揺らめく炎、破壊による瓦礫の山、そして大量に撒かれる紙束。
絶えることなく響きわたる悲鳴、あちこちから聞こえる爆発音。
僅かに、怒号や戦闘音も耳に入る。




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「なに、これ…!」

ミーアは、店内に隠れながら様子を伺っていた。というのも、開始の合図のような大きな爆発音がどこからか大気を突き抜けたあと、周囲にいた何人かが突如暴徒化し始めたのだ。
ある者は通行人に襲いかかり、ある者は火炎瓶を取り出し、またある者は紙束をばら撒いては賛美歌を流して行進していた。
ミーアは、咄嗟にゼノラックスに引っ張られたおかげで、店員も客もパニックになって逃げ出した無人の店内で隠れて息を潜められているが、いつ暴徒が来るかは時間の問題となっている。

「…っ、そうだ、ハイドは…エレインさんは…!」

過ぎったのは先程出会った二人のこと。彼らにもしものことがあれば、と思えば考える間もなく立ち上がろうとしたが、それは素早くジブリールに制止される。

「浅慮すぎる。今ミーアさんが出ていったところでなにもできないよ」

「それは…、」

「どうしても行きたいのなら、機を待とう。ミーアさんは魔素を持っていないから特にね」

突発的な行動を窘められて、再び通りの様子を伺う。
逃げている人も見えるが、暴徒の姿もちらほらとあり、力のないミーアではとても出ていくことはできない状況だった。
ハイドランジアとエレインの無事も気になるが、勝手な行動をしてジブリールとゼノラックスに迷惑をかけるわけにもいかない。
ミーアは己の無力さに歯噛みするしかなかった。

「…で、どーすンだよジブリール。ずッとここにいるわけじャねーだろ?」

「そうなんだけどさ、少し困っててね」

「困る…?」

「こんな騒ぎだと騎士さんはすぐに来ちゃう。おれら、騎士さんに見つかるわけにはいかなくてさ…ほら、こういう立場だから。戦闘もできなくはないけど、あまり痕跡を残したくはない」

ジブリールが懸念するのは暴徒よりも騎士のことだった。当然、こんな事態であれば制圧のために騎士は向かってくる。そうなれば騎士との鉢合わせも避けられないだろう、それは非常に好ましくない。
ミーアはいいとしても、ジブリールとゼノラックスは見つかってはいけない。改造脱走アンドロイドとレジスタンスメンバーだから。

「おれとゼノ二人だけなら今すぐにでも脱出できるんだけど、ミーアさんを取り残していくのもなぁ…」

「ならこいつ抱えりャいいンじャねーの」

「ミーアさんはハイドランジアさんのことが気になるだろうから、動かないと思うんだよね。でしょ?ミーアさん」

「…ハイドたちも危ないのに、私だけ安全圏に行くのはね」

「ほらね。おれらと脱出してくれた方がリスクも大幅に減らせるし生存率も上がるのになぁ…。そもそも、ミーアさんがいたところでハイドランジアさんの助けになるかって言うとならないし、全体の効率を考えて逃げてくれた方が助かるのに」

確かに、ミーアが残ってハイドランジア達と合流できたとしてもなにもできないのはわかりきっていた。助けになるどころか、足手まといになるのも、理解していた。
それでも、まるで見捨てるような感覚に囚われて、とても心が苦しかったのだ。

「……」

「おれらとしても、騎士に捕まるわけにはいかない。かと言って、一応今日付き合わせたキミを放っていくのもダメなんだと思う。だから悪いけど、おれらはおれらのためにキミを連れていかせてもらうね。…ゼノ」

「おう」

返答を聞いてくれる間もなく俵のように、ゼノラックスに小脇に抱えられてしまった。
ミーアは、一瞬抵抗しようと考えた。しかし、ここで何をしたとして誰かの迷惑にしかならない、それを悟ってしまった。有無を言わさないのが、ジブリールとゼノラックスなりの優しさだと。ハイドランジア達になにかあった際に自分らを責めて心を軽くできるようにとの配慮なのだと、どことなく知ってしまったから。
やはり、自分は迷惑しかかけられない。助けたい人すら自分の力で助けに行けないのだと、自己嫌悪に苛まれながら大人しく抱えられているという選択しか取れなかった。

「で、どーすンだよ」

「ここの構造は頭に入ってるから、入口のある表じゃなく裏側に回ろう。階は下がらなくても上がらなくてもいい、屋上は避難場所だろうから避けるよ」

「殺ッていいのか?」

「なるべく最小限で行こう。でも、殺生もやむ無しだ。よし、スピード重視で行くぞ」

ジブリールの言葉が終わるか終わらないか、ミーアは体にものすごい遠心力がかかるのを感じた瞬間、ごうごうと耳元で風が唸るぐらいの速度で動いていると数秒経って理解を追いつかせることができた。
顔にびしびしと当たる髪を払い除ければ、認識した瞬間流れていく景色が見える。時間が少し経ったからか逃げる人はほとんどおらず、暴徒が驚いた様子で固まっている。

「はい、ちょっと失礼ね」

ジブリールの声が聞こえたと思えば、目になにかを被せられる。流石に不快で取ろうとすれば、「こら、取らない」と軽く手を叩かれた。
視界が閉ざされた、前が見えない。取るな、と言われたものの取りたくなるが、時折混じる悲鳴と重量感のある液体音に手が竦むのを感じて身動きがとれなかった。







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血が飛び散る。大体は相手をしないが、進路を妨害する暴徒に対しては容赦なく攻撃を加えていく。
ざくり、ゼノラックスに斬り捨てられて倒れ落ちる者。びちゃり、返り血が周囲を汚す。
ミーアには目隠しをしてせめて、凄惨な光景を見ないようにとの配慮はしたが音はどうしようもない。時折びくりと体を跳ねさせていることから、見えずともある程度はなにが起きているのかわかっているのだろう。しかし、彼女は声はあげなかった。

「次、左」

通りを駆け抜けながら簡潔に指示をしていく。ゼノラックスはひゅんひゅんと風のように駆け抜けてはいくが、ジブリールの速度には一応合わせているのか先走っていくようなことはしなかった。

「っ」

不意に、ばさりと音がして視界が暗転する。顔になにか貼り付いたようで、それを除けてみれば、正体は紙切れだった。連中がばら蒔いていたもののようだ。
投げ捨てようとして、躊躇する。紙切れには気になる文字が書いてあった。今読む訳にはいかないので、乱雑に折ってポケットの中へと突っ込む。

「おい、次は」

「右。…ん、ちょっと待ってね」

ゼノラックスに指示を飛ばしたところで、ジブリールは立ち止まった。
意図のわからないゼノラックスが抗議の声をあげるが、人差し指を口元に持って行って静かにするよう促す。

(あれ、ハイドランジアさんだな。あまり魔素痕を残したくはないけど───まぁ手助けぐらいはしておこう、同じ組織にいる以上は。………しかし、末恐ろしいな)

───あんなに、グロテスクな死体を散らかすなんて。
胸中の思いは口に出すことなく、ハイドランジアを取り囲む暴徒を、魔素で串刺しにする。突如バタバタと倒れた暴徒群に、ゆったりと視線を彷徨わせながらもすぐに彼はこちらに気づいた。ハイドランジアの側には彼の同行者の姿も見えたが、双方無事なようだった。
軽く合図をして手を振れば、ハイドランジアもゆるりと右手をあげる。それを確認して、ジブリールは再び疾走した。

「行くぞ、ゼノ」

「あれはほうち?でいいのか?」

「押されてるようなら考えたけど、あの様子なら大丈夫そうだ。おれ達はおれ達のことを優先するぞ」

「おう」









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「……………」

背後に、エレインを庇う。ハイドランジアは避難のために屋上に向かう道中、数人の暴徒に囲まれていた。
エレインを挟んだ後ろは壁、右と左に一体、前方に二体、計四体の暴徒が、嘲笑うかのようにじりじりとにじり寄って来る。

「ハイド…ちゃん…」

エレインの不安げな呼び声が聞こえるが、それに返事をする余裕はなかった。今は、どう目の前の状況を切り抜けるかで思考を巡らすのにいっぱいいっぱいなのだ。
じりじりと、ゆっくり近寄ってはくるもののあまり猶予はない。ハイドランジアは、唇を噛み締める。
次の刹那、ハイドランジアが太腿につけてあるポーチに手を伸ばした。暴徒も、ハイドランジアが動きを見せたのを視認して、前方の二人が一気に詰め寄ってくる。

「……っ!!」

咄嗟によけて、顔の前に出した腕。そこに、鉄パイプの打撃をモロに受けた。エレインの悲鳴と苦悶に顔を顰めるが、ハイドランジアは怯まなかった。鉄パイプを受け止めた方とは反対、左手を動かすと、そこにはポーチから取り出した注射器が握られている。中に入っている液体は真っ赤に染まり、ぼこぼこと気泡が破裂を繰り返していた。
ハイドランジアはそれを、迷わず暴徒の一人に突き刺す。手加減なしで針を奥まで捩じ込み、一気に注入すると、間もなく暴徒が聞くに絶えない絶叫をあげた。

「おあ"あ"あ"あ"あ"ぁ"ぁ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!!!!」

その暴徒の様子を、他の暴徒も驚きの眼差しで見つめる。襲いかかってきた相方でさえ、動きを止めて苦しむ相方を見つめていた。
その隙を見逃さず、ハイドランジアは流れるような手つきで注射器を取り出せば、固まる暴徒の首に突き刺して、液体を注入した。程なくしてその暴徒からも断末魔のような──いや、断末魔があげられる。

「………、…………」

「は、ハイド…ちゃん…?」

注射器が突き刺された箇所、そこが爛れだしたかと思えばドロドロと溶け始めていた。
ぼこり、ぼこり、血とマグマのような気泡が、蕩けた皮膚の間から見える。どろり、どろり、と肉と血、骨の焼ける異臭を放って皮膚は赤色に侵食されていく。それが、注射された暴徒二人に共通して現れていた。
首に刺された方は倒れ込み、白目を剥いて口をはくはくと動かしていたがやがて絶命する。腹に打たれた方は、倒れてはいるものの死にきれないのか掠れた声をあげてのたうち回っていた。
彼らの声を聞きつけて、暴徒が多数集まってくる。彼らは一瞬、変わり果てた仲間の姿に足を止めたが、一斉に向かってきた。
エレインの、焦った声が響く。それをどこか遠い世界の音のように感じながら、ハイドランジアは注射器ではなく瓶を取り出した。その中にも同じような液体が詰まっていて、ハイドランジアはぼんやりとした眼ながらも栓を抜き捨てる。

「……、は、」

僅かに息を漏らした瞬間、ハイドランジアは向かってくる暴徒全体に液体を撒き散らした。液体が尽きればまた同じ瓶を取り出して、液体がかかりきらず突破してきた者にも振り撒く。それを繰り返して、やがて焼き爛れてどろどろに溶けた死体の山が積み重なっていた。そこでだけ大量殺戮が起きたかのように、人の原型を保たないそれが散らばる。あらゆるものが焼ける臭い、熱気が鼻腔を貫く。また、足音が響いてきたが、ハイドランジアは魂が抜けたかのような面持ちで突っ立っていた。
取り囲む暴徒達の姿が、死体から湧き上がる熱気の幕と重なって陽炎のようにゆらゆらと揺れている。視界がぐらぐらと揺さぶられる。脳が痛い、世界がぐるぐると回りくねっているようで平衡感覚が狂う。脳が痛い、脳が痛い、魂が、痛くて痛くて堪らない。


「ぎゃあ"!!」

「あ"ぁ"!!」

暴徒の悲鳴が反響する。痛い、痛い、痛い。遠くで、金と赤紫の影がなにかしている。痛い、痛い、痛い。影の動作を真似て軽く手を挙げれば、その影は去っていく、痛い痛い痛い。

「……っ、…ぁ」

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。






────これは、この、人体が焼ける臭いを…………。








─────この、悲鳴たちを。耳を劈く悲鳴たちを……………。













──────この、この虐殺を。───ちがう、これではない、虐殺を………………。














僕は、よく知っているはずだ。



































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「…ジブリール」

「あぁ、わかってる」

ゼノラックスの呼びかけに、ジブリールは応答した。示し合わせることもなく、お互いがその場に急停止する。次の瞬間、あと数歩先のタイルから大きな火柱が上がった。
火柱はゴウゴウと燃え、熱風も吹き荒れ、天井を焦がす。しかし、それも不自然に真ん中から割れ、バシュゥっと掻き消えた。

「さて。主犯さん、かな?」

「うふふ、主犯さんだよ」

割れた炎の間から出てきたのは、水を思わせる青い髪を持った男だった。
ジブリールが分析抜きで感じた第一印象は、なよなよとした男。それほどに見目はスラッとしていて、つつけば折れてしまいそうだった。
衣服からは高貴な様子が伺える、髪も丁寧に手入れされているのか街で見る人間よりも艷やかだ。肌だって、一つの荒れもないまさに珠の肌だった。
そんな、短時間の軽い分析でわかったのは"身分が高い"こと。しかし───

(貴族サマが、こんなことをするか…?)


「うふふ、なにか言いたいことがあるみたい。言ってごらんよ」

まるで、こちらの疑問を見透かすようにこてんと首を傾げて問いかけてくる。
煽るような物言いに乗らないよう黙るが、男は余裕な笑いを零していた。
しかし、ふと視線をゼノラックスにやった男は暫し見つめた後、突如目を見開くとにたりと正気とは思えない三日月のような笑みを口元に作る。

「ウェールズ!ウェールズじゃないか!?だいぶ見目が変わっていたからすぐには気が付かなかったけれど、きみウェールズだろう!?」

興奮したように飛び出す名は、ジブリールには一切聞き覚えがなかった。判断しかねてゼノラックスを見るが、当の本人も珍しくきょとんとした表情を浮かべている。

「おいウェールズ!ぼくだって!親友だろう!?いきなりいなくなってから心配してたんだぞ*この*!」

「は…?」

いやに親しげな男に、ゼノラックスは戸惑う。なにせ、ゼノラックスは本当に知らない。全く記憶にないからだ。
それはそうだろう、とジブリールは内心思う。ゼノラックスは、ジブリールよりも実験が進んでいた。過去の記憶は消去されているし、脳活動を破壊する薬も少量とはいえ投与されているから脳もまともには働かない。たとえ本当に知り合い同士だとして、実験前の記憶をゼノラックスは覚えているわけがなかったのだ。

「ウェールズ!なに間抜けヅラ晒してるんだよ!ぼくだってば、流石に覚えてるだろう?」

「…"ゼノラックス"は、キミのことを覚えてないよ。それより邪魔だから通してくれないかな」

「…え?…は?なにきみ。こっちはウェールズと話してるんだけど。友人との再会を邪魔しないでくれないかい?てかさ、ゼノラックスってなにさ。ウェールズに変な名前つけないでくれないかな?」

「あんた、貴族サマだろ。家の没落はまず免れないよ」

そう言うと、男は一瞬真顔になったあと、口に手を持って行って笑いを堪えようとする。だが、抑えきれずに漏れていく声は徐々に大きくなり、やがては文字通り腹を抱えて笑いだした。
なにがそんなにおかしいのか、ジブリールには理解できない。男は奇異の目で見られるのもお構いなしに、壊れた玩具のようにげらげらと笑い続けている。

「なるほどなるほど!よく貴族だなんてわかったね!これはもしや噂に聞いていた改造アンドロイドかなぁ!!?ふふ、ははは!!」

「………」

「なンだよあいつ…」

噂に聞いた、なんて一体どこでそんな噂が流れているのか。どうにも、ただの事件ではなさそうだとジブリールはうっすらと悟った。
どこかきな臭い臭いがする。面倒事に面倒事が積み重なったかのような、いや、奥に潜んでいたものが浮上してきているかのような、一筋縄では行かない案件。

「ひひ、ははは!ふふ、ふふふふ!あはっ、そうさ!まさしくぼくは貴族!しかぁし、家がどうなろうと我らはどうだっていいのでぇす!!」

「なんとなくはわかっていたけれど、イカれ野郎の類か」

「イカれ?いやいや、いやいやいやいやいや、いやいやいやいやいやいやいや!まさしく我らは正常なりて。忠誠を誓った我らが神にお尽くしすることができるのならば、立場や身分などという些末なものなどどうでもいいのさ!」

────イカれに加え、カルト宗教と来たか。
このような手合いはまず相手にしないに限る、関わるだけで害のようなものだ。今すぐにでもすり抜けて先を急ぎたいが─。



「我は、主の代行者なりて。我が主の御名の元に、生の罪という痛苦から解き放たん」

ゴォッ、炎が迫ってくる。じりりと熱で肌が焼かれる痛みを感じながら、横に飛び退いて躱した。ゼノラックスもミーアもそれぞれ無事なようで一先ずは安堵するが、分が悪い。というのも、必然的にミーアという無力を守りながら戦わねばならぬということで、それを抱えていればまともに攻撃することも避けることもできなかった。
ゼノラックスを先に逃がせればいいのだが、そもそもが戦闘向きではない性能のジブリール単体で戦うのも勝率は五分五分だろう。どう計算しても確実性がなかった。
脳を回転させている間にも、炎は絶え間なく襲いくる。炎自体は特に変哲もないが、範囲が広い。縦横無尽に熱が駆け巡るものだから、残り火が厄介極まりなかった。閉所で相手をするには厳しい魔素、直撃を喰らわなくとも消耗していく、一方的に不利な戦い。
──最善手は。

「ジブリール!!」

「っ!?ゼノ!?」

「うぐっ!」

ミーアを投げ付けられる。受け止めたはいいが、勢いに押されて尻もちをついてしまった。ミーアにも衝撃がきたのか、彼女が苦しげに呻き声をあげる。

「それ連れて行け。こいつは俺がやる」

「ゼノラックス、だが、それは確実性が」

「なンでも、絶対確実なんてねーだろ。ここは、俺が引き受けた方がぶ、ぶなん…?だろーが」

背負っていた刀を引き抜き、鞘を投げ捨てる。肩をぐっと伸ばしてごきごきと鳴らし、準備運動を行うゼノラックスに、ジブリールは頷くことしかできなかった。
全員の生存を第一に考えたこの場における最善手も、ゼノラックスに任せて逃げることだったからだ。
ブレインの特性上とはいえ、あまり戦闘には向いていないのが惜しい。だが、ないものねだりばかりしていても仕方ないのも事実で。

「ゼノ!任せたぞ、騎士にもそれにも気をつけろ!」

「わーッてるッての。お前、俺をバカ扱いしすぎだ」

ゼノラックスの姿が消えた。瞬きする間には、もう男の前へと迫っている。咄嗟に男は炎をシールドのように展開させたが、炎に質量などない。ゼノラックスの刃は炎を散らして、男の腕を切り裂いた。

「っ…ウェールズ…!」

「ジブリール!」

ゼノラックスの声に、すぐさま駆け出す。男がこちらにも炎を向けようとしたが、ゼノラックスが再び斬りかかったのでまともに狙いを定められずに壁を焼くことしかできなかった。
ジブリールが無事に戦闘区域から脱出したのを視認して、ゼノラックスは体勢を立て直すために一度飛び退く。

「ウェールズ…、やっぱりその魔素はウェールズじゃないかい…ひ、はは…」

「ウェールズってなンだよ。俺はゼノラックスだ」

「本気で言っているのかい?一体きみになにがあったんだ?髪も伸びているし、身体付きだって変貌している。それに、自身の名すら忘れるなんてさ」

訝しいことこの上ない、そんな問い掛ける視線を向けられるもゼノラックスは知らないとしか言えない。だって、本当になんのことかさっぱりだからだ。人違い、そうでないならば頭がおかしい輩か、それぐらいしか思い当たらなかった。──実の所ゼノラックスは、自身の過去の記憶が消えているなどほとんど信じていない。自分は自分だ、過去の記憶がないだなんて、ゼノラックス自身は認めていないのだ。実感がないのも一つの理由だが、ゼノラックスは己を認識した時から嘘偽りなくこれこのままである。過去の記憶がないと認めることは、今のゼノラックスを否定するような行為。だと、ゼノラックスは無意識下で思い込んでいる。故に、過去の知り合いなどという選択肢は持たない、入れない。ゼノラックスはゼノラックスであって、過去のゼノラックスでないものなど知らないのだから。
───本当は、自分がどんな存在だったか知るのが怖かったのかもしれない。
────あるいはモルモットのような扱いを受けた自分が、不運から転落した特別惨めな男だったのだと自覚したくなかったのかもしれない。

(──過去なンて。まだ"しあわせ"だッたであろう頃の俺なンて。聞きたくもねェ、見たくもねェ、知りたくもねェ)


「お前なンて、知らねェ。俺はゼノラックスであッて、ウェールズなんて奴じャねェ!」

「──現実逃避、認識恐怖。…可哀想に。きみも、生きることで苦痛を味わっているんだね。やはり、我が主は正しいのか。ならばもう迷うことはない、辛酸を舐めるような日々からぼくが解放してみせよう」

にたり、気色の悪ささえ感じる笑みと共に、炎がぶわりと溢れ出る。男の周囲から地を這うように、まるでうねるように蛇行しながら炎が迫り来る。

「改めて自己紹介しよう、我が旧友。我が名はフローレンス・B・シルヴァニア。救済の魔素『今は救い難き、冒涜なる灯火よ』」

「…ッ!」

ごおっ、炎が口を開いた。全てを飲み込まんと赤々と燃える口を開けて、ゼノラックスに向かう。
獄炎に喰われる瞬間、ゼノラックスの姿は掻き消えた。しかし、一拍すら置かずにフローレンスの目と鼻の先へと現れる。

「あぁ…以前のきみとは比べ物にならないほど単純だよ」

「チッ…!」

ひらり、紙が風に弄ばれるような動作で軽く避けたフローレンスは、ゼノラックスの手をわかっていた様子だった。
ぶぉん、刃は空を斬り、虚しい手応えが残る。その隙を見逃さず、フローレンスはゼノラックスへとゼロ距離で炎をぶつけた。

「あッつ…」

「さぁ、救済しようじゃないか我が友よ」

ガードのために出した腕が焼かれる。自身の肉が焼ける臭いを嗅いで、ゼノラックスは顔を顰めた。
間髪入れずにフローレンスが炎を放ってくる。だが、二度も喰らうはずはない。ゼノラックスが持ち前の身体能力で後方へと大きく飛び退く。

「…?その異常な身体力はなんだい…?きみは、そんな魔素なんて持っていなかったはず」

「……」

常人ではありえない、一気に何メートルも飛び退くなど。奇妙な脚力に眉根を寄せたフローレンスへと、ゼノラックスはまた魔素で迫る。

「甘い、同じ手など見損なうよ」

「あッちィ……な!!!!」

「いっ…!!」

先程と同じ太刀筋。最小限の動作で躱されカウンターを喰らうが。
ゼノラックスはすぐさま二激目へと移行していた。放たれる炎はゼノラックスを再度焼いたが、フローレンスの視界も半分遮っていた。
炎の影、死角からの斬撃がフローレンスを切り裂く。綺麗に入ったとは言い難い苦し紛れの斬撃だが、それはフローレンスの太腿に一文字の傷を残した。

「****っっっ、」

歯を食い縛るフローレンスは、太腿の傷に手を当てて抑える。しかし、指の隙間からぼとぼとと血が流れ落ち、床の残熱でじゅうう、と焼けた。

「っっ、………我が主よ…」

「逃げかよ」

ぎりぎり、歯が欠けるのではないかというほど噛み締めていた口をふと緩めれば、ぽつりと呟いた。そして、彼は唐突に踵を返す。ゼノラックスが行くべきルートとは別、その方向へ駆け出した。

「………、また怒ッてくる、か」

一瞬、ゼノラックスはフローレンスを追おうとした。しかし、ジブリールが過ぎる。あまり道草を食ってはまた、やかましい怒声を聞かなければならない。それは面倒臭い。
逡巡の末、フローレンスは見逃し、ジブリールに指示されていたルートを駆け抜けた。

「…体が、いてェ」