壊想 ジブリール
まともな服とは呼べないボロ布を纏って、食料を求めて彷徨う。いつ誰に襲われるかわからない。明日にはもう死んでいるかもしれない。全員が敵。そんな環境が当たり前で、この外に平和で食べ物にも困らない夢物語のような場所が広がっているなんてほとんど考えすらしなかった。
毎日を生き抜くのが精一杯で、でもなんのために生きているのかわからない。荒廃した街。
「食料だ!」
「どけよお前!」
「あ゛あ゛!!」
一週間に一度、どこからか降ってくる僅かな量の食料。それに群がり、奪い合いになる。
一気に殴打音と血の臭いが充満し、殺気に満ち溢れた集団の中を縫うように走り抜けるおれの腕には、数個の缶詰と飲料水が抱えられていた。
知性と呼べるものはほとんどなかったが、どうやらそれなりに悪知恵が回ったらしいおれは、幸いなことに生きるのにそこまで大きな苦労をすることはなかった。
(今日は上等…)
食料を落っことさないようにひた走れば、周囲の廃墟となんら変わらない建造物に入る。
木材の隙間を風がぴゅうぴゅうと通り抜ける音を聞きながら朽ちた階段をそっと登って二階に上がれば、女性が窓の外を眺めていた。
「ただいま、母さん」
「あら、おかえりなさい」
おれと同じくすんだ金髪。彼女はおれの母親だった。
母さんの側に駆け寄って戦利品を並べれば、母さんは微笑んで頭を撫でてくれた。母さんはこの敵だらけの世界で唯一心を許せる味方だった。
「これなら、2日ぐらい断食すれば一週間持つわね」
「うん、母さんの方はどうだった?」
「ほら、今日は5冊よ」
母さんが並べたのは本だった。本も食料と同様に時折降ってくるが勿体ないことに本にはほとんど誰も興味を示さない。
おれは本が好きな母さんの影響で読み始めてから、本が大好きになった。本は新しい知識を教えてくれる。本を読んだからこそ、食料が降ってくることが当たり前ではない異常だと気づくことができた。
文字も母さんに教えてもらったから、難しい文字以外は読める。知識を増やすのは楽しい、知ってどうなると言えば大して役には立たないが、それでも知らない世界を知れるというのは楽しい。本の中の世界は平和なものや殺伐としたものもあって、平和な世界に憧れを馳せるのは嫌いじゃなかった。
「あら、髪が伸びてきたわね」
「本当だ。母さん、また切ってよ」
「ええ、ここにお座り」
髪が伸びれば、母さんが切ってくれる。錆びた鋏で切りにくいだろうに時間をかけて切ってくれるのだ。そんな優しい母さんが大好きだ。
ここは親を大切にしなかったり、親が子どもを大切にしなかったりすることなんてザラにある。でもおれは大切にしてもらってるし、おれなりに母さんを大切に思っている。父さんは顔も見たことがないけど幸せな家庭だと思う。
「…?あら」
遠くで爆発音が聞こえた。『魔素』持ちが暴れているのだろうか。
窓から覗けば、数キロ先で黒煙が上がっている。爆発物なんてそうそうないはずだから魔素を使われたと見て妥当だろう。
「あーあ…あんなに派手に魔素なんて使ったら」
下の道を、鋼鉄の服を着た人間が数人駆けていくのが見えた。
きっと、あの魔素持ちを"捕まえ"に行くんだろう。
あの鋼鉄の服を着た人間達は、この街を囲っている壁の向こうから時折やってきては魔素持ちを捕まえてどこかに連れていく。
あの人間達も魔素持ちらしくて、抵抗しても叩きのめされてしまうのだ。
連れていかれた魔素持ちがどうなっているかなんてことはわからない。なんせ、誰一人として帰ってきていないから。
でも、ロクな目に会っていないのだと思う。だから、この街の魔素持ちは自分が魔素を持っているということを隠してる。おれもその隠しているうちの一人だ。
「ー!!ーーーーー!!!ーー!!!!!」
言葉を知らないのだろう。雄叫びのような声を撒き散らしながら、魔素持ちが引き摺られていく。周囲は野次馬で見物こそするが誰も助けようとはしない。
魔素持ちの姿が見えなくなって少しすると、食料が降ってきた。
何故か、魔素持ちが連れていかれると食料や備品が降ってくる。だから魔素持ちを密告する者もいて、それも魔素を隠している理由だ。
わらわらと食料に群がり始める人間に遅れを取らないよう、おれも二階の窓から飛び降りて食料を回収しに行った。
おれの魔素は強くてすごい部類らしかった。母さんがそう言ってたから多分そうなんだと思う。
おれの魔素は、色々とできる。対象と決めた相手の視界外なら、対象にさえ見られていなければ異空間の窓を開けて物を出し入れすることができる。
窓から勢いよく物を飛び出させて刺すこともできるし、応用で大量の窓を開けて串刺しにすることもできる。食料を回収する時に使えればもっと沢山食べ物を手に入れられるが、人目に付きやすいからそれはできない。
便利なのか不便なのかわからない魔素だ。
とりあえず今は、物の保有上限を調べるために色々な物を大量に入れて検証中だ。今のところまだまだ余裕そうだ。
「また髪が伸びているわね、おいで」
「うん!」
母さんが髪を手櫛でといでくれる。母さんの手は好きだ、温かくて柔らかい。ハサミの音がする。伸びた髪が軽くなっていく感覚が気持ちいい。
いつまでもこの時間が続けばいいのになんて、心のどこかで願ってしまう。しかし、そんな願いが叶うはずもなく──
「おいてめぇ、食べ物盗りやがってこのクソガキが!」
「*@?;#/&¥」
「…なに、あんたら」
突如として壁を蹴り破って現れたのは3人の男達だった。見るからに粗野で知能の欠片もなさそうな風貌のそいつらは、真っ直ぐこちらに向かってくる。朽ちかけの階段を乱暴に登り、こちらを見つけるとギロリと鋭い眼光を向けてきた。
「盗むもなにも、あの時点では誰の物でもないでしょ」
「あぁ!?意味わかんねーこと言いやがって!」
この一連の流れだけで話が通じない輩だと悟る。恐らくは食料が降ってきた時に群がっていた内の一人だとは思うが、変な因縁を付けられて堪ったものではない。
コミュニケーションも取れない、おまけに相手は角材やら鉄パイプやら、暴力的な武器を所持している。これはまずいかもしれない。
一先ず母さんを奥に下がらせて、転がっているバールを手に取る。それを構えれば、相手は鼻で笑った。
「お前みたいなのが勝てると思ってんのかぁ!?!?」
猪のように突進してきたリーダー格の男に頭を掴まれて地面に叩きつけられる。明らかに体格の差があり、勝てるなんて思っていなかったがやるしかないじゃないか。
肺が圧迫されて変な声が出る。息が苦しい、掴まれている頭が痛い。上から下品な笑い声が降ってくる。
とりあえずおれを痛めつけて満足するなら、下手に逆らうよりもされるがままにする方が吉か。嫌だけど耐えるしかない。そう思った時───
「やめてちょうだい!やめて!!」
「あんだよババア!!!」
母さんの金切り声が聞こえた。その直後に鈍い音と母さんの悲鳴が耳に入る。
まずい、母さんが。起き上がろうとするけれど頭を掴まれたままで身動きが取れない。バタバタと手足を暴れさせると男はさらに力をこめてくる。薄目を開けて母さんの方を見れば、母さんは角材を振りかぶられて殴られる直前だった。
手を伸ばしても到底届かない、いや、そんなことを考えるよりも体が動いていた。
「@?♪―<!←*_!”,-・,!!!!!???」
男の悲鳴が口から絞り出されるように漏れた。男の体には、複数の窓から突き出た武器が刺さっている。急所それ以外関係なく串刺しで血濡れの男はもがいていたがすぐに脱力したように動かなくなった。
他の男達は驚愕しているのか誰も言葉を発さない。その隙に窓を新たに開けて、頭をわし掴かんでいる男を同様に串刺しにする。
そうして残った男にも窓を開けようとしたが、そいつは恐怖に慄いた声を上げながら転がるように階段を駆け下りると逃げていった。
「………」
魔素を、使ってしまった。それも人を殺してしまった。挙句に一人には逃げられて、密告されてしまうんだろう。
呆然とした思考の中に、母さんの安否という単語が浮かぶ。その瞬間弾けるように母さんに駆け寄って、絶望するしかなかった。
「あ、あ………あ」
母さんの頭は内側に凹んで赤くなっていた。真っ赤な血が床にまで流れている。母さんは目を開けて涙を流しながら動かなくなっていた。
ぺたりと床に座り込む。母さんを触れば、温かかった体は冷たくなっていた。そうして漸く、母さんが殺されたことを認識した。
「………────」
言葉はもはや出なかった。涙すら流れない空虚感、胸にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚。
もう密告なんてどうでもよくなっていた。連れていかれて死んでもいい。もう、なにもする気が起きない。おれが悪いのか、おれがもっと早くちゃんと行動できていればこんなことにならなかったのか。正解なんてわからない、正解なんてわからない、正解なんてわからない。
家に乗り込んでくる足音にも、肩を掴んでくる腕にも、抵抗する気なんて起きなかった。
*
薬品の臭いで目が覚めた。どうやら気絶していたらしいおれは、ひどく重い体を起こす気もなく目を少しだけ開く。
周囲にはぼんやりと人影らしいものが見えて、数秒後にようやく認識した不可思議な状態に反射的に体を起こした。
「……?ここ、は…?」
まばらに散らばるのは生気を失っていたり怯えたりしている人間達。街では見たことがない人ばかりで、おれは困惑する。
違和感を覚えて服を見てみれば、真新しい清潔なものに替えられていた。
よく観察してみれば、どうやらここは檻の中のようだった。だだっ広い空間ではあるが、奥に格子が見える。
「……」
周りの人間達は会話が一切ない、おそらくここが何処なのか聞いてもまともな答えは得られないだろうと悟った。
ふと、隅に取り付けられている薄汚れた鏡が目に付く。近かったのでそこに向かって己の姿を映してみれば、死んだ目のおれがこちらを見ていた。
母さんが切ってくれていた途中の、左後ろ髪だけ長いアンバランスな髪型がどこか認めたくなかった現実を冷たく主張していた。
かたん、
諦めて冷たい鉄の床に座っていると、格子のさらに奥にある扉が開いた。気絶している人間を背負った白衣の人間と、なにも持っていない白衣の人間がぞろぞろと入ってくる。
前者の白衣の人間は檻の扉を開けて気絶している人間を中に置き、後者の白衣の人間は檻の中まで踏み込んでくると近くにいた人間の腕を掴んで引っ張っていた。
「ちょっと!あたしをどうする気なのよ!?」
腕を掴まれた人間の女がそう叫ぶ。それにはなにも答えずに、腕を引っ張り続けて着いてくるように促していた。
「なによこれ!魔素が使えないじゃない!」
女は空いている方の手をぶんぶんと振り回していたが、どうやら魔素が使えないらしい。
他の人間も同様で、無抵抗に連れていかれる者はそんなことなどとっくに知っているようだった。
おれは、壁際に移動して本当に魔素が使えないのか試みてみる。対象はなんでもいいがなるべく隅っこにいる目立たない相手を選んで窓を開けようとした。
(…?なんだか、力が抜ける…)
魔素を使おうとした瞬間に奇妙な脱力感に襲われた。窓も開けないし、一気に体に疲労が溜まる。腕を動かす気力さえなくなったから、あの女はだいぶとタフだったのだろうなと思った。
まぁもう女は連れていかれたが。
そうこうしているうちにとうとうおれの番が来た。
魔素を使えないことはわかっているから腕を掴まれようとも抵抗はしない。檻から出た後はただ引き摺られて、黙々と白い通路を歩かされる。
これまた真っ白な扉が等間隔で配置されており、小さな覗き窓と番号が割り振られている。それがなんなのかは知らないし興味もない。
やがて、一つの扉の前に辿りついた。”魔素検査室”と書かれた表札が無機質に取り付けられているそこに入っていく。
「前へ」
背を軽く押されて促される。嫌な感じはしたが渋々と従うと───
「っ!?!?!?」
がこん、と床が開いた。落ちている、そう認識した時にはもう地面が目前で。
「いっつ…」
着地し損ねて尻もちをついたおれは呻いた。一体何事だと状況確認しようとすれば間髪入れずに白い気体が全身に噴射される。
「っ!?げほっ!げほ!」
肺に入り込んで噎せた。
周囲でなにやら機械音がしているが、目に入った痛みと喉の痛みで手一杯だ。そうしてひたすら咳き込んでようやく落ち着いてきた。
『この空間では貴方は魔素を使用できます』
「…はぁ?」
『しかし、その空間内でのみです。その空間外に魔素の影響を及ぼすことはできません』
「なにを…」
『これより、貴方の適性検査を始めます。魔素を存分に使って攻略してください』
だからなにを。そう聞き返そうとしたところでけたたましくブザーが鳴り響く。
あまりの音量に怯むと、ブザーとは別の金属音が聞こえてきた。
そちらを向くと、数匹の痩せこけた大型犬が唸りながらだらしなく涎を垂らしてこちらを見ている。
「おれを食べる気…?」
問いかければ、犬は跳ねるように襲いかかってきた。流石に犬ころに喉笛を噛みちぎられて死ぬのはごめんだ、魔素を発動させて窓を開ける。
それで2匹は仕留めたが残りの2匹には避けられた。再度窓を開くが、学習能力が高いのか愚直な攻撃は避けられてしまう。
頭を目掛けて飛び掛ってきた噛みつきをしゃがんで転がることで回避し、そいつの着地ポイントに合わせて窓から武器を突き出せば串刺しになった。
「で、あとはお前…」
窓を開ければそれは当然のように躱される。走りながら牙を向くそれは飛び上がると殺されると学んだ様子だった。
おれは背を向けて走る。普通に攻撃しているだけでは仕留めれないと判断したからだ。
だがすぐに距離は詰められ、挙句の果てに躓いて派手に頭から倒れ込んでしまった。
その隙は当然見逃されることなく、犬に背中を押さえられてすぐに首に牙を立てられる。
犬の牙がおれの首を捕らえた、しかし攻撃を受けていたのは犬の方だった。
「残念」
おれの項から伸びる刃は、犬の口内を通って喉を突き破っていた。熱い血がぼたぼたと髪や肌を不快に濡らしていく。
これの死角は誰の死角か?犬の死角ではない。これは、壁の向こう側で呑気にこの有様を見つめている白衣の人間の死角。壁の向こうには窓を開けることができなくとも、視界そのものは魔素ではない。だからあいつの視界を利用することに一切の障害はない。
「…きもちわる」
急速に冷えた血液は不快以外の何者でもなかった。大量に流れた血液を服が吸って、背中に張り付いていることも拍車をかけている。
立ち上がって、髪が吸った血液を絞っていると機械音が聞こえ、周囲が変質していく。
地面が開いて、大きな壁がせり上がってくる。何事かと見回せば、後ろも壁に覆われていた。左右は今のところなにもないが、これも適性検査とやらの一つなのだろうか。
『では次の検査に移ります。この迷路を脱出してください』
「迷路だって?」
言われてみれば、確かに迷路か。ここがスタート地点でないことは明らかだが、脱出しろと。
壁はおれの背丈よりもずっと高くて、ジャンプしようとも覗き見ることはできない。仕方なく、普通に歩いて進む。
「手掛かりがない、勘で進めってこと?それで一体なにを測れるのか」
ぼやいてるうちに分岐路が見えた。右か左か、どちらに進むべきか。
「…」
一度、立ち止まってみる。適性検査などと宣っているのだから、闇雲に進ませるわけがない。ある種のメタ推理だ、なにか計測したいものがあって、その為にこんなことをさせている。この場合、なにを測りたい?
「……………風が、吹いている…?」
ここは室内だ。だというのに、止まってじっくりと感覚を研ぎ済ませればわかる程度の微風が吹いている。
その風は、右の通路へと向かっていた。賭ける価値は、十二分にある。
右の通路を進む。そして、分岐路があれば立ち止まって風向きを見る。通路ごとに風向きが違うようで、それは向かうべき先を示しているように思えた。風向きに従って歩いていき、漸く開けた空間に出る。その瞬間、声が聞こえた。
『そこがゴール地点です。では、これにて適性検査を終了します』
「なっ…!?」
白いガスがどこかから噴き出してきたかと思えば、急速に意識と思考能力を奪われる。これが本で見た睡眠ガスだと気づいた時にはもう視界は暗くなっていた。
;
「うっ…」
鈍く意識が浮上する。少しずつ持ち上がっていく自我に合わせて瞼を押し上げると、途端に目が眩むほどの強烈な光が飛び込んできて呻いた。
咄嗟に瞳を閉じたが、瞼越しにもその光は差し込んでくる。時間をかけて光に慣れ、目を再び開けられるようになったので現在の状況を把握してみる。
「なんだこれ…?」
おれは仰臥した状態で黒い帯のような拘束具に体を縛られていた。服は本で見た患者服のような緑のものを着せられており、やっぱりと言うべきか魔素は発動できない。
目をチカチカさせる程の眩しい光の正体はどうやら無影灯のようだ。まるで手術室だという感想は的外れではないだろう。
「……」
一体なにをされるんだろうと思うと怖くなってきた。死んでもいいとは思ったが、こんな奇妙なところで奇妙なことをされて死ぬのはごめんだ。そもそも死ねるのか。
駄目元で暴れてみたが、当然拘束具が解ける気配はない。精々この寝台が倒れる程度だが、そうなったとしても意味はないだろう。
そうこうしているうちに扉が開くとぞろぞろと白衣の人間達が入ってくる。メスなどの手術器具が並んだ台を押している者、なにかが液体に沈んでいる瓶を持ってくる者、そしておれを取り囲む複数の人間。
「なにする気だよ…!」
威嚇もこめて食ってかかるが、誰も取り合いはしない。おれの言葉を無視して慣れたようにテキパキとなにかの準備をしていく人間達には不穏さしか感じなかった。おれの勘が、このままではいけないと執拗に告げる。しかし、逃げ出す隙間などありはしない。
一人の人間が進み出てくる。手には一本の注射器、中身は透明な液体が入っている。それはおれの肌に戸惑いなく刺され、針の痛みと液体が血管に注入される痛みが体を迸った。
「これ、なんだよ!」
質問には答えてくれない。使用した注射器を引き抜くと、人間達はカチャカチャと手術器具をいじり始めた。
体の感覚が鈍くなってくる。視界が僅かにぼやける。頭がぼーっとして、なにも考えられない。やがて体がなくなってしまったのではないかというぐらいに感覚が消え失せたが、視界と僅かな思考力だけは残っている。瞼が半分閉じかけているぼやけた視界、音は微かに聞こえる。白衣の人間達がなにかをしている。
おれの周りを動き回っては、血がついたメスやらなにかの器具やらを持ち回っては忙しなく動いている。
やめてくれ、と言おうとしたけれど声が出ているのかもそもそも口と舌が動かせているのかもわからなかった。
やがて終わったのか、ぞろぞろと人間達は出ていく。拘束具が外された気配がするが、まだ頭はぼんやりとしていてまともに動けなかった。数分、あるいは数時間微動だにしていなかったが、体の倦怠感が解けてくる。倦怠感が解ければ脳も覚醒してきて、次の瞬間におれは嘔吐した。
「が、あ、ぁあ!!ぁ、ぁあ!!!」
情報という情報が飛び込んでくる。視界が目まぐるしく回る。知らない知識、知らないこと、知らないもの、全てをこの一瞬で”知って”しまった。
例えばこの国の地形。スラム街は端の端、それこそ山を越え谷を越えた場所にある。この国に城があるなんて知らない、この国がこんなに広大だということも知らなかった。食べたことのない食物、飲んだことのない飲料、化学物質に科学技術、人体の構造や急所、あらゆる生物の種類、そして今この瞬間にここの空気中で漂っている細菌や物質。そんな知恵の濁流が脳を襲い来る。処理が追いつかず、視界がチカチカと点滅を繰り返している。
気持ち悪い、ぐらぐらと激しく揺さぶられているようだ。狂ってしまいそうな程に頭は痛む。いっそ死んだ方がマシなのではないかというほどの苦痛は、三日三晩続いた。
「───……」
気絶していたようだった。恐る恐る目を開いたが、この空間の情報自体は飛び込んでくるもののズタズタにされるような頭の痛みはすっかりと引いていた。
吐瀉物もいつの間にか片付けられている。きっと、ここの”職員”が処理したのだろう。
「…ひっどい有様だなぁ」
この小さな部屋に取り付けられている鏡を見れば、目の下に隈を作って窶れているおれの姿が映った。
「健康状態が悪い、平均的な男性と比べると痩せすぎだ。筋力的には問題ない。髪は──…母さんが切ってくれた時のまま、艶がなく栄養が行き届いていない」
己を”分析”してみると、良いところなんて一つもなかった。きっと頭をいじられたのだろうが、鏡に頭部を映してみても大きく目立った傷口は見当たらない。代わりに左目の下に黄色い刺青で39と彫られていた。推測するにこれは、この施設での識別番号なのだろう。
「あいつら、死ねばいいのに」
怨詛を呟いてみるがそんなことが起こるわけもなく、鏡に興味を失ったおれはこの部屋の詳しい分析を始める。
「通気口が上にある、扉はあそこの一箇所のみだけど鍵がかかってるな。壊すのは現状だと不可能か。魔素自体は……?いや、ここを囲っている壁の影響か出力に難はあるけど使えるな。やっぱり、本格的に魔素を封じてたのは最初に着せられていたあの服とこの拘束具かな」
時間はかかるし体力の消耗も激しいが、魔素は使うことができた。しかし出力が随分と抑えられているためまともに使用することはできないだろう。魔素での抵抗はとてもではないが諦めた方がいい。
他にこの部屋にあるものは簡易的なテーブルと椅子、拘束具付きのベッド、付けっぱなしの無影灯、鏡だけだ。窓は、扉に中の様子を確認するための小さな覗き窓が付けられている程度で外界を伺えるようなものはない。
ため息を吐いて部屋の隅に座り込む。どうにも頭部に違和感がある気がしてしきりにさすっていると、もう一つの違和感に気がついた。
「…そういえば、母さんのこと全然思い出してなかったな」
そういえば、前までは胸を蝕んでいた喪失感も感じなくなった。そういえば、母さんのことを思い出としてするりと飲み込めるようになっていた。それこそ、少し前に食べた物と似たようなわりかしどうでもいい思い出として。
「おれ、どうしたんだ?あんなに母さんが死んだのがショックだったのに、なんでそんなにすぐに淡白になれたんだ?」
時間をかけて傷を癒したのではない、頭を弄られてから唐突に冷めた。どうしたんだ、おれは。
母さんのことが大切で、おれのせいで殺されてしまったのがとても悲しくて恨めしくて全てを投げ出して死んでしまいたかった。それがどうだ、母さんのことはもう過去の思い出、悲しみも恨みもない、なにも感じない。自分の感情の落差に恐怖は覚えど、母さんのこと自体には無感情もいいところだった。
「なんで…大切だったはずなのに」
そう、大切だった。何よりも大好きで、ずっと一緒に居たかった。…そのはずだったのに。
今はもうどうでもいい、あれは仕方がないこと、あの環境下は弱肉強食ただそれだけ。自然の理、歪んだ人の理、なんにせよどうしようもなかった。弱かったからいけない。
────あれ、大切って、どんな感情だったっけ。
一日に三回運ばれてくる食事、薬物注射、そして性能検査。おれの生活はそれで回っていた。時折拘束具をつけられて檻に移されたりなどの変化はあったが、変わり映えもなく注射される薬物の激痛に何度あの白衣共を殺したくなったかわからない。こんな環境下だったせいもあってか、大切という感情の喪失とともに他の人間達が本当におれと同じ生物なのかさえ疑問に感じるようになっていた。気持ち悪くて反吐が出そうになるので無理矢理その思考は閉ざしたが、それでも凝り固まってしまった乖離は拭えなかった。
「…随分と傷ばっかりで笑っちゃうね」
どれぐらい経ったのか、七年は経っているはずだ。三年目までは数えていたが、途中で数えているのが馬鹿らしくなってやめた。
途中で檻に一時的に移送されたりなどはしたが、結局は同じような部屋に戻されている。
基本的にこの施設の情報は落ちないが、それでも年月を過ごしてわかったことは幾つかある。この施設は人間をアンドロイドに改造することを目的としている。大きくわけてブレイン、ソルジャー、エージェント、バーサーカーの四つのアンドロイドを造り出すのだ。どうやらおれは、その中ではブレインに分類されるらしかった。
振り返ってみれば思ったよりも得られた情報は少ないが、ここまでイカれた非人道具合だと諦めも早々につくというもの。
どうせもうロクな生き方はできないだろうし、すっかり抵抗するような気力は失せていた。
「39番、食事だ」
差し出された盆を受け取ってテーブルに置く。ホカホカと湯気の出る食事にも当たり前のようにすっかりと慣れてしまった。スラムに居た頃は温かい食事すら知らなかったのに。日に日に曲がっていく価値観に覚える恐怖も麻痺してしまって、いよいよ末期だなと自分でも思った。
「………」
ここは、おれをアンドロイドに改造してなにをしようとしているのだろうか。使用用途が未だに不透明だ。
数年間も、わざわざ痛めつけるためだけにここに居させているわけではないだろう。いつかはなにかに使われる。でも、その時はいつまで経っても来なかった。
「…ん、持て余しているのか?」
この施設の職員ですら持て余しているのかもしれない。それはおれが、という意味ではなくて改造アンドロイドが、という意味でだ。
それはそれで、なんとも間抜けな話である。まるで、無意味にごっこ遊びをする幼児のようだ。目的を正確に設定しないままにただ作業だけ進めるというのは愚かの極みでしかない。
「まぁ…なんでもいいか」
どうせなにも変わりはしない。その推測が的中していれど的外れであれど、だからといってこの現実が変わるわけでもないのだから。延々とここで体を弄られて、きっと惨めに死んでいく。最初は怖かったけれど何度も脳内でその光景を描く内に慣れてしまった。
味気のない食事を黙々と食べ進めていると、ふと耳が微かに音を拾う。
「なんだ…?」
普段、この部屋に音が響いてくることは少ない。それなりに防音加工が施されているのか、無音が常なのだ。ごく稀に外の音が響いてくることはあるが、それらの本来は爆音で、大部分は防音壁によって阻まれている。
ではこれは?ここまで断続的に音が響いてくることは今までになかった。それも、どんどんとこちらに近づいてきている。
気になって覗き窓から様子を伺おうとすれば、バタバタと複数の研究者が走っていく様が見えた。
「嫌な雰囲気だな…」
途端、背筋に寒気が走って後ろに飛び退く。そのすぐ一瞬後に、先程まで側に寄っていた扉が吹き飛んだ。
流石に驚きが勝って絶句するが、肌をチリチリと焦がす熱と火の粉と黒煙に我に帰る。そして、逡巡した。
(どうする、これは恐らくなにかの事故だ。事故だけど…出られる!ここから出られる!今がチャンスだ、機会は今しかない!これを逃したらもっと収容が厳しくなるかも…どうせ失敗した時は失敗した時だ、このまま停滞していたところで繋がる可能性なんて一つもない。なら…)
そっと、扉の外を伺う。遠くで研究者の怒声と騒音が聞こえるが、今この場所はノーマークだ。
もう迷ってなんかはいられない。扉の残骸を踏みつけて廊下に躍り出る。そのまま生体反応に注意を配りつつ、近場にあった収容室ではなさそうな部屋に滑り込んだ。
「鍵が掛かってなくてよかったな…ここは…備蓄室かな」
棚に所狭しと並んだ食品と飲料水。いい部屋を当てられたと、おれは喜んだ。脱走するとなれば食事は必須となる。それをどうしようか思考を巡らしていたが、これなら心配なさそうだ。
どうやって持っていくのかについてはもう答えは出ている。
「やっぱり、魔素が使えるようになってる」
収容室から出た際にもう気づいていた。収容室以外に魔素を封じ込めるような設備は整っていない。魔素が数年前と同じように使うことができる。
久々に開ける窓に懐かしみを感じつつ、食料と飲料水をぽいぽいと放り込んでいく。
つくづく、この魔素を持ててよかったと思う。容量はほぼ無限で重量制限も今のところは無さげでいつでも開閉可能、ここまで便利な魔素があるだろうか。
棚を根こそぎ漁って、当面の食事には困らなくなった。
「さて…」
次に目をつけたのは、この備蓄室の奥にある小部屋。表札には《 武器庫》と書かれている。
「武器は、欲しいよね」
武器も補充できるならしておきたい。そう思ってドアノブに手を掛けるが、がちゃんと激しく音が鳴るだけで開かなかった。
扉の側面にカードリーダーと虹彩認証装置がついている。これでは開くはずが無い。
「……………」
おれは、武器庫から離れて入ってきた扉に向かう。ドアノブを捻っていつでも開けられる体勢で待機する。機会を見計らわなければならない。
生体探索に神経を集中させて、待ち続ける。
まだ、まだだ、まだ駄目だ。───…
「……なんっ!?ぐ、ぐ……!?!?」
備蓄室を横切ろうとした研究員の襟を掴むと、声が出ないように口を押さえて備蓄室に引きずり込んだ。
そのまま室内に放って、混乱する研究員を踏みつける。すぐさま窓を開いてバールを取り出すと、なにやら叫んでいる研究員の頭を殴打した。
「うるさい、黙れ。今すぐ黙れ、黙って死ね」
一発では死ななかったらしく痛みに喘ぐ研究員をさらに殴打する。やがて動かなくなった研究員の生体反応が消えたことを確認してバールを窓に戻すと、白衣を漁った。
目当てのものはすぐに見つかった。内ポケットの中に仕舞われていたカードキーを引き抜いて、そして、研究員の右目を抉る。
ぐにぐにした気持ちの悪い感触には目をつぶって武器庫の扉の前に立つと、カードリーダーにカードキーを通した。
CLEAR、という文字がモニターに表示されて、虹彩認証装置に誘導される。そこに先程抉った右目を近づけると、数秒後に同じくCLEARの文字が浮かび、ガチャリとロックが解除される音がした。
用無しとなった目玉を後方に捨てて、扉を軽く押せば簡単に開く。おれが足を踏み入れるとパッと電気がつき、その武器群を照らし出した。
「思っていたよりも装備が整ってるな…」
インプットされた知識から大半の武器の名前と使用方法はわかった。ここにはそれなりに高性能の銃火器や爆薬、剣や刀がふんだんに飾られている。
暫し見繕って、手に取ったのは刀剣類。銃火器は魅力的だったが、いかに知識を持っているといっても経験は皆無のおれでは扱いきれる気がしなかった。ここは、比較的手に馴染みやすい刀剣類がいいだろう。
とりあえず目に付く刀剣類をぽいぽいと窓に入れていく。太刀やらナイフやらエストックやらダガーやら無駄に種類が豊富でこれなら武器にも困らなさそうだ。一本のナイフを除いて粗方を窓に仕舞うと、そのナイフを腰に下げる。ご丁寧にこの部屋にはソードホルダーがあったので、少し装備を組み合わせればナイフホルダーも作ることができた。ここを脱出するには太刀やエストックなんて目立つ物は下げていられない、その点ナイフは収納性にも優れている。
「でもまぁ、やっぱり使い慣れてるこいつがメインかな」
窓から降ってきたのは先程も使ったバール。本来の用途は武器ではないが、スラムでもずっと持っていたからか一番手に馴染む。ナイフはバールが無くなった時の予備として携帯しよう。
「…で、予想はついてたけどもこんな感じの武器庫は複数あるな。あんなに騒いでたのに武器の一つも取りに来ないのはおかしいから。まぁいいや、この部屋で十分だし他の武器庫に回る必要はないか。……施設内見取り図があれば完璧だったんだけどなぁ、そこまでは望めないよね」
研究員がいない隙を見て備蓄室を後にすると、とりあえず人に会わなさそうなルートを模索する。生体反応と音に気を配りつつ、やむを得ずに出会ってしまった際にはバールで殴打したり窓を開けて串刺しにしたりしながら脱出経路を探る。
「どうしようかな…っと」
複数の足音が聞こえたので角に身を潜ませる。どうせ研究員集団だろうと思っていたが、先の通路を疾走していった連中の目元にはおれと同じような黄色の識別番号が彫られていた。数字自体の整合性はないので、おれみたいに脱走した連中が徒党を組んだのだろう。
(あれはかなりの人数が逃げ出してるなぁ。あの爆発のおかげ、なのかな)
研究員どもはおれ含む脱走者を捕らえようと躍起になっているようだ。さっきのグループの後を追って数人の研究員が銃を持って走っていった。
(銃撃は厄介だな)
なるべく見つからないようにしないと。気を引き締めたその時、爆発音が微かに耳に届いたのと同時に床が崩落した。
「ちょっ…!」
当然、重力に従っておれの体は落下していく。1秒ほどの浮遊感の後に腰を強打したおれは、痛みがじんじんと響く患部を擦りながら体勢を直す。
「なんだここ…?」
そこは暗い空間だった。空洞が開いた上階からの光により辛うじて視界が確保できるほどの暗闇。どこか湿っぽくて、気持ちが悪い。
ここにあまり長居はしたくはなかったので戻れないかと上を見上げてみるも、ロープも持ってないおれでは到底無理な高さだった。
「はー……」
仕方がないと諦めてこの暗闇を進むことにした。ちゃんと辺りの様子を確認して気がついたが、壁やらなにやらがボロボロに崩れている。きっと、さっきの爆発音の主が暴れ回ったのだろう。
とりあえず生体反応を確認すると、いくつか反応が返ってきた。微弱なものが多いことから息絶えかけているのだろう。生憎、それらを助ける余裕はないし義理もない。だいたい、どれも瓦礫やらに埋まっているようだ。義理もなければ掘り起こしてあげる時間もない。
見捨てるという決断は当たり前のように即決だった。
「んー、血の臭いがすごい。ここで結構死んでるな」
鼻腔を蹂躙する血腥さに鼻を覆いながら歩を進める。時折白衣や患者服を着た人間の死体が散らばっていることからそれなりに戦闘が発生したと理解するのは簡単だ。
ここは檻が立ち並んでいるが、どれもどこかしらが壊されている。収容所というよりは監獄のような光景は異質の極みだ。
念の為分析の網は張り巡らせているが、特に収穫はない。いよいよハズレくじを引いたかと思い始めた時、一つの扉が目に止まった。
「なにこれ、だいぶ頑丈だな」
鉄の扉。分析するにかなりの厚さがあるそれがおれの気を引くには十分で。
扉の奥は分析できないものの、なにかがあると察知した。ここまで厳重なのだからもしかしたら地下通路でもあるのかもしれない。その可能性に至ったおれは、そこを放置するわけにもいかずに扉に手を掛けた。
扉を調べてみると、生乾きの血と焦げ後が至る所についており、カードリーダーらしきものは壊れて火花を散らしているいた。
「……これ、大丈夫なのかな」
カードリーダーが壊れているのだからカードキーを持ってこようとも意味が無い。力任せに開けるしかないが、これが開くのか少しだけ不安になった。
普通に引っ張ってみるもびくともしない。かなり踏ん張ってみれば少しだけ動いたような気がしたが、それでも扉自体が重く、体力が急激に落ちる。
「…うわぁ、元は自動ドアだな。絶対」
こんな重いものを人力で開けるはずがないだろう。きっと、カードキーを通せば一人でに開くタイプのものだ。…気が遠くなってしまうのは、仕方がないと思う。
本日何度目かわからない諦めも過ぎったが、流石にこれを見ていないフリして去るのはどうかと思った。
もうヤケクソだ。体力の限界が見えるまでバールを駆使しながら引っ張る。少しずつ動いているという目に見える変化を救いとしながら、脂汗を浮かべつつとにかく引っ張って引っ張って引っ張っていると、扉の奥の光が漏れ出てきた。そして最後のひと踏ん張りに力を集中させて手の甲に血管を浮かべながら思いっきり引く。そして、ようやく中を知ることができた。
「あら!」
「…………………」
中からは、扉に引っ付くように小さな女の子が姿を現した。おれとは違って輝くような金髪と涼やかな青い瞳を持ったその子の左目の下には00と掘られている。
その子はおれの顔を見ると花が咲くようにぱっと笑ったが、おれはその子とその子が居た空間を眺めてひどい脱力感に襲われた。
中の部屋は、おれが居た部屋と変わらないような内装で、すぐに収容部屋だとわかってしまう。おれが求めた脱出路がその部屋にあるはずもなく、結局おれの頑張りは徒労に終わったのだと認識させられた。
「…?あの?」
「え、あぁ…なに?」
「いえ、あなた職員じゃないわよね。わたしと同じように番号が入ってるもの」
「あー、うん、そうだよ」
「外でなにが起こっているの?わたしの部屋、防音設備が整ってて今の今までなにか起きているってことを知らなかったの。でも、普段なら自動で開くはずの扉が手動で開けられて、開くお手伝いをしてみたらあなたがいて、…どう見ても普通ではないわよね?」
おざなりに返答していると、その子は不安げに服の裾を握ってきた。
──別に、説明してあげるぐらいはいいけども面倒臭いな。なにが面倒臭いってまた一から出口を探さないといけない。
そんなことをうだうだと内心で考えながらも知っている範囲のことを教えると、その子は見るからに不安で面持ちを暗くする。
「そう…なのね。…ええ、今が逃げ時なのよね。…………あなたは、他に脱出路のアテはあるの?」
「アテというか…ここは地下でしょ。なら、上層に上がればその階には必ず出口があると思うよ。ロックなりなんなりされているかもしれないけど……ぶち破ればいいし」
「そう…。…………」
「まぁ、おれはもう行くよ。キミも逃げるんなら気をつけなよ」
ここで会話で時間を潰しているような暇はない。時間が経てば経つほど脱出が困難になるのは予測できる。モタモタしていれば騒ぎが収束していって残党狩りされるだろうし、早めに越したことはない。
その子はなにか思案げだったが、さっさとこの場を去りたいおれは思ってもいない形ばかりの気遣いを宣って歩き出そうとした。しかし、くいっと服の裾を強く引っ張られて立ち止まらされる。
「ね、ねぇ」
「なに?」
「わたしも、あなたと一緒に行っていい?」
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「あのね、もしかしたらわたし出口わかるかもしれないわ」
「ほんと?」
これといって邪険に扱う理由もなかったので同行を許した女の子は、少しだけ希望が見えるような言葉を発した。
「記憶が間違ってなければだけれど…前にわたしの部屋に訪れた職員が話してるのを聞いたの。北東にゲートがあるって。きっとそのゲートって出入り口のことよね?」
「あー…なんのゲートかにもよるけど、まぁそう考えるのが自然かな。……北東か、距離としては悪くないし行ってみようか。情報ありがとう、えーと………00番」
それが物資運搬用のゲートとかの期待外れでないことを祈ろう。唯一の手掛かりであるそこに向かわないわけにはいかないので、方角を調べる。
このブレインの能力は便利だ、先程の少女の部屋から北東を探ることぐらいは容易だった。まだ知らない機能もあるかもしれないが有効活用していきたい。例え、元は望まぬ能力だったとしても。
2秒ほどで計測し終えると、少女がこちらの顔をきょとんと見つめていることに気がついた。なんなのだ、と自分以外の人間に覚えてしまう嫌悪さを出してしまうと、少女はどう受け取ったのか慌てた。
「あら、わたしとしたことが不躾に見てしまってごめんなさいねぇ…」
「……いや、いいんだけど、なに?」
やっぱり他者が自分と同じ人間とは思えない。なんてふとした瞬間に頻繁に出てくる感想は飲み込んで少女の言葉を待つと、おれとしては予想できなかった返答が帰ってきた。
「いえね、わたしの名前教えていなかったなぁって」
「名前…」
「そう。わたしはエリザベート・バートリーよぉ、好きに呼んでちょうだいね」
少し考えて、さっきの00番という呼び方が気に入らなかったのだと悟る。
そうか、普通の人には名前があるんだったか。スラムでは名前という概念は本の中だけだったから忘れていた。
「えぇと、バートリー…よろしく」
「あら…エリザベートでいいのに…。えっと、あなたのお名前は?」
「おれに名前はないよ」
「あら…?あらあら…?」
名前はないと答えればひどく困惑した様子だった。名前がないというのはそんなに異端なことだったのか、知識としてはとっくに知っていたが、実際に体験してみるとなんとも言えない。
呼び方に困ったのなら39番でいいと言ってみるも、それは何故か頑なに拒否された。バートリーはおれの名前を考えると言い始めたので先を急ぎながらなら好きにすればいいと返す。
歩きながら唸るバートリーを横目に見つつ生体反応とマップ構造を予測しながら進むが、変な名前をつけられたらどうしようかとちょっとだけ心配になった。
「ええ、これにしようかしらぁ!」
どうやらまとまったらしい。ぱっと華やぐ笑顔でこちらを見上げた彼女に、どんな名前なのかと聞く。
「ジブリール、えぇ、これがぴったりだわぁ!」
「…それって、啓示を与えた天使だよね?」
「そうよ!わたしにとってはあなたが来てくれたからここを出られる機会を得ることができたの!だから、あなたはわたしに啓示を与えてくれた天使よぉ!ちなみに、名前に関しての文句は受け付けないわよ!」
「はぁ…まぁなんでもいいけど」
随分と大層な名前を貰ったものだ。文句は受け付けないと言われたが、よっぽどの名前でない限りは文句を言うつもりはなかったので別にいい。
そんな会話をしていたところで階段が見えた。上を見あげれば扉があり、その隙間から微かに光が漏れていることから元のおれがいた上層に繋がっているのだろう。
バートリーに静かにするように言い含めて扉を少し開ける。その隙間から覗くと、バタバタと慌ただしく駆けていく職員が見えた。それをやり過ごして生体反応が付近にないことを確認して、バートリーを引っ張りながら一気に扉を潜る。
「とりあえず、身を隠せるような場所に行くよ!」
「わ、わかったわ!」
音を立てないように走りながら、186通路と書かれた扉を開ける。そこはさっきの地下と同じような薄暗い空間であったが身を隠すのには最適だ。それに通路なのだからどこかしらには通じているだろう、曲がり角なりがあったら北東に向かうようにすればいい。
「ねぇ、すごく薬品の臭いが充満してるわぁ…」
「ほんとだ…臭いな、鼻が曲がりそう」
ツンと鼻腔を貫く独特の香りは好まない。おれが顔を顰めるとバートリーも手で鼻を覆う。気分が悪いからさっさとここを出たいと鬱蒼とした気分になった時、爆発音が近づいてきていることに気がついた。
「…っ!これはまずいぞ!バートリー、動かないでよ!!」
「えっ、わっ、わっ!!」
バートリーの首根っこを掴んで通路を疾走する。苦しそうだったので抱きかかえる形にすると同時に186通路の扉が爆発により吹き飛んだ。一気に外の通路の光が差し込んできてわかったが、ここも地下と同じような牢獄だった。
生体反応に気を配っている余裕はなかったが、少しだけスイッチを入れてみると複数の反応が現れる。
「って、こっち来てる!」
「ジブリール!!真っ直ぐ向かってきてるわよぉ!!」
「あーもう!!」
このままではあの爆発に追いつかれてしまう。異様な速さでこちらに突進してくる爆発を避けるために近くの牢の影に飛び込んだ。
壁際にバートリーを置いて爆風から守るためにバートリーを囲うように壁に手を付きながら背中を丸める。
すぐに耳を劈くような爆発音が聞こえてきたと同時に熱を持った爆風に襲われる。背中と腕がチリチリ焼けるような感覚と、爆発によって吹き飛んだなにかしらの破片が体にぶつかる。
大きい破片が飛んでこなかったことが幸いか、爆発音が遠ざかっていくと吹き荒れていた熱風も次第に止み、おれは少しずつ体勢を戻す。
「ジブリー…」
「しっ」
おれの名前を呼ぼうとしたバートリーの口を塞ぐ。すぐにおれらの脇を職員が走っていって、複数の足音が響いた。
おれらの姿は爆発によって壊れた瓦礫の影になっていたらしく見つからなかったようで、職員が去ったのを確認して安堵の息を吐いた。
「はー……」
「ジブリール、大丈夫!?」
「え?あぁ、平気平気」
バートリーが眉を下げてこちらの容態を確認してくるがそれを制止して立ち上がる。
さっさと離れないと、あの爆発を追った応援の職員が来てしまうかもしれない。今のところ生体反応はそんなにないが、早いに越したことはない。
…あの爆発によってここに閉じ込められていた何人かも死んだようだった。さっき見た時よりも生体反応が激減している。
「バートリー、とりあえず急ごう」
そう声を掛けて立ち上がった時、ふと耳に呻き声が届いた。
何気なしにそちらに目を向ければ、半壊した牢の奥に人影が動いているのが見える。
「あなた!大丈夫!?」
バートリーがそれに駆け寄る。するとそいつは、言葉にならないような声を出して体を揺らした。
その拍子に、そいつの右腕につけてある拘束用の鎖が音を立てる。
バートリーが鎖を外そうとしているが非力さがたたって一向に外れる気配はない。そいつはバートリーが鎖をがちゃがちゃと弄っているのを横目で見て、そしておれに目を向ける。
「……………」
桔梗色の髪の隙間からは髪と同じ色の鋭い眼光がおれを射貫く。その瞳はおれとは違いとても力強く、生を貪欲に求めていた。
急に、死んだ目の自分が恥ずかしくなる。どうして恥ずかしくなったのかはわからないが、無性に居心地が悪くなった。
気づけばおれは、窓から出した太刀でそいつを縛る鎖を叩き切っていた。
甲高い金属音が耳に刺さる。バートリーが驚いたような目で見つめている。そして、桔梗色のそいつがおれを強く見上げた。
「おまえも、来い!」
太刀を放りなげるとそいつは少しだけ口角を上げてそれを受け取る。そいつは立ち上がると、体につけられていた管を乱雑に引き抜いた。地面に落とされた管からは薬品と思しき液体が散らばる。
異常に筋肉質なそいつは、おれがバートリーを抱えて走り出すと後ろをついてきた。