名字先輩は俺が入学して間もない5月、新学期の喧騒もあらかた落ち着いたところに慌ただしく転入してきた間の悪い人だった。人間関係は大体のグループがすでにできあがっていて、特に女子は常に固まって行動するため入る隙は狭いらしく、連携をとるべきマネージャーたちとも、名字先輩は業務連絡程度の関係しか持っていないようだった。最初は珍しがって声をかけた者も、名字先輩のリアクションが薄いことので向こうも手を引いていく。しかし転勤族の家で育ったという彼女は、浮いた存在であることは気にも留めず、ひとり黙々と雑用をこなしていた。
 校内でひと気のない場所を探すと、大抵先に名字先輩が場所を取っているものだった。はじめて部活外で顔を合わせた時、それが先輩とかわした初めての会話だったと記憶している。俺と目が合うなり「ピアス増やさないの?」と訊いてきた先輩は、訝しんで睨んだ俺にうすく、ほとんど鼻で笑うような声をもらし、俺のことなどなかったかのように手元の弁当をつついた。その後部活で同じ空間にいても特に会話はなく、しかしふとした場所で鉢合わせることはあり、そのときだけはひとことふたこと、俺にふっかけてくるのだった。俺の方もひとつくらいは返事をした。



「増えたなぁ」
 平常より幾分嬉しそうな顔で、俺の耳に空いた穴を認めて先輩は笑った。
「……先輩が言うたからやないっスよ」
「そんなん知っとるわ」
 俺と名字先輩が多少話す間柄になったのがどこから伝わったのかは知らないが、三年に上がった白石部長も名字先輩と喋るようになった。財前がお世話になってます、とか、いやこちらこそ、とか、マネありがとうな、そんな滅相も無いわぁ、とか。世話した覚えもされた覚えもないわ。白石部長はまあ目立つ存在であるので、彼が目をかけると名字先輩にもおこぼれの人間が集まった。わざわざ他クラスから白石部長が直々に出向いていたらしいのだが、勿論名字先輩は自ら席を立つ真似はしない。白石部長との会話に人が混ざる、混ざる。しかし名字先輩は別段いつもと変わらないようだった。だがそれでも、こっちの標準語である関西弁はちゃっかり感染っている。耳慣れたイントネーションのはずなのに、彼女が使うと違和感しか感じなかった。
「耳以外は開けへんの?」
 昼ごはんのコッペパンを咀嚼しながら先輩が聞いてくる。
「……特には。今の所」
「舌とかどうよ」
「さすがに中学生で舌ピはキツイんとちゃいます」
「5個穴空けてるんでもう既にキツイで」
 笑うでもなくパンを飲み込み先輩は続けた。
「私も舌空けとるしな」
 は? 返ってきた言葉の意味がいまいち飲み込めず先輩を見ると、ペットボトルのお茶を喉に流し込んでいた。
「今はちょっとご飯食べたから見せれんけど。あ、嘘やないで」
 先輩は立ち上がり、膝より少しだけ上のスカートを払った。
「その内見せたる」



 白石部長狙いの女子が名字先輩の見かけ上での友達になり、先輩と出くわすことも部活以外では少なくなった。部活中に会っても長い会話をする暇はない。俺の休憩中も、先輩は誰かのために働いている。半袖のポロシャツの背中は、インナーがうすく透けている。すこし髪が伸びたように見えた。



 準決勝の試合が終わった後、俺たちにタオルやドリンクを渡しねぎらうのは名字先輩ではなく、先輩たちに熱を注ぐ三年生のマネージャーだった。俺に手渡した二年生も、いやに手に力が篭っていた。
 面倒くさい。
 殆ど何もしなかった試合でも疲労感は凄まじく、皮肉を言う気力は湧いてこなかった。視線を感じてふと見上げると名字先輩が少し遠くにいたが、すでにその目は結果が貼り出された掲示板を見つめていた。
 面倒くさい。
 元々、人間関係なんてものを悩む性分ではないのだ。
 それっきり、先輩と駄弁ることはなかった。




 卒業式が来るのは遅かった。先輩たちのいない部活にも部長職にも慣れ、しかしながら張り合いのない日々だった。まあちょくちょく一緒に練習もしていたが、名字先輩は受験に専念しているらしかった。「薄情やなあ」白石部長が言う。誰に向けているのか、分からないほど馬鹿ではない。

 元から部で先輩がたを見送る会が設けられていたものの、二年は式にも出席せねばならず、校長を始めとする大人の話を延々と聞くのは実に退屈な時間だった。
 先輩の呼名への返事は体育館に案外大きく響いた。訛りのない明朗な声。

 式の後部活でわいわいと三年生を囲む。三送会も執り行ったはずであるのに、再び涙を流す輩は少なくなかったが、再三の別れの言葉も抱負も伝え終えた俺はさっさと部室を後にした。部長がどこ行くんー、と引き止める声もあったが、忘れ物だと返すとあっさり手を振られ、またガヤガヤと話の輪に戻っていった。


「おや、部長はん」
 胸元に桜の造花と紅白のばかげたリボンを付けた先輩は、からかう風でもなく俺を呼びとめた。
 どう返答するか考えあぐねてとりあえず、隣に並び立つ。いつのまにか彼女の背を追い越していた。自分より低い位置の弱々しい肩。
「財前に見せたいものがあるんよ」
 以前よりもやわらかく笑む彼女は口を薄くひらき、赤い舌先と、その上に異様なほどしっくり馴染んだ銀色のまるい金属を見せた。かちり、とそれは小さく鋭い犬歯に挟まれた前歯に当たって、舌とともに唇の奥へ消えた。
「バレないように喋るの大変やった」
「…馬鹿じゃないっスか」
 そうかもしれん、と笑う先輩の髪を春風が揺らしていった。沈黙は風の音で満たされる。
「やっぱ先輩、関西弁似合わないっすわ」
「まじかー財前としゃべって真似して練習したのになあ」
 ややあって俺が口を開くと、おどけた台詞とは逆に真面目な声で先輩は言った。たいして会話も盛り上がらない関係のくせになにを言うのか。
「まあしばらくはまだ関西おるし、もう後一歩で習得できる気するわ」
 先輩はまた東京に帰るらしかった。今度は中学卒業という、キリのいいタイミングで。先輩ならうまくやるだろう、それは白石部長ととりまきのかわし方でよく分かった。
 きっとこの人は、方言とともに思い出もすっぱり落としていく。
「財前と友達になれてよかった」
 俺が? 貴女と?
 ハッ、と乾いた声が出ると、存外先輩は傷ついたような顔をした。いつからそないな、表情変わる人になったんすか。
 舌先に光った銀色を、引き千切ってやりたかった。


190219
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