鈍色の刃
「や、ちょっとバタバタしてて…」
「大丈夫?体調良くなさそうだし帰ったらって言ってあげたいけど、もうちょっとしたら絶対仕事がなだれ込んでくるもんなー」
ペンを回しながら、うんざりとした様子のルーラーが言う。
ミーアとハイドランジアはあの後、大急ぎで星屑ボードをかっ飛ばして城に来た。ハイドランジアとはそこで別れて、ミーアはいつものデスクに座っているのだが、随分と疲弊した様子だったのにぎょっとしたルーラーが声を掛けた。
さて、ミーアとハイドランジアは普通に出勤しているが、ゼロはどうしたのかと言えばミーアの家に居る。少々不安だが、外には出ないよう口を酸っぱくして言いつけてきたので大丈夫だろう。
そして今現在に至るが、昨日のアンドロイド工場爆破事件でやはり城内はバタバタしている。雑用係でオールラウンダーとはいえ簡単なことしかできない研究補佐室にはまだ少ししか届いていないが、そのうち各部署から大量に書類整理なり画像整理なりの仕事が舞い込んでくるだろう。缶詰にならないことを祈る。
と、噂をすれば影だ。窓口に人が集まり始めた。白衣、兵装、アンドロイド、それぞれがダンボールを抱えていて、うわぁ、早速来たよ。
慌ただしくなり始めた補佐室に、ミーアは重い腰を上げた。
「ん、あれ…」
工場爆発事故の書類、これは研究棟から回されたものだが、跡地に散らばっているものを纏めたもの。膨大な量の物質名が書かれているその中に、
"砂鉄"
その文字を見つけて手を止める。別に砂鉄があったとてなんらおかしなことではない、だって工場だ。砂だってそこかしこにあるのだから変ではないが、ゼロを見たあとだからだろうか、引っかかった。
ゼロは大人しくしてくれているだろうか。ミーアは帰れる確率があるとしても、ハイドランジアは確実に研究室で缶詰である。ゼロを置く場所がないので一応、ミーアの家に居てもらっているが、ハイドランジアに比べれば知識に疎いミーアにゼロを管理できるか否か。
ここで補足だが、研究補佐ということである程度の知は持っている。しかし、ハイドランジアは主に薬品を精製するのでミーアの知識も薬品に偏っているのだ。星屑ボードのように機械も作ることはあるが、基本的にはよくわからない薬品や生体実験専門で、ミーアもそれに合わせたものを頭に入れている。つまり、アンドロイドなんてものは管轄外な訳だ。決してミーアが馬鹿なわけではない。
「こーら、手止めてるんじゃなーいの」
「あだっ、ごめんごめん、ルーラー」
「ほんと、どうしたの?病院行く?」
書類をじっと見つめていたら、ぽこりと丸めた紙で頭を叩かれた。叩かれた箇所を摩りながら笑ってみせるが、どうやらルーラーにはかなり心配をかけているらしい。労るような瞳でこちらを伺ってくるが、なんでもないと返す。
やはり心配そうだったが、ルーラーを仕事に戻らせてミーアも気を引き締める。まずは眼前の、書類という名の敵を片付けよう。まだまだ勢力を保っている。
・
・
すっかり夜も更けた。いつもの道は封鎖が解除されていて、慣れ親しんだその道を通りながらミーアは、凝った肩をグルグルと回した。
「つっかれた……」
流石アンドロイド生産の主力工場、規模がでかけりゃその始末もでかい、ミーアとルーラー、そして何人かの研究補佐室メンバーは帰宅を許されたが、他の部署なんかは徹夜当たり前のようである。案の定ハイドランジアも成分解析なりで手が離せないのでミーア一人っきりな訳だが、本当に、ゼロのことどうしようか。
言語機能自体はハイドランジアが執念の修復を見せてくれた。メモリーデータは復旧できないみたいだが。
身体的な損傷は実験痕と思わしき傷跡だけで、特に問題はないらしい。なので万全とは言わずともそうそう壊れることはない、と行き道飛行で話していたが、うん、不安だよね。対処できないもの。
でもゼロを手放さないと決めた上、簡単に根をあげるわけにはいかない。
「よしっ、ミーアさん頑張ります!」
なんて、寂しく一人で気合い入れ。舗装された道といえど、ここは通る人が少ないのです。大通りに通じているとはいえ、複数ある内の細い路地でしかないから。
なので街灯も通行人もほとんど皆無。多分、昨日封鎖されて困ってたのってミーアぐらいではないだろうか。エルドジアムはいきなり都会かと思えば田舎にもほどがあったりと、土地の差が激しい。大国だからって大通りに面した道は全部完全な整備が行き届いていると思ったら大間違いである。
そんなこんなで家に着く。って、明かりがついてる!これじゃあ誰かが居るとバレバレだ!いやでも、外の月明かりだけじゃ暗すぎるし、真っ暗な中で過ごせとも言えない。…まぁ、明かりぐらいなら大丈夫か。多分。
「ただいまー」
「!、おかえりなさい」
部屋の奥からパタパタと駆け寄ってきた。飼い主の帰りを待ってた犬みたいで可愛い。一日程度だというのに随分と愛着が湧いてしまった。わんこか子どもにしか見えない、可愛い、どうしよう、可愛い。見た目は青年なのに!
「誰か来たりとかしなかった?大丈夫だった?」
「大丈夫、ボク一人でした」
「ん、そっか。ならよかった。あ、遅くなってごめんね、すぐご飯作るからね」
確かに拙さが無くなっている、改めてすごいなハイド。
遅くなったことを詫びて、自室で部屋着に着替え、荷物なんかもさっと置いて夜ご飯を作る。
懐いてくれた?のだろうか、ゼロは率先してミーアの手伝いをしてくれた。
二人分作って、食べて、一休憩。時刻は22持を過ぎている。明日もきっとサービス残業で働かされるから、早くお風呂に入って寝たい。
「そういえばゼロ、お風呂入れる?」
「入れます。我々アンドロイドには本来不要ですが、水、熱湯に耐性はあります。ミーアが望むのでしたら遂行しましょう」
「遂行って大袈裟だね…。じゃあええと、だいぶ土煙で汚れてるし先に入ってくれないかな?お湯の出し方とかシャンプーの場所とか案内する………っと、ちょっとごめんね」
シャンプー、そういえばゼロの髪ってどうなってるのだろう。あ、いや、人間と同じなのかなと。ん?元人間だから人間のままって言ったほうがいい?あ、こんがらがってきた。
とりあえず断りを入れて頭に手を置く。そのままわしゃわしゃしてみると、質感はミーアとそこまで変わらない、これは大丈夫そうかな。
「あの、ミーア」
「ごめん、市販のシャンプー使っても大丈夫かなって」
「問題ありません。先程の行為はボクの髪質の確認行為ですね。理解しました。シャンプーについても問題ナシです」
口調が事務的だ。いや、アンドロイドだから当然なのだが、通常のアンドロイドよりも対応が機械的である。拙かった時代がちょっぴり懐かしくなった。
一抹の侘しさを抱えつつ風呂場と、ついでに家の案内もして、お風呂も済ませて、あとは寝るだけだけど、問題が一つ。ゼロの部屋がない。
それもそのはず、ここはミーアが一人暮らしの目的で買った家なのだ。部屋数なんてそんなにない。あ、そもそもゼロって睡眠は必要なのだろうか。
「ゼロって…睡眠とかどうするの?」
「睡眠ですか。スリープモードは充電も兼ねています。食物でも補給できますが、やはり電力が頂きたいです」
「充電?コンセントならあるけど、あんまり電力は強くないよ。所詮家庭用だし…」
「問題ナシです。僅かな電力で長時間稼働できることがボクの強みです。本来なら一時間も補給すればエネルギーが満タンになるのですが…異常な量のエネルギーを消耗しています。メモリーデータが破損しているので復元はできませんが、過去の稼働状況に原因があると推定」
「その記憶って、なんにも思い出せないの?」
「……えぇ、 ボクの記憶領域には、ミーア達と出会ったところからしか存在していません。己は何者なのか、なにをしていたのか、全て全て破損しています。かろうじて自身の性能は把握していますが、ただそれだけです」
つまり記憶喪失、なんて難儀な。普通のアンドロイドじゃないことはミーアも充分理解しているが、過去になにをしてきたのかが一つもわからないとは。多分メモリーデータが破損したのは、一度ミーアと言葉を交わして電源が切れたあの時だろう。
ワケありアンドロイドのワケがわからないとは、さて、どう対応したものか。ハイドランジアが本腰を入れればメモリーデータを治せる可能性はあるが、それをしていいものか。
だって、元は人間だ。生身の部分だって残ってる。機械だけじゃなくて生の臓器、生の脳、それらを、治すためとはいえ弄るのは倫理的に釈然としなかった。
「うーん、じゃあ、とりあえず充電してもらおうかな…でもどうやって充電するの?」
「問題ありません」
ゼロの手の平からコードが出てきた。いや、性格にはコードの形の砂鉄だ。それをコンセントに差し込む。見た目に変化はないが、充電できているのだろう。コードに触る?馬鹿言いなさい、あんな剥き出しに触ったら感電してしまう。
「えーっと、じゃあ私も寝るね」
「ミーア、少々お待ちを」
「ん?」
充電したまま、ゼロが手を突き出す。服の袖からずぞぞと這い出てきた砂鉄がなにかの形を作り始め、数秒もしないうちに出来上がった。
「砂鉄の…球体?」
渡されたそれは、僅かなズレもなく均等に砂鉄の粒が並んだ、手の平で包めるほどの小さな球体だった。
くるりくるりと回してみても黒い球体で、これは何かとゼロに目で問いかける。
「それは、護身用です」
「護身用?」
「ミーアが入浴している間、ニュースを見ていました。この国は爆破事件が起こるほど治安がよろしくないのだとか。それは護身用、その砂鉄はボクの一部ですから、もしも危険が振り返った時には多少は防げるでしょう」
「なんか、出会ったばかりなのにありがとう…」
「いえ、ミーアとハイドはボクのマスターですから。アンドロイドとしてマスターを守護するのは当然と言えます」
「マスター?」
「ボクには従属機能が備え付けられているようで、記憶の中で最初に残っている人物、つまりミーアとハイドをマスターに設定しました。不具合の多い身ですが、なんなりとご活用ください」
なんて、恭しく礼をするものだから慌ててやめさせた。
どうして?とでも言いたげな顔をしているが、ミーアは別に従属なんて望んではいない。そんな、マスターなんてものに設定されるのもむず痒いというものだ。
「お願いだから対等に扱って…」
「…拒否します。ミーアとハイドはボクのマスターです」
「なんだかなぁ」
*****************
「おぉう、」
規則的な鳴り響くベルの音に意識を持ち上げられーーーーーのはずだったが、ぐらぐらと揺すられる感覚で瞼を開ける。目の前には無表情で覗き込むゼロが、どういうわけかエプロンとおたまを持っていた。
「なんでエプロン装備…?」
「健康管理のためです。朝は規則正しく起き、栄養バランスの取れた食事を食べましょう」
「えっ、ゼロってそういう用途のアンドロイドだったの?」
「この機能も搭載されているだけです。ミーアのパソコンをお借りして、料理のレシピをインプットしました。料理はボクにお任せ下さい」
「いいよ、料理ぐらい私がーーー」
「お任せ下さい」
「は、はい」
有無を言わせぬ態度だ。ゼロってお世話ロボットなの?なんて浮かぶのも仕方がないだろう。
いや、数多の機能が備わっている高性能アンドロイドなのだろうが、うん。
「さぁ、あと3分36秒でスープが出来上がります。早くご支度ください」
「はぁーいお母さん」
「ボクは男性型です。母親にはなり得ません」
冗談を言ったらマジレスされたでござる。まぁノッてくれるとは思っていなかったのだけど。
御丁寧にもミーアが被っていた布団をおたまを持ったまま器用に畳んで退出していったので、鳴ってもいない目覚ましを止めて、のそのそと用意をする。まだ寝ていたかったけど何度でもゼロが起こしに来そうなので素直に起きるのだ。
欠伸を噛み殺してリビングのドアを開ければ、ゼロがいそいそと料理の乗った皿を並べていた。しかも、なんだこの料理群は。庶民の食卓には似合わない豪勢さである。少なくとも、朝ごはんとして出されるような代物ではない。よく家にある材料だけでできたものだ。
「もう出来ていますよ。どうぞ召し上がってください」
「い、いただきます」
パンの上に乗ったハムエッグをひと口、うん美味しい。ほろほろとしたお肉(多分冷蔵庫に入れてあった牛肉)をひと口、うん美味しい。色とりどりのサラダをひと口、うん美味しい。トマトスープ、うん美味しい。まさに、狂いのない完璧な料理である。
普段食べないものを寝起きに食べたので胃もたれをするのを耐えて仕事に行く。ゼロが見送ってくれた。
職場に就けば同僚に挨拶。昨日よりも倍に増えた仕事に追われ、寂しい帰路を辿ればゼロがお出迎え。
こんな生活が二週間弱続き、ようやく、ミーア達の仕事量も微々たるものながら減りを見せ始めてきた。少し帰宅時間も早くなって、嬉しい。ハイドランジア?研究者勢の方々は死にそうになりながら缶詰です。研究補佐であるからには色々と補助をするのだが、ハイドランジアに限らず忙殺されている時は一人で居たいのが研究者という性分らしい。というのも、誰かが近くにいると気が散って思考が最大限に働かないのだという。研究者も他の部署の技術者も、工場爆破という大赤字にてんてこ舞いの財務部も、話がスムーズに通じる関係者以外は来て欲しくないのだとか。なので、研究補佐室に限らず○○補佐系の役職陣は仕事が少なくなっている。
「あーーー、デスクワークってのも楽じゃない、なんて愚痴ったらハイドに文句言われちゃうか」
この道は相も変わらず人っ子一人居ないので独り言も存分に口に出せるのです。それが利点かどうかは置いておいて。
今日は9時前帰宅できそうだ、やったね。なんて少し盛り上がったり。いや、嬉しいのは仕方がない。ここ数日はロクに休めなかったし。
明日は研究者の仕事量も減るといいなー、ハイドにも休んでほしい。ゼロのことが頭から抜けるぐらい頭をフル回転させているみたいだから。そろそろまともに睡眠を取ってもらわないとパンダのようになりかけている隈も取れなくなる。
「ぁーーーーー………て………ーーーーー、おーーーーーーーー…………………」
「ん?」
珍しくミーア以外の声が微かに響いた。少し距離が離れているのか言葉までは聞き取れないが、別に気に留めることでもないだろう。
なんて思っていたのに。
「ーーーーーー……せ、ーー膝ーーーー動けーーー、始末する!!!」
「始末…!?」
穏やかじゃない、始末なんて穏やかじゃあない。通り魔!?殺人!?事件!!?
即刻この場から遠ざからねば!思考はそう導き出すが、ミーアの至って平凡な良心がそれを拒む。もしも殺人沙汰ならば、助けを呼ばねば。
竦む足を奮い立たせて声の元へ走る。正確な位置はわからないが当てずっぽうで。
「貴様、アンドロイドの分際でなにを考えている!誰が人に害を為して良いなどと設計した!?製造法に反するぞ!!」
すぐ近くで聞こえた怒声。大気を震わす迫力に、足を止める。あと一歩踏み出た先の路地から響いたものだった。
一度呼吸を整えて、ミーアは物陰からこそりと様子を伺う。
見えたのは、街を見回る巡回警備隊の騎士の後ろ姿。その騎士は何者かに剣を突き付けている様子だが、騎士が影になっていて見えない。
「よもや、先日の工場爆破と関わりがあるのではないだろうな?製造者を捕えねば」
神妙に呟きながら、騎士は連絡用の端末を取り出す。他の巡回警備騎士に応援を求めるのだろう。
しかし、それは叶わなかった。騎士の頭に突き刺さる剣の切っ先、そこから流れ出る赤黒い液体。
「がッーーー、ー」
息と苦悶の交じる声、広がる血臭。風に流されて漂う、鼻腔を不快に蹂躙するそれに顔を歪め、ミーアは口元を手で塞いだ。
剣が引き抜かれる。息絶えていた騎士の体は重力に従って崩れ落ちた。がちゃり、がちゃと鎧の擦れる音が虚しく木霊する。
ミーアは、足が竦んでよろよろと座り込んだ。医療隊を呼ぶ、なんてものは思考から抜け落ち、ただただ衝撃的な光景を見つめる。
血だまりに伏せる騎士の亡骸の向こうには、後部の左側だけが長い、金糸の如き髪を持つ人物が膝を付いていた。背を向けるその人物の項からは、鮮血の滴る剣が文字通り生えていた。金糸の青年が、頭部に組んで回していた手を解きながらゆっくりと立ち上がる。その動きと共に、剣も項へとずるずると仕舞いこまれていく。
ミーアは、少しも動けなかった。人が死ぬのも、人が殺すのも、見るのなんて初めての一般人だ。ただただ怖かった。気取られぬよう息を殺すので精一杯だった。混乱で頭が破裂しそうだった。
不意に、背後でひゅん、と風を斬る音が聞こえた。冷や汗がどばりと溢れる。脳の片隅に、死の文字が過ぎった。避けることなどできなかった。体を強ばらせる程度の、抵抗にすらなり得ない動作しかできず、走馬灯が駆け抜ける余裕も持っていなかった。
死ぬ、そう思っていたのに、次にミーアの耳に届いたのは甲高い金属音。
「………あ?」
そして、怪訝な声。
ミーアの頭部を守る様に展開された黒い膜。砂鉄が、凶器を阻んでいた。
何が起きたかなんてわからない。助かった、その事実を薄く認識して、まともに立ち上がることも出来ぬまま手を付きながら離れる。
「おい、見られてンじャねーよ」
「ああ、ごめん。気配には鋭くなくてね。…ん、あの制服、王城勤務のものか」
後ろで聞こえる会話、しかし、逃げるのに必死なミーアには音として聞こえるものの意味を解するなんてことはできず、恐怖のあまりに目を瞑って駆ける。
行く宛などない。息を切らせながら、時折はっとしたように目を見開いて、その都度視界に入った角を曲がる。死ぬ、死ぬ、殺される、死にたくない。
ああ、なのに、前方に影が落ちる。楽しそうに弧を描く口元、月明かりに映える紅桔梗の髪が、その髪と同色の瞳が、そして、振り下ろされる刃が、死と直結した。
身を無理に捻って直撃は免れる。しかし、右の二の腕はぱっくりと裂けていた。刃の冷たさ、すぐに襲って来る痛みと血の熱。
「あ、ぐっ、ぅ…!!」
腕を押さえて、再び駆け出す。左にある路地にではなく前方へ。紅桔梗の横を過ぎて逃げる。
おぉ?と感心したように、紅桔梗の髪の男は笑った。
「やるじャねーの」
紅桔梗の持つ刀は、彼から見た右側の空を切っていた。もしミーアが左を選んでいたら切り裂かれていたであろうそこ。
彼は小さくなるミーアの背を振り返って、ひゅう、と口笛を吹いた。
「はぁ、は、」
逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。生存本能に従ってひた走る。腕が痛い、焼けるようだ。でも足は止めない。
こんな、よく分からないまま死ぬなんて絶対御免なのだ。
しかし、再度眼前に落ちる影。
「よォ」
ほぼほぼ力任せに振るわれた刀、後ろに飛び退いたが、今度は太腿を裂く。足が負傷したことによりバランスを崩し、尻餅をついた。
左の足首も捻挫したようで、立ち上がろうとしたら痛みが走った。
ぐっ、と食いしばった歯の隙間から息が漏れて膝をつく。
そんなミーアの惨状を楽しそうに眺めて、紅桔梗の男は余裕綽々に歩いてきた。
(どうして…、足音も、追ってきてる気配も無かったのに……)
そう、彼が追ってきている音も様子も無かった。突然、目の前に現れたのだ。まるで、一瞬で移動したかのように。魔素、だろうか。
痛みはすれど、その苦痛は冷静さを取り戻すのに一役買ったようで、ミーアは頭を働かせる程度はできていた。
己に出来うる限りの分析をしながら、近づいてくる紅桔梗を睨む。
右目を隠す長い前髪、愉悦が光る目付きの悪い目、着崩した白い服と、黒いインナー。腕と首には包帯が巻いてある。歳は20もいっていないであろう若い男は、長い刀を軽々と片手で担いで肩に乗せていた。
男の容貌を観察していて、ふと気づく。隠れていない左目の下に、ビビッドイエローの刺青で彫られた53という数字。アンドロイド特有の型式番号。それが意味するところ、人に危害を加えない筈のアンドロイドが攻撃態勢を取ってきている。それも本来なら持ち得ない魔素を使ってまで。人を攻撃するだけでも異常なのに、魔素など有り得ない。何故なら、そもそも魔素というものは生命を持つものに宿るからだ。人以外に持てる訳がないのだ。
ああ、ああ、とことん普通じゃない。でも今はーーーー
(逃げる…!)
なりふり構わず走る!動かす度に全身が痛みを訴えてくるが構ってなどいられない。
顔だけを向けて様子を伺ったが、やはり紅桔梗の男は楽しそうに笑って見ているだけで、そこから動く気配はない。
しかし、まただ。次はミーアが前方に視線を戻した瞬間、影が落ちたのだ。
移動の魔素!こんなもの、逃げ切れるわけがないではないか!!諦観が支配して、勢いのまま倒れる。
鈍色に輝く刃、月明かりが反射して血色に染まる視界に濁った光を浴びせる。
あと一秒も満たずにその死は首に落ちるのだろう。まだ事切れるわけにはいかない、死ななければならない理由もない、けれども痛みの警鐘を響かせる体は動かず、呻きを上げることすらままならない。
振り上げられたそれが下ろされる、その景色をスローモーションで見ることしかできず、出血多量により首を断たれるまでもなく急速に意識が飛び始めた。闇に染まった眼前は昏睡に引き入れられてゆく。音すらも聞こえない、痛みも遠のく世界を抵抗もできずに受け入れた。