汝は罪人なりや?
ゼロは、普段はあまり動かさない表情筋を大きく歪めながらしきりに私の肩を強く揺さぶっている。逃げましょうって何度も何度も声を枯らしながら言うけれども、私たち2人が無事に逃げ切れるわけがない。そんなの、あの王様の容赦のなさを見ていれば一目瞭然だ。
だから私は、常にポケットに入れて肌身離さず持ち歩いていたロケットペンダントをゼロに放り投げると、彼だけでも逃げるように怒鳴るのだ。
どれだけ嫌がっても、最初で最後のマスター命令だと無理矢理言うことを聞かせる。勿論、物理的な強制力は持たないただの言葉だが、ゼロをこの場から離れさせるにはそれで十分だった。
悔しげに唇を噛んで涙をとめどなく流しながら、ロケットペンダントを握りしめて窓枠に足をかけるゼロは、それでも迷っているのか悲痛な面持ちでこちらを振り向いた。
けれどもその迷いに私が答えることはなく、代わりに飛びっきりの笑顔で残酷な命令を発するのだ。
「生きて、ゼロ。絶対に逃げ延びて、そのペンダントを一緒に連れて行ってあげて」
わなわなと唇を震えさせながらなんとも情けない顔で、しかしてその首をしっかりと縦に振ったことを確認すると私は目を閉じる。
ゼロが窓枠を蹴って駆けていく音がした。私という足でまといを背負わないゼロにはいくら王城騎士といえども早々追いつけまい。この一点でのみ、王様にざまぁみろと舌を出しながらしてやったりと自嘲してみせる。
ああ、でもこんなことになるなんて。まさか、こんなことになるだなんてなぁ。背に響くドア越しの振動に耐えながら、窓から見える星空を眺めて私は歯を食いしばるのだ。
─────そこで私の身体は吹き飛び、意識も闇に包まれた。
:
「ミーア、オレはお前に少しでも兄ちゃんらしいことをしてやれてるか?」
「いきなりどうしたの?兄さん」
ベランダに出て夜風に当たっていると、隣で煙草を吸っていたエドワードがぽつりと呟く。
「いやさ、なんかもう……兄らしいこと何一つお前にやってあげれてないなと自己嫌悪に苛まれてる」
「うちに仕送りしてくれてるし、お仕事頑張ってるし、それだけで兄らしいでしょ?」
「もっとこう、さ……一緒に出掛けたりとか毎日暖かい食卓を囲んだりとかさ、やれることがあるんじゃねぇかなって仕事中にも思ったりするわけよ。わかって、兄ちゃんの苦悩」
「馬鹿だなぁ、そんなこと気にしなくてもいいのに」
「気にする、超気にする」
わかりやすくどんよりとしたものを背負って紫煙を燻らすエドワードは、どうにも相当気に病んでいる様子だった。
当人としては不満げらしいがしかし、エドワードが満足していなくともミーアは至極満足している。それを言葉で伝えるには、どうにも表現しきれない。その歯痒さを感じていると、エドワードは憂い気に瞳を染めて独白するのだ。
「親も早くに死んでさ、生活のためとはいえオレも働き詰め。兄らしいことはおろか家族らしいことさえもたった一人の肉親にしてやれていない。虚しいったらないぜ、こんなのは」
両親はミーアの幼い頃に亡くなった。そこからエドワードは、勉学に労働にと血の滲むような思いで励み功績を立て、今の地位に着いた。その努力が並々ならぬものではないと傍で見ていたミーアはよく知っているし、兄の頑張る理由がミーアなのだとよく理解していた。だから、兄への不満などは度の過ぎたシスコンであること以外には一切ないのだ。
だって、エドワードは何時如何なる時もミーアのことを真摯に想って行動してくれているのだから。
だから、エドワードが気に病む必要なんて何一つない。彼は誇って良い筈なのに、無駄に謙虚で卑屈な姿勢は何年経っても変わらないなと、とても呆れた。
「あーのーね、兄さん」
「ひゃい」
ぐにっとエドワードの頬を両側から抓る。外交官であるからこそ各国の要人に舐められぬよう見た目にも気を使っているのだろう。そこらの女性よりもすべすべな肌は、とても抓りやすかった。
「兄さんは、そのままでいてくれるだけでいいの!変なこと気にしていないで、こうして休みの度に帰ってきて私に話を聞かせてくれるだけでいいんだから!私はそんな兄さんが好きだし、妹であることが嬉しいの!」
「み、みーあぁ……」
じんわりとその飴色の瞳が濡れる。あ、これは愚直に褒めすぎたなと思った時にはもう遅い。がばりと抱きしめられて、己がどれだけ感動したかということを耳元で早口に語られてしまう。
「離してー、にいさーん、」
「ほんっっっっっっとによくできた妹だなぁ!!!!!ああもう、オレの生きる理由!!!!!!お前と兄妹でよかった!!!!!!!!!」
「五月蝿いしやめてってば……」
軽く胸板を押すが、一向に離れる気配はない。結局そこから10分ほどその調子のままで、途中で様子を伺いに来たゼロがドン引きしたように引き返して行ったのには大きなショックを受けた。
やっと解放された時にはもうクタクタで、これが寝る前でよかったと心底タイミングに感謝する。
少しばかり度の過ぎた喜びように文句の一つでも言ってやろうと思ったが、けれども───
「ミーア、兄ちゃんは……オレは、頑張るからな!」
この満点の星空の如く、きらきら星の弾けるような笑顔で宣言されては照れ隠しからの軽い嫌味も喉に詰まって出てこようとはしなかった。
「それじゃあ、そろそろ寝るよ」
「おう、また明日な」
とても疲れた気がする。キューの一件もそうだが、エドワードの相手もわりと疲労は蓄積する。それでも、兄と過ごせる喜びが勝るあたりは根本的なところで兄と同類だなと思った。そんなこと、絶対に本人には言ってなんてやらないが。
「ミーア、その、お疲れ様です」
「ゼロありがとう。でも、本気で嫌だとは思わないんだから私も大概なものだよねぇ……」
エドワードが水を飲みにリビングに向かっていった僅かな間に、ゼロからは同情の眼差しを向けられた。
苦笑いを返しつつも一先ず、ゼロにも就寝の挨拶をして己の部屋へと足を踏み出したその時、唐突と言ってもよいタイミングで玄関の呼び鈴が響いた。
「え、こんな時間に誰?」
もう時刻は深夜、夜更けも良いところだ。このような時間帯に来訪者だなんて。
自然と警戒心を覚えてしまうのも仕方がないだろう。それはゼロも同様のようで、僅かに剣呑とした空気を身にまとっていた。
「兄ちゃんが出る」
リビングからエドワードがそう声を掛けた。危ないかもしれないから奥に居ろという意図は、言葉にされずとも簡単に汲み取れる。
女のミーアが出るよりも、男のエドワードが出た方が絶対的に安全なので暗黙の意図に従ってミーアはその場で耳を澄ませながら待機をしていた。
ガチャリと、ドアが開く音が耳に届く。それと同時に、エドワードの驚いた声があがった。
「何事ですか!?……待ってください!!」
エドワードが敬語を使う相手だなんて限られている。それに、肉親だからこそ感じられる程度ではあるがどこか切羽詰まった様子だ。一人、二人どころではない複数の足音が屋内に侵入してくる。ただならぬ気配に、ミーアは息を呑んだ。
ゼロですら焦りに冷や汗を浮かべて、ミーアを守るように前に出る。後ろ手ながら砂鉄で剣を生成しつつ戦闘態勢に切り替えた。
(誰?誰が来たの?なにがあったの?)
足音とエドワードの声が近づいてくる。この硬質な靴音の主達の目的は、エドワードではない。強盗などでもない。とすれば用がある人物は自ずと限られてくる。
嫌な予感に背筋が震える。この足音が破滅の合図のような気がしてならない。一気に血の気がなくなって、脚が震えた。
そして、ミーアは頭を殴られるような衝撃を受けたのだ。
「─────エドワード・シャーロット。王命である、静止せよ」
荘厳にして艶やかに、その恐ろしくも美しい声が耳に入った瞬間にはもうミーアはゼロの腕を乱暴に掴んで自室へと駆け込んでいた。
どばりと冷や汗が溢れる、口内が乾燥する、脚が震えて崩れてしまいそうだ。
自室に飛び込んで、棚を移動させてドアを塞ぐ。扉一枚隔てた向こう側から兄の叫び声と、それとは対称的な乱れぬ足音が重く響いて脳を刺激する。息が上手くできない、窒息してしまいそうだ。
脳が破裂しそう、心臓が爆発してしまいそう。
「ミーア、これは……」
「ゼロ、逃げて」
戸惑うゼロを遮って、いつになく鋭い声音でミーアはそう告げた。
その途端、全てを悟ってしまい愕然としたようにゼロが口をはくはくと動かす。形にならない声を漏らしながら、ゼロは震える手でミーアの肩を掴んだ。
「な、な、……ぁ……なにを、なにを言っているのです、あなたは……」
「逃げなさい、ゼロ」
「だって、それは…………そんなの…………そんな命令聞けない………、”見捨てる”なんて、できるはずがない……!!」
この場でゼロだけが逃走する。それがどういう意味を持つのかを気づけぬほどゼロは愚かではなかった。
ゼロが逃げる、それ即ちミーアを犠牲にする。そんな選択をしろと、ゼロの目の前で顔を伏せている少女は言ってのけるのだ。
「逃げるなら一緒だ、貴女もともに逃げましょう!ボクが、貴女を……ミーアを守ります!!ですから、ですから………」
「ゼロ、これはマスター命令だよ。私はマスターとして、貴方に逃げろと命じる。従いなさい」
そこまで突っぱねて、ようやくゼロはミーアからふらふらと離れた。しかし、その顔は納得がいかないと執拗に語りかけている。
どうして?と未だ縋ってくる瞳を見つめ返して、ミーアは内ポケットからアンティークのロケットペンダントを取り出した。
「これを、一緒に連れて行ってあげて。ゼロなら、何処に行けばいいかもう知っている筈だよ。だから、お願い、お願い、生きてよゼロ」
「みー、あ………ミーア…………あなたがいなくなったら、ボクは……………………”私”は、どうしたらいい……?」
「……ゼロ」
そういえば、ゼロを見つけたあの時の彼の口調もこんな感じだったな。なんて、遠い記憶に思いを馳せた。
ああなんだ、ゼロもきちんと記憶を思い出せる可能性があるじゃないか。こんな窮地がトリガーになってしまったのは申し訳ないが、少しだけ安心した。
「行って、ゼロ!行って、絶対に捕まらないで!!!」
「ミーア……、ミーア、…………ごめんなさい」
どうして、死ぬかもしれないのにそんな綺麗な笑みを零せるのだ。彼女が安堵を抱いていることなんてゼロには想像もできなかった、したくなかった。
ぼやける視界をそのままに地を蹴り、屋根を蹴り、闇に紛れて溶けるように疾駆する。街の明かりが疎らになってきた頃、振り返ればもうあの家の明かりは芥子粒のように小さくなっていた。
(必ず助ける、そんな言葉すらも言えなかった。……どうしてボクはこんなにも弱いのだろうか)
後悔なんてしたところで意味がないのに。元はと言えば、自分がミーア達に拾ってもらったからこんなことになったのだ。誰にも拾われず、あそこで生を終えていたならば彼女らはこんな不幸なことにはならずに済んだ。
自分のせいだ、自分のせいだ、彼女達の平穏を壊したのは自分なのだ。
罪悪感と自己嫌悪の濁流は、ゼロを押し潰さんと押し寄せてくる。吐くものなんてないのに、吐き気を催した。
逃げるしかできない自分が嫌いだ、誰も救えない自分が嫌いだ、どうして自分はこんなにもちっぽけで弱っちいのか。
いっそ死んでしまいたくなるけれど、ミーアに持たされたロケットペンダントが鎖のように”生きろ”と囃し立ててくるものだから、それに背くことは許されない。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……!!」
それは誰に向けての懺悔なのか。相手なんて数え切れないぐらい存在するのだから、もはやゼロにすら誰に向けての贖罪なのかわからなくなっていた。
:
「王よ!どうか、ミーア……我が妹に寛大なる慈悲を!!」
「その女を連れて行け」
はっ、騎士が敬礼して床に倒れているミーアを小脇に抱える。
騎士が扉を蹴破った衝撃で吹き飛ばされて意識を失ったミーアの部屋の奥の窓、夜風が舞い込むそこを睨みつけると、リュミエールは最優先事項に逃走されたことを視認して憎々しげに歯噛みした。
「この女は間違いなく黒と見て良いだろう。ベルクラフト、まだあのアンドロイドは遠くには行っていない筈だ、探し出せ」
「畏まりました、我が王よ」
胸の前に手を当てると、ベルクラフトはてきぱきと手持ち無沙汰の騎士に指示を下していく。優秀な部下に任せていれば、何れはあのアンドロイドの逃げ先も特定できることだろう。
それまでは────
「ミーア・シャーロットは東地区の例の工場へ連れて行け。吐かぬようならば、私が直接尋問しよう。極力、身体に傷は付けるな」
「ッッ王!!」
エドワードが叫ぶ、それだけはやめてくれと。
リュミエールの魔素『絶対王政』による動作制限が掛けられているにも関わらず這うようにリュミエールの足元へと縋り寄り、妹を許してくれるように乞うその姿は哀れでしかなかった。
「エドワード、肉親が王政に歯向かう重罪に手を染めてしまったその心境は察する。立ち直るにも時間は要するだろう、今暫くは休息の暇とすることを許す」
「ッッ……!!!!」
酷く優しげで同情すら垣間見える瞳は、エドワードに慈悲を掛けはしても妹が救われることは決してないのだと理解するには十分だった。
この場でなにを言おうとも救えない、身動きすら取れないこの状況ではなにもできない。
世界が闇に包まれたように、じっとりとした絶望に絡め取られる。妹一人を守りきることができないなんて、なんて情けない兄なのだろうか。妹だけが、自分の生きる糧だったのに。それすらも無力のせいで手放そうとしている。
「………ぅ………、王………」
唇を血が流れるほどに噛み締めていると、か細いミーアの呻きが耳に届いた。騎士に抱えられているミーアが目を覚ましたらしく、震える首で頭だけを上げてリュミエールを睨みつける。
「兄は…………エドワード・シャーロットは………………私のしてきたこととは……っ、なんの関係もない………」
救いたい相手に手を伸ばせず、あまつさえ庇われるこの有様のなんと無様なことか。
何一つ兄らしいことはしてやれずに守られるだけのどこまで自分は愚かしいのか。ミーアの擁護は、エドワードの最後の防波堤を決壊させるには十分すぎた。
「そのようなこと、貴様に語られるまでもない。戯言は終いか?……行くぞ、もうここに用はない」
氷すらも凍てつかせるようなリュミエールの侮蔑を浴びながら、ミーアは再び意識の揺れを感じる。まだ衝撃が体から抜け切っていない。
もう逃げることは不可能だから、せめて兄だけでも助けたかった。その一心で発した言葉だが、リュミエールには簡単に払い退けられてしまった。リュミエールがエドワードに置いている絶大なる信の出処が不明だが、けれどもそれが今はただただ有難い。だって、愛する兄が妹の不始末による冤罪で罰せられずに済むのだから。
そう確信を得られたことで気が抜けたのだろう。騎士が歩く度に腹部にかかる鎧の圧力に、細い糸で繋ぎ止めていた意識は途切れ今度こそミーアは気絶したのだった。
そこから先は、何処に連れていかれたのかもうなにも覚えていない。