藤の残り香





この本丸に来てから、長谷部はずっと近侍だった。
どんなに酷い傷を負おうとも、主は絶対に長谷部を近侍から外すことはしなかった。
当然だ、長谷部は思う。
主とは今までに幾度となく契りを交わしていたし、実際、その最中に「貴方じゃなきゃ嫌」と言われたのも一度ではなかった。
他の奴とは違う、二人だけの関係────そんな甘美な響きに、長谷部は一人優越感に浸る。
主にとって、俺は「特別」なのだ。


そんなある日の事だった。
同じく一軍で戦っているにっかり青江が重症を負った。
長谷部をはじめとする他の刀達は軽症で済んだ為、先に手入れを済ませて戦力に戻るよう指示された。
しかし、それにより手伝い札は使い果たし、資材は底をついていた。
青江を手入れするだけの分はもう残っていないだろう。
やむを得ないと判断した主は、長谷部を遠征部隊の隊長に任命した。

遠征出発前、職務室を去ろうとする長谷部を見送る主は不安げな表情を浮かべていた。
長谷部はそんな主の手を取ると、甲にキスをして囁く。
「お任せ下さい。最良の結果を、主に。」

遠征から帰還した長谷部が本丸に到着したのは、真夜中だった。
本丸の刀達はとっくに寝静まっている。
「お前達はもういい、戻れ。主には俺から報告しておく。」
長谷部は部隊の刀達にそう言い放つと一人、主の部屋へと向かった。
────こんな時間に主の部屋に入ることが出来るのは、俺だけだろうな。
ぼんやりと長谷部はそんな事を思う。
結果報告などは基本的に職務室で行うため、刀達が主の部屋に立ち入ることは滅多にない。
ましてや、こんな時間だ。
いくら多忙な主といえど、浴衣に着替え、寝る支度をしている頃だろう。
────やはり主にとって俺は特別か。


長谷部が手入れ部屋を通りすぎようとした、その時だった。
「青江…っ!」
紛れもなく、主の声だった。
長谷部は思わず目を見開いた。
反射的に、物音を立てぬよう壁に張り付く。
手入れ部屋は体の大きな刀剣男士が怪我をしても入りやすいよう、縁側に面する部分は全て障子で出来ている。
もし、長谷部が部屋の前を通りすぎれば、姿は見えずとも足音や気配で気付かれてしまうだろう。
ましてや、中に居るのは偵察値の高い脇差、にっかり青江。
さっきの間に長谷部の存在に気付いていたとしても不思議ではない。
長谷部は身を固くしてその場にしゃがみこむと、中の様子を伺った。

幸か不幸か、中にいる青江には長谷部の存在に気付く程の余裕は無いようだった。
──二人の吐息が重なり合う。
すると、すぐに青江が肩で息をする主に何か語りかけているのが聞こえた。
と同時に、中の小さな明かりも消える。
「…どうして。」と小さく主が呟く声が聞こえたが、それ以降、何の物音もしなくなった。
チッ、と長谷部の口から舌打ちがこぼれる。
青江に気付かれたな、と思った。
そして、すぐに立ち上がると、長谷部はその場を後にした。

────どうして…どうして主は俺以外の男と………

翌日、長谷部は結果報告に行かなかった。
職務室に行けば、主の横には近侍として青江が居るだろう。
あの二人が一緒に居る所を見るだけでも、吐きそうな程嫌気がさした。
昨日の事で、長谷部は自分が唯一"男"として主と契りを交わしたという「特別」でなくなったという事実に、大きな衝撃を受けていた。
それにもし、このままずっと青江が近侍をする事になれば、今まで築いてきた近侍としての立ち位置まで失う事になる。
────そうなれば、俺は…
そこまで考え、長谷部は思わず目を閉じた。
刀だった時には感じることの無かった痛みが、体の中でズキリと音を立てる。
────俺は、これからどんな顔をして主に尽くせば良いというのだろう?

────主に都合良く振り回された挙げ句、結局他の男に乗り換えられた刀
ハハッ、なんて惨めな結末だろう
まるで御笑い種だ
俺が全てを投げ出して、貴女に尽くしてきた今までの事は一体何だったのでしょう
嗚呼、全ての事を変えてしまったあいつさえ居なければ
いや、今からでも遅くない
あいつさえ居なくなれば…
可哀想に、貴女は悲しみに暮れるでしょう
それを見た馬鹿な刀達は必死になって貴女を慰める
でも、貴女の心は満たされない…
何故?そんなの簡単ですよ
「特別」存在を失ったから
そして気付くのだ
やはり貴女の事を分かっているのは、「特別」なのは俺しかいない、と

嗚呼、あいつさえいなくなれば…
いや、あいつは居なくなったりしないだろう
これから貴女の「特別」としての座で、幸せな日々が待っているというのだから
それなら…
ならば、無理矢理にでも引きずり下ろす迄だ
俺があいつを殺せば良い
そうすれば、全ては無かった事になる

いや、しかし…
仮に、俺が誰にも知られずにあいつを殺す事に成功したとしても、こんなタイミングで死ぬなんてどう考えても不自然
間違いなく、疑いの目は俺に向けられるでしょうね
そうなれば俺は、嫉妬のあまり仲間を殺め、主に取り入ろうとした無様な刀として一生を過ごす事になる…
貴女は俺を恐れ、刀解するかも知れない、いや、それならまだ良い
他の誰でもない、愛おしい貴女自身の手で俺は最後の刻を迎えられる
しかし、もし、貴女がそれすらも嫌がったとしたら
他の奴に下げ渡しでもしたとすれば…
俺は二度と、貴女と口をきく事も、貴女に使われる事も無く、一生貴女に軽蔑され続ける…
嫌だ、それだけは嫌だ
俺は貴女さえいれば、それで良い
殺そう
皆、殺してしまおう
貴女が俺以外にすがり付くものが無くなるように
貴女の瞳が、俺だけを捉えるように────

さあ主、逃げましょう。
早くしないと政府の追っ手がやって来る。
こんなにも甘美で素敵な二人だけの時間をあんな奴らに邪魔される訳にはいきません。
俺の手をお取り下さい、主。
体がすくんで動けないと言うのなら、俺が抱き上げて差し上げましょう。
主と俺、二人きりで。
誰にも邪魔させない、二人だけの世界で…


…ね、主。

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