「いッつ!」

「こら、じっとしていなきゃ駄目よぅ」

ガーゼに染み込ませた薬品を頬に塗られたゼノラックスは仰け反る。逃げようとしたが、エリザベートに叱られて大人しく椅子に座り直した。

「もう、ゼノラックスもジブリールも、ミーアさんもみんな何処かしらに怪我をしているわ!ショッピングモールが襲われるなんて、物騒にも程があるわよぅ」

「本当だよ。お陰で、余計なことで騎士に見つかるところだった」

「その、炎使いさんのことは気になるわねぇ…。もしかすると、北町の炎上事件とも関係あるのかしら」

「可能性はあると思うよ。ただ、情報がなぁ…。ゼノもこれだし」

ジブリールがちょいちょいと、ゼノラックスを指差す。というのも、ジブリールとミーアが共に脱出して間もなく、ゼノラックスもどうにか無事に出てきたのだが、あの男の情報をほぼほぼ覚えていなかったのだ。

「魔素まではおれも分析でわかったし、おそらく貴族連中の誰かだっていうのは突き止めたけど、名前がなぁ…」

「名前…ゼノラックスは、覚えていないのよねぇ?」

「覚えてねェ」

名前は聞いたらしいが、ゼノラックスはその記憶を忘れていた。ゼノラックスは実験の後遺症で記憶障害を起こしている。それは、過去の記憶を忘れたというだけではなく、現在進行形で記憶が失われやすいのだ。
バーサーカーの特性上、敵に捕まることもある。その際に拷問なりなんなりされても情報を吐けないよう、まず記憶をまともに定着させないように改造するのだ。なにかを見ても聞いても、そもそも覚えていなければ痛手にはならないから。
ゼノラックスは、その作用のある薬品を僅かに投与されていた。少量ではあるものの、それは確かに影響を及ぼしている。故に、炎の男に関しての記憶も忘れてしまったのだろう、こればっかりはゼノラックスを責めることなどできないのだ。

「まぁ、魔素名はわかったから報告書にでもまとめておくよ。貴族の誰かってことなら、魔素名から突き止められるだろうし、そこはお上に任せておく」

「そう…、でもジブリール、少し休んでからになさいね」

「あー、大丈夫大丈夫。ゼノよりは断然軽傷だから。それより…」

ジブリールはちらりと寝台を見やった。そこには、ぐったりとしたミーアが瞳を閉ざして横になっている。

「うーん…ゼロさんにどう説明したものかなぁ…。瓦礫の破片とかで怪我しちゃってるんだよなぁ…こればっかりは不可抗力なんだけど」

「わたしも一緒に説明するわ。とりあえず、ミーアさんももう少し休ませてあげましょう。心労ね」

「一応、目隠しはしたんだよ。だって普通の人がああいう惨状を見るのは精神衛生上良くないんでしょ?けど、音や触覚までは流石になぁ…」

ゼノラックスと共にミーアをアジトに連れ帰った後、エリザベートに傷の処置をしてもらった。しかしその直後、ミーアは気絶するかのように眠ってしまったのだ。
エリザベートが言うには、視覚を奪われた恐怖でより神経を過敏にさせてしまっていたのだという。そんな状況で刺激的な音や熱に触れてしまって、ひどく消耗したのだろうと。
一般人はそんなものだと、自分たちが思っているよりもひ弱な存在なのだと、エリザベートは悲しげに呟いた。

「けどよ、いくらなンでも弱すぎるだろ」

「いいえ、わたしたちが強いのよぅ」

「よくわかンねェ」

眠っている女性の顔をゼノラックスは不躾に眺めるものだから、エリザベートは「こら、そんなに見ちゃだめよぅ」と注意する。何故怒られたのかわからない、という微妙な表情でのそのそと寝台から離れたゼノラックスに、お茶を持ってくるよう頼むと、エリザベートはジブリールに振り向いた。

「なぁに、その紙は」

「ああうん。ショッピングモールを襲った暴徒どもがばら蒔いていたやつだよ。見て」

壁に寄りかかっていたジブリールは、エリザベートの側へと近づくとその場に膝をついてしゃがむ。そして、エリザベートと目線を合わせると、紙を指し示した。

「…?これは、宗教かしら?」

「宗教だね。主犯の貴族サマも、神がどうとか言っていたし間違いない」

『ただ苦しみながら生きることになんの喜びがありましょう。生きると苦しみは、如何なる時でも切り離せないものです。生きているからこそ、悲しみも苦痛も感じる。それならば、いっそのこと死んでしまえば、全てを投げ出して楽になれる。我らは生の尊さを騙る神へ反旗を翻す者なりて。我らは、生の苦痛から無辜の民を解放する神への反逆軍なりて。我らが神は、神の代行者でありながら神へと叛逆する神へとなられた。我らの罪は、我らが神の御名の元に浄化される。ああ、我らが英雄神よ。ああ、我らが英雄神よ。』

書き殴るような乱雑の極みな字体で紙一面に洗脳ワードが書かれている。ここに出てくる神とやらは、教祖を指しているのだろう。とにかく、胡散臭いことこの上ない文言だった。
ジブリールも、エリザベートですらも馬鹿らしいとしか言えない言葉の数々を並べ立てているこの紙には、ある種の不快感すら催される。

「こんなのに所属するのは、逃げたがりだけだよ。馬鹿馬鹿しい」

心底見下すような声音でそう吐き捨てれば、ぐしゃりと紙を握り潰した。そのままそれを乱雑に丸めると、ポイッとゴミ箱に捨てる。
エリザベートが、良いのかと視線で伺ったが、ジブリールは問題ないとでも言うようにひらひらと片手を振った。

「あんなに派手にばら撒かれてりゃ、誰かしらは確実に持ってるよ。内容もニュースで公開されるだろうしね」

「そう…」

「あー、あとさ。はい、これ」

ジブリールが、ポケットから小袋を取り出す。僅かにシワが散見されるそれは、どうやらプレゼント用の小包のようで。エリザベートは、戸惑いながらも手を出した。
小さな手のひらの上に、小さな袋がぽすりと置かれる。中になにか入っているようだ。ジブリールに促されて、緊張感とともに丁寧に封を剥がしていく。そして、中に手を入れればふわりとした感触と硬い感触の両方が伝わってきた。壊さないようにそっと握って取り出せば、それはアクセサリーのようで。

「…コスモスの、ブローチ。かしら…?」

「今日さ、買ってきたんだけども…。ああ、注意されてたのに結局シワができちゃったな」

大きな白いコスモスが映えるブローチだった。決して高価とは言い難いが、素朴ながら気品が溢れる、エリザベート好みの可愛らしいブローチ。
照れ臭そうに、ジブリールが頬を掻く。プレゼントなのかと問えば、それ以外のなにに見える?と返されてしまった。

「…わたしに、勿体ないわよぅ…」

「それぐらい素直に受け取ってよ。あのゼノも真面目に選んでたし、ミーアさんにも協力してもらったんだからさ。変に遠慮しないでよ、おばあちゃん」

「あらあら…」

くるくると、色々な角度から眺めてみる。動かす度に、コスモスの花弁がひらひらと揺れて愛らしかった。
暫しそうしたあと、すっと服に付けてみる。普段着のワンピースは紺色なので、白が良いアクセントとなっている。

「似合ってると思うよ、おばあちゃん」

「ありがとう。…ほんと、貴方達はもう……可愛らしい孫だわ」

「あはは、いつも手のかかる孫でごめんねー」

「もう。年甲斐もなくはしゃいでしまったわ。ちゃんと、ゼノラックスとミーアさんにもお礼を言わなくちゃね」

へにゃりと口元を緩ませて穏やかな微笑みを浮かべるエリザベートは、余程嬉しいのか指先でコスモスをつついている。
まさか、孫たちがプレゼントなんて小洒落た真似をしてくれるなんて思っていなかった。孫たちだけならまだしも、出会ってから時間が経っていないミーアまで加わってくれたというのだから、驚きも増すというもの。
───随分と、プレゼントなんて貰っていなかった。最後に誰かから物を貰ったのなんていつ以来かしら。あの時は感動もなにもない、当たり前だったけれども、暖かいことをしてもらうというのは随分と感動するものなのね。

「ばあちゃん、ン」

足癖悪く、扉を蹴りながら開けたゼノラックスは、湯気の立つカップを乗せたお盆を差し出す。エリザベートはそれを受け取ると机上に置き、カップを手に取って口付けた。

「ばあちゃん、つけたのか。それ」

「ええ、とっても可憐なデザインを選んでくれてありがとう。ゼノラックス」

「…別に」

礼を言えば、ゼノラックスはぷいっとそっぽを向いてしまった。一見無愛想だが、エリザベートはちゃんとわかっている。あれは照れている時の行動なのだと。
これが巷で話題のなんとかデレというものなのだろうか。なんにせよ、愛いものだった。













***



「──……」

ふっ、とミーアが瞼を開ける。最初に映ったのは、自宅とは違う天井。寝起きでぼんやりとする頭は数秒停止していたが、ようやく現状を認識し始めると同時にがばりと飛び起きた。

「あら、おはよう」

「…?エリザベート…?」

からからに乾いた口で、拙く呼べばエリザベートはにこりと微笑んで頷いた。
周囲を見渡せば、以前お邪魔したジブリールの個室とよく似てはいるが、細かなインテリアが違う。おそらく、エリザベートの個室だろう。
さて、どうしてこんなところに──と疑問を呈したところで、ミーアはフラッシュバックのように思い出した。

「そ、そうだ…!ショッピングモールが…!!」

「ええ、事件があってね。今は、夕方よ」

「……………、えっと、私は…」

「ミーアさんは、治療し終えたのと同時に気を失っちゃったのよ。それで、今目覚めたところよ」

「………炎が。そうだ、みんなは」

「ジブリールもゼノラックスも無事よ。今は出払っているけれど、じきに帰ってくるんじゃないかしら」

ミーアが混乱しているのを宥めようとしてくれているのだろう、エリザベートは務めて穏やかでゆったりとした口調で返答してくれる。
その甲斐もあってか、冷や汗が出るほどの動悸は収まったものの、依然として落ち着きを完全に取り戻すことはできず。

「は、ハイド!ハイド達は…!」

「あら……、ハイドランジアさんもいらっしゃったのね。ごめんなさい、それに関してはなにも聞いていないわ」

「っ……怪我を処置してくれてありがとう!ごめん、ジブリール達にも助けてもらったお礼は言えていなけど、行かないと…!」

ざっと見たところ、彼らがよく守ってくれたのか少しのかすり傷しか見当たらなかった。立っても特に痛みはない。ミーアは、早口で捲し立てるとドアの取手を引っ掴む。

「ミーアさん、落ち着いて。行くって、どこに行くの?」

「ハイド達が大丈夫かを…確かめに行かないと…
!」

「…とても彼らが大事なのね。でも、待ちなさい。避難者が無事でいるなら今は、病院で手当されているでしょうね。軽傷の者は事情聞き取りされているでしょう。多分、行っても会えないわよ」

「それでも…せめて、無事かどうかだけ確認しないと…」

「行くな、とは言わないわよぅ。でもせめて、ゼロさんにも報告して、情報を共有なさい。それで、貴女も脳の整理をつけるのよぅ。ジブリール達には、わたしからも言っておくから」

「…ありがとう、エリザベート」

がちゃん、ドアが閉められる。すぐに、壁越しにバタバタと走る音が響いてきて、エリザベートはため息を吐いた。

「もう…急ぎ屋さんなんだから。………でも、そうね。大事なら、形振りなんて構っていられないわよね」

エリザベートとて、ジブリールやゼノラックスの安否が不明だと落ち着いてなんていられないから。
それでも、若い子特有の突っ走りには危機感を覚えるが、そんな野暮なことで止めるほどエリザベートは警戒心が強くはなかった。






















:




「ミーア…!」

転がり込むようにして帰宅したミーアを、ゼロは認識すると同時に安心感を覚えた。ショッピングモール爆破事件は知っている。もしや、それに巻き込まれでもしていないかといても立ってもいられなかった。それでも、わざわざあらゆる危険を犯して探しに行くよりも、焦燥を抱えながらも待機していた方がよいと判断してそわそわとしていたのだが、ひとまずは彼女が無事に帰ってきてくれたことに感謝する。

「ミーア…貴女がショッピングモールに行っていないか心配で心配で」

「行った、行ったんだよ…!それで、燃えてて…それで…!!」

「…まずは、息を整えましょう。それから、ミーアが思うままに語ってください。不明瞭な点はボクの方が補足認識しておきますので」

ただならぬ焦りに、ゼロは只事ではない不穏を感じ取って、ミーアの背を擦る。なにがあったのか、聞きたいのはゼロとて山々だが、走ってきたのもあるだろう、息切れしているミーアを急かせば、過呼吸も起こしかねない。
げほげほと、言葉にならずに蹲って咳き込むミーアの腕を自身の肩に回すと、支えながら椅子へと向かった。



「息切れだけは整えましょう。それでは、話したくても話せませんよ」

ミーアがこくこくと小刻みに頷く。一分経つか経たないか、ぜぇぜぇと苦しげな音だけが室内に響いていたが、時間が経つにつれて収まっていく。
やがて、肩で息をすることもなくなったミーアの様子を見計らい、ゼロは切り出した。

「ミーア、なにがあったのですか」

「それが、──」

ミーアは、彼女にしては支離滅裂なまとまりのない語調で話をし始めた。事柄を整理して話せ、と言いたくなるような具合だが、ゼロにはどうにか理解できる範囲であったので情報を整理して言葉を補正してを脳内で並行して行いながら、彼女の懸命な語りを聞いていく。
ショッピングモールのこと、助けられたこと、そしてハイドランジアのこと。今、彼女ができる全てを聞き終えたゼロは、心配事が多くて頭痛がしたような気がした。

「──…マスター・ハイドランジアの無事を確かめたいですね。今、この状態のミーアを単独で赴かせるには不安要素が多いですが…」

「でも、ハイドが…」

「わかっています。気になりますよね。なので、ボクは引き止めません。ですが努々冷静さを欠かないようにお願いします」

「………うん、頑張る」

一言そう言えば、ミーアは慌ただしく家を出て行った。再びぽつりと残されたゼロは、同行したくともできないこの状況を少々恨めしく感じる。
ミーアを一人で、なにかトラブルが起きなければ良いのだが。そう懸念して、ゼロはだいぶ過保護になってきたな、と溜め息をついた。

















































───。


───、─────。

──────?

───、─。























───あぁ、いたい。







ハイドランジアが目を覚ましたのは、比較的すぐだった。
ショッピングモールが火の海に覆われてからは意識に混濁が見られ、なにが起きたかを覚えてはいなかったのだが、気づけば視界は白い。病院特有の臭いと、白い天井が、真っ先に五感に伝わってきた情報だった。
つん、と消毒液の臭いが鼻につく。そのむず痒さに手を動かしたところで、ようやく体の感覚が戻ったようだった。

「………」

のそり、と起き上がる。病院のベッドは固かったが、久々にまともな寝具に触れた。周囲を見回してみれば、夕焼けの映る窓と花瓶、そして腕に通った管。管を辿れば、液体の入った袋が吊るされている。所謂、点滴だろう。
腕に異物が通されているというのは中々に違和感があったが、流石に引き抜いたりなどはしない。

「………?あたま、がいたいなぁ…」

じんじんと、後頭部が痛む。瓦礫がぶつかったりでもしたのだろうか。それにしては治療の形跡がない、ただの頭痛だろうか。
仕事柄様々な要因での頭痛は慣れっこなので無視できる範囲だが、さて。
──なにが、あった?僕は……なにをしていた?

「思い出せない…なぁ……」

記憶を掘り起こそうとしても、まるでノイズがかかっているかように乱れた映像しか出てこない。ぐちゃぐちゃと像が入り乱れていて、これを無理矢理整えようとすれば頭痛が酷くなりそうで中断する。
仕方なしに何気なく窓から外を眺めてみるが、夕日が目に沁みて、すぐに逸らした。やることがない、どうしようか。さっさと城に戻って、実験の続きをしたい。
悶々とそんな思考に耽けていると、ガララ、と引き戸が開けられる音がした。そちらに目を向けてみれば、見慣れたショッキングピンクが映った。

「ノーランさん…」

「よかった。ハイドちゃん、起きていたのね!」

エレインがぱたぱたと駆け寄ってくる。彼女の顔を見れば、頬にガーゼが当てられていた。怪我を負ったのだろうか。

「ノーランさん、その頬は…」

「騒乱の流れ弾に当たって、ちょっと血が出たのよ。ここ以外には怪我はないから、心配しないでちょうだいね」

「…………、あの、僕……ショッピングモールでのことを…あまり…覚えていなくて……」

語尾が消えていくように声の覇気がなくなる。ハイドランジアの呟きに、エレインは見るからに表情を曇らせた。
彼女は、言葉に詰まっているのかなにも答えない。出来事を覚えてなどいないが、なんとなく嫌な予感がする。聞かない方が良いのかもしれないが、気になる。しかし、先を促そうとすれば頭痛が酷くなって口を噤んだ。

「…ハイドちゃんは、気絶しちゃったのよ。そこを助けてもらって、避難場所に連れて行ってもらったの」

「…それは、真実ですか……?」

「………えっと…………」

「…いえ、なんでもないです。……助けてくれた人にも…お礼を言いたいですね」

「えっとね…?助けてくれた人はすぐにその場を去ってしまったから…」

「……そう、ですか」

エレインは、なにかを隠しているのだろうな。そして、それはとても言葉にし難いことなのだろうな。中途半端に聡明なハイドランジアは、ぼんやりとそう感じ取った。
──聞きたい。ああでも、聞かなくて正解なのかもしれない。……頭痛が、なにかを訴えかけるようにじんじんと強弱をつけて響いていたから。

「…そうだ、僕の……荷物は……?」

「そこよ。お洋服は畳んでおいたわ」

ハイドランジアの今の衣服は、いわゆる患者服。元の洋服はエレインが指し示した棚に仕舞われていた。そこにはハイドランジアがいつも身につけているポーチ類も置かれている。
ハイドランジアは、のっそりとした動きで一つのポーチを手に取った。それは普段、左脚の太股に巻いてある物。手に取った瞬間、その軽さに内心驚く。

「………太陽の…薬品が…………」

このポーチには、試験的に薄めることに成功した太陽の薬品がいくつか入っていたはずだ。複数の瓶や注射器に分けて保管していたはずの太陽の薬品が、容器ごと過半数無くなっている。
あの薬品は云わば、小さな太陽そのもの。姿形は違えど、核融合で太陽の如し熱を生み出している凶器。それはいくら薄めて、熱量はそのままに核融合による悪影響を99%除去したとはいっても、岩石程度ならば溶かしてしまうものだ。
そんな、小さなマグマの塊がいくつも失われていた。これは、どういうことなのか。

「……その薬は…………なくしたとか、盗られたとか、そういうことではないわ。……だから、安心してちょうだい」

「……………………」

エレインは、明らかに真実を知っている。薬を紛失した原因も全て。
聞き出すべきなのだろう。普通に考えればそうするべきなのだろう。でも───

(聞きたく、ないな…)







ガララ!




不意に響いた音に、扉へと目を向ける。そこには息せき切らしたミーアが、震える膝に手をついて立っていた。
全力疾走でもしてきたのだろう、ミーアはげほげほと咳き込みながらゆっくりと歩み寄ってくる。エレインが察して横に退けば、ミーアは風に乱れた髪を押さえ、俯きがちにハイドランジアの側で立ち止まった。
訪れる沈黙、先程の一瞬の喧騒が耳鳴りとなって残る。数秒、お互い黙ったまま時間が過ぎる。

「………」

やがて、彼女の髪を照らす夕光が揺らいだ。緩慢な動作で、俯かせていた顔を上げたミーアを見て、ハイドランジアは珍しく目を見開いた。
彼女は、今にも涙を零しそうなほどに大きな瞳を潤ませていた。ぐっと口元を引き結んで必死に涙を落とすまいと踏ん張る彼女の姿に、どこか脳裏に不思議な感覚が過ぎった。

(───ミーアが、生きている)

無意識に浮かんだその思考に、ハイドランジアは自身でも疑問を抱いた。
何故ならそれは、あのショッピングモール事件から無事でいてくれたことに対する感情ではなかったから。ショッピングモール事件なんかよりも、もっと前。ずっとずっと遠い場所からの視点の言葉。
どうして、そんな言葉が浮かんだのか。ハイドランジアは違和感を覚えたが、直後に襲ってきた衝撃に思考は吹っ飛ぶ。

「ぐっ…………!?」

呻くと同時に、ミーアに抱きしめられていることを認識した。抱きしめられるとは言っても、男女特有の砂糖のような甘さを感じさせるそれではなく、友人に向ける安堵と喜びのもので、ハイドランジアは目を細める。
────姉さん以来だ。こんな暖かな感触で包んでもらったのは。

「無事で良かった…」

感極まって掠れる声音は、真にハイドランジアの身を案じてくれていた何よりもの証で。だからこそ上手く言葉が出てこず、ミーアの腕の中で頷くしかできなかった。
耳元で、鼻を啜る音がする。布が受け漏らした雫が首筋に当たるが、それは知らぬフリをした。
一分ほどそうして、ミーアが腕を解く。それに合わせて預けていた体重を戻せば、ミーアは僅かに赤く腫らした瞼を摩って、へにゃりと笑った。
エレインが、小さく「あら♪」と声を漏らす。それを聞いて初めて理解したが、自分でもこんな表情を浮かべられるほど表情筋は生きていたのかと驚くほどの、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ミーアも、大事なさそうで良かった…」

「ハイド、怪我酷いのに突進してごめんね…。エレインさんも、ご無事でなによりです」

「ミーアちゃんのことも心配だったのよ♪可愛らしい顔を見れて、安心したわ♪」

ぽんぽん、とエレインに頭を撫でられる。それに照れ臭くて頬を掻けば、エレインはくすくすと楽しそうに笑い声を漏らした。

「あら…でもミーアちゃん、怪我してるわね…」

「ああ、掠り傷なんで全然平気です。治療もしてもらいましたし」

「そう?女の子なんだから、傷を残しちゃダメよ?手入れは念入りにね?」

「はい、ありがとうございます」

「ミーアちゃんは素直で本当に可愛らしいわねぇ…。妹にしたいわ♪」

「……ノーランさん、ミーアが困るのでその辺で……」

頭を撫でられていたはずが、いつの間にか手を握って妹勧誘をされていたので苦笑いしかできない。それを察知して、ハイドランジアが割り込んでくれた。
エレインは残念そうに離れたが、名残惜しそうな様子からわりと本気で口説いていたのだろうか。

「えっと、ハイドは退院ってすぐできるの?」

「それ…どうなんですかね、ノーランさん……。僕はさっき目覚めたばかりなので…なにも聞いていないんですが………」

「ええとね、念の為に今日は入院してもらわないといけないみたいだけれど、明日になって何事もなければ退院オッケーみたいよ♪」

「……今日一日は………ここにいなければならないんですね…………」

見るからに肩を落としたハイドランジアは、恐らく研究室に残してきた実験途中のモルモットを気にしているのだろう。
モルモットに関しては任せなさい、という意をこめてミーアが肩にぽんと手を置いてぐっと親指を立てれば、ハイドランジアはぐっと親指を立て返して小さく頷いた。

(ハイドちゃん、だいぶフランクになったわねぇ…♪)

以前のハイドランジアは根暗もいい所だった。だが、ここ最近は人並みにコミュニケーションを取れるようになってきていて、エレインはその功労者であるミーアに密かに感謝している。

「まぁ、今日はアタシも付き添うわよハイドちゃん♪」

「ありがとうございます…ノーランさん…」

「なら、私はそろそろお暇しようかな。また明日ね」

「うん……ミーアもありがとう……」

ミーアは「ばいばい」と手を振って出ていく。ハイドランジアは閉められた扉をぼーっと見つめていたが、エレインに声を掛けられて我に返った。
エレインが、夕飯の病院食について話してくれる。それに返答をしながら、ハイドランジアは未だ拭えぬ奇妙な感覚を意識の片隅に追いやった。