くん! まったく君は多忙な男だ。俺が何度も何度も何度も連絡を試みたというのに。一度も出てくれないから明日辺り家に赴こうと考えていたところだぞ」
 自ら名乗ることなくそう捲し立てる相手が誰かすぐに分かった。しかし、そいつに電話番号を知らせた覚えはない。無論住所も同様にだ。
「……何故お前から電話が」
「なぁに、君の個人情報が漏洩しているわけではない。俺が個人的に調べただけだ」
 それもそれで問題なのだが。
 昔からこの男に常識が通用しないことは痛いくらいに分かっている。わざわざ一つ一つの発言に丁寧に耳を貸すのも面倒なため、適当に先を促してみた。
「で、要件は」
「ああ、君と親交を深めようと思ってなぁ。近い内に飲みにでもいかないか? 例の彼との進捗が気になる。あ、ちなみに俺が誰かわかるか? 秋波啓介だ」
「わかった上で返答させてもらうが、お前に話すことは特にない」
「では明後日、十九時、君の局の前で待ち合わせだ。酒を飲むからな、その日は車ではなく電車で出勤してくれ」
「おい、話を聞け。というか何故俺が車通勤なのを知っている?」
「ふふ〜ん」
 電話の向こうで何かページを捲る音とペンを走らせる音が聞こえた。予定でもメモしているのだろうか。承諾した覚えはないが、どうやらあいつの中では確定事項となってしまったらしい。仕方ない覚えておこう。明後日、十九時。
「……よし。場所は俺が決めておくから心配しなくていいぞ。さて、詳しくはその時に訊くが取り急ぎ……どうだ問題なく過ごせているか? 喧嘩などはしていないか?」
「していない。……多分」
「ふぅん、随分曖昧な返答だ。これはさぞや様々な話が聞けるに違いない。その時にぜひ君たちの馴初めも聞きたいところだなぁ。終わってしまった愛を聞くのも乙なものだが、君からは成就した愛の始まりを、そして今に至るまでの経緯を詳しく聞きたい」
 ベラベラと相変わらずよく回る口だ。俺も職業柄喋ることを生業としているが、既に完成された原稿を読み上げる俺と、大衆に向け舌を振るう教師とでは性質が違うことを痛感させられる。次から次へと語られる言葉は半分ほどは右から左だ。
「いやぁ、にしても杞憂だったな。君であれば相手の感情を察せないと言い訳をして、彼を寂しい気分にさせているものではないかとも思っていたから」
「大きなお世話だ。多分大丈夫だろう」
「さっきから多分、思う、そればかりだ。もう少しはっきりとした返事が欲しいものだな」
 やれやれと呆れたような発言を聞けば、返事をする気は失せてしまった。後は適当な相槌を打つだけの機械と化していると、流石の向こうも俺に会話をする気がないと理解したのか話を切り上げた。
「では親友! 明後日を楽しみにしている!」
 ぶつん、そこで通話が終了する。勢いで予定が決まってしまったが、まあいいだろう。

 正直、秋波でも誰でもいい。実のところ俺には他人に相談したいことが一つだけあった。折角だしこの機会を利用させてもらうとしよう。もしかするとその相談内容は秋波が一番適切なのかもしれないのだから。


***


「はは〜ん、なるほどな。篠崎くんの友人に対し、つまり……、ふう〜ん」
 仕事終わり、週末ということもあり客が多い居酒屋で酒を飲みながら楽し気な笑みを見せる秋波に、相談する相手を間違えたのではないかと気づいたのは飲み始めてから一時間も経たない頃だった。

 相談したいこと、それは篠崎の友人についてだ。元々篠崎と仲が良く、俺が見ていた動画にも出演していたので存在は知っていたが、ここのところその仲の良さが妙に気になる。例えば接触の回数とか、やけに親し気に見えるとか、そういうところ。冬が近づき篠崎が家に友人を呼ぶことが多くなり、必然的に二人のやり取りを目をつく機会が増えると、今まで気にならなったところにまで過剰に反応するようになってしまった。それが本当に過剰か、はたまた他人の目から見て妥当な反応か。普段から愛だの恋だのと言っているこいつに訊けば分かる気がした。していたのだが。
「まあ、気にしすぎかどうかは俺には分からないが……。少しでも疑わしいと思うのならば、気をつけないと最悪その内寝取られるぞ? 略奪愛も好ましくはないが愛の形の一つであることには変わりない」
「略奪って……それこそ考えすぎじゃないのか。それに別に疑っているわけじゃない」
「なぁに、恋の障害は多い方が燃え上がるが、いかなる外敵にも自らの愛の砦を破壊されないよう備えるのは必須だ。常に危険回避行動がとれるようもしもという考えを持つことは、これまた絶対だ。君は事が起こってから後悔するタイプか? それこそ時間の無駄だろう」
 グビリ。ジョッキに半分程度残っていたビールを一気に飲み干す。
 略奪? それはありえない。そもそも俺はこのまま篠崎が奪われてしまうのではないか、という心配は微塵もしていなかった。それほどあいつは誰彼構わず自分の懐に入れるタイプではないと思っているし、俺から友人に気持ちが靡いたのであれば隠し通せず俺に全てを告げるだろう。そう信じている。
 どんな表情で秋波を見ていたか分からないが、向こうは俺の視線に降参だというように両手を挙げる仕草をしてみせた。
「君の感情の赴くまま動けばいい。それしか俺には言えない」
「赴くまま、と言われても」
「愛に動かされた君があくまでも理性的に動くか、はたまた狂気に囚われるか。どのような選択をするか俺に見せてくれ」
 言いながらにやり、と秋波の口角が上がる。相変わらず何を言っているかその真意を全て汲み取ることは出来ないが、俺の思う通りに動けというのなら、今の俺にはこいつの食べかけの焼き鳥を奪うことしか思いつかなかった。

 もしこの感情が篠崎の友人に対する俺の過剰な反応であれば、何か行動を起こすのは誤りだろう。そもそも別に何かをどうこうしたいわけではなく、単に俺が気にしているだけだ。そこに理性も狂気も関係ないと思うのだが。やはりこの謎の感情に蓋をしておくのが無難なのだろうか。秋波と話したことで更にこの感情の正体が分からなくなってしまった。

 相談する相手を間違えた気がする。今日何度したかしれない後悔を胸に、追加のアルコールを忙しそうに歩き回る店員に注文するのだった。


***


 秋も終わりに近付きつつある十一月。
 淹れ終わったコーヒーが入ったマグカップ片手に、対面キッチンよりリビングを眺める。
 暖房で暖められた室内には、住民である俺と篠崎の他にもう一人、篠崎の友人である天本がいた。篠崎と似た金髪を揺らし、楽し気に談笑しているようだ。これまでもたまに遊びに来ていたが、ここ最近は頻度が多くなっている。秋波に話した通りの状況であった。とはいえ、友人関係においてその頻度があくまで正常の範囲内であるか否かの判断は交友関係が狭い俺には難しい。
 篠崎との休日を過ごす貴重な時間が減る。そう考えると何とも言えない気分になるのも本音だ。まあ、これも全て致し方ないのだが。

 リビングにいる二人の邪魔にならないよう自室へ移動する。
 読みかけの本でも開き、架空の世界へ意識を飛ばせばすぐに時間は経ちいずれ篠崎との時間を確保できる。
 天本も来る頻度こそ多いが一日中長居するわけではなく、数時間談笑して帰宅するだけだ。俺に迷惑をかけるわけでもない。それに篠崎との予定を反故にされたわけでもないのだから、俺に篠崎の休日の使い方をとやかく言う資格もない。寧ろ、これまで休日のほとんど全てを篠崎に費やしていたことを顧みて、何か俺も別の趣味を持ったり、交流の幅を広げた方がよいのだろうか。あまり興味関心の全てを篠崎に向けるのも良くはないのかもしれない。篠崎はまだ自分より若いし、友人と遊びたいというのも当たり前の欲求だろう。三十にもなりそうな男が若者を束縛するのは、傍から見ても正しいことではないはずだ。
 考えに耽っている間に温くなったコーヒーを啜る。あまり美味しくはなかった。


***


 気が付くと二時間ほど経過していた。リビングから物音は聞こえない。天本はいつの間にか帰宅したのだろうか。
 先程淹れたコーヒーは既に飲み干していた。僅かに感じた喉の渇きを潤すべくキッチンに向かおうとしたところで、リビングに座る天本と目があう。帰宅したと思っていた故に、一瞬息を飲む。正直かなり驚いた。物音一つ立てず今まで何をしていたのだろうかと思いながら、その隣にある篠崎の丸い背中に目を向ける。
「圭ね、寝てる! 疲れてるんだと思う!」
 俺の視線の動きに気付いたかのように、天本はすかさずそう言った。
「……そうなのか」
 友人がきているのに珍しい。よっぽど疲れていたのかと思うと同時に昨夜、もとい日付が変わってからも行っていた篠崎との交わりを思い出す。なるほど、その時に思ったより負担を強いてしまったらしい。確かに今朝は腰が怠いと言っていたような気がしたが。
 篠崎はテーブルに突っ伏すようにして眠っているようだった。その横で篠崎の背中を撫でている天本は、果たして篠崎が起きるまでいるつもりだろうか。
 何か飲み物くらいは出した方が良いかと、適当に冷蔵庫にあったジュースをコップに注ぎ渡してやる。ありがとう、と礼を言われ役目を果たしたのだからと部屋に戻ろうとしたところで、急に天本に腕を掴まれた。存外強い力で振り払うこともできず、バランスを崩し情けなくソファーに倒れこんでしまう。物音で篠崎が起きてしまったかと不安に思ったが眠り続けており、安堵の息を吐いた。柔らかいソファーであるが、受け身を取れずに倒れ込んだ為関節がやや痛む。
「ねえひま! 彼氏さん、おれとお話しよ!!」
「……構わないが、もう少し静かに誘えなかったか?」
 ここで会話すると篠崎を起こしかねないのでは、と言おうとすると天本は篠崎の耳元の髪を指先で払った。耳にはワイヤレスイヤホン、どうやら音楽を流しているようだ。だからある程度の声量であれば気にならないと言いたいのだろうか。

 恋人の友人との距離感などよくわからないが、邪見に扱うのも失礼だろう。話す内容は共通の人間関係である篠崎の話題が主になるだろうか。読書もひと段落したところだし、会話に付き合うのも良いかもしれない。ついさっき、篠崎だけに興味関心を向けるのは如何なものかと己を振り返ったところだ。有言実行。
「圭かわいいよね! ちっちゃくて! みにまむ! ほら、机にくっついてたらおでこ痛くなるよー。こっちおいで」
 言いながら、天本は自分の肩に篠崎を引き寄せた。随分距離が近いんじゃないか、という疑問と同時に突然心の中にじんわりと黒い感情がよぎる。なんだこれは。正体不明のこの感情に思い当たる節はない。
 仕切り直そうと首を軽く振ると、天本がじっと静かに俺を見ているのを感じ顔を上げる。
「どうした?」
 そう問いかければ天本は満面の笑みを見せた。
「せっくすしたんでしょ!! 圭と!!」
「は?」 
 友人の恋人、それも年上に対して選ぶ話題か? 篠崎と同じ年齢であったと思ったが言動も振る舞いも全て実際より幼い印象を抱く。
 かつて秋波に同じような質問をされた事があった気がする。俺はその時なんと答えたのだったか。
「…………篠崎がなんと言っていたかで返答が変わる」
 不快感を露わにしないよう注意しつつ、反射的に返せず生まれた間に気付かない振りをしてそう返答する。そんな俺の様子に目論見通り何も思わなかったのか、うんうんと天本は頷いてみせた。
「圭はおれに全部はなしてくれるからね! だから知ってるよ!」
「そうか。随分仲がいいんだな」
「幼馴染だからねー。仲いいよ!」
 仲が良いと性的な事情も赤裸々に話すのだろうか。そういえば確かかつての秋波の件も、俺の彼女であった同級生が友人に性事情を暴露し、それをたまたま聞いていたことから俺の事情が発覚したという流れではなかったか。とすれば、親しい友人同士であれば性的な事情を共有するのは、ある程度であれば容認しなければならないということで。今まで親しい人間を作ってこなかったが故の価値観の違いを今更ながら痛感する。
 そんな俺の思考は露知らず、天本は質問を続けてきた。
「ね、圭のことすき? せっくすするくらいだもん、将来のこととか考えてるー!? 男同士じゃ結婚はできないけどね! それでも圭を大事にしたいとおもってる? 惚気ていいよ! お話聞きたい!」
 なんだって突然。好きでなければ恋人関係になったりしない。ましてや同性同士で。そんな当たり前のこと態々訊く必要があるのだろうか。
「ねえどうなのさ? 答えられないの?」
 答えは決まっていたが、どう伝えれば良いものかと思案していると天本の俺を見る目が、急に細められた。
 口元だけ笑っているのに目が笑っていない。目が据わっているという言葉はこういう表情を指すのだろう。突然の表情の変化についていけずにいると、俺の返事を待たずに天本は更に言葉を続ける。
「俺、ずっと圭から話聞いてたんだ! 圭が何を言われて、何をされて、どう思っていたのか全部知ってる。ともだちだからね!!」
「それは、」
 つまり何が言いたいんだ、と問おうとして俺の言葉に被せるように先に口を開かれる。
「付き合う前から手を出してたってことも全部。本当に大事で好きだったなら無責任に手なんて出せないと思うけど」
 完全にそれは俺を責めた物言いだった。
 ふむ、と思う。篠崎がそこまで友人に話していることに対して、俺が責める気持ちはないし、責める権利もない。ただ、この状況で悪は間違いなく俺だ。
 こいつは俺のどういう反応を望んでいるのか。篠崎への謝罪か、それとももっと別のことか。友人として、ひどい行いをされた篠崎を守りたいと、そういうことだろうか。俺が悪、もっと言えば篠崎を弄んでいると、そう言いたいのだろうか。
 それに気付いた途端、自分の中の何かが急速に冷えていくのを感じた。図星だったからではない。抱く感情は嘲りだ。
 全部知っている、全部話してくれるという割に、この男は篠崎について何も知らない。知ったような口を聞いているだけだ。それも、俺に対して。それを笑わずして何を笑えというのか。正体不明の黒い感情が胸と腹だけでなく、顔の筋肉も支配する。鏡が無いから自分の表情を見ることは出来ないが、おそらく今俺の顔は笑みを作っているのだろう。
「だとして、お前は俺にどう言ってほしいんだ?」
 大人気ないとは自分でも思う。仮にも篠崎の友人なのに自分の感情で普段よりも物言いがきつくなっている気がした。しかしお互い様だ。
 俺の発言に対し天本が答えることはない。ならば俺が語るのは。
「それでも俺を選んだのはこいつだろう。それに対してお前が今さらとやかく言う資格はない」
 バッサリと、切り捨てるようにそう言ってやった。
 沈黙が訪れる。微かな篠崎の寝息だけが俺の耳に聞こえてきた。
 一般的には気まずいとされるであろうこの空気も、僅かな居心地の悪さを感じさせるだけだ。ここで耐えられず席を外すなんて真似はしない。相手がそうするように、俺も天本の眼を見続けた。
「………………ごめんね! いじわるしたくなっちゃった!」
 ころり、表情が変わる。それは天本がいつも篠崎相手に見せるような笑顔だった。
「おどるから許して! はっ! はっ! あっ、圭が起きちゃうね! よしよし、いい子で寝てるんだよー」
 篠崎の頭に手を添え撫でる。その様子に腹の奥にいた黒い錘が更に肥大していくのがわかった。その手を除けてほしいという思いに駆られる。秋波が言った略奪の二文字が頭をよぎった。馬鹿馬鹿しい、そんな訳ない。
「お前に篠崎が何をどう言ったのか分からないが、……かつての非を責められるなら、それを篠崎が言えないでいるなら、俺はお前からじゃなく直接こいつから聞きたい。全て聞いたお前が俺を許さないというのなら、それは甘んじて受け入れる。当たり前の感情だ」
「当たり前なの?」
「ああ、もし俺と同じような奴がこいつの前に現れたら俺なら許さない」
 思い出したくない記憶でもあった。抱いた後に泣く篠崎の姿なんて、もう二度と見たくない。もしかしたら篠崎はこいつの前でも涙を見せていたのかもしれないなんて考える。
「むずかしいね! でも圭は気にしてないんじゃない? 今しあわせそうだし!」
 向けられているのはあくまで笑顔のはずなのに、相変わらず敵意を感じずにはいられない。だが、それ以上は会話を続ける気はないと言わんばかりにもう天本は俺を見てはいなかった。
「話は終わりか? なら部屋に戻る」
 ここに長居して篠崎の安眠を妨げるのも本意ではない。俺はソファーから腰を上げた。

 心のどこかでは、ただこの子供は友人である篠崎が心配で。だから恋人である俺に篠崎を傷付けるのはもうあれきりにしろと釘を刺しているだけだと分かっている。なのにそんな理性と裏腹に、お前と俺とは違うという明確な境界を突きつけてやれと俺の中の何かが言葉を発しようとするのだ。優越感、独占欲、嘲笑、敗北感、いろんな負の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、悪意のある言葉で人を傷つけてしまいそうなそんな気分。これが秋波が言ったところの狂気の正体なのだろうか。であればそれに飲み込まれないようこの場を立ち去るのは会話が終わった今最善手だろう。

 しかし、これだけは言うべきか。
 頭を撫でていたはずの天本の手が気付いたら篠崎の頬に触れている。そのまま指が頬から唇に移動したところで俺は天本の腕を握った。力を込めて牽制したいところであったが、生憎自分の非力度合いは弁えている。
「…………何?」
「距離、近すぎやしないか」
「おれと圭はともだちだよ? それに俺男だよ?」
「だからだ」
「変なの!」
 ここが漫画の世界であれば、恐らく俺と天本の間には火花が散っているのだろう。あくまでこれは警告だ。特に話を膨らませ喧嘩をしたいわけでもないので、それだけを言い部屋に戻ろうとする。
 天本は男であり篠崎の友人である。これは事実だ。たまたま篠崎の好きになる人間の対象に男が含まれているだけで、この世界の大多数は異性愛者であり、篠崎の近くにいる男だからと全てに警戒してしまうこともないのだが。なんとなく言っておかねばいけない気がした。それと同時に自分の余裕のなさを痛感させられる。

「圭を悲しませないでね。俺の大事な友達だから」
 その言葉を聞き、ドアを閉め部屋に戻る。俺たちがやりとりしている間、篠崎は一度も目覚めなかった。


***


「冬仁、起きてる?」
 読みかけていた本にしおりを挟み、机上に置く。入ってきたのは篠崎だった。
「寝てない、起きてた」
「夏樹帰ったから呼びに来た。ごめんな、気遣わせて」
「いや、別に。一回そっちに行ったけど、お前寝てたから起こすか迷った。疲れてるのか?」
「あー、次の動画の打ち合わせとかしてたらなんか寝てた。後は昨日のお前のせいもある。お前俺より体力ないはずなのに、なんでああいう時だけ頑張れるわけ?」
「若いからな」
 時計を確認していなかったが、そろそろ夕飯の時間だろうか。折角の休みだ。どこか外に食べに行くのもありかもしれない。そう篠崎に告げれば、少し考えた様子だったが承諾してくれた。
 寒い時期だし、何か温かい物が食べたい。なんでもいいが、篠崎が食べられるものとなれば入れる店は限られてくる。顎に手を当て考えに耽ると篠崎は自分の部屋に戻りもこもこのファーのついたコートを羽織り戻ってきた。
「今日寒いって夏樹が言ってた。だから食べるならあったかいものが食べたい」
「俺も同じこと考えてた」
 言いながら、もやり。時間が経ち消えていた黒い感情が刺激される。
「何にしようかな。……あ、この前夏樹に教えてもらったとこに行きたい。ちょっと歩く居酒屋なんだけど、割と近い。あとおにぎりもある」
 もやり。もやり。
「ふー……」
 心を落ち着かせるため深く息を吐くと、篠崎は反応を見せた。
「どうした?」
「なんか、負けた気になった」
「は? 負け? どういうこと?」
「お前と会って、まだそんなに経ってないし、よくよく考えればお前のこと、知っているようで知らないなと思って」
「…………なんかあった?」
 何か、と言われれば特に何も無かった気がする。簡単な言葉を交わして、ただそれだけだった。
「お前の友達と話してそう思っただけだ。だから別に何もない」
「夏樹?」
「ああ。お前ら随分仲がいいんだな」
「だって小さい頃から友達だし。二十年……まではいかないけど、」
 どれほどの期間篠崎と共にいたかではなく、その友人から話された内容の方が問題だった。どこまで篠崎に言おうか。そもそも言わないほうがいいのか。
 本当はまだ俺のことを怒っているのか、と問おうとしてやめた。下手をすると俺が篠崎を責めていると勘違いされかねない。それにあくまで昔のことだ。今の関係が良いのであれば、わざわざ蒸し返す必要も無い気がした。これはただの過去の自分の罪に対する逃げなのかもしれないが。
「あいつは俺のこと、たぶんそんなに好ましく思ってないぞ」
 とりあえずこれだけ言っておこう。
 そんな俺の言葉に篠崎は首を傾げてみせる。
「そうか?」
「なんとなくな。とはいえ、俺の勝手な思い込みかもしれないから話半分で聞いてくれ」
 誰でも友人を悪く言われて気分の良い奴はいないだろう。これ以上は何も言わないと思っていても、賽を投げたのは俺だ。
「冬仁は夏樹のこと嫌いなの」
 だから、そう訊かれても当然だった。客観的に見なくても今すごく嫌な奴になっている。
「嫌いではない。お前の友人だしな。ただ、まあ、……いろいろ……」
 珍しく自分でも語尾が曖昧になっている自覚はある。しかし自分でもこの黒い感情に対して適切な表現が出来ないのだから仕方ないだろう。ここまで言ってから、やはり最初から何も言うべきではなかったと自戒した。親しき中にも礼儀ありだ。最近の俺は後悔ばかりしている。
「俺としては、二人には仲良くしてほしい」
 そう言う篠崎はしょんぼりと眉を下げていた。
「仲良くはしたい。繰り返しになるが別に嫌っているわけじゃないんだ。ただ上手く言えないが、……」
 なんと言えばいいのか分からず頭を抱えている俺を篠崎は見上げている。これは俺の言葉の続きを待っている顔だ。ついさっきこれ以上は喋らないと決意した思いが端から壊れていく。
「…………やけに、距離が近いのが気になった。仲が良いから当たり前なのかもしれないが、それにしても、少し無防備過ぎる気がしたんだ。お前らは、仲が良いから色々共有するだろうし、そういう接触も気にならないんだろうが」
「無防備?」
「ああ」
 ぱちぱちと篠崎が瞬きを繰り返す。嫌な思いをさせてしまったかとその表情の変化を見守っていてやると、何故か満更でもないような顔をしてみせた。コートのファーに顔を埋めるようにして、何やら考えている。予想外の反応に狼狽えていると、ちらりと篠崎は上目遣いに俺を見た。
「……もしかしてそれ、夏樹に嫉妬してるとか?」
「しっと?」
 しっと。しっと?
 言われて嫉妬という言葉を頭の中で反芻させる。
 ひがみ、ねたみ。基本俺が日常生活でよく用いる嫉妬は相手の才能、要領の良さに対して邪な感情を抱くという意味で使用しているが、この場合は篠崎と親しい間柄であることへの嫉妬という意味だろう。愛する人が、別の人に心を寄せることを怖れること。嫉妬。
「すまない、初めての経験だからこれが嫉妬かよく分からない」
 言葉の意味は分かっても以前秋波に言われたように、自分の意思で他人と関わろうとしたことがあまりなかったからよく分からないというのが本音だ。
「はじめてって」
 けらけらと俺の言葉に篠崎が面白そうに笑う。
「なんか夏樹にされて嫌に思うならわかるけど、そうじゃないなら、そういうのもあるんじゃねえの? お前、気付いてないかもしれないけど顔、すごく不機嫌」
「なんだって?」
 確かに意識すると眉間に無駄な力が入っていることが分かった。ふう、とひとつ息を吐いて力を抜くと、今度は口角が下がる。ポーカーフェイスが特技であった俺にとって、自制出来ない表情の変化に驚かずにはいられない。感情のみならず、表情すら自分の思い通りに出来ないとは恐るべき嫉妬。自分の頬をむにむにと筋肉を解すよう揉めば、篠崎の手が俺の手に重ねられる。同じようにむにむにと、頬に触れてきた。徐々に顔が普段の調子に戻ってくるのが分かる。
「すまん。ご飯を食いに行く前に嫌な気分にさせた」
「別に? ……ていうか、それにもし嫉妬だったら、嫉妬って好きな奴にするもんじゃん? だから、その、嬉しい」
「しのざき、」
「でも、少なくとも夏樹とそんなことにはなんねえから。夏樹以外ともしないけど、夏樹とは絶対にない」
 そうきっぱり断言し、「安心できた?」と確認するように訊いてくる。
 ぶすぶす、黒く燻っていた感情が自分の中から消えていく。名前がついた嫉妬という感情に向き合うと、ようやう秋波の言っていたことが分かった気がした。あくまでも理性的に動くか、はたまた狂気に囚われるか。あいつは俺のことを感情のないロボットだと思っている節があるから、嫉妬という感情を前にした俺が何を仕出かすか見たかったのだろう。一言、お前のそれは全て嫉妬からくるものだと教えてくれれば俺も適切な行動をとれたに違いのに。
 生まれて初めて感じる独占欲、嫉妬。それも全ては目の前の人間を心の底から自分の物にしたいと、手放したくないと、専用したいと思っているからで。これはきっと変化を望み生きることを決意した俺にとっては喜ぶべき成長だ。
 返事を返さない俺の顔を不安げに覗きこむ篠崎の肩を掴み、そのまま口づけを試みる。理由なんてない。したかったからだ。だが勢い余ったのか、急に近づいてくる俺の顔に驚いた篠崎が頭を背けたからか、ごつんと互いの額をぶつけてしまった。痛む額を押さえる。
「いって……篠崎お前頭突きしたのか。やっぱり怒ってるのか」
「はあ!? お前が無理やりするからだろ!! いてえから! こっちも普通に!」
「やっぱり怒っている」
「めんどくさい!」
 そんなやり取りをしつつ顔を見合わせて笑い合う。これからもいろんな感情に振り回されるのだろうか。だがそれも悪くない気がした。
 次天本に会う時には自分の言動を謝ろう。やはりあれはどう考えても大人気なかった。あいつは恐らくただ単に篠崎のことを心配していたに違いない。そんなことを考えながら。


***


 外は珍しく雪が降っていた。
「……圭、うまくやってるかな。大丈夫かな! ……圭なら大丈夫か!」
 いつもの公園。イヤホンから流れる賑やかな音楽と共に身体を動かす。腕や足をがむしゃらに動かせば動かすほど、頭の中にあったぐちゃぐちゃした感情がとろとろ溶けていった。悩んだときや考え事をしたいときは同時に身体を動かすと、頭の中がすっきりしていく。

 ぽちり、とスマホの画面に触れ音楽を止める。音楽が止むと静かな夜だった。吐く息は白い。
 夜ご飯を食べるのも忘れて、圭の家から真っすぐここにきて数時間。ずっと無心に踊っていた。頭の中では色んな感情や思いが言葉になったり、ならないでもやもやのまま飛び交っていて渋滞中。難しいことを考えることが苦手な俺にとって、このまま家に帰るのはすこし辛い。

 もやもや。もやもや。
 欲しいものが手に入らなくて、まゆげをへにょんとさせて落ち込む圭の顔を見るのが昔から苦手だった。圭を大事にしないで、自分の都合で振り回す人が嫌いだった。
 元々俺は他人の悲しい顔や涙を見るのが嫌いだ。それは家族でも友人でも知らない人でも。出来るならみんなみんな、笑ってほしい。世界は綺麗だ。素敵なことで満ち溢れている。それなのに、どうしてかうまくいかない。今この時も世界のどこかでは誰かが笑っていて、同じだけ誰かが泣いている。当たり前のことなのに俺にはそれが許せない。本当は世界中のみんなに笑ってほしいし、笑えないのであれば俺が優しくしてみんなを笑わせたい。そう小さい頃から思っていた。

 学生時代。あの時、俺がもう少し圭のことを分かってあげていたら今とは何かが違ったのかな。優しくすることが圭には必要だと思っていたけれど、それが逆に圭を悲しませていた。そう気づいたのは大人になって圭本人に言われてからだ。悲しませたくなかった人を俺が苦しめていた。だから、せめて大事な人の温もりという幸せを掴んだ圭にはもう悲しい思いをしてほしくない。大切な友達だから。

 ぽちり、音楽を再生して体を動かす。動かせば動かすほど、だんだん頭の中のもやもやが言葉になって、自分が何を思っていたのか綺麗に整理整頓されて最後にはやっぱりとろりと溶けていく。うん、そうだそうだ。
 圭がただ利用されているだけなら俺はあの人を許さないつもりだった。あの人と付き合ってからの圭は楽しい思い出を語ることが多いけれど、だからといって付き合う前に自分勝手に圭を振り回した事実が消えるわけじゃない。都合よく圭を自分のために使っただけ。
 本当にその人は圭のことがすき? 信じていいの? 圭を任せていいの? 優しい圭を騙そうとしているんじゃないの? 楽しそうに話す圭の話を聞きながら思ったのはそんなことばかり。
 もしそうなら二人の仲を引き裂いて圭が悲しい思いをしても、そんな一方通行な恋愛ならどの道いつか圭が傷つくのは絶対だから。だからちくりと釘をさしてみた。それで駄目になるなら最初から駄目なんだ。どうせ傷付くなら早い方がいい。
 
 でも、たぶん大丈夫かな。
 俺は言われるまで気付かなかったけれど、あの人も多分そういう人だけれど。きっと何かあっても圭といっぱい会話をして一つずつ解決してくれる。大事にしようとしてくれる。昔の俺よりもずっと。
 じゃあ俺はもう何もしなくていいかな? 圭の幸せを悪戯に壊すつもりはない。それに、今日の圭の笑顔も最高だった。キラキラして太陽みたい、俺が見たい圭の顔をしてた。だからそれで満足だ。
 もやり。その表情を引き出したのが俺じゃないことが心に小さな嫉妬を生み出す。圭は状況に流されやすい。そこを逆手に取れば圭の笑顔を俺だけに向けさせることも出来るかもしれない。もやりもやりと俺の中で膨む感情を、俺はぺろりと飲み込んだ。いらない感情とお別れするのは得意だった。とろりと頭の中のぐちゃぐちゃと一緒にどこかへ追いやった。
 
「んー! 俺も誰か良い人に会えるといいな! おーい! 空から降ってこーい!」
 俺の心の中と同じくらい清々しい空気が満ちている。
 愛とか恋とか正直よく分からないけれど! きっとこれはよかった、めでたしと言える話なんじゃないかな。
 キラキラ、圭の笑顔には敵わない光る星が俺の上に広がっていた。


はるのはこ